再度の問いかけに応える【コヘレトの言葉解説 〜すべてはむなしい〜】#10

目次

「コヘレトの言葉」の問いかけ

「コヘレトの言葉」が私たちに残している場所は、まったくもって快適ではありません。人生と運命に関する私たちの質問は答えられないままになっております。私たちは確たる形では、どこへ行こうとしているかを知りません。それでも私たちは死ぬのだということは知っております。私たちはどのように生きるべきか、何をすべきかを知りません。しかしそれでも私たちは生きていることを知っております。私たちは無意味さにどのように意味づけするかを知りません。それで、私たち皆は躓いてしまいます。「私たちは知らない」とするこれらの問い掛けが、「コヘレトの言葉」が、本章の中で、私たちに提出している三つの基本的挑戦です。

神の御手の内にあるということ

第9章は、「すべて」の問題を取り巻いているであろう、基本的原理、すなわち基本的真理をもって始めております。「わたしはすべての事に心を用い」(9の1、口語訳)と言っております。「すべて」(「コル」)という語は、創造物語(創世記第1章)の中での鍵となる語の一つでしたが、本章にはこの語が14回も出てきており、本章においてもまた、鍵となる語です。最初の節で、私たちはこれを3回聞きます。①「コヘレトの言葉」の視点は間違いなく全世界です。「すべて」は、テーブルの上での問題だけではなく、人間の問題のすべての部門が考慮されるということです。公正なものと邪悪なもの、清い人と不浄な人、宗教的な人と世俗的な人、義なる人と罪人、誓いを立てる人とそれを拒む人等々(9の2)。私たちのすべては同じ運命を持っております。すなわち私たちは、私たちの目の前に何が訪れるかを知らないのです。事前に私たちは、私たちの恋人について、あるいは私たちの憎悪について、また私たちの苦しみや喜びについて、それらを知ることはありません。しかし、私たちすべてはひとつのことを知っております。そうです、死ぬのです。

再度、「コヘレトの言葉」は、死は現実であると共に悪であることを明らかにいたします。死は避けられない現実であり、それはいかなる希望をも許さないのです。それは全存在的です。私たちが死ぬ時、私たちには何ひとつ生きて残るものはないのです。「コヘレトの言葉」は、霊魂不滅を信じてはいないのです。しかし彼は、この考えに誘惑されるであろう人々によって用いられている一流の議論を攻撃いたします。私たちの肉体を生かすとする、そのような霊魂的実体は存在しないのだという点です。実に私たちすべての者たちにとって、死においては、私たちの肉体が分解してしまうことは明白です。この事は、私たちすべての者が、人生の初めからその終わりに至るまでの間で、様々な程度において経験する、具体的で可視的で明白な現実です。私たちの病気、私たちの傷、私たちの老化などは、それに直面する度毎に、私たちに、私たちの肉体の有限性を思い起こさせております。他方では、私たちの存在の目に見えない側面、すなわち思考とか記憶とか愛とかに思いをはせる時、これらの「事象」は私たちには見えませんので、ある人々は、私たちの身体がなくなった後でもこれら霊的次元のようなものが残っているのだと推論し、そのように結論づけてまいりました。

「コヘレトの言葉」にとっては、「死者はもう何ひとつ知らない」(9の5)のです。「コヘレトの言葉」は、情報を知る認識能力について語っているのではありません。つまり、私たちは知ることができないかもしれないが、尚も存在しているというようなことを言っているのではありません。「死者はもう何ひとつ知らない」ということが、「自分はやがて死ぬ」(9の5)ということを認識しつつ生きている者に対比して置かれております。ですから死人は意識さえありません。実体が何もなく、実在しないのです。

彼らの魂は生きている者と交流することはできないのです。「太陽の下に起こることのどれひとつにも もう何のかかわりもない」(9の6)のです。彼らの魂は、天にあって私たちは地上にいるからというのでも、また生きている私たちに接点を持つ手段が彼らにはないからというのでもありません。彼らが、私たちに関わり得ないのは、もっと単純に、それらが存在しないからなのです。彼らは愛しません。憎みもしません。何らの情熱もありません(9の6)。すべてこれらの霊的能力は「消えうせ」たのです(9の6)。彼らは完全に失せ去っているのです。

