義認、律法、アブラハム
パウロの手紙のこの箇所で、彼は基本的な提言を述べています。神の怒りは普遍的な罪の中に現れており、神の義は、律法とは別に信仰によりすべての人に与えられる無償の恵みの賜物において示されている、という提言です。パウロの手紙のこれらの言葉がけんか腰に聞こえる、と思ったユダヤ人もいたでしょう。理由は二つあります。第一に、彼らはパウロのことを、律法を危うくする者、誰もが好き勝手にやっていいと感じる相対主義的な無法状態への道を開く者だ、とみなしたかもしれないからです。既に御承知のように、パウロは、まさにそのようなことを教えているという理由で、ある人たちから譴責されていることを認めています(ローマ3章8節)。
第二に、ユダヤ人たちは、神が先祖と交わした約束をパウロが危うくしている、と手紙から読み取ったかもしれないからです。神がユダヤ人を特別な民としてお選びになったと、契約は述べていなかったでしょうか。ところがパウロは、神はえこひいきをなさらないと、たった今言っていました。神はすべての人を同じようにみなされ、すべての人は神の恵みを必要とする罪人だというのです。これら二つの論点は、確実にユダヤ人の眉を吊り上げさせ、神学的激論を招いていたかもしれません。
パウロは手紙を読み取るユダヤ人を理解しており、その考えがわかっています。ですから良い牧者がするように、パウロは立ち止まって、彼の論点を例証し、強化するために、一つの実例を出してきますが、アブラハム以上の良い実例がありうるでしょうか。アブラハムはユダヤ人の父祖でした。アブラハムの経験がパウロの主張を証明している、と示すことができるなら、パウロは二つの論争点に反対する人たちを大いに論破できるでしょう。
アブラハムの重要性
旧約時代においてさえ、アブラハムは義に関して注目すべき模範であると考えられていました。イザヤ書51章1、2節に注目してください。
わたしに聞け、正しさを求める人
主を尋ね求める人よ。
あなたたちが切り出されてきた元の岩
掘り出された岩穴に目を注げ。
あなたたちの父アブラハム
あなたたちを産んだ母サラに目を注げ。
わたしはひとりであった彼を呼び
彼を祝福して子孫を増やした。
偉大な預言者イザヤは、義を追い求め、主を尋ね求めたいと思うなら、あなたがたはユダヤ人の父祖アブラハムを見る必要がある、と言っています。アブラハムは、どのようにして義とされるかを示すことができる人です。
旧・新約両聖書の間に位置する中間時代に書かれた霊感を受けていない文献も、アブラハムの重要性を認めています。例えば、外典であるベン・シラの知恵(集会の書)44章19、20節(ドン・ボスコ社)には、こう記されています。
アブラハムは、数多い民族の、有名な先祖で、
その光栄において、かれと肩を並べうる者はない。
かれは、至高者の掟を守った。
主は、かれと契約を結んだ。
アブラハムは律法を守った人として見られており、それゆえにユダヤ人は彼を立派な模範だとみなしていました。またこの書では、アブラハムが諸国の父として見られている点も、注目してください。
新約聖書もアブラハムを模範として支持しています。マタイはイエスの系図をアブラハムまでたどっています(マタイ一章)。マタイは、イエスの先祖がユダヤ人の父祖までさかのぼることを示したかったのです。イエスがアブラハムの正当な継承者であるという事実によって、イエスの信憑性が証拠づけられます。ヘブライ人への手紙一一章の信仰に生きた人々のリストの中で、アブラハムは他の誰よりも多くのスペースを用いて描かれています。旧約聖書から、中間時代をへて、新約聖書に至るまで、アブラハムはユダヤ人の父祖、彼らを神に従う気持ちにさせる模範として見られているのです。もしアブラハムの模範がパウロの主張を支持していると示すことができるなら、パウロは自分の論点を証明したことになるでしょう。そして彼は、まさにそれをしています。パウロは、本章の冒頭に記した二つの論争点に言及している聖句で、アブラハムに関するものを二つ、創世記の中に見いだしています。
アブラハムと創世記
パウロの二つの聖句というのは、創世記15章6節と17章5節です。最初の聖句は、業ではなく信仰による救いの問題に関するもので、二番目の聖句は、神の恵みの普遍性という問題に関するものです。パウロがいずれの問題においても示していることは、アブラハムの立場がパウロの立場に連なるものであるということです。
