『コヘレトの言葉』と『創世記』
私たちは今や、本書の後半部に達しています。前半「第1章から第6章まで」では、空しいということについての繰り返された決まり文句「これも空しい。風を追うようなことだ」(1の14、2の11、17、26、4の4、16、6の9を参照)によって特徴づけられておりました。空しいという言葉のほとんどをこの前半部に見いだします。①「コヘレトの言葉」の要点は、この世界の敗北であり、人生それ自体の空しさという事でした。
「コヘレトの言葉」は、本書中で最も短い章である前章の第6章で前半部の結論を述べております。それはまことに悲劇的な調子で、たとえ神から受けることができるすべての「良い」ものを持っているとしても、私たちはなおも、元来の「良いもの」(「トーブ))を失ったままなのであると結論づけたのです。すなわち、「幸福とは何かを誰が知ろう」(6の12)です。②「コヘレトの言葉」は誰も幸福を知る者はいないのだということを示唆しておりました。著者は決して人間はその面での情報を欠いていると言っているわけではありません。ヘブル語における知るとは、力動的実際的体験を意味します。ですから、幸福を知らないとは、私たちは幸福を体験できないということなのです。私たちは幸福であることはできないのです。
「知る」と「幸福」の二つの言葉の同じ関係が、創世記第2章、第3章で、善悪を知る木に関係して用いられていることに注目してください。「コヘレトの言葉」の6章12節と最も共鳴している箇所は、創世記3章22節です。なぜなら、「コヘレトの言葉」の本節同様、創世記のそこでは、善の知識を人及びその人生とに結びつけている唯一の聖句だからです。「主なる神は言われた、『人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ永遠に生きる者となるおそれがある』」(創世記3の22)。二つの聖句は、四つの言葉を共有しております。そして実際は、「コヘレトの言葉」の質問で用いられているすべての言葉が、創世記に存在いたします。「知る」、「善」、「人(アダム)」、そして「人生」。この強い反響は、「コヘレトの言葉」が創世記3章22節をここにほのめかしていることを示唆しております。
ですから、「コヘレトの言葉」が何を意味しているかを理解するためには、私たちは、創世記を理解する必要があります。その節で、神は彼が果実を取る前には、善悪の知識について、人は神のようであった、あるいは神のようでした、と言っております。③神に背かない限り、人は「知っていた」のです。逆説的に、私たちは善の中にいる時にのみ、善悪を識別することができるのです。アダムとエバは、罪を犯すや否や、彼らは善を離れることとなり、その結果、創世記が善悪を知る木と呼んでいるその判別力を失ったのです。それから後は、善と悪は混乱してしまいました。悪は善と混じり、また善は悪と混じり合ったのです。この不幸な出来事に関するエレン・ホワイトの注釈は要点を衝いております。
「神だけが全知であり真理であるにもかかわらず、アダムはその神のみ言葉に従わず、欺く者に聞き従ったために、いっさいのものを失ってしまった。善と悪がいりまじったために、彼の心は混乱し、彼の知的能力と霊的能力はまひした。彼は、神が惜しみなくお与えになっている恵みの真価を認めることができなくなった」④
これが、「コヘレトの言葉」が考察している心の混乱です。人は善に関する知識を失いました。彼はもはや「善を高く評価する」ことができなくなりましたし、従って善と悪とを混ぜ合わせ、知恵は人間から逃げ去ったのです。それでも「コヘレトの言葉」は絶望いたしません。また、私たちを、空しさの混沌にも、「善い」ことを夢見ることにも、留めおくことをいたしません。不思議なことには、善と悪のこの曖昧さと知恵の捉えどころのなさに対処しようと試みつつ、彼は、「善」の喪失というこの明瞭な観察から生きる方向へと動き出すのです。
善と悪の曖昧さ
「コヘレトの言葉」は、たった今、誰も「善」(トーブ)を知る者はいないと断定いたしました。それでも次の段落では、「トーブ」(「善」、通常は「勝る」と訳出されている)が9回も繰り返し用いられております。さて、善はその反対の物によって釣り合いが取らされております。私たちは、通常では見るはずのないような全く予期しない場所でその反対物を発見したりいたします。しかしこのことは、この「善」が曖昧であるという性質からして、理論上は極当然のことで、善の中に思いがけなく悪が見いだされるような意味合いをも有しているのです。