ヘブル語の「アバド」(「消え失せる」)は、いかなる曖昧さをも残しておりません。この動詞は、国家の政治的、軍事的破滅(出エジプト記10の7、申命記8の20、エレミヤ記49の38)に適用されており、また一夜の内に枯れてしまったヨナの「とうごま」にも当てはめられております。「アバド」はまた、陰府である「シオール」(箴言15の11、27の20)や、墓(詩編88の12)と平行して見いだされます。この言葉は希望の終焉に資格を与えるために用いられております(エゼキエル書19の5、詩編9の18、ヨブ記11の20)。「アバド」(「消え失せる」)という動詞は、完全な破滅、全く希望のない状態を意味しております。

それが現実となるので、死は悪いのです。死はよりすぐれた状態への移行ではありません。変装するようにして、一時は不便な瞬間はあっても、最終的には、より良い生活をもたらすものというのが、死なのではありません。身体から離れても生き延びる魂はないので、死には何も肯定的なものを内包してはおりません。それは、完璧に否定的であり、全き悲しみです。「コヘレトの言葉」はこのことについて微塵も疑いを残しておりません。「彼らはもう報いを受けることもなく」(9の5)なるのです。死後にはパラダイスはありませんし、地獄もありません。それが悪であり不合理であるのは、若いのに死んだとか、暴力的犯罪に偶然巻き込まれて死んだということのみを指すのではありません。長生きし充実した人生であった老人についてさえ、「コヘレトの言葉」は、死は受け入れられない不合理なのだと見ております。

聖書は、死はその最初から元来の設計の一部ではなかったことを示しております。死は神の影響の外に人間が移った結果としてやってきました(創世記2の16、17)。聖書の文脈の中では、死は悪や罪との関連で見られます。使徒パウロが言うように、「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」という考え方です(ローマ書5の12)。同様にして、「コヘレトの言葉」は、死を「最も悪い」と呼んでいるのですが(9の3a)、それは、「人の心は悪に満ち、思いは狂って」いるから、「その後は死ぬだけだ」(9の3b)というように死と人間の心の悪とを、関連づけております。

「コヘレトの言葉」はすでに、この運命は義なる人と同様に、邪悪な人に関わることをも明示してまいりました。死は私たちの「だれにでも」同様の影響を及ぼすのです。この事実が、何故、「犬でも、生きていれば、死んだ獅子よりましだ」(9の4)ということになるのかの理由です。この比喩的表現を通し、「コヘレトの言葉」は単に、死に対する生の有利さを強調しているのではなく、それがいかほどに罪深く邪悪であったにせよ、②生きていれば生きている犬のようであり、それがいかに義であり賢くあろうとも、③死んでしまえば死んでしまったライオンのようであり、生きていることの方が遥かにましだということを言いたいのです。死はすべてにとって絶望的です。

それでも、この絶望の状況の中で、「コヘレトの言葉」は、「安心だ」(9の4)と断言いたします。本書の他のどこにもこんなにはっきりと鳴り響く、このような音色はありません。この希望は、悪人と対比されている義なる人に関係しております。悪人は「生きている間、人の心は悪に満ち、思いは狂っていて、その後は死ぬだけだということ」(9の3)です。しかし、義人については、「命あるもののうちに数えられてさえいれば」と「コヘレトの言葉」はその見解を述べているのです、「まだ安心だ」(9の4)と。その言語は、申命記30章19節を思い出させます。それは特に、ヘブル語の「バハル」(「選ぶ」)④と「ハイーム」(「命」)⑤とが関係していて、「コヘレトの言葉」の本節と用語を共有している唯一の聖句です。ヘブル語原文からの直訳では、「選ぶ人である」⑥ということになるでしょう。そうすると、その意味は、「主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守る」(申命記30の16)事を「選ぶ」ような義なる人ということになるでしょう。「コヘレトの言葉」の本節は、これを暗示しているのです。私たちはまた、義人は単数形であり、常に少数派であることに留意したいのです。それに対し邪悪な者たちは複数形であり、常に多数派であります(7の5と比較せよ)。

