【ローマの信徒への手紙7章の解説】「律法」と「人間」

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ローマの信徒への手紙7章の「律法」と「人間」

なるほどと思わせる例話が入っている説教を聞かれたことはおありですか。その例話がなまなましく記憶に残り、説教全体の内容を忘れ、誰が話したのかさえ忘れたとしても、その例話だけは覚えている、というようなことがありましたか。物語とか例話には、他の何よりも記憶に残る力があります。

パウロは説教者であり、しかも逸材でした。すべての優れた説教家と同じように、パウロは例話を用いました。ローマの信徒への手紙6章において、彼は2つの例話、「バプテスマ」と「奴隷」を用いています。パウロの主題は、バプテスマでも奴隷でもなく、クリスチャンは恵みの下で罪を犯し続けるべきか否かという質問だったわけですが、彼は、「決してそうではない」という自分の答えを説明するためにバプテスマと奴隷を用いたのでした。

ローマの信徒への手紙7章において、パウロは次の主題である「律法」へと移り、自分の主張を通すために、今回は2つでなく3つの例話を用いています。しかし、その例話がとても興味深いものであったために、多くの注解者はパウロが強調している点よりもその例話に注目してきました。いやそれどころか、これらの例話があまりにも心をつかんで離さないので、7章が本当に論じていることを簡単に忘れてしまうのです。7章は律法について論じているのであり、用いられている3つの例話とは、「結婚」「十戒の十番目の戒」「善を行おうとしているのに悪を行ってしまう人間の苦闘」です。これらの例話を考える時、手元の主題である律法に焦点を合わせ続け、それぞれの例話が律法について何を教えているのかに注意を払うことが大切です。

この時点で、なぜパウロは律法について話す必要があるのでしょうか。ローマの信徒への手紙をここまで聞いた人が律法について若干混乱を感じていたとしても、責められはしないでしょう。パウロは、「律法とは関係なく」(ローマ3章2節、口語訳「律法とは別に」)私たちは救われる、と説いてきました。しかし彼はまた、私たちは信仰によって律法を無効にすることはない、むしろ律法を確立するのだ(3節)、と教えています。彼は丸々章を用いて、私たちはもはや律法の下にはいないが、罪を犯して律法に違反しても良いということではない、とも言っています。私たちはこれらのことすべてをどのように考え合わせるべきなのでしょうか。

まずもって私たちは、パウロがこの章で律法について言うことにも少しばかり混乱を覚えるかもしれません。方において、律法は恐ろしげな犯罪者のように見えます。それは以下の通りです。

*律法は罪へ誘う欲情を引き起こす。(ローマ7章5節)

*律法は罪を明らかにする。(7節)

*律法は罪を犯させる刺激として機能する。(8節)

*律法は死をもたらすことさえある。(10節)

この惨めな律法から逃れることができさえするなら万事良し、というように聞こえてきます。ところがその方、パウロは律法についてこうも言っています。

*律法は聖なるものであり、正しく、善いものである。(12節)

*律法は霊的なものである。(14節)

パウロの3つの例話から、律法というのは危険なものであると同時に善なるものであり、脅威であると同時に必要なものである、ということがわかると思います。それぞれの例話からわかることは、律法についてのパウロの問題は律法の「内容」に関するものではない、ということです。彼が問題としているのは律法の「誤用」なのです。律法の誤用はおもに2通りの方法でなされます。一つは、救いを求める際に神よりも律法に頼ってしまう場合。もう一つは、人々を区別し、ある人々を神の恵みの領域から排除するものとして律法を見てしまう場合です。

結婚の例話(ローマ7章1~6節)

女性が男性と結婚し、双方が生きている間は、結婚の律法によってその男性に結ばれていることを私たちは知っている、とパウロは述べています。夫が生きている間に他の人と同棲する女性は、姦淫を犯すことになります。しかし夫が亡くなれば、状況はまったく違ってきます。その女性はどんな男性を選んで再婚しようと自由です。死という事実によって結婚という律法の遵守が終わります