ヘブル語の中でその言葉の響きを耳にするなら、よくわかるのですが、それはまず、語呂合わせで始まります。「トーブ シェム ミシェメン トーブ」、これは「名声は香油にまさる」(7の1)の意味です。この句は「死ぬ日は生まれる日にまさる」(7の1)と平行節です。死(否定)が生まれる(肯定)より勝るということを証明するために、「コヘレトの言葉」は死と誕生をそれぞれ、名声と香油に関係付けます。
古代中近東では、名は極めて重要でした。それは人物そのものを表していて、彼の評判を意味しておりました。聖書は、「ダビデはアラムを討って帰る途中、塩の谷でエドム人一万八千を討ち殺し、名声を得た」(サムエル記下8の13)と語っております。神でさえ出エジプトの時、名声を勝ち得た(ネヘミヤ9の10)と言われております。しかし名は同時に、「死」と「不死性」とに関連づけられました。神に逆らう者の名は朽ちる(箴言10の7)一方、善なる人の名(古代エジプトでは祭司たちの名、あるいはまた賢人たちの名)は、不死性を達成したというのです。⑤
誰も箴言のこの響き渡っている言葉の正確さに異議を唱えないでしょう。もしも、名声と人の心に残るその人に関する抽象概念である善なる記憶とが、貴重な香水より勝るのであれば、その時は、死の日の方が誕生の日より勝るのです。皮肉的表現を用いて、「コヘレトの言葉」はその焦点としている事柄を示します。死は名声と同様に価値があり、人生は香油と同様に空しいのです。
しかしながら、「コヘレトの言葉」は、死は元来生きることそのものよりも価値があったのだとは言っておりません。彼の語りたい要点は、死ということが、生きるということをして、より空しさを少なくし、より有意義なものにし、あなたをして、適切な視点で人生を見ることができるように手助けをするということなのです。ですから、「コヘレトの言葉」が弔いの家に行く賢人と宴会の場を好む愚か者とを見いだすのも不思議ではありません(7の2)。戦争によるのであれ、また恐怖に陥れられるような病気によるのであれ、死に直面して、あなたは自分の人生を変えることができるかもしれません。死は、あなたをして、本物であるようにさせ、本当の自分に生きるようにさせます。そして、自己完成のためとて、これまでに長い年月を費やしてきた、誤った見せかけだけの姿、形を捨て去るように要求するのです。死は、現在の瞬間を超えて考えることを、あなたに得させます。それは、あなたの人生を、未来に向けて適応させるように教育するのです。
死との真に迫った小競り合いは、生きるということをより貴重なものにいたします。人生という味はもはや同じではありません。あなたは人生を、もはや、極当たり前のものとは思ってはいません。違った風に呼吸します。違った風に愛します。人々にも違った風に会います。人生は変えられるのです。あなたはより活き活きと生きるのです。
宴会の家においての生き方は、別な形をとります。居酒屋、クラブ、レストラン、映画、カジノ、ショッピングモール、またはテーマパークでは、別の展開を見せます。これらの場所では、確かに、あなたに忘れることの手助けをいたします。苦痛と苦悶とを忘れることができます。しかし、これらの場所は、また、あなたが誰であるかを忘れるように強制いたします。これらの場所はあなたを楽しませ、あなた自身からあなたを奪い取るためのあらゆる必要小道具を用意いたしております。彼らは、あなたに飲ませます。彼らは、興奮を感じさせるような新しいもろもろのものをあなたに試させます。彼らは、あなたの時間の感覚を麻痺させあなたの気をそらします。彼らは、あなたを笑わせ、またいい気分にさせます。彼らは、あなたに、人生を楽しんでいるんだという完全な錯覚を与えて、実のところ、これらの家を出る時には、これまでよりももっと悲しい自身の病の影に苦しむことになるのです。あなたは人生の味わいを失います。あなたは究極的には、あなたの墓穴を掘ることになるのです。
このようにして、「コヘレトの言葉」の逆説的な原則は確証されます。喜びと楽しみの場所は、実際は死の細菌を含んでいるのです。そして他方、哀悼と悲しみの家々は、約束されている人生を実行に移させるような結果を見るのです。
しかし「コヘレトの言葉」は、弔いの家に頻繁に出席することが、私たちを心底賢明にするのに十分であるなどと、言ってはおりません。葬儀場のディレクターが他の職業人より、賢明であるということはありません。「コヘレトの言葉」は、単純にしかも具体的に死について、私たちが考えるように勧め、そのようにして、私たちが人生の虚無に気づくに至るようにと願いを込めているのです。そして、私たちが自分自身の人生の空しさを熟考して行く時、結果として私たちは人生の真の価値に向け再教育されることになります。私たちの心のひだ奥深くに隠されていた「善」なるもの、すなわち、私たちの本質的なものに私たちは再接続されるのです。そして、私たちは、別な世界、すなわち、新約聖書が神の国と呼んでいる世界に所属するようになるのです。皮肉にも、私たちを死の現実に立ち向かわせることによって、コヘレトは、私たちを他の現実へと連れて行きます。それは明らかに酒宴の家々とは反対のことをするのです。その楽しみの家々では、彼らは死から私たちの気を散らし、そうすることによって彼らは、その他の眺望から私たちを遠ざけます。