「コヘレトの言葉」においては、安心は唯一、命を選んでいる者たちのためであり、それは義を選ぶことによって、命ある者たちの間に在ることを選択した者たちのためなのです。実際ヘブル語の「ビタホーン」(「希望」)は、希望以上のことを意味しております。それは、ただ単に信心深い人が願う「楽しみにするもの」⑦ではありません。この言葉は、きっと何かが起こるであろうとする絶対の確信、その確かさを表しております。それは、断固たるもの、あるいは堅固さをも内包し、保証と安全の概念を表しております。詩編にはこの言葉が、聖書中最も多く用いられており(181の内の50回)、特に希望の理由が全然見いだせないような絶望的状況下で神への信頼を表明するという形で(詩編22の5、16の9)、一貫して適用されております。

聖書の話の中で、この言葉が特に強調して用いられているところがあります。アッシリア王の将官ラブ・シャケが、ヒゼキヤ王の神への信頼を嘲り、その信頼に挑戦しているところです(列王記下18、19章、イザヤ書36、37章及び歴代誌下32章と比較せよ)。⑧アッシリア王がエルサレムに向けて「大軍」を遣わしたことを私たちは知っております(列王記下18の17)。そこには希望が全くありませんでした。ただ神の超自然的、そして奇跡的介入のみが、イスラエルの王をその確実で不可避の災害から救ったのです(列王記下19の1~7、35~37)。

これが「コヘレトの言葉」の言及している希望なのです。信じがたい希望、何にも頼るものが全くない状況での希望。ここには、あなたのためには何も残されてはおらず、あなたの魂のほんの欠片すらも存在しない全くの絶望の死に直面して、この種の希望は神を信頼するのです。

勿論、創造の神のみがこのような挑戦に応じることができるでしょう。なぜなら、神のみが無から有を生じさせることができる唯一の御方だからです。創造の奇跡的御業のみがこの難題に対処することができるのです。「コヘレトの言葉」が次のように言う時、それは創造の御業を思い描いているのです。「善人、賢人、そして彼らの働きは 神の手の中にある」(9の1)。この「神の手の中」という表現は、創造を語る時の、聖書中では典型的な用語です。

「彼らはみな知っている。

主の御手がすべてを造られたことを。

すべての命あるものは、肉なる人の霊も

御手の内にあることを」

(ヨブ記12の9、10。34の14、15、詩編104の28~30と比較されよ)

「コヘレトの言葉」が現今の生活において生きるのは、私たちの死の外側にある命に対するこの希望、御手の内にあるこの希望と共にあるのです。

さあ行って、生きて、行動せよ!

希望は夢見て生きるような人を作りません。絶望的な死という真っ暗闇の状況から、一つの窓のように希望という性質を置いてからすぐ後、「コヘレトの言葉」は、現時点での人生に戻り、そして行動するように呼びかけているのは極めて重要です。「コヘレトの言葉」は、祈り、瞑想を私たちに勧めてはおりません。彼は、ハレルヤとか、祝福を突然言い出したりしているわけでもありません。しかし彼の声の調子が変化します。嘆き悲しみや内省的会話から、命令的で切迫したモードへと移り変わります(9の7~10)。

最初の命令は「行け」(9の7、口語訳)です。この命令には、他のすべての命令が含まれ、それらの導入となります。それは、私たちがちょうど今いる場所から動き出すようにとの訴えです。アブラハムが自分の国と父の家とを離れるようにとの召しを神から受けた時、神からこの動詞の言葉を聞いたのです(創世記12の1)。それは、私たちが神の御手の内にあることを認めながら、新しい地平線に向かって出て行くようにとの訴えです。それでも、逆説的には、それは捧げるようにしなさい、与えるようにしなさいとする訴えではありません。皮肉にもすでに、「あなたの業を神は受け入れていてくださ(った)」(9の7)のです。ですから逆に、神の賜物を受け、それを楽しみなさいという招待です。それは最も基本的で、最も具体的なものです。それは神が創造のみぎり、最初に与えられた贈り物です。「さあ、喜んであなたのパンを食べ 気持ちよくあなたの酒を飲むがよい」(9の7)。私たちは、余りに熱心に義を求め、清くなることを求め、そして私たちの信心深い動機でもって、自分を神にお捧げしたいと願っておりましたので、私たちの食べ物はその風味を失い、その食卓は、激しい論争と人に指を指して糾弾することで毒されてしまっていたのです。