最初の聖句、「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記15章6節)は、ローマの信徒への手紙4章3節で引用されています。これは、もちろん、「アブラハムは神を信頼した」と訳すことも可能でしょう。パウロはこの聖句を用いて、「認められたもの」は「獲得したもの」ではないことを強調しています。創世記には、アブラハムが自分の義を獲得した、とは書かれていません。アブラハムの義は、神への信仰に基づく賜物として与えられました。この義がアブラハムに与えられたのは、アブラハムが神への信仰を持っていたからです。こうしてアブラハムは、信仰による義の好例となったのでした。
しかしここには、指摘すべきことがもう一つあります。創世記一五章六節に記録された内容は、アブラハムが割礼を受ける前の出来事でした(ローマ4章9~12節)。つまり、アブラハムが義とされたのは、割礼に基づくことではなかったのです。また、割礼はユダヤ人であることの印でしたから、アブラハムが義とされたのは、ユダヤ教信仰に基づくものでもありません。そこで、もしアブラハムが最上の義の模範であるとしたら、義は信仰に基づいて与えられる賜物である、という結論を導き出さざるをえないのです。義は、律法を遵守することの結果でもなければ、ユダヤ人であることの結果でもありません。これはまさに、パウロが3章で主張していたことでした。今やアブラハムもパウロの味方なのです。
パウロは次に、二番目の聖句、「あなた[アブラハム]を多くの国民の父とするからである」(創世記17章5節)を4章17節で引用しています。ここを読む時、「国民」と訳されているギリシア語は「異邦人」とも訳せることを覚えていてください。アブラハムはユダヤ人の父祖であるばかりか、異邦人の父祖でもあるのです。パウロの時代のユダヤ人はこのことを信じていたのですが、そこに含まれるすべての意味まで実際に認識してわけではありませんでした。そこでパウロは彼らに認識させようとします。アブラハムが義の模範であり、異邦人の父祖でもあるというなら、神の救いがユダヤ人に限定されるわけがない、ということを。
ユダヤ人は自分たちを、アブラハムと交わされた約束の相続人と見ていました。パウロはそれを肯定しています。しかし、ユダヤ人だけが約束の相続人ではありません。異邦人もまた、約束の相続人なのです。ユダヤ人と異邦人は対等な立場に立っており、両者は同じように、神に信頼することによって救われるのです。
ローマの信徒への手紙におけるこのメッセージは、多くの福音主義クリスチャンが今日支持している「天啓史観(契約時期分割主義)」(dispensationalism)という教えを認めません。この教えは、神は地上の歴史の異なる時代ごとに異なる救いの方法を用いてこられた、というものです。律法に従うことによって人々が救われる古い契約の時代があったけれども、キリストは恵みによる新しい契約の時代の到来を告げられた。この恵みの新しい契約において、律法は廃止され、もはや有効ではないのだ、という見方です。
この見解には二つの問題があります。第一に、パウロはローマの信徒への手紙において、すべての人は同じように救われる、と教えています。パウロの時代と同じようにアブラハムの時代においても、人々は神を信頼することによって救われました。義はいつでも神の恵みの賜物であり、律法は私たちを救うためのものではありませんでした。律法は罪を明らかにしますが、神のみが私たちを救うことがおできになるのです。
ローマの信徒への手紙3章25、26節において、神は、今この時にご自分の義をお示しになる目的で、これまで人間が犯してきた罪を「見逃して」くださったと、パウロは指摘しています。これは、神がそれらの罪を無視されたとか、それらに頓着されなかった、という意味ではありません。これは、神がイエス・キリストにおいて罪の問題を解決なさるのを待っておられた、という意味です。あらゆる時代のあらゆる人が同じように、神の恵みを信頼することによって救いを経験してきたのです。
「天啓史観」論者の見解の第二の問題は、新しい契約が律法を廃棄していないことに関わっています。新しい契約に言及している聖書の箇所、例えば、エレミヤ書31章31節から34節や、その箇所を引用しているヘブライ人への手紙8章8節から12節は、律法の廃棄を述べているのではなく、律法の所在の変更を述べているのです。新しい契約において律法は、もはや外から規制する法典ではなく、心に書かれ、内在化されます。律法を心に記し、内在化させるというのは、律法を無視したり、破棄したりすることではありません。義務感からではなく、自然な欲求として、律法に従って生きるということなのです。
