この世の終焉【コヘレトの言葉解説 〜すべてはむなしい〜】#13

目次

二度目の招請

今や「コヘレトの言葉」は、創造主を覚えよとの二度目の招請を出しております。これをもって、私たちを新しい地平線へと携えて行ってくれることでしょう(12の1)。創造の時を忘れないように①との最初の招請は(11の8)、裁きのことを「知っておくがよい」(11の9)との呼びかけに先立って言われており、他方、第二の招請は、裁きを知るようにとの、この呼びかけ(11の9)に続く形で与えられております。

この連続は偶然ではありません。創造の時に関する最初の呼びかけでは、過去へと向きを変えさせられました。それは、過去の創造の出来事へと戻っての言及でした。すなわち、暗闇から光へ、混沌から実存へと推移した出来事への言及でした。しかし他方、この二番目の招請は、年代的順序からすれば、裁きの後に来るべき出来事、すなわち未来に起こるべきことを見据えております。

第12章においては、その案内は個人的なものから、全世界的な視点へと移ります。11章8節での創造を忘れないようにとの招きは、「人〔単数形の「アダム」〕が多くの年、生きながらえ……ても」(11の8、口語訳)のように、個人的歩みにのみ関係付けられております。他方、12章1節の創造主への喚起は、「太陽が闇に変わらないうちに。月や星の光りがうせないうちに」(12の2)のように、世界的出来事に関係付けられております。11章9節の裁きを知っておくがよいと言われていることが、「神は……お前を裁きの座に連れて行かれる」とありますように、個人に対する裁きでありますのに対し、12章14節での裁きは全世界的です。

「神は、善をも悪をも

一切の業を、隠れたこともすべて

裁きの座に引き出されるであろう。」

「コヘレトの言葉」は、これらの二つの出来事との関連において、神への私たち個々人の応答を喚起しております。すなわち「お前の創造主に心を留めよ」(12の1)と、②「神を畏れ、その戒めを守れ」(12の13)の二つです。そしてこれらの二つの訴えを真剣に取り上げさせるため、彼は、この二つの訴えの間に、彼の言葉の権威と霊感とについての挿入語句を差し入れております(12の9~12)。

あなたの創造主に心を留めよ

老齢へのほのめかし(12の1)の後、「コヘレトの言葉」は、老齢よりもっと恐るべき事柄へと移り行きます。すなわち、「太陽が闇に変わらないうちに。月や星の光りが失せないうちに」(12の2)と。12章2~6節までは、(一般には老齢であるように理解されておりますが)老齢についてではなく、終末の時に関することが言及されております。③

「コヘレトの言葉」は、「苦しみの日々」(12の1)、すなわち直訳的には「その悪い日々」の到来を私たちに警告しております。このような表現は聖書中では特異です。通常は聖書は、7章14節の「逆境」の時のように、人の生涯の中でのある特別な期間を指すとして、定冠詞を付けていない単数形の時のみを用いております。「その悪い日々」という複数形での表現は、人生における悪い時期とか老齢であるといった漠然としたある期間とは異なった何かを意味しております。そして、この句に付されている定冠詞は、明瞭に、「コヘレトの言葉」は、具体的なある特別な時、すなわち、個人的事柄を凌ぐ、重大な時点を心に描いていることを示唆しております。「その日には」云々(12の3)のようにして、もろもろの出来事が導入されて行くのですが、その言い方は、終末論を語るに典型的な言語です。

聖書の預言の中で、主が来臨されるその重大な日が紹介される仕方は次のようです。

「主の日が裁きの谷に近づく……。

太陽も月も暗くなり、

星もその光りを失う……。

その日が来ると……

泉が主の神殿から湧き出て……。」 

(ヨエル書4の14~18。口語訳では3の14~18)。

空のもろもろの発光体が暗くなります。「太陽も月も暗くなり、星もその光りを失う」(12の2、新国際訳〔NIV〕)のです。それゆえ、本章は、老齢や死のような人間個々人の困難よりも、はるかにユニバーサルで、全世界的です。その比喩的表現は、実に、終末論的であり、黙示的です。