もう少しこの点をはっきりさせてみましょう。「コヘレトの言葉」は、決して私たちがどんなものでも食べたり飲んだりするように奨励しているのではありません。私たちは「神の御手から」のものを食べるのです。そして、「コヘレトの言葉」が、楽しむように勧奨しているのは、神の賜物の範ちゅうにおいてということなのです。ですから、彼が「気持ちよく」あなたに酒を飲めと勧めますとき、それは酔っ払って喜び楽しめと言っているわけではありません。彼はすでにこのことに触れ、この種の偽りの楽しみを糾弾しております(2の3)。ここ7節でのパンと酒とに関しては、字義通りに理解すべきではありません。聖書の中では、これは慣用的表現で(イスラエルの民たちへのモーセの祝福が示しておりますように)、土地がもたらす基本的な二つの産物をあらわしているのです。「イスラエルは安らかに住み……穀物と新しい酒に富み 天が露を滴らす土地に」(申命記33の28、創世記14の18と比較せよ)。申命記における「テロッシュ」(「新しい酒」)は、明らかに搾り立ての新鮮なぶどうジュースを指してモーセが語ったのであると考えられます。⑨聖書の至るところで見られますように(詩編4の8も見よ)⑩、「コヘレトの言葉」がパンとぶどう酒を同じように結び付けているという事実からしますと、著者は、ここでもそのような意味でのぶどうジュースに当てはめていることを示唆しております。

「コヘレトの言葉」は更に前進いたします。彼は私たちに自分の外観に留意するように勧めております。「どのようなときも純白の衣を着て 頭には香油を絶やすな」(9の8)と。聖書の文脈では、「白衣」と「香油」への言及は、単に常に喜びと祝福の表現として、おろし立ての衣服を着、香りを放つようにせよとの意味です。⑪別の言葉で言えば、あなたをしてお祝い気分にしなさいということであり、決して悲しげな、葬儀や断食の時のムードにならないように心がけなさいということなのです。このことは、主イエスが弟子たちに語られた次の言葉のような響きを与えております。すなわち、断食をする時「偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない……。頭に油をつけ、顔を洗いなさい」(マタイ6の16、17)。宗教家はしばしば、悲しみと喪失とに関係いたします。ある人々は考えます。悲しめば悲しむほど、そして人生において楽しみを少なくすればするほど、より近く神の御側にあることになるのだと。しかし聖書の宗教はこのような考え方とはまるで反対の立場に立っております。神は万物の創造者でありますので、私たちは、神が私たちにお与えになられたものはすべてそれを有難く受け、それを楽しむべきであることを宗教は暗示しております。厳しく厳格な衣服とか、物質的楽しみを高度に拒絶するといった伝統的な清教徒的考え方は、聖書の理想ではありません。

「コヘレトの言葉」は人生の価値と喜びとを強調いたします。彼は、「楽しく生きる」ようにと勧めております(9の9)。興味深いことには、この句は夫婦生活に当てはまるのです。「太陽の下、与えられた空しい人生の日々 愛する妻と共に楽しく生きるがよい」(9の9)。原文では9節の冒頭には、直訳すれば「人生を見よ」との言葉があり、それが示しておりますように、これは私たちの目を見開くだけではなく、ここに現存する価値と美とを認識するために、目をしっかりと見開いてこれを見るようにとの勧誘の始りなのです。人生がここにあるのに、私たちはそれを見ておりません。私たちの目は他のどこかに向いているのかもしれません。これは、他の方に目を向けるのではなく、与えられている賜物にもっと注意深くあるようにということを意味しております。それは、夫婦が幸せであるための根本的条件である、感謝と忠実さとの関連を暗示しております。それは二重の責務です。私は、彼女との特別な関係の故、私は彼女を愛することができるという感謝と、私は神との特別な関係の故、彼女は私への神からの贈り物であり、それゆえ私は感謝しているという二点です。そこには、私からの動きと私に向かっての動きの両方の動きがあります。