「コヘレトの言葉」は同じ教訓を他の諸状況に適用いたします。賢明な者の叱責は同じ効果を有することとなるでしょう。それは、私たちをして、自分を直視するようにさせるでしょう。それは、私たちに不安感を与え、私たちが平凡に送っている快適さを揺り動かすでしょう。自分では立派にやっているつもりであるとの幻想を打ち破るのです。それは、私たちをして容易な道から困難な道へ、またよく知っている世界から未知の世界へと動かざるを得ないように働くでしょう。この経験の仕組みは死に直面した時のそれと同じです。自分にノーと言ったり、自分を追求したり、また自分を打ち砕くことにより、その叱責は、自分の殻から出てくるように私たちを強制し、上にあるものとの接点を持たせるようにさせるのです。教師や両親たちがよく理解しているなら、この教育法はよく機能いたします。譴責と矯正とは、学びのための必要条件であり、何か他のものを発見したり、よりよいことをなさせるに優れた方法です。
反対の側では、私たちは愚か者たちの歌を聞きます。賢人の叱責とは異なり、この歌は耳と魂に心地よい音色を持っております。私たちはそれを愛しております。一人で立つ賢人とは異なり、愚かな者たちは多数です。それゆえ、彼らはより魅惑的であり、説得力があります。これは、一般受けのする声です。賢い人の一声の叱責⑥とは異なり、愚かな者たちは騒々しく、冗談がはじけます。「コヘレトの言葉」は彼らの笑いを「鍋の下にはぜる柴の音」と比較しております(7の6)。知的な笑いではありません。そして意味のある笑いでもありません。火の中の柴のように、それらは、熱気以上に騒々しさを生成いたします。笑い声は滝の音のように聞こえてきます。それは伝染性で他の人々によって反復されます。愚かな者たちは賢者を笑い、彼らの冗談の騒音は、賢明な者たちの分別のある言葉を覆ってしまいます。最終的に、嘲る者たちは、耐え難い圧迫と嘲笑へと向きを変えて行くでしょう(7の7)。
ヘブル語では、笑い(セホク)と「虐げ」(オシェク)を結びつける語呂合わせがあります。それは、賄賂をも含むかもしれない(7の7)周囲からの「虐げ」、プレッシャーが、最終的には賢者に影響を与え、彼を愚か者に変えてしまうであろうことを示唆しております。
馬鹿ばかしく思えて、それは違うと感じている時、己のその確信に忠実であり続けることは容易ではありません。再び、私たちは同じ逆説的なメッセージを聞きます。私たちが善に達し、私たちに空しさの中で生き抜く事を得させるのは、楽しくもあり美しい生においてというより、むしろ困難な抵抗や少数派としての不安感の中においてです。しかも、「コヘレトの言葉」は、さまざまな危険が、知恵者や義なる候補者たちを待ち構えていると私たちに警告しております。明らかに、多数である人々は私たちを選び出し、私たちを殉教者とすることでしょう。
まず忍耐力が切れる危険があります。嘲笑者の群衆の中で、一人歩み行く勇敢な決断をするため、正しいと考える理由に自らを託すことにはその危険が伴います。カミュの小説『疫病』の中の勇敢な医師は、「聖人たるよりも英雄であることの方が容易である」ということを私たちに思い出させます。神のために生きるより、神のために死ぬ方が容易なのです。死は瞬時ですが生きるということは何年もかかります。また、公然たるか陰険たるかに関わらず、日々に襲う外からの攻撃と内側からの衝動の両方に抗しながら、忍耐深く歩むことより、殉教者であることの方により多くの賞賛と栄光とがあります。しかし、「耐え忍ぶ心は、おごり高ぶる心にまさる」(7の8、口語訳)のです。これがなぜ「事の終りはその初めよりも良い」(7の8、口語訳)かの理由です。レース最初で熱心なランナーは、しばしばゴールラインにおりません。「コヘレトの言葉」の隠喩に従いますと、ばちばちと音を立てて燃える棘のある苦痛の種は速やかに火の中に投げ込まれるべきで、それらは非常に騒音を立てますが、その火は長く続きません。その終わりのみが、私たちの献身の質を証言することとなるでしょう。