また、太陽について言及されている最後の時がこれです。今までは太陽は常に輝いておりました。「コヘレトの言葉」は、その初めのところで、太陽が規則的に昇ったり沈んだりする運行を観察しておりました(1の5)。それは、「太陽の下、新しいものは何ひとつない」(1の9)ということのしるしでした。しかし今や、空中の他のもろもろの発光体共々、その太陽が光を放つことを止め、暗闇に変わるのです。世界歴史の中で何か新しいことが、起こりつつあることを示すしるしとなるのです。これは、預言者ヨエルが主の来臨を宣言していると理解していたしるしと同じです。

「太陽も月も暗くなり、星も光りを失う……。


主の日は大いなる日で、甚だ恐ろしい……。

主の日、大いなる恐るべき日が来る前に

太陽は闇に、月は血に変わる」

(ヨエル書2の10、11、3の4〔口語訳では2の31〕)。

世の終わりの大いなる苦難について話された時、主イエスは、同様の世界的出来事を預言しておられます、「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず……そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」(マルコ13の24、26)。

アーモンドの花が咲いているという象徴(12の5)は、聖書の中では、神が間もなく来られるしるしとして用いられています。アーモンドの木を表すヘブル語「シャカド」は、「見張り」とか「用心深さ」の概念を有しております。イスラエルで、早くも一月か二月に開花するこの木は、春の先触れと考えられております。預言者エレミヤが花の咲いているアーモンドの木(シャカド)の幻を受けている時、神は、意味の語呂合わせで注釈を与えておられます。「わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている〔シャケード〕」(エレミヤ書1の12)と。

製粉工場で、働くのをやめる粉引き女性と④そこでは人が「減って行き、失われ」、ほとんど人がいなくなるという事実は、突然何かひどく恐ろしいことが起こったことを示唆しております。働く人たちの突然の失踪という姿は、終末時に起こる一連の出来事の流れに属しております。主イエスによれば、「二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」(マタイ24の41)のです。次節はこのことを裏付けております。「シューク」、すなわち市場(単なる「通り」ではありません)の門が閉じられると同時に、その製粉工場が静まり返ります(12の4)。これはあらゆる経済的、社会的活動が停止することの劇的表示です。

荒廃と完全な死の雰囲気が濃厚です。すなわち、私たちは、えさをあさる鳥たちの声や⑤地面に座っている「歌の娘たち」の哀悼の声(12の4)、更には会葬者たちの「町を巡る」「泣き手」の嘆きを聞きます(12の5)。私たちは人間(アダム)が墓へと行きつつあるのを見ます(12の5)。また壷が割れるのを見たりその音を聞いたりします(12の6)。この映像は、あるユダヤ人社会の葬儀の中で今でも見られる慣習を思い起こします。金の受け皿と銀の芯によって代表されるミノラ燭台、それは恐らくは命の木を象徴したものとも考えられておりますが、これを壊す葬儀の習慣です。⑥

この一連の恐怖のヴィジョンは、絶対的な終わりによってその最高潮に達します。「ルーアッハ」、すなわち命の息(「霊」と訳出されている)は、それの「与え主である神に」帰ります(12の7)。太陽と同様、これは、「コヘレトの言葉」の中で、「ルーアッハ」の最後の登場です。「ルーアッハ」に関する最初の言及は、巡り巡りつつ休みなく吹き続ける風についてでありました。その中でその「ルーアッハ」決して捉えられることはありません。それは常に予測不能でした。今や、その「ルーアッハ」は、その源である神の御元に帰るのです。この世と人間とはその終焉を迎えることとなったのです。

