悪事とそれに対する処罰【コヘレトの言葉解説 〜すべてはむなしい〜】#9

目次

賢い人

私たちは、人が知恵を捉えようとしてなす苦闘について学んでまいりました。そして今や、「人の知恵は顔に光りを添え」(8の1)るのです。それはあたかも、彼が遂にあの捉えがたい女性を捕らえ得たかの如くにです。そのフレーズは、祭司による祝福の言葉のような聞き覚えのある響きです。この祝福の言葉は、神殿の儀式の一部として、朝夕に捧げられた日毎の献げ物の折に唱えられました。祭司は特別な台座(「ドゥカーン」)の上に立って、次の祝福を宣言するのです。

 

「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。

 主が御顔を向けてあなたを照らし

  あなたに恵みを与えられるように。

 主が御顔をあなたに向けて

  あなたに平安を賜るように」(民数記6の24~26)。

ですから、「御顔を向けて照らす」というこの句は、イスラエルの民を祝福して語るようにと主から命ぜられた、神の祝福の言葉、及びそれに続いて起こる恵みと平安とに関連しております。この追憶でもって、「コヘレトの言葉」は、知恵が賢明な人の顔を輝かすに至るのだとしております。暗に、賢い人は他の人々に対し親切で平和であることが期待されております。

「コヘレトの言葉」は、「固い顔を和らげる」と付け加えます。「固い」と訳出されているヘブル語は「オズ」ですが、この言葉は、「傲慢さ」、または「生意気」という言外の意味を持っております。①このこと、すなわち、横柄で失礼になることは、賢人の常に受ける誘惑です。

「賢者のようであるのは誰か」(8の1、新国際訳〔NIV〕)と、「コヘレトの言葉」は、皮肉っぽく問いかけます。他者を尊敬し、好意と恵みとをもって見、尚も謙遜であり続ける人、そういう人こそ「賢者のような人」なのです。賢い人とは、自分の限界を知っている人であり、(逆説的ではありますが)自分の知恵の欠陥に気づいている人なのです。賢い人とは、賢さを求めている人であっても、それを捉えている人ではありません。この捉えどころのない知恵の体験は、今や、王の絶対権力と人生の不公平さとに直面している現実の生活の中で、例示されます。

神は王を保たれる

権力者たちを尊重することは、私たちの最大の関心事の内にあります。コヘレトは、彼の助言を宗教的基礎に基づかせております。王の命令に言及するにおいて、「コヘレトの言葉」はヘブル語の「ミシュパト」(「命令」)を用います。この語は、通常、神の命令を表すのに用いられております。「だれが彼に『あなたは何をするのか』と言うことができようか」(8の4、口語訳)という句のすべては、それが神に関して語っているヨブ記12章9節の厳密な複写です(ダニエル書4章35節とも比較せよ)。彼はまた、「神に対する誓い」(8の2)のためと規定しております。「神に対する誓い」(直訳では、「神の誓い」)は、通常は、二者間のある種の神聖な契約と関連します。②

ここの聖句は、より具体的に一つの特定の出来事をほのめかしているように思われます。それは、この「誓い」によって特徴づけられていて、ソロモン自身を巻き込んでいるものでした。

ソロモン王は、サウル家の家族の一人であったシムイとの間に「神の誓い」の下で、一つの契約をしておりました(列王記上2の43、44)。そこでの聖句と今私たちが扱っている聖句(8の2~5)は、かなりの数の共通の言葉と、関連づけとを共有しております。すなわち、「神を指しての誓い」、「命令を守る」、そして「悪い」(「ラー」)などです。シムイに関しての興味深いことは、彼は、ソロモンの父、ダビデに対する尊敬の念がいたく欠落していた人物であることがすでによく知られていたという点です。彼は、ダビデ王を呪い、石を投げつけたりもしたのです。しかし、そうした中でシムイはダビデの寛大な恩赦を得、その命が助けられたのです(サムエル記下16の5~13、同19の18~23と比較して見よ)。

「コヘレトの言葉」は、王を尊敬するようにと神が命じられた義務に訴えることで、自分自身の王としての権威を維持する道を追求しようとはしておりません。ダビデは、サウルが「神に油注がれた者」でありましたので、彼に危害を加えることを控えました(サムエル記上24の6。26の11とも比較してみよ)。権力者への私たちの態度についてのこの宗教的言及は、未だ新鮮な記憶にあるファシストや独裁的な政権を考えますと、奇妙に思えるかもしれません。それでも、この原則が人生の現実について私たちに教えている限りにおいて、それは有効であり続けます。「コヘレトの言葉」がすでに警告しましたように、現実には、あなたより更に身分の高い人がいつも存在するものなのです。(5の7)。