「お隣の芝刈り機を失敬することができればいいのだが、盗むなかれという律法もあるし、そうしない方がいいだろうな。がっかりだ!」という態度と、隣人への愛のゆえに、芝刈り機であろうと何であろうとお隣の物を失敬したいなどと思ったりはしない、という態度とでは、まったくの別物です。このように、新しい契約による律法の内在化は、律法を廃棄するのとは正反対のことをします。これこそまさに、「それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無とするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです」(ローマ3章31節)と、パウロが述べていることなのです。
そういうわけで、パウロにとって、すべての人は同じように、神に信頼することによって救われるのです。アブラハムはこの真理の証拠なのです。
アブラハムから引き出される他の教訓
創世記15章6節と17章5節を通してのパウロの二つの論点、アブラハムは信仰によって救われたということと、アブラハムはユダヤ人同様異邦人の父祖でもあるということが、ローマの信徒への手紙4章におけるパウロの中心的な論点です。が、その一方で彼は、アブラハムから他の教訓もいくつか引き出しています。これは4章の最後の数節に記されています。
彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。だからまた、それが彼の義と認められたわけです。しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。(4章18~25節)
パウロはアブラハムの模範から、信仰の性質について何かを私たちに教えようとしています。神の言われることが実現しそうにないと思える時でさえ、神に信頼することが信仰です。神がアブラハムに、「あなたを多くの国民の父とする」と言われた時、彼は死んだも同然の老人でした。アブラハムの身体は弱かったものの、信仰は強かったのです。強い信仰とは、神の約束が疑わしく見える時でさえ、神に信頼することです。
これはまさに、救いに関して私たちの多くが置かれている状況でしょう。私たちは、自分自身の状態にもかかわらず神の恵みによって救われる、という知らせを受け入れるのに困難を感じます。私たちは、神が他の人たちは受け入れてくださるかもしれない、と考えますが、自分自身を知りすぎているために、私たちをもそうしてくださるとは信じられません。しかしパウロが言っているように、神の約束はアブラハムのためにだけ書かれたのではなく、あなたや私のためにも書かれたのです。キリストは私たちの罪のために死に渡され、私たちの義のためによみがえられたのです。
ローマの信徒への手紙4章25節には、1章18節から32節において三度注目した語と同じ語があります。神の怒りの性質を示すために使用された表現、すなわち、神は罪人が悪を行うままに「まかせられ(た)」(あるいは「渡され(た)」)という表現です。しかし神は、「怒り」という言葉を最後の言葉となさらず、私たちの罪のゆえにイエスを渡され、私たちの義認のためによみがえらされました。
お膳立てをする
さてここで、ローマの信徒への手紙全体を概観してみたいと思います。ローマの信徒への手紙4章において、パウロは「弱い信仰」と対比させてアブラハムの信仰の強さを強調しています。パウロはそのような強調を、書簡の終わり頃に焦点を合わせることの前触れとして行っているのかもしれません。ローマの信徒への手紙のこれら最初の数章に出てくるいくつかの要素は、14章と15章におけるパウロの議論を先取りするものですが、これはそれらの要素の一つにすぎないことを知っておくと、役に立つかもしれません。
本書の終わりの方で見るように、ローマの信徒への手紙のいくつかの部分はどのように関係し合っているのかということを巡って、論争があります。例えば、ローマの信徒への手紙が1章から8章、9章から11章、12章から16章の三つの部分に容易に区分けできることは、ほとんどすべての人が認めています。問題は、これら三つの部分がどのように関係し合っているかという点です。さしあたって、最初と最後の部分に焦点を合わせたいと思います。