「コヘレトの言葉」はこの考えを更に「報酬」という概念で広げます。「それが、太陽の下で労苦するあなたへの 人生と労苦の報いなのだ」(9の9)。ヘブル語の「報い」に対する語は「ヘレク」で、これは、自分が生きて行くため割り当てられている空間を示す技術用語です。聖書の中でこの用語は、約束の土地配分で与えられた区域を指す用語(ヨシュア記19の9)で、しばしば相続した財産に関係して用いられております。それは贈り物であり、約束に満ちていて、同時にそれを保持し、それを用立てする責任をも示しております。

神の御手の内にある人生は、受身の生き方ではありません。「コヘレトの言葉」は、私たちに「するがよい」と呼びかけております(9の10)。私たちの悲しみを覆うために忙しく働きなさいというのではありません。私たちにやましい思いをさせないためのものでもありません。あるいはまた、私たちのボスや社会を喜ばせるための雇われ仕事でもありません。そうではなく、私たちの率先の心と私たちの情熱とが要求されております。そして、それにもかかわらず、その仕事は人間の能力の範囲内に留まります。私たちは仕事を見つけ出す責任があります。私たちは自分自身の裁量の中で、あらゆる力を駆使してそれをなすべきであり、しかも、それをなすに自分自身を過大に評価すべきではありません。

「すべてあなたの手のなしうる事は、力をつくしてなせ」(9の10、口語訳)。この句の言葉は、創造物語を思い出させます。導入語の「すべて」(「コル」)という語と、繰り返して出てくる「なす」(「アサー」)という動詞は、共に創造物語の結論部での、安息日の文脈の中で、見いだされます(創世記2の1~3)。もしここで、私たちが「手」という語を付け加えるなら、その時私たちは自分たちの手によるこの働きも、創造の一つの業であることを理解するようになります。人間の働きは、御神の創造の御業に対する一つの応答です。そして同時に人間の業は、御神の創造の御業への人間の側の直接的な応答である安息日遵守と、また同じ言葉をもって「コヘレトの言葉」の中の本章10節に反響している安息日についての真理とを、暗黙裡に伝達していることとなるのです。

「安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日の間働いて、あなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、何のわざをもしてはならない……主は六日のうちに、天と地と海とその中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた」(出エジプト記20の8~11、口語訳。傍線は著者による)。

仕事において人間が神を模倣するということは、安息日において人間が神を模倣することを暗示しております。働きにおけるいかなる宗教的考えもそれは安息日についての映像を暗示しているべきです。逆もまた真理です。すなわち、安息日の真理は働きについてのある種の考え方を内包しております。このようなわけで、「コヘレトの言葉」の中の仕事に関するテキストは、安息日の主題を暗示しているのです。

「コヘレトの言葉」の本節における、この文脈の中での、このようなつながりから学ぶ教訓は多数あります。まず第一に、仕事とは、神の似像の人間的表現です。私たちは神が創造されたように真似て創造するのです。このような視点からすれば、仕事は、神聖の領域に所属していることになります。興味深いことに、働きに対するヘブル語の「アバド」は、「礼拝」をも意味するのです。ですから、仕事は礼拝における神聖さと同じ思いでなされねばなりません。あなたは、あなたのできる最善を尽くして努力し、慎重に、注意深く、完全に、働くべきなのです。

それと同時に、仕事は、人間のつりあいの範囲内に留めるべきです。それは、ただ「あなたの力」に比例してあるべきです。仕事はあなたを決して押しつぶすべきではありません。それはあなたの「手の内に」あるべきです。あなたはそれを支配すべきです。この関係において、安息日は、仕事を適切な視点に据える手助けとなります。この日は、私たちが仕事から解放される日です。この日、私たちすべては平等である一日であり、そして誰も私たちのために働く人はいないのです。この日はまた、私たちが創造主なる神を思い見る日でもあります。私たちの墓を超えて神に依り頼み、その御手の内に私たち自身をお預けすることを学ぶ休息の日でもあります。「コヘレトの言葉」は、この働きの文脈の中で、墓にさえ言及いたします、「いつかは行かなければならないあの陰府には 仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ」(9の10)と。