皮肉にも、世の多くの愚か者たちが持っていない知恵や真理を有しているとする知恵者たちのプライドには、また重大な危険が宿っております。「気位」と訳出されたヘブル語は、高いという考えを内包しております。私たちは、自分自身を他の人々よりも高いとみなしていると、それらの人々を軽んじ、また、彼らは理解してくれないということで怒りさえいたします。主イエスの弟子たちは真理について、あまりにも確信していましたので、彼らは、それを信じなかったサマリヤ人を焼き尽くす火が、天から下るようにと祈りました。(ルカ9の54)。
「コヘレトの言葉」では、私たちが他人に勝って知恵や真理を持つと主張したとしても、それに疑義をはさんではいないことにご注意ください。ソロモンは、決して真実や、そして知恵が現存することを否定してはおりません。実のところ、彼は誤謬や無知に勝った知恵や知識があることを認めております(7の12。2の13とも比較してください)。彼は、多元論のカード遊びをしているわけではありません。みんなどんな人も正しく、真理はどこにでもあるなどとも言いません。「コヘレトの言葉」を悩ましているものは、真理と知恵が傲慢さと独善性になって行くような時のことであり、あるいはまた真理ということが、怒りの理由とされるようになる時のことなのです(7の9)。真理と知恵が最終的に狂信とか極端な傾向に退行する時、また正しい信念が人に指を指して糾弾するようになった時、及び叱る義務が児童虐待を引き起こしていくようになる時彼は悩みます。ちょうど、エリヤが「わたし一人だけが残り」(列王記上19の10)ましたと言ったようなことを私たちが言うほど、私たちの傲慢さが立ち至った時、コヘレトは悩むのです。それは、私たちが今あるのは、過去から受け継いだ遺産に負っていることを認めていないことに他ならないのですが、「コヘレトの言葉」は繰り返し、このような主張に応答しております。私たちが見いだしたとする知恵は既に宣べ伝えられていたことなのだというのです(1の10、6の10)。
さて、彼はもう一段、もう一歩を進めて、過去の価値を疑問視する人々に挑みます。「昔の方がよかったのはなぜだろうか」(7の10)と言い、そんなはずはないではないかといった言い方はやめなさいと。「コヘレトの言葉」は過去及びそれから受け継いだ遺産、また教訓の重要性を強調いたします。「彼らは間違っている」からとか、時代遅れであるからとして、私たちの前に歩んで来た人々をしりぞけるように試みられるかもしれませんが、彼らから受けているものは、私たち自身が発見したもの同様に重要なのです。「知恵は遺産同様によい」(7の11、著者私訳)。⑦と「コヘレトの言葉」は言っております。「コヘレトの言葉」が心を向けている問題は、「善」のその曖昧さであり、それは、傲慢さやプライド、いらだち、それに狂信と極端な傾向といった空しいもろもろの影が、知恵という光の中においてさえ、入り込んで来ているのを見いだしてしまうという点です。
命令形の「見よ」が二度使われております。第一は、「コヘレトの言葉」が私たちに神の御業を考えて見なさいと勧めている箇所(7の13)であり、第二は、逆境の時には考えよと私たちを招いている中においてです。私たちは、私たちが神の御業に近づくのと同様の方法で、逆境にも近づかなければなりません。この勧告の理由が直ちに与えられます。神が世界を創造されたと同様、神は「両者」、すなわち順境と逆境も併せ造られたのです(7の14)。「コヘレトの言葉」は神の創造のみ業を描写する言葉である「アサー」(「造られた」)を用いております。創造の御神が両者の背後に立っておられるのです。
「コヘレトの言葉」の観察から得ている教訓は、私たちは、両者とも歓迎して迎えなければならないということです。「他の者ばかりではなく同様にもう一つのもの」が、「両者」と訳出されている語の別訳です。直訳では、「この傍らにあるこれ」であり、それは、善いものも悪いものもです。なぜなら、私たちはその後(特に逆境の後)に何が来るかを知らないからです。⑧私たちには、悪い出来事の未来を知らないのです。しかし、神が御支配しておられるのですから、私たちは希望のみを持つことができるのです。
「コヘレトの言葉」は、決してマゾヒスト的理想を推奨しているわけではありません。彼は決して私たちが悪をも楽しむべきであると提案しているわけではありません。「楽しめ」という動詞は善に対して用いられているのです。しかし、悪に対しては、彼は「見よ」という言葉を使っております。それは私たちが自分の目で万物を見る時と同じ「見る」の動詞であり、そこでは畏怖を感じたり、ふと何かの問いを思い浮かべたり、何かの反応を覚えたりのような同じ態度が背後にほのめかされております。これは悪の現実を否定しないで、それに面と向かって対決した明晰さの中での「見る」なのです。そしてそれはまた、立ち止まりなさいの合図的「見る」であり、その後に来るものが何であるかを予想はできませんが、それを待つことに注意を向けさせるための「見る」でもあります。