では、その明白な事実は、律法とどういう関係があるのでしょうか。パウロは6章11節において、私たちはクリスチャンとして罪に死んでいる、と言いましたが、この7章において、私たちは律法に死んでいる、とつけ加えています。私たちは律法と結婚していましたが、今や律法に死んでいるので別の人と結婚する自由があるのです。私たちは自由にキリストと結婚し、キリストと共に生きることができます。パウロはこのようにして2つの生き方を対比させています。一つの生き方においては、私たちは律法と結婚しており、もう一つの生き方においては、律法に死に、聖霊にあってキリストと共に生きています。一つの生き方においては、肉に従って生きており、もう一つの生き方においては、聖霊に従って生きているというわけです。

この2つの生き方の違いは何でしょうか。最初の生き方は死という実を結びます。なぜでしょうか。「肉」に従って生きているからです。ローマの信徒への手紙において、パウロはこの用語を23回使用しています。7章では3回、8章では10回です。新国際訳はふつう元のギリシア語を「罪深い性質(sinful nature)」と訳しています。パウロにとって、「肉」というのは単なる物質的あるいは身体的存在ではなく、人間全体の見分けのつく部分でもありません。むしろ、罪と死の法則に支配されている人格全体を指しています。この用語を用いてパウロは、死すべき人間と罪に反応する人間の傾向を指し示しています。罪の奴隷として生きる生き方は、肉において生活することです。さらに、この生き方において律法は外在する文字(書かれた掟)です。すなわち私は義務感によって律法を守ります。律法が「盗んではならない」と告げるので、私は盗まないのです。律法は私の外に立っている何かであり、ある生き方をするよう私に命じてきます。

パウロにとって,盗まないことは善いことです。しかし、律法が単に外在する文字(掟)である時、私たちには盗みたいという願望を征服する力がありません。盗みたいと思わないことのほうが盗まないことよりもずっと善いことです。キリストと結婚し、文字(書かれた掟)によってではなく聖霊によって生きる新しい生き方を始めると、私たちの生活に新しい力と方向性が与えられます。私たちは律法と調和し、神に対して実を結びます。7章5節と6節には2つの生き方の違いが要約されているので注目してください。

古い生き方新しい生き方
律法に結ばれている。キリストの体に結ばれている。
肉に従って生きている。霊に従って生きている。
律法は外在する文字である。律法は霊によって内在化する。
死に至る実を結ぶ。神に対して実を結ぶ。

この2つの生き方の違いは、一方が律法を内在化し、もう一方が律法を外在化しているという点ではありません。その違いは、律法の果たす役割と私たちの生活との関係における律法の位置にあるのです。古い生き方においては、私たちは救いのために律法に目を向けますが、律法は私たちを救えません。私たちは律法を守ろうとするかもしれませんが、肉によって支配されているので挫折し、律法は肉による支配を打ち砕くことができません。新しい生き方においては、キリストが私たちを救ってくださいます。キリストは肉による支配を打ち砕く権威をお持ちなのです。キリストは私たちの生活の中で生きて働く聖霊を送られ、その時、律法は私たちの中に内在化します。というのは、私たちの内に生きている聖霊が律法の価値に即した生き方へと私たちを導いてくださるからです。

このように、律法についての結婚の例話は、問題は律法にあるのではなく、私たちの生活の中で律法が果たす役割にあるのだ、ということを示しているのです。

十番目の戒めの例話(ローマ7章7~13節)

2番目の例話は同じ論点をさらにわかりやすい方法で明示しています。最初の例話においてパウロは、罪と律法を極めて密接に考え合わせているため、私たちは両者を同じものだと思ってしまうかもしれません。それゆえパウロは、「律法は罪であろうか」と尋ねますが、またもや「決してそうではない」と答えています。律法によって罪を知ることになりますが、律法はそれ以上の働きをします。律法は罪を犯す助けをします。少なくとも罪を犯すきっかけを与えます。

パウロは律法の意味を示すために、「むさぼってはならない」という十戒の十番目の戒めを通してこう言います。「律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう」(ローマ7章7節)。律法によって彼はむさぼりなるものを知ることになりました。しかし律法はそれ以上のことをしたのです。律法が「むさぼるな」と言った時、彼の自然な反応はむさぼることでした。律法は実際のところ、むさぼりの心を掻き立てたのです。