しかしながら、この実用的な助言を超えて、そして避け得ない現実に対処することを学ぶため、ここに盛られている宗教的関連は、貴重な教育を内包しております。それが家庭内でありましょうと、政府に対してでありましょうと、また警察官に対してでありましょうと、権威を敬うということの学びにおいて、私たちは、畏敬の念と、神の超越性への意識を発達させます。次いで、こうした学びは、今度は私たちをして別な世界を把握する用意をさせるのです。それは私たちをして、私たちを超越している世界、そして無限で神秘的な神の御臨在へと、より近く私たちを引き付けて行くようにさせるのです。私たちが互いに対する尊敬という感覚を失ったのは、その超越者への感覚を失ってしまっているからです。アブラハム・ヘッツェルが言いましたように、私たちは父権の感覚を失ったので、兄弟関係の感覚を失っているのです。③私たちの魂の中で、この超越者への感覚を発達させるように働くことによって、私たちは他の人々を、自分を超えて見ることを学び、またその人たちの違いを受け入れることを学ぶこととなります。このようにして、私たちはより堅固な家族関係を築くことになります。老人や弱い者へのより大きな敬意を払うことをもって、私たちはより文民の礼儀正しい社会を促進することに寄与することとなりましょう。そしてまた、直接的には関係のないように思えるような法律にさえもより大きな尊重の念を抱くようになるでしょう。私たちは、現在の混沌たる状態から社会を救済することにもなるのです。

しかし、ある人々は、そのような霊的理由づけによっては確信をもてないでしょう。それゆえ、「コヘレトの言葉」は、より可視的で、より差し迫った理由を追加いたします。処罰の恐怖と安全という報酬についてです。彼の次の言葉に耳を傾けてください。「不快なことに固執するな。王は望むままにふるまうのだから」(8の3)。そして「命令に従っていれば、不快な目に遭うことはない」(8の5)。シムイの話は完全にこの教訓を例示しております。彼が王を尊敬している限り、自分自身につき弁明することができ、自分自身を救うことができました(サムエル記下19の20)。しかし彼が王への服従の契約を破るや否や、彼は自分の「悪い報い」(列王記上2の44)を支払わねばならなかったのです。ソロモン王は彼を処刑したのです(列王記上2の46)。実際生活の中で起こった、懲罰のこの原則は、幾たびとなく聖書の中で繰り返されています。それはとりわけ知恵文学の伝統という文脈の中で出現しております(箴言19の16)。

しかし、人生はこの原則によって、そしてシムイの経験によって示唆されているほど単純明瞭ではありません。しばしば王が、その職権を濫用することが起こります。前記の例でさえ、ソロモンの側の権力の濫用を示しております。彼の父ダビデは、もっと悪質な多くの間違いに対し、シムイを赦し続けました。エルサレムを離れないようにという約束を守らなかっただけで、シムイが殺されたということは、理不尽な処罰です。ですから、「コヘレトの言葉」は、不正な取り扱いの筋書きを排除してはおりません。彼は権力の濫用と抑圧が王の下で、そしてしばしば自分自身によっても行われていることを経験によって知っております。しばしば罪のない者が牢獄に入れられ、無罪なのに拷問を受けるということが起きるのです。まさに懲罰の原則は、この人生ではこのような人々には働かず、抑圧者は罰せられないままになっております。

しかし、「コヘレトの言葉」においては、まだ公正とそのための時間があります。これを「ふさわしい時」(8の5)と呼んでおります。④「コヘレトの言葉」はこの中に出て来る「時」と「裁き」⑤の言葉を二つとも同じ出来事を指すものとしてすでに用いておりました。それを扱うに当っての不正状況と人の力の無力さという同じ関係において、彼は「神は裁かれる」と言い、また「すべての出来事、すべての行為には定められた時がある」(3の17)と言っております。神は神の時において裁きをなさるでしょう。賢い人はそれを知っております(8の7)。賢い人が、時や裁判のその過程を支配することはできないとはいえ(8の7)、彼はそのことが起こることを知っております。それが彼の知るすべてです。知恵同様、裁きそれ自体も神の御手の内にのみ存するのです。