このようにして、賢い人は緊張の中で生きるようにと、招かれております。一方では、彼は現在の善を十分に楽しむのです。他方では、彼は悪を見、そしてその結果を待ち、そしてまた見るというように、様子をしっかりと見て歩むことを学び、同時に善悪両者を受容して生きることとなるのです。
倫理の曖昧さ
それから著者は、この緊張関係において生きる鍛錬を、複雑な倫理的生活に適用しております。あなたが公正で自分自身を善なるものに捧げたという事実は、通常は悪しき者の運命であるはずの「滅び」からあなたを防御いたしません。⑨逆に、通常は公義に生きる者の報酬であると考えられる長生きが、悪しき者に見られたりもする(7の15)というのです。
「コヘレトの言葉」のここでの意図は、決して、伝統的な知恵⑩に挑戦しているわけではありません。彼は別の文脈(3の16)の中で、すでに同じ事をなしております。⑪彼が意図していることの要点は、悪が正義の中に見つかるかもしれないし、逆に善が邪悪な行為の中で見つかるかもしれないということです。
彼は、いわば完全主義的マニアの範ちゅうで、この善と悪の曖昧さを示威しております。善に過ぎることは悪く、悪に過ぎることもまた悪なのです。ちょうど、神や真理に対して狂信的になることが危険であり、元来存在した知恵を愚かなものに変えてしまうことがありますように(7の9)、そのように完全主義者はこの地上に地獄を作り出すことができます。まさに善と信じることを熱心になる余り、この人はその隣人にとっては、耐え難いほどの苦痛の存在となるばかりではなく、彼はその過程において自分自身を滅ぼすことにもなりかねないのです(7の16)。同じ原理が、「過度に悪い」にも適用され、この人はまた、その過度の悪の故に、早死にするに至るでしょうと言います(新英語欽定訳〔NKJV〕7の17)。すでにあった悪の上に悪を重ねることは、それをいっそう悪くすることになるでしょう。
ですから、「コヘレトの言葉」の倫理上の助言は、その曖昧さということで一貫しております。「一つのことをつかむのはよいが ほかのことからも手を放してはいけない」(7の18)。ここで著者は、善なるものと悪なるものとを照合していることは明らかです。ここで「一つのこと」と訳出されているヘブル語の「ゼー」という言葉は、二度用いられていて、14節では「この両者」を指しておりましたが、18節で再度これが用いられております。「コヘレトの言葉」では倫理的決定を、善と悪の間の中道とか、それらの妥協案に基づくように勧めているのでしょうか? 彼は、善と悪の、ある種の混合を提案しているのでしょうか? 決してそうではありません。「コヘレトの言葉」が言わんとしていることは、実に善と悪はすでに混じり合っているということなのです。真実に黒か白かではありません。ちょうど悪がそうでありますように、善もまた曖昧で、極めて多義的なのです。この点が、「コヘレトの言葉」が問題としているところです。堕落以来、この点が私たちの問題でもあるのです。
コヘレトにとっての、このジレンマを生き抜く唯一の方法は、神への畏れなのです。「神をかしこむ者は このすべてからのがれ出るのである」(7の18、口語訳)からです。「すべて」という語を用いて、「コヘレトの言葉」は、善と悪という二つの対立物を取り巻いているその緊張に言及しております。⑫善と悪との間の混乱の問題を突破する唯一の方法は、上からの知恵を持つことなのです。「知恵は賢者を力づけ」(7の19)ます。この知恵は上から来なければなりません。なぜなら「善のみ行って罪を犯さないような人間は、この地上にはいない」(7の20)からです。人一人では、それをやってのけることはできません。私たちの唯一の助けは、完全な善であり、一度も悪と妥協したことが決してなかった御方、すなわち神である御方からの恵みのみです。
人間に関する限り、私たちはみな罪人です。「コヘレトの言葉」が言うように、このことは、他の人に対するのと同様、あなたにも当てはまります。「人の言うことをいちいち気にするな。そうすれば、僕があなたを呪っても 聞き流していられる」(7の21)。この忠告は、私たちが20節で議論した原則の直接的適用です。誰も罪から免れることはありません。誰かが私たちを呪うか⑬、私たちの評判を悪くするのを聞くという問題は二次的なことです。「コヘレトの言葉」はこの例を、私たち自身が自分に対しているように他人にも寛容であるようにと勧めるために用いているのです。