それでも「コヘレトの言葉」は、この悩みの時の恐ろしい描写の全体像を、万物創造という視点の下に置いております。「お前の創造主に心を留めよ」(12の1、6、新英語欽定訳〔NKJV〕)。この命令は二度与えられております。それはこの幻の最初と最後においてです。勿論それは、この見透しの光に照らして私たちの人生を再検討しなさいという訴えです。しかしそれはまた保証の言葉でもあり、それは私たちに、暗闇の彼方に光があるということを思い起こさせるためでもあります(11の8を参照)。創造主は、今なおコントロールしておられます。このことは実際、この詩が示す最終的見解です。「与え主である神」が居ますのです。「ルーアッハ」すなわち霊は、神の御手の内にあります。再び与えて下さるでありましょう創造の主に信頼し、希望という眺望の下で、私たちは終焉を迎えるのです。創造に先立つ混沌の段階を示すものとして、本書の初めにおいて確認された七重の空しさが、ここでも繰り返されていることは非常に重要です。「なんと空しいことか、とコヘレトは言う。すべては空しい、と」(12の8)。この一致は、ここでまた創造の御業がそれに続くべきであり、それが続くであろうということを示唆しているのです。

真理の言葉

この時点で、「コヘレトの言葉」は、その括弧(12の9~11)を開きます。彼は本書を含め、彼の仕事を振り返り、彼の自伝的序論(1の1)を反復いたします。最初の場合もそうでありましたように(1の1、12)、再び三人称が用いられます。⑦「コヘレトの言葉」はまた、彼の統治者としての職務、すなわち「より良く民を教」(12の9)える役割(1の1における「王」と比較せよ)と、賢者の「言葉」とに、再び言及しております。

その後で、「コヘレトの言葉」は「知恵」の訓練についての短い講義をいたします。知恵のための必要条件は、「聞く」ということです(12の9、著者私訳)。⑧もしも、私たちが言葉に対して心を開かず、また、その言葉に、注意深く耳を傾けなければ、それらが、私たちの心に達することはないでしょう。このことが、ソロモンの願い事であったことを私たちはよく覚えております。「わたしに、聞く心をお与え下さい」(列王記上3の9、著者私訳)。聞くということは、その後の生涯の基礎となるものです。これらの言葉に耳を傾けて聞き、それを受け留め、慎重に注意を払うなら、その時、あなたは、それらを完全に理解するため、更にこれらを掘り下げて行くことができ、そしてただそうした時においてのみ、あなたは、それらの言葉に、新しい意味づけを見いだすこととなるのです。これが「コヘレトの言葉」の方法でした。聖霊によって導かれつつ、彼は彼自身のイスラエルの伝統の中から、そして彼の父であり詩人でもありましたダビデの言葉から、そしてまた、古代中近東文学の中から、知恵の断片を編纂いたしました。

彼は、他から借り受けるということに、彼自身甘んじませんでした。彼はこれらを「研究し、編集した」(12の9)のです。ヘブル語の「ティケン」は7章13節では「直す」と訳出されていた語ですが、この言葉は、刷新、修復、あるいは改善等の考え方を暗示しております。「コヘレトの言葉」は単に、熱心な筆記者のような人物ではありませんでした。彼は創造的でした。彼は霊妙な芸術家であり、また独創的な思想家でもありました。「コヘレトの言葉」は、「真理の言葉」が、また「非常に喜ばしいもの」(12の10、新米語標準訳〔NAS〕)であるべきと付け加えました。真理は芸術性でもって導き出されるべきなのです。したがって、この本は美しい詩で始まり、美しい詩で終わります。そして、多くの様式化していたことわざを含み、調和した平行関係や語呂合わせやユーモラスなしゃれを包含しております。厳密で深い真理は、美を排除いたしません。「コヘレトの言葉」の著者は、彼の傑作を生み出すため、熱心に、そして巧みに取り組んだのです。