一方、この地上にいる間、私たちは、いつかどんな強力な支配者であっても必ず死に至るであろうという考えで自分を満足させる必要があります。その時が来れば、彼は自分自身の内に「息(「ルーアッハ)を留め置く」(8の8、著者私訳)ことはできません。彼の持つあらゆる力を持ってしても、「死の日」(8の8)に対し何の力もありません。ちょうど「生まれる日(時)」のように、「死ぬ日(時)」も、それは彼の手の支配下にはありません(7の1、3の2)。私たちは自分の死ぬ日を選べません。自分の生まれる日を選べないのと同様にです。強力な人が自分が駆使できるあらゆる手段を(ろう)しても、自分自身の死を免除したり永久に代替で済ますわけには行きません。死は偉大な均等化装置です。死において私たちはみな同じです。賢い人も愚かな者も(2の16)、人間も動物も(3の19、20)、そして今や、王も哀れなしもべもです。

しかしながら、かすかなある種のにおわせがここに導入されてきております。ここまでは、「コヘレトの言葉」は、この議論を私たちの人生の空しさを示すために用いてまいりました。しかし、今や、彼は抑圧者の死について語ります。ヒットラーの親衛隊ですら、そして血に飢えたような残虐極まりない拷問をするような者であっても、そしてまた、自ら神を演じ、他者の死を決定する暴力的テロリストたちでさえも、みなやがて死ぬのです。この死という現実は、優位性を主張する彼らに挑戦状をつきつけます。犠牲者という視点からすれば、それはひっくり返されている均衡を、もう一度元に戻すような、ある種の裁きとなることを意味します。犠牲者たちは名誉を回復されたとさえ感じます。

「コヘレトの言葉」は、裁きが今すでにここで起こっていることを示唆しているかのようでさえあります。彼は犯罪が加害者自身に影響を及ぼすことを観察しております。彼は、「今は、人間が人間を支配して苦しみをもたらすような時だ」(8の9)と言っております。人間性では、虐待は虐待されている者を傷つけるだけではないという、そのような特性を持っております。その虐待する者こそが、社会的にも心理的にも影響をこうむります。圧迫者は、どんな友をも持ち得ません。彼は常に疑いの中で生きます。彼は決して自分とも他人とも平和であることはありません。預言者イザヤが言いますように、「神に逆らう者に平和はない」(48の22)のです。神秘的なことですが、他人に与えた害は究極的には私たちに帰って来ます。私たちの魂の深さにおいて、そしてまた、私たちの精神的バランスの仕組みにおいて、私たちに達します。精神身体医学の最近の研究成果は、実にその深い関係を明らかにして来ております。

それから、聖書中のとりわけ申命記とヨブ記においてですが、聖書の多くの場所に表されている伝統的懲罰の見方を、「コヘレトの言葉」の観察は、立証いたしております。悪い人は呪われて、現世の間にあってすでに罰を受けます。一方義なる人は、幸せで、長命であり、豊かな生涯です(箴言2の21、10の27)。しかしながら、私たちは知っております。そして、「コヘレトの言葉」も知っております。この理論は必ずしもそのようには作用しないのです。実のところ、その逆のことがしばしば起こるのです。

悪事を行う者に善、善を行う人に悪い人の報いが見られる時がある

王の法廷から、「コヘレトの言葉」は人生の大通りへと移動いたします。彼はそこに、王との関わりの中でもすでに観察してきたもの、すなわち、不正を見ます。悪が繁茂しております。「人の子らの心はもっぱら悪を行うことに傾いている」(8の11 口語訳)状況が見られます。ただ一度だけではありません。彼は悪をなし続け、それを繰り返し、しかも何者も彼の邪魔立てをしないのです。審判が彼を打つことはありません。それどころか、彼は長生きしております。「罪を……はたらいている者が なお、長生きしている」(8の12)。そして、それから彼が死んだ時、「聖なる場所」(8の10)で、多くの栄誉を受けます。宗教的な場所においてさえ、彼は認められております。彼は祝福されているように見えます。

「コヘレトの言葉」は理解しません。「この地上に……起こる」(8の14)ことどもが、正義に関する彼の全理論体系を揺さぶっております。「善人でありながら 悪人の業の報いを受ける者があり 悪人でありながら 善人の業の報いを受ける者があ(る)」(8の14)。「コヘレトの言葉」は問題に直面するための勇気と明晰さとを持っております。彼は公正なものが苦しみ、悪い者が成功するのを見ます。彼はまた、その状況は、神の御存在を考えると、正常ではないと知っております。彼は二つの選択肢と対峙いたします。彼はヨブの友人たちの立場に立つことができます。すなわち、彼が苦難に遭遇しているという事実は、すなわち彼は義人ではないからだとするのです。あるいは「コヘレトの言葉」は、懐疑的立場に立つことができます。すなわち裁きがないという事実は、神がいないということになるのではないかと。しかし、「コヘレトの言葉」はどちらの立場をも取りません。