「コヘレトの言葉」は、この罪の問題を選択しておりましたが、それは他者との関係に影響を与え、私たちの行動全体に重大な影響を及ぼすものであるからです。「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です」(ヤコブ3の2)と言われております。私たちは、自分が完全でないと認め、自分の過ちに対し自分を赦すことは、しばしば非常に容易です。一方、他人が不完全であると認め、彼らの過ちを赦すということは、同様には容易ではありません。しかし、私たちが完全ではないと自覚することは、他者の欠点を容認して寛大であることの助けとすべきです。「あなた自身も何度となく他人を呪ったことを あなたの心はよく知っているはずだ」(7の22)。私たちは皆、罪人でありますので、私たちの助けと救いとは、ただ私たちの外からのみ来ることができました。罪を犯すことのない神からの知恵だけが、私たちが、善と悪の間での混乱を仕分けして行く、その助けとなることでしょう。
捉えどころのない知恵
善と悪との多義的性質を考慮しますと、知恵は容易には見いだされないでしょう。意味深いことには、本章24~29節で、「見つける」との鍵となる語が、7回用いられております。「コヘレトの言葉」はそのかくれんぼう的な冒険において、自分の欲求不満と失敗の物語を語ります。彼は「『わたしは知者となろう』と言った」(7の23、口語訳)のです。ヘブル語の動詞の形は、彼の善い意図とその決断とを表現しております。すなわち、(自分自身の内側で)私は言ったのです。私は賢い人になろうと強く願うと。⑭
しかしながら彼は、二つの障害で躓きました。第一の障害は、知恵自身との関わりです。知恵は、はるかに「遠い」し、「深い」ということです。これらの言葉は、しばしば神御自身に関係して用いられております。すなわち、神の裁きは余りにも「高い」(詩編10の5)とか、神御自身は遠く離れておられる(詩編22の2、箴言15の29)など。神はまた、「暗黒の深い底をあらわに」される御方(ヨブ記12の22)であるとか、「奥義〔深い〕と秘儀を現」わされる御方(ダニエル書2の22)として描写されております。知恵が「遠い」、「深い」ということは、それは神に付随しているということであり、そして、天からの啓示によるのでなければ、人はそれに全然近づくことができないものであることを、示唆しております。
それから、「コヘレトの言葉」は、知恵を求める彼の努力は、無益であったことを暗示しております。彼の修辞的質問、「その深い深いところを誰が見いだせようか」(7の24)は、それに対して暗示されている否定的な答えが、その業の不可能性を印象的に確証づけております。彼が知恵を特徴づけるために用いているイメージや言葉も重要です。知恵は女性として人格化され、彼の知恵を求める探求は恋愛関係の形をとります。探しても見いだせないという主題は、その言葉を恋人の追跡という情景から借り受けております。⑮ここで、その捉えがたい恋人は知恵という彼女です。「コヘレトの言葉」は彼女を追いかけますが、しかし一度たりとも彼女を見つけることはできません。実際本節には、箴言が描いている理想的女性がほのめかされております。ここで「コヘレトの言葉」は、箴言31章10節で見られるのと同じ語を用いております、「有能な妻を見いだすのは誰か……はるかに〔遠い〕……」。はっきりしていることは、「コヘレトの言葉」は、人間は知恵に到達し得ないということを、強調しようとしているのです。彼らができるのは、ただそれを探そうと求めることだけなのです。しかし、決して満足し得ないでしょう。
知恵を得んとすることへの第二番目の障害は、知恵の曖昧さによって起こされた混乱状態であり、それは愚行と関連する事態に対処しなければならないという点です。知恵を求めての「コヘレトの言葉」の捜索は、愚行を追い求めることと関係いたします。
「わたしは、心を転じて、物を知り、事を探り、知恵と道理を求めようとし、また悪の愚かなこと、愚痴の狂気であることを悟ろうとした」(7の25 口語訳)。
この探求の過程を導入するヘブル語動詞「サバブ」(「転じる」)は、1章6節と同様です。そこでは、風が止めどなく巡ることを表現しておりました。ここでは、知恵探求における、彼の、前進したり後戻りしたりの、止めどない動きを暗示しております。