しかしながら、それにもかかわらず、本書は単なる彼の努力の所産ではありません。本書の全般にわたって、「コヘレトの言葉」は人間の知恵はただ空しく、価値がないと、強く主張しております。すなわち、ただ神の知恵だけが探求されるべきなのです。「コヘレトの言葉」は、これらの言葉を「真理の言葉」と評し、これを「忠実に」(12の10)記録しようとしたのです。「忠実に」と訳されているヘブル語の「ヤシャール」は、「コヘレトの言葉」では、神の御業を特徴づけるために使用している言葉です(7の29〔新共同訳では、神は人を「まっすぐに」、口語訳では、「正しい者」に創造されたと訳されている。訳者注〕)。「真理の言葉」(デブレー エメト)という表現も神と結びつけられております(サムエル記下7の28、詩編119の43。ダニエル書8章12節と比較せよ)。

それゆえ、「コヘレトの言葉」においては、これらの言葉は、神によって霊感を受けているのだということを示しているのです。そして、彼のスピーチの終わりに、彼は「賢者の言葉は〔12章9節で『伝道者は知恵があるゆえ』(口語訳)と言って自分を知恵ある者としておりますが〕……ただひとりの牧者に由来」(12の11)していることを再び強調しております。聖書の中では、神を羊飼いで表わす隠喩は非常になじみ深いものです(詩編23の1、エゼキエル34章、ヨハネ10章)。「ひとり」(エハド)のという資格付与はまた、神を指し示しております(申命記6の4)。しかしこの羊飼いが神であるということの最も決定的な事実は、羊飼いという言葉が、本節中にある「与える」(新共同訳では「由来」、口語訳では「出た」。と訳出されている。訳者注)、と言う動詞の主語であるという点です。何回かすでに指摘しましたように、この動詞は創造物語における鍵となる言葉の一つであり、そして「コヘレトの言葉」では、常にそれは神と関わって用いられております。ダニエル書の中に、同様の用法を見いだします。すなわち、神とは知識を「与え」、「知恵にさとい者」とされる御方なのです(ダニエル書1の17 口語訳)。そうであれば、「与える」という動詞は、主語が誰であるかを明らかにいたします。それは、神であるということです。⑨これらすべての、「賢者の言葉」は、神によって「与えられている」ということなのです。

「コヘレトの言葉」は、霊感の複雑な過程を特徴づける緊張についての教訓をたった今私たちに与えてくれました。本書は、人間の努力の結果であり、またそれと同時に神の御手の結果でもあるのです。本書は特別な文化の中での人間の言葉によって書かれているとは言え、本質的にはそれは神の贈物であり、それゆえしばしば、これは、人間の理解力を超えております。すなわち、「コヘレトの言葉」が言うように、「賢者がそれを知ったと言おうとも、彼も悟ってはいない」(8の17)のです。

コヘレトが、彼の霊感を受けた言葉の終わりに、「わが子よ、何をこれらに付加するかに注意せよ」(12の12、新国際訳〔NIV〕)と覚え書きしているのも不思議ではありません。この慣用語には、神聖ということの鋭い自覚と、これらの言葉の神による霊感性とが満ち満ちております。それは、この文書の完全性と十全性についての強い断言です。黙示録も同じようにして終わっております。「この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証する。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる」(黙示録22の18、19)と。「コヘレトの言葉」という書は、ですから、全的に霊感を受けているのであると自らを提示し、それに対し、私たちがいかなる取捨選択の試みをもすることがないようにと警告しているのです。