息子が幼いころ(彼は今は大きくなり、自分の息子がいます)、私はよく彼とゲームをしました。「ラリー、十まで数えるから、数えている間は笑わないでね」と言うと、すぐ息子はその気になった顔つきをし、笑わないようにしました。それから私が数え始めるわけです。「いーち、にーい……」。3を数えるまでに、意を決していた息子の顔はニヤニヤし始め、5を数えるころには息子は立ち上がれないほどゲラゲラ笑っていました。ゲームでなければ、簡単に十秒間笑わずにいられるのです。しかし、笑っては駄目だよと言って息子の注意を喚起すると、ちっとも笑いを抑えることができませんでした。

パウロはこのように十番目の戒めを見ています。律法が「むさぼるな」と言う時、ますますむさぼっている自分を見いだすのです。律法によって「むさぼる」という観念が頭に入り、いったん焼き付いてしまうと、自分ではどうしようもなくなります。ちょうどそれは、「青い犬について考えちゃだめですよ」と、私があなたに命じるようなものです。するとあなたはただちに何を考えるでしょうか。いったん考えだすと、考えずにはいられなくなりますよね。

十番目の戒めは行為ではなく動機に関係するものなので、この例話に見事に機能しています。盗まないというのは大事なことですが、他人の物を欲しがらないでいるというのははるかに難しいことです。無論このことから、律法は罪へと駆り立てるひどいものだ、という結論が出てくることでしょう。しかし、またもやパウロは、律法のに問題を感じていたわけではありません。ですから彼は、「律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです」と明言できるのです(ローマ7章12節)。問題は律法にあるのではありません。問題は、パウロが支配する力として見ている罪にあるのです。罪は出来心による悪い選択をさせてしまうだけではありません。ローマの信徒への手紙6章からわかるように、罪は私たちを奴隷にし、死へ導く力なのです。罪の恐ろしい力は果てしなく、律法さえも悪用してしまうほどです。罪は律法に付け入り、さらなる罪を産み出します。

しかし罪が律法に作用しているといっても、律法に過失があるわけではありません。3つの例話の中で最後のものはこの点をさらに明らかにし、実際には誰の過失なのかということを示しています。

人間的なジレンマの例話(ローマ7章14~25節)

この例話においてパウロは、私たちの誰もが感じる人間的なジレンマを鋭く指摘しています。私たちは、したくないことをし、したいことをしないでいる自分を知っています。ローマの信徒への手紙7章15節から24節の以下の言葉を読んで、私のことではないと言える人がいるでしょうか。

わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。

この迫ってくるようなメッセージを語っている「わたし」というのは、誰のことでしょうか。注解者たちは多くの示唆に富んだコメントを述べています。ある注解者は、パウロの自伝的言葉であると考えて、生涯のどの時期のものなのかということを議論しています。他の注解者は、「わたし」を型か象徴として考えますが、誰を表すのかについては意見が一致していません。ある注解者は、成長段階にあるがなかなか思うように成長できないクリスチャン生活の例としてこの文章を考えます。他の注解者は、このような「わたし」について焦点をあてているからには、むしろクリスチャンになる前の生活を表していると言っています。しかし他の注解者は、この「わたし」とは、律法について確信しているが、キリストをまだ見いだせずに、自力でクリスチャン生活を送ろうとしている人であると考えています。パウロが実際誰について話しているのか、知る方法があるでしょうか。

パウロがこういった注解者たちの立場を聞くことがあれば、ただ笑って、「君たちは論点から外れている」と言うでしょう。パウロは、ある人の経験におけるある時点での人間的なジレンマについて語っているのではありません。パウロは律法について語っているのであって、人間的なディレンマは単なる例話にすぎないのです。それが分かるのは、ローマの信徒への手紙7章20節において、「もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」と言っているパウロの言葉からです。