コヘレトの困難な仕事は、今や、その肯定的な部分と否定的な部位とを仕分けしてみる試みにあります。この操作を描写するために用いられているヘブル語「ヘシボン」(口語訳では「道理」、新共同訳では「結論」と訳出されている。訳者注)は、古代中近東世界ではよく知られていた商業用語です。それは「会計」とか「収支勘定」を意味しております。⑯「コヘレトの言葉」の否定的な面の探求、すなわち、悪、愚行、愚かさ、狂気を知ろうとする試みは、知恵や収支勘定(新共同訳では「知恵と結論」、訳者注)を探求する肯定的な面によって伴われております(7の25)。商業における書類を入念に調べている商人や会計士のように、コヘレトは、各項目ごとに、それらがどちらに仕分けされるべきかを整理しようとしております。伝統的な考察においては、知恵と愚かさは、はっきりと互いに別勘定に仕分けされたのですが、コヘレトの場合はそうではありません。あたかも会計士が混乱をしていて、知恵や正義と愚行や邪悪との間の明白な区別を見つけることができなかったかのような様相です。ヘブル語聖句の言葉の言い換えを見ますと、愚行は悪の側にあることや、すなわち愚行は狂気であると決め付けることに、躊躇を覚えている姿が見られます。この混乱は、次節の女性像に反映されております(7の26)。ちょうど知恵がそうでありましたように、愚行は女性によって表されております。「コヘレトの言葉」が、その女性の脅威について不満(「死よりも、罠よりも苦い女がある」)を語っている時、彼は、女性一般、あるいは特例の女性について語っているのではありません。彼が心に描いているその(定冠詞を伴っている)女性とは、「愚行」のことなのです。この語には定冠詞がついており、しかも、前節中、唯一定冠詞を伴っている語です。ちょうど箴言9章で見られる二人の女性と同様に、この愚行を表す女性は、知恵の女性と対峙させられております。そこでは、生命と義を象徴する知恵の女性(箴言9の1~12)が、死と邪悪とを象徴する愚行の女性(箴言9の13~18)と対比されております。⑰
次の新しい段落(7の27~29)を導入するに当り、「コヘレトの言葉」は再び収支勘定を見いだそうと試みるようにして、会計業務を演じております。「伝道者は言う、見よ、その数を知ろうとして、いちいち数えて、わたしが得たものはこれである」(7の27、口語訳)。「ヘシボン」(「会計」とか「収支勘定」)が、7章25節同様、本節でも使われております。「コヘレトの言葉」は肯定的な面と否定的な面とを仕分けするのに苦闘している自分を描写しております。彼の関心は「見いだす」ことです。この「わたしは見いだす」という語が本段落には集中的に現れております(7回のうち5回)。次節の中の「なお」は、この探求が、今に始まった新しいものではないことを示しております。「わたしの魂はなお尋ね求めて見いださなかった」(7の28)。再び、それは彼が最初の段落中で(7の23、24)発見しようとしていたのと同じ、捉え難い女性です。
「千人に一人として、良い女は見いださなかった」(7の28)とする「コヘレトの言葉」の意見は、彼の女嫌いという偏見に基づいた表現であると理解されるべきではありません。彼をいつも回避して行ってしまう知恵について、彼は再び述べていることなのです。彼が、見つけることができなかったとする良い女性と、見つけることができたとする男性との対比は、その女性の捉えどころのなさを強調することを意図しております。「私は千人より勝っている人間(アダム)を見いだすことができますが、一人の女性を、これらの中に私は発見できません」(7の28、著者の私訳)。この直訳が示しておりますように、彼は決して女性に対する男性の優位性を語っているのではありません。彼が、「アダム」(「人間」)という語を用いているという事実は、彼が心に思い描いているのは、女性に対比しての男性では決してなく、人間そのものについてです。次節の29節でも、(原文では)「アダム」という語が用いられているのは重要で、(しかも原文では)それを受ける代名詞が複数形の「彼ら」でありますから、⑱明瞭に、それが人間一般ということに対し用いられていることがわかります(括弧は訳者挿入)。実際、本書における他の48の例において、この用例は常に、人間の全般を指すのに用いられていて、一度たりとも男性を指す事例はありません。意図して男性を表す場合には、「イシィ」という語が用いられております(6の2、9の14、15)。もしも「コヘレトの言葉」が人間の男性と女性とを対比しようとしていたのなら、彼は「アダム」ではなく、「イシィ」を用いたのです。⑲