学者の中には、ローマの信徒への手紙の最初と最後の部分とは実質的に何の関係もない、と見ている人たちがいます。彼らは、1章から8章においてパウロは、彼の神学の基本的なメッセージを述べ、12章から16章においては、ギリシア・ローマの作家たちのたいていの哲学的エッセイの最終部に見られる伝統的な倫理思想のようなものを記しているのだ、と言うのです。この学者たちは、12章から16章はローマの信徒への手紙の神学的メッセージとはまったく関係がなく、事実上、手紙の残りの部分を顧慮せずに読める付録として付け加えられたものだ、と考えます。また彼らの中には、12章から16章は、パウロの恵みのメッセージと相反する行為に焦点を合わせているので、事実上、この手紙の最初の部分と矛盾している、とまで言う人もいます。
ローマの信徒への手紙の三番目の部分は、実際、この手紙のクライマックスであり、パウロは最初からそこに向かって進んでいるのだ、と言う人たちもいます。パウロは、人々が何を信じるかということのみならず、人々がどのように行動するか、とりわけどのようにお互いを遇するかに、関心を寄せています。私たちに対する神の恵みのゆえに、私たちは恵みをもって他の人々に対応するように導かれるはずです。パウロは、ローマ人が食べ物のような問題にとやかく言っていることをとても気にすると共に、彼らをキリストにある新しい一致へ導こうとしています。それゆえ、ローマの信徒への手紙の最初の部分である1章から8章は、パウロが14章と15章で対処している、ローマで起きていることへの彼の実際的な牧会的配慮の下準備をしているのです。
この第二の立場が正しいと言える十分な証拠があります。なぜなら、ローマの信徒への手紙の最初の数章には、パウロがローマの具体的な諸問題に取りかかる14章と15章で言っていることを見込み、そのためのお膳立てをしているように思える箇所がいろいろあるからです。
例えば、パウロは2章の冒頭で、「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです」と言っています。14章へ行くと、ローマの信徒がしていたのは、まさにこのこと、つまり、彼らは裁き合っていたことがわかります。パウロはそこでこう言っています。「それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです」(10節)。そして一三節において、「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう」とつけ加えています。ローマ人には人を裁いてしまう問題があったようで、早くも2章からパウロはこの問題について後で言うことのお膳立てをしているのです。
このような先を見込んでの繰り返しの別の例は、ローマの信徒への手紙4章19節に見られますが、それはアブラハムに関するものです。ここにおいてパウロは、弱まることのなかったアブラハムの信仰を強調しています。ローマの信徒は信仰が弱く、パウロを悩ませる争いに関わっていたので、パウロはアブラハムの信仰を強調しているのでしょうか。ローマの信徒の手紙14章と15章の以下の勧めの言葉に注目してください。
*「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません」(14章1節)。
*「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」(15章1節)。
パウロは、すべての人に与えられる恵みと救いについての神学的議論を強化するためのみならず、ローマの教会の一致に関して彼を悩ます論争を鎮めるためにも、アブラハムという模範を用いているのです。
結局、最初の4章において、パウロは頻繁に義について語ってきました。そうして彼は、口論についてローマの信徒に助言を与えている14章で、神の国は、彼らが論じている飲み食いではなく、義である(17節)と教えています。義については最終章でさらに詳細に論じることになります。
本書を読んでおられる読者の皆さんは、これからローマの信徒への手紙を研究していくことになりますが、ローマの信徒たちは一時間でその経験をしたことを覚えていてください。手紙の終わりの方に来た段階でも、彼らは最初の方の章を生き生きと覚えていたことでしょう。ですから、たぶん彼らは手紙の最初の方の神学的メッセージと終わりの方の実際的で倫理的な問題との関連性に気づいたことでしょう。このことは、私たちがこの手紙を研究するとき、クライマックスに向かう旅の途上にあることを思い出させてくれるはずです。そのように考えることで、最初の方の数章を含む、手紙の各部分を読む際の私たちの読み方が変わってきます。
この記事は、ジョン・ブラント(村山晴穂・訳)『信仰による従順──信じる者すべてに救いをもたらす神の力』からの抜粋です。