無意味さに直面しつつ

私たちが「コヘレトの言葉」の視点に従い行くことができ、また彼が見ているものを見ながらも、耐え難い無意味さにこのようにして直面して行くことができるのは、ただ神の御手の内にあるからです。「コヘレトの言葉」は、詩的な方法で、彼の最初の観察を披瀝いたします。各々に五つの詩句を持った二つの節の中で、彼は人生における不公平(9の11)と死の不公平(9の12)との間に平行関係を持たせています。

最初の節(11節)で私たちは、人生の不公平に直面させられます。良い事が悪い人々に、悪い事が良い人々に臨むのです。速くない者が競争で勝つことがあると言い、速い者が必ずしも勝たないことをほのめかしています。戦いは必ずしも強いものに利があるのではないと言い、強いものが敗北することをほのめかしております。パンは、賢い者の手にあるのではないと言い、それが愚かな者に与えられることを、聡い者が富を得るのでもないと言い、馬鹿げた人がそれを得ることを、そして、知識ある者が恵みを受けるのでもないと言い、無知なものがそれを受けることがあることを観察しております。

どちらの側にも、このような予期しない出来事を見て、私たちは驚きます。しかし、たとえ賢明な人々の側で、その運命が不公平であるとしても、愚かな人々の側では、それはハッピーエンドとなります。「コヘレトの言葉」は、賢いものの失敗に言及しているわけではありません。彼は単に、愚かな者たちのふさわしくない成功を観察しているのです。

第二番目の節(12節)で、著者は、この思いがけない成功と思いがけない死との間に平行関係を見ます。その死とは、ちょうど魚が残酷な網にかかったり、鳥がわなにかかるようにして、自分の息子たちに降りかかってくる不意の死のような出来事です(9の12)。この第二の観察は、第一のシナリオの言う不公平を理解し、受け入れる鍵を提供してくれます。このような死の不合理性という特質が、成功の不合理性という特質を説明しております。「コヘレトの言葉」は、成功の理由は功績の結果ではないし、それが神によるのでもないと説明いたします。その成功は、単なる事故なのだと。「時と機会はだれにも臨む」(9の11)のです。このステートメントは、ここの詩句の中心を占めております。そして、「コヘレトの言葉」は、この思いがけない死を悪と認定しますので、その認定は、思いがけない成功にも適用されます。この種の成功は、ちょうど死がそうでありますように、悪いのです。

皮肉にも、この成功と死の平行関係は、愚か者を心地よくない場所に位置付けます。同様にして、愚かな者の不当な成功は、鳥を捕まえる罠と関連させられております。成功は彼にとっては罠になるとの観察です。

またここでの平行関係は、足の速い者、強い者、知恵ある者、聡明な者、知識ある者、すなわちこれらすべての勝利に値するものたちを慰めます。「コヘレトの言葉」は彼らの運命の不当性を認識いたします。この観察をする間、彼は、同時に、それにもかかわらず、彼らが正しい側に残っていることを認め続けております。彼は、彼らの知識や、知恵を認めます。成功、パン、及び富は、その人の本当の価値について何の証明もいたしません。「コヘレトの言葉」の筋書きによれば、それは、実のところ正反対なのです。このことを認めることによって、「コヘレトの言葉」は、本来それらはその人の価値そのものではありませんので、成功、パン、及び富を、人の価値から切り離します。唯一の本当の価値は、賢い人です。その知恵は、成功か否かに依存しておりません。賢明であるのは、金持ちであるからではありません。逆に彼が賢明でないのは、彼が貧しいためでもありません。