羊飼いによって用いられている突き棒や釘、「うまく打ち込まれている釘」としての興味深い映像は、この概念を立証いたします。羊をコントロールするための突き棒として使われる棒の先に「うまく打ち込まれている釘」のような「賢者の言葉」は、より良い行動を引き起こすことが意図されております。しかし、特にそれらは、「うまく打ち込まれている」のです。それは、余りにもしっかりと埋め込まれておりますので、それらの釘は不動であることを意味しております。多分これらの二つの考えは関連しております。賢者の言葉が偉大な羊飼いによって用いられる時、しばしばそれは私たちを当惑させ、私たちをして居心地悪く感じさせるようにいたします。彼らがそのように働くので、私たちはそれらの釘を取り除きたいとの誘惑に駆られます。「コヘレトの言葉」の書中には、いくつかの邪魔になる釘がある可能性があります。したがって、私たちはそれを取り除きたいと思うのです。しかし、この隠喩と、それに続く警告とは、私たちがその取り除きを実行するのを、阻止させるのです。

「コヘレトの言葉」は幾分皮肉気味ではありますが、尚も同じ調子で続けます。知恵のこれらの言葉を超えて、別な書物を著したり、研究を追加する必要は全く無いのだと。「書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば⑩体が疲れる」(12の12)と。しかしこの聖句は、決して新たな本を書いたり、研究したりすることに反対しての論議ではありません。再びそれは、人の知恵の空しさに対する警告なのです。それはまた、決して他書の霊感を無視するように意図した声明でもありません。なぜなら、私たちは、聖書の他の場所でも同じ種類の終了方式を見いだすからです(申命記4の2、13の1〔口語訳は12の32〕、黙示録22の18、19)。ですから、この最後の言葉は、私たちが本書全体を、神からの完全で十分な御言葉として受け入れるようにとの訴えなのです。私たちは、私たちが理解でき、心地よさを感じる部分にだけ注意を払い、理解困難な部分、困惑を与えられるようなところは退けるといった、受け止め方をすべきではありません。もしも、私たちが彼の言葉の「すべて」を真剣に受け止めるなら、その時こそ、私たちは彼のこの最後の言葉にも、真剣に「耳を傾けた」ことになるのです。

「神を畏れ、その戒めを守れ」

ここで「コヘレトの言葉」は、その少し前で置去りにして来た話(12の6)に戻り、その結論へと私たちを導いて行きます。「さあ、すべての事柄の結論に耳を傾けて聞こうではないか」(12の13、新英語欽定訳〔NKJV〕。直訳では、「言葉の終わり。さあすべてを私たちは聞くようにしよう」)と。この句は、単に、結論を導くことを意図しているのではありません。それはまた、「すべて」を包含するようにと計画されております。ただ単に、「コヘレトの言葉」の全メッセージのみが、この結論の中に包含されていると考えるべきではありません。この結論は、すべての人間に関わるのです。「これは人間の義務のすべてです」(12の13、著者による原文意訳)とは、厳密には、「これがすべての人間のためなのです」(12の13、原文直訳)ということになります。ここには、(定冠詞のついた「アダム」という語が用いられておりますが、ここで、「すべて」という語がこの「人間」に付属しているということは、「すべて」という語が「わたしたちは聞くようにしよう」という文に付属していたことに呼応している文体なのです。

すべてを私たちは聞くようにしよう」(12の13a)

「これがすべての人間のためなのです」(12の13b)

(著者による原文からの訳。傍線は著者)

「コヘレトの言葉」に耳を傾けるということは、すべての人間からの反作用へと導かれて行くべきなのです。

人間からのこの応答は、次いで、裁きへと結び付けられて行くのです。「『神を畏れ、その戒めを守れ』……。神は……一切の業を……裁きの座に引き出されるであろう」(12の13、14)。「神を畏れよ」と「コヘレトの言葉」が言っておりますのは、これが初めてではありません(3の14、5の6、7の18、8の12)。毎回、この「神への畏れ」という資質は、賢明な者や義なる人たち、すなわち、右側に立った人たちを特徴づけておりました。13節の中では、「神を畏れる」との表現が説明されております。⑪「その戒めを守れ」ということなのだと。