「コヘレトの言葉」は、ヨブの友人たちやあらゆる時代の信心深い人々、そして神の専門的擁護者たちに反対し、犠牲者たちの側に立ちます。苦しみを受けていることは、必ずしも神の罰を意味するものではなく、また幸せであることは、必ずしも神の祝福を受けていることを意味してはいないということです。

人が病気になるということは、必ずしも彼が正しく食べていなかったことを意味しません。私たちは、忠実にすべての食事の原則を守り、規則的に運動し、健全といわれている生活を送っていて、しかも病気になり、死んで行く多くの人々を知っております。ある女性がエイズにかかっているということは、その人が、姦通を犯したことを意味しません。彼女はウイルスを持って生まれてきたかもしれませんし、あるいは輸血を通して罹患した可能性もあります。一人の少女が強姦されたという不幸な出来事は、この少女が不正に行動したことを意味してはおりません。貧しさは、必ずしも怠惰と誤った資産管理の産物ではありません。予測不能の事故、嵐による災害、あるいは単にその土地における重要資源の不足が苦難を引き起こしているのかもしれません。または、時々、倫理または宗教上の原則に忠実であり続けたいとして真実を語る決断をすることでさえ、貧しさの決定的役割を果たすかもしれません。私たちはこのようなリストを延々と延長することができます。膨らんだ腹を持った飢えているアフリカの子供たち、アウシュヴィッツでガス中毒死させられたユダヤ人たち、そしてルワンダでの虐殺などは、この観察の最も典型的で劇的な事例です。これらの悲劇に意味づけを与えて正当化し、その不正の側面に目をつぶろうとするなら、それは恐ろしいことです。

幸福ということと成功もやはり、必ずしも神の承認と恩恵とを意味してはおりません。誰かが健康体で長生きしているという事実が、彼が義なる人である証しとはなりません。若い女の子たちを食い物にし、南仏の景勝地リビエラでの生活を楽しんでいる売春斡旋業者、おべっかを使い、より高い地位を得るために虚言を弄し、論功行賞的に出世している二流の人物、ナチスドイツの元親衛隊員でアフリカに逃亡し、そこで豊かで優雅な生活をし、幸せな家族を持ち、そして歳満ちて老齢で死ぬ。成功と幸せのこれらすべて例は、「コヘレトの言葉」の観察を立証いたします。これらの事例に、神の祝福を見いだそうとするのは冒瀆的でしょう。そうするなら、神がそれらの不正に加担していることになるからです。

同じ不正を、共有して認識する懐疑家にも反対して、「コヘレトの言葉」は神が御臨在していますことと、多くのこれらの(ゆが)んだ現実にもかかわらず神と共に歩むことが、より良いと強調しております。「にもかかわらず、わたしには分かっている。神を畏れる人は畏れるからこそ幸福になり、悪人は神を畏れないから長生きできず」(8の12、13)と言います。神と共に生きることの有利さを描写するのに、「コヘレトの言葉」は、創造物語において鍵となっている重要語であるヘブル語の「トーブ(新共同訳では、「幸福」と訳出されている)」を用いているのは興味深いことです。神を畏れている人たちは、創造の時のエデンの園にあった原点の状態と接点を持っているのです。その人は、悪と死の事故によって歪められている視点ではなく、創造時の原点の視点で生きております。彼は現況の彼方を見透すことができます。すなわち、彼は元々何があったのか、そしてどうあるべきであったのかの記憶を有しております。彼は未来からの訪問を受けます。彼の人生は未来への方向性を持っております。同時に、神を畏れるということに関係して用いられている「畏れる」という動詞が未来形であるのも興味深いことです。彼は生き、行動し、かつ眺望を有しております。

それとは反対に、「コヘレトの言葉」が「悪人」と呼び神を畏れていない人は、そのような展望を全く持ってはおりません。彼はただ、現在に生きているだけです。このような人と関連したもろもろの動詞の時制は現在形の範ちゅうにあります。彼の心は、「いっぱいです」(8の11、著者私訳)。彼は「悪事をはたらく」者、「罪を犯す」者(8の12)、「神を畏れない」者(8の13)として描き出されております。彼はどのような未来への方向性もなく、彼自身の発想もなく、まさに死んだ者のようにそこにあるだけなのです。