「コヘレトの言葉」は、貧しい賢人の例え話によって、彼の言わんとしている点を説明しております。その賢い人の知恵は、強力な王の手から小さな都市を救いました。私たちは、「住む人の少ない小さな町」の「貧しい知恵のある人」(9の14 口語訳)と、それを「攻めて来て包囲し」、それに向かって「大きな攻城保塁を築いた」「強大な王」との間の対比を、ここで見ています(9の14)。この戦争の中で、その強大な王は愚かしい形で出現しますが、一方その貧しい人の知恵はなおさらのこと驚嘆です。しかしながら、誰もこの賢人を認めません。この例え話の教訓は、たとえ「貧しい人の知恵は侮られ」ようとも「知恵は力にまさる」(9の16)ということなのです。私たちはこの教訓を、他の失敗例にも拡張できます。足の速い人は、たとえ競争には敗北しても、依然として速いままでありますし、たとえ彼らが貧しく、また人気がなくても、聡明な人は聡明ですし、知識ある人は知識人なのです。「コヘレトの言葉」は結論として、ひとりの成功した罪人である強大な王は、戦争のための強力な武器でもって武装し、「多くの良きわざを滅ぼす」(9の18、口語訳)と言っております。罪人が成功しているという事実は、彼が善であることを意味しておりません。それゆえ、成功は価値そのものではありません。重要なことは、あなたが何かを達成したとか、そのために認められているといったことではありません。すなわち重要なことは、本当はあなたは一体どのような人物であるかということなのです。

参考文献

①        9の1の口語訳を参照せよ。「わたしはこのすべての事に心を用いて、このすべての事を明らかにしょうとした……。彼らの前にあるすべてのことは空である」(傍線は訳者)のように、口語訳では、ヘブル語原文通りに、「すべて」が、3回訳出されている。訳者注。

②        ライオンはその優雅さと格好良さ、その力(箴言30の30)、また勇気(箴言28の1)の故、一目が置かれていた。それでユダ族(創世記49の9)や王(箴言19の12)、更には神御自身(ヨブ記10の16)をも表す隠喩として、用いられている。黙示録の中では、イエス・キリストが「ユダ族から出たライオン」(5の5)と呼ばれている。

③        中東文化では、町の残飯あさりをしている動物として、犬は最も軽蔑された生き物である。聖書の中では、犬は、汚れた肉を食べる動物(出エジプト記22の30)ということや、また人間の肉さえも食べる(列王記上14の11)ということで、汚れと関係づけられている。犬はしばしば、侮りや(サムエル記上17の43)、イスラエルあるいは神の敵(詩編22の17、59の7)、邪悪な者(詩編22の17、イザヤ書56の10、11)を表す用語である。黙示録は、神の国から除外されている者たちを犬と呼んでいる(22の15)。

④        伝統的なヘブル語聖書(マソラ本文)は、この「バハル」(「選ぶ」)を用いているが、他の多くの写本では、「ハバル」(「加わる」)を採用している。新英語欽定訳(NKJV)を参照せよ。

⑤        ヘブル語「ハイーム」は、「命」と「生きている者」の両方を意味している(複数形の「ヘー」は「生きること」を意味する)。

⑥        C. L. Seow,  Ecclesiastes, p. 300を参照のこと。

⑦        新ユダヤ出版協会(NJSP)による訳。

⑧        この部分に、「ビタホーン」という語が、20回用いられている。

⑨        ヘブル語の「テイロッシュ」は、語根「ヤラシー」、すなわち「搾る」の意の語から派生したのである(ミカ書6の15と比較せよ)。「コヘレトの言葉」の9の7で用いられている「ヤイーン」は、意味は不明瞭で、酒にも搾り立ての新鮮なぶどうジュースにも適用される語である。

⑩        口語訳の4の7は「穀物とぶどう酒」、新共同訳の4の8は「麦とぶどう」と訳出。ここでの「ぶどう酒」あるいは「ぶどう」の原語は「テロッシュ」である。訳者注。

⑪        エステル記8の15、士師記10の3、サムエル記下14の2、詩編23の5。

この記事は、ジャック・B・デュカーン(英:Jacques B. Doukhan)著、我妻清三訳『コヘレトの言葉 ーすべてはむなしい』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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