神への畏れとは、決して抽象的な概念、または、畏敬の感情や気分の問題ではありません。むしろそれは、「見る」⑫との概念と関係していて、私たちに対して注がれている神の御目を鋭く意識することの表現です。「見よ、主は御目を注がれる……。主を畏れる人……に」(詩編33の18、ヨブ記28の24~28)。それは愛と正義に関係しており、人生の一つの生活様式です。「イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただあなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え……主の戒めと掟を守って……。見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである」(申命記10の12~14)。神を畏れるということは、聖書的宗教の本質です。それは、軽やかな感傷でも、抽象的な理論でもありません。それは力動的な関係です。そして「コヘレトの言葉」にとって、神への畏れとは、裁きと直接的に関わっているのです。「神は……一切の業を……裁きの座に引き出されるであろう」(12の14)。

「コヘレトの言葉」は、その全書を通し、裁きのこの瞬間をこそ待ち望み続けて参りました。悪に対する彼の苦闘、死に関するその長ったらしい話、人生やこの世の空虚さ及び無意味さに関する彼の苦悶、不正や圧迫する者たちへの不快感、答えを見いだせないいろいろの疑問、彼の持つ絶望感、この世の空しさについての彼の冷笑等々。すべてこれらのことは、修復されることへの彼の熱望と、新しい秩序への望郷的思いとに連結されて行くのです。

裁きとは、その憧れへの応答です。詩編の中には、この同じ憧れが存在しております(6の4、13の3、62の4、74の10、94の3など)。ダニエル書の中では、天的存在者が、無実な者たちの耐え難い苦しみに関し、同じ質問をしております(ダニエル書8の13)。その質問に対し、変わることなく、同じ答えが与えられております。すなわち神の裁きです。ユダヤ人の典礼においては、この憧れは、キプル、すなわち大贖罪日⑬の中心にその最大の場所を占めております。この日は唯一、全イスラエル会衆のすべての罪と、更に神殿(「小宇宙」での世界)⑭さえもが、神の調査審判の下におかれます(レビ記16章)。この日は、次のような大いなる日であると期待されました。

「神は、善をも悪をも

一切の業を、隠れたこともすべて

裁きの座に引き出されるであろう」(12の14)。

「コヘレトの言葉」はこの強い願望で、この本を終えております。それは裁きと再創造に対する希望です。そしてこの希望は大贖罪日、すなわち、それは救いへの希望と関係しているのです。これが、聖書の文脈の中で裁きが意味していることなのです。「裁き」という語は、私たちの文化の中では、うまく共鳴いたしません。それは、裁きという概念が処罰とか不安と関連づけられているからです。反対に、古代イスラエル社会では、この裁判官は、救い主と受け止められておりました。そこには、弁護士はおりません。人は名誉回復のため、裁判官のところに行き、そして不正から救済されるのです。このことが何故、大贖罪日が、救済される日として考えられていたかの理由です。

黙示録14章の三天使の使命は、裁きと創造に関するメッセージであり、それが大贖罪日と結び付けられておりますことは、⑮興味深いことです。鍵となるいくつかの主題や用語や思想の関連づけが、この「コヘレトの言葉」の結論部と共有しております。「創造」、「神を畏れること」、「神の戒めを守ること」、「裁き」、そして「世界的視野」などです。

「……地上に住む人々、あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために……大声で言った。『神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい』……。ここに、神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐が必要である」(黙示録14の6、7、12、傍線は著者挿入)。

この黙示録14章のテキストは、「コヘレトの言葉」の結論部が示す地平線を暗示しており、その裁きの宣言は、「人の子」の御来臨とこの世の救い(黙示録14の14)とを予期していることを示しております。裁きに関する「コヘレトの言葉」の最後の言葉の彼方には、ですから、新しい世界、それは正義と平和の支配する新しい世界、悪から解き放たれた新しい世界が期待されているのです。こうして初めて、知恵は、失敗することがなくなるのです。神が遂に、善と悪とを選び分けてくださるに至るからです。「コヘレトの言葉」の全体が、実に神によるこの清めの働き、神の知恵による究極的御業をこそ目指していたのです。