「悪人」に適用されている「長生きしている」という動詞(8の12)が現在形であることは重要です。それは現在の存在にだけ当てはまります。しかし同じ動詞が未来時制の中で用いられる時には、それは否定を伴います。すなわち、「悪人は長生きできず」(8の13)というように。この時制の変化は、その表現の曖昧さがほのめかしていますように、悪人が地上で長命を楽しみ、それからまた、重大な不正を延長して生きるかもしれないことを暗示しております。しかし、この悪の楽しみは、現在だけに制限されております。未来のない人生です。その短命という特性は、影(8の13)と比較されております。悪人は未来で命を楽しむことはないでしょう。「コヘレトの言葉」は、この世とは異なる、未来のある別の秩序をほのめかしているのです。

快楽の両義性

「コヘレトの言葉」にとって、幸福は多義的です。それは、辛くもあり楽しくもある経験です。一面では、彼は喜びを賞賛します、すなわち、「それゆえ、わたしは快楽をたたえる」(8の15)と。ここで用いられている「たたえる」を表すヘブル語は、神を讃美するための専門用語です(詩編145の4、147の12)。私たちが、神を讃美する時に幸福は享受されるのです。人間は、創造主が私たちのために備えておられるその贈り物を受け取るようにと強く勧められております。すなわち、「太陽の下、人間にとって 飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない」(8の15)と。再び創造時の鍵語の一つである「トーブ」(「幸福」とか「良い事」と訳出)が用いられております。但し、「コヘレトの言葉」がいう幸福を与える楽しみとは、「食らえ、飲め、明日は死ぬのだから」(イザヤ書22の13)式のメンタリティではありません。それは、従順の喜び、休息の喜び、愛することの喜び、理解することの喜び、神の御言葉を聞く喜び、人生において神の奇跡的御業を見るような喜びなのです。私たちの祈りに対する神の応答に驚くような喜びなのです。

もう一つ別な面では、この喜びは、「太陽の下」(8の15)での私たちの人生の日々には、「労苦」という苦しみが伴っているのです。「労苦」に対するヘブル語は「アマル」で、これは17節でも用いられており、「人間」の「労苦」、あるいは「悟り」を求めてやまない「賢い人」のそれを描写するために用いられている言葉です。16節では、この「悟り」は、「この地上に起こることを見極めようと心を尽くして」求める、知恵に対応しております。この悟りを得ようとする労力は、人間によってなされる業を参照させるのです。すなわち知恵を捉えようとするあらゆる空しい努力、そしてこの世界で起こっているあらゆる事柄に言及するのです(1の13を参照)。

16節における、私たちの「知恵を知る」能力のなさが、聖書の中ではユニークな表示である「昼も夜も眠らずに〔眠りを見ることなしに〕努め」たの中の、眠りという比喩的表現を通して示されております。私たちの目が閉じられている眠りの時に、一体どのようにして「眠りを見る」ことができるのでしょうか。ちょうど自分の寝姿を見ることができませんように、そして睡眠がどんな状態であるのかを知る由もありませんように、私たちが賢明であることを見ることができません。私たちは洞察力に欠けており、目が閉じられている状況です。それゆえ、私たちには、知恵がどのように働くかは判然とはしないのです。

知恵は把握することが不可能です。17節で、知恵のこの捉えどころのなさが、3回繰り返されております。「すべてのことを悟ることは、人間にはできない」、「人間がどんなに……追求しても……悟ることはできない」、「賢者がそれを知ったと言おうとも、……悟ってはいない」と。本章は、「悟る」ことの失敗と、私たちのその無能さについての挫折感でもって終わっております。

私たちの質問は空しさの中に、宙ぶらりんになったまま取り残されております。私たちは決して理解しません。それでも、神の贈り物である喜びは、私たちの問を求めて止まぬその苦悩に伴うべきなのです。神の御答えは、私たちの答えられていないもろもろの質問の中にあって、私たちが生き抜くことを得させる手助けとなることでしょう。

参考文献

①        申命記28の50を見よ。そこでは、この語は残忍で尊大な国民に当てはめられており、彼らは弱者に対し、何の顧慮も示さない。ダニエル書6の23とも比較せよ。そこではこの語は小さな角の尊大さを描写している。更に箴言7の13とも比較せよ。

②        出エジプト記22の10、11、サムエル記下21の7、列王記上2の43を参照のこと。

③        Abraham Hesehel, Man’s Quest for God: Studies in Prayer and Symbolism (NY: Scribner, 1954), 150を参照。

④        この句は「裁きの時」(ヘンディアデース)を意味する。これはヘブル語写本でも、七十人訳聖書のギリシア語でも証明されている。

⑤        ヘブル語原文には時と裁きとある。口語訳では裁きが「方法」と訳出、新共同約では出ていない。訳者注。

この記事は、ジャック・B・デュカーン(英:Jacques B. Doukhan)著、我妻清三訳『コヘレトの言葉 ーすべてはむなしい』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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