「コヘレトの言葉」は、千人より優れている一人の人間を見つけることは、珍しくはあるが可能であるとしつつ、しかしながら女性に関しては、すなわち知恵の女性に関して言えば、そのような人をすべての人間の中で発見することは不可能であったと言っているのです。彼はこの点を繰り返し繰り返し強調して述べているのです。知恵は常に人間の手の届くよりももっと彼方に留まっているのです。20節ですでに指摘されておりますように、その理由は、人間性にあります。現在では人間は、ただ会計士の働きに減じられていて、善と悪の曖昧さと戦いながら、悪から善を仕分けることに汲々としている状況です。これが私たちに残されている唯一の事柄です。
「コヘレトの言葉」はこの確認をもって、本章を閉じております。すなわち、「見よ、これのみが見いだしたこと。すなわち、神は人間(アダム)を曲がったことが嫌いな存在に造られましたが、彼らは多くの経理を担当するはめに陥っている」(7の29、著者私訳)。「コヘレトの言葉」は再び「ヘシボン」の語を用いております。そしてこの語は、7章25節で用いられたのと同様です。それゆえ、それはここでも同じことを意味していると考えられます。「コヘレトの言葉」は私たちに思い出させております。元来、人はまっすぐな人間として造られたのであった事を。彼はすべてはなはだよい状態にあったのです。しかし堕落してしまった後は、善と悪とが入り混じり、人間は今や一つのことを他から仕分けするのに苦悩するに至ったのです。知恵と愚かさを区別しようと努力しているのですが、しかも、(付言して言えば)さほどには成功してはいないのです。
参考文献
① 全体で38回の内、24回出てきている。
② 新共同訳の「幸福」は、口語訳では「善」である。「何が人の善であるかを知ることができよう」(6の12、口語訳)。その原語は「トーブ」で、創世記3の5の「善悪を知る木」の「善」と同じである。訳者注。
③ ヘブル語の原語は完了形の「ハヤー」で、「最も賢いものは蛇であった(『ハヤー』)」(創世記3の1)と同様、過去時制を現している。従って、この動詞は、「になった」のように訳出すべきではない。「であった」とすべきである。そうでないと、人が罪を犯した時にのみ神のようになるといった、誤った神学を暗示することになる。このことは、蛇が言っていたことを確証づけることにもなってしまうからである。
④ エレン・G・ホワイト著、『教育』(1973年改訂再版)、福音社、16ページ。
⑤ Lichtheim, vol.1, 181及びvol. 2, 175-177を参照のこと。
⑥ この言葉は聖書中では通常複数形である。本節だけが唯一単数形であり、この用法には意図的なものを感じる。
⑦ ヘブル語前置詞の「イム」(普通は「共々」と訳出)には、2の16にあるように、「と同様」の意味もある。James L. Crenshaw, Ecclesiastes: A Commentary, The Old Testament Library(Philadelphia, Pa.:Westminster Press, 1987), 138を参照のこと。
⑧ 特に「逆境」には、文中の主語である「人」よりも善い資質を与えている。
⑨ 「滅び」と訳出されているヘブル語の「アバド」は、知恵文学では常に、悪しき者、神に逆らう者に適用されている(箴言10の28、11の7、10、28の28など)。
⑩ 申命記4の26と40、5の16、11の9、また箴言28の16などを参照のこと。
⑪ ヨブ記2の17、21の13、それに詩編72の2、3などを比較してみよ。
⑫ 「すべて」についての、同じ用例が、2の14(賢者と愚者という2つの対立した者たちに適用されている)と、3の19(人間と獣という2つの相異なる存在に適用されている)に見られる。
⑬ ヘブル語の「ケララ」は、通常「呪い」と訳されているが、「不信任」とか「軽蔑」の意味もある(レビ記19の14、士師記9の27、エレミヤ書24の9、49の3などを参照)。10の23では後者の意味で「ケララ」は用いられている。
⑭ その動詞は、自らを激励鼓舞の表現で、「行動に方向を示し、特に自己啓発を示す」コーホタテイブの形。
⑮ 特に雅歌の3の1~6と5の6、また箴言1の28、18の22を参照のこと。
⑯ 新英語欽定訳(NKJV)では、「物事の理」(“reason of things”)と訳出されてる。
⑰ 同様の比喩が黙示録にも見られる。すなわち、善い女性は黙示録12の1~6、13~17。そして汚れた女性が黙示録17の1~18。
⑱ 日本語訳では、この複数の代名詞が見える形で訳出されてない。29節の2行目の「人間」は単数形の「アダム」。しかし3行目の「人間」は、原文では、複数形の代名詞で「彼ら」である。訳者注。
⑲ 例えば創世記2の23、24と比較せよ。
この記事は、ジャック・B・デュカーン(英:Jacques B. Doukhan)著、我妻清三訳『コヘレトの言葉 ーすべてはむなしい』からの抜粋です。