パウロが伝えようとしていることはここにあります。したいことと実際にしていることの間には、開きがあります。そうなりたいことと実際そうであることの間にも、開きがあります。私たちは人生のすべての段階で、ある程度こういった開きを経験するものです。この開きがあるというのは、問題は律法ではないということです。というのは、より良い人間になりたい、律法に従って生きたいと望むことにおいて、わたしは律法の内容を肯定しているからです。問題は律法にあるのではなく、罪深い性質にあるのです。罪深い性質とは、パウロが「肉」と呼び、私がしたいと思っていることをさせまいとするものです。主題が人間的なジレンマではなく、律法であることを忘れないでください。人間的なジレンマがあるという事実、私たち自身の理想に調和して生きていないという事実は、私たちに問題があるということを示しています。問題は律法ではありません。問題は私たちなのです!

それゆえ、パウロの答えは律法を排除することではありません。罪を犯し、律法を犯すことでもありません。その答えは私たちの外側から来る何かであって、私たちの中に生き、常にコースからそれさせる罪よりも強力なものでなければなりません。ですから唯一可能な答えは、罪と死の力を打ち破るために私たちの外側からやって来る神の恵みなのです。パウロは7章の終わりでこの答えを宣言し、こう言っています。「死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」(24、25節)。パウロはここで答えを宣言していますが、それを説明するのは8章になってからです。8章でパウロは、肉による命と霊による命の違いを概説しています。

7章におけるパウロの3つの例話は、すべて同じ主張をしています。罪は私たちが征服できない問題をもたらすということです。律法はその問題を解決できません。律法は救うことができませんし、救うように意図されているわけでもありません。それどころか、罪の問題を悪化させるのです。イエス・キリストによる神の恵み深い介入のみが、この問題を解決することができます。救うことができるのはキリストのみです。しかしそうだからといって、律法は悪く、無視すべきものだ、ということにはなりません。

この点において、パウロは当時のユダヤ人の同僚とはかなり違っています。ラビの教えを成文化したミシュナは、パウロの時代以降およそ150年間、書かれることはありませんでしたが、長い伝統を持つ口承を伝えています。ミシュナにおいてラビが教えているのは、神は「悪いイェーツェル」と呼ばれる悪の傾向を人間の中に創られた、ということです。この悪いイェーツェルは、私たちが「エゴ」と呼ぶものと似ている部分があって、人々に動機付けを与えるという善い目的を果たすこともあれば、人々を悪へと誘惑することもあります。そして律法は、悪いイェーツェルを阻止する解毒剤なのです。あるラビの文章によると、神はこう言われたということです。「私はあなたの中に悪いイェーツェルを創造したが、薬として律法をも創造した。律法に専心する限り、このイェーツェルはあなたを支配することはない。しかし律法(トーラー)に専心しないなら、あなたはこのイェーツェルの力に引き込まれるであろう。そしてイェーツェルが行うあらゆることは、あなたの不利益となるであろう」①

ラビたちにとって、人間に内在する悪いイェーツェルの問題に対する解決方法は律法でした。パウロにとって、罪の力はイェーツェルよりもはるかによこしまで執拗なものでした。律法が聖であり、正しく、善いものである限り、律法に専心することで問題を取り除くことはできません。問題を取り除くことができるのは、キリストのみです。次の章でその方法を考えましょう。

参考文献

① Kiddushin 30b, quoted in C. K. Barrett, ed., The New Testament Background: Selected Documents (New York: Harper and Row, 1961), 153.

この記事は、ジョン・ブラント(村山晴穂・訳)『信仰による従順──信じる者すべてに救いをもたらす神の力』からの抜粋です。

ジョン・ブラント
米国カリフォルニア州グランドテラスのアザル・ヒルズ・セブンスデー・アドベンチスト教会牧師。ローマ・リンダ大学宗教学部教授。博士。

主な研究文献:
A Parable of Jesus as a Clue to Biblical Interpretation, in Adventism in America, ed.Gary Land, 1986.
Now and Not Yet, 1988.
Good news for Troubled Time, 1993.
Romans: Mercy for All, 1996. ジョージ・ナイト共著
Introducing the Bible, Vol.I, II, 1997. ダグラス・クラーク共著
Decisions: How to use Biblical Guidelines when making decisions, 1999.

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