本書の最初では、私たちをスコト、すなわち仮庵の祭りに連れて行きました。それは空しいのメッセージで満ち満ちておりました。私たちの世界も、私たちの人生も、そのすべてが移り行くものであり、滅びに向かっているのであると語ったのです。しかし、本書の終りでは、私たちをキプル、すなわち裁きの祭りへと連れて行きます。この結論は希望のメッセージで満ち満ちております。新しい天と新しい地の眺望です。あらゆる悪からの清めです。そこにはもはや死もありません。そしてそこでは、もはや誰も破壊することはできないのです。

そうです、私たちのあのあざ笑う蝶でさえもです。

参考文献

①        「心に留めよ」(12の1)と「忘れないように」(11の8)は、同じヘブル語の、「ザカル」を語根としている。訳者注。

②        動詞「バーラー」の複数形に関しては、神が(恐らくは、三位一体の神、あるいは「畏敬の複数」を暗示するものとして)必ずしも複数形であることを意味しない。それは単純に、文法上の理由がある。「バーラー」の「アレフ」の後の「ヨド」は、複数形の「ヨド」ではなく、動詞変化における「ヘイ」と「アレフ」の間でのヘブル語用法でしばしば見られる混乱の故である。

③        この部分の終末論的注解が、中世時代から提唱されてきている。そしてより近年では、フォックス(Fox)とかセオー(Seow)といった学者たちを含む、権威ある聖書学者たちによって支持されている。

④        ヘブル語で「粉引く」者は、女性の複数形の名詞。

⑤        ヘブル語における句の構文法に依れば、動詞「起き上がる」の主語は、明瞭ではない。沸き起こる猛禽たちの声を暗示しているとも言える。さらに「鳥の声に起き上がる」老人の可能性もあり、そのように注釈する向きもあるが、これはしっくり来ない。なぜなら、老人は耳が聞こえなくなっているか、眠っている傾向のどちらかなので、鳥のさえずり程度の音でわずらわされることもないからである。

⑥        Seow, p. 364を参照のこと。

⑦        三人称の人物への言及とエピローグの回顧的文体とは、別の著者を示すものではない。同様の用法が古代エジプト文学の中で証拠だてられている(Insruction of Kagemni, from the Sixth Dynasty [2300-2150BC] in  AEL I, p.58-60を参照のこと。並びに、M.V.Fox, “Frame-Narrative and Composition in the Book of Qohelet,” Hebrew Union College Annual 48(1977): 85-106をも参照せよ。

⑧        ヘブル語は「イッゼン」。それは「オゼン」(「耳」の意)から由来した語。新英語欽定訳(NKJV)はこれを「熟考」と訳している(新共同訳聖書は「吟味」、口語訳聖書は「よく考える」と訳出。訳者注)。この「熟考」は、聖書の他のところで証明されているものではないが、「はかり」を意味する「モンザイーム」から由来している。その上、この「計量する」とか「吟味する」といった西洋文化的考え方は、古代中東文化では異質である。

⑨        この見解が、今日ほとんどの注解者の見方である。

⑩        ヘブル語の「ラハグ」は、新英語欽定訳(NKJV)では、「研究」と訳出されている。恐らくこれは、ラテン語訳、すなわち「ヴォルゲート」の影響と考えられる(「ヴォルゲート」では「瞑想」と訳出)。しかしながら、これはむしろ、「語る」と訳出さるべきである。タルムード(b. Erub. 21b)を参照のこと。箴言8の7とも比較して見よ。

⑪        「守れ」に接頭辞的に前置されている「ワウ」は、説明の「ワウ」であり、「すなわち」の意。

⑫        ヘブル語動詞「ラー」(「見る」)は、語源的にはヘブル語動詞の「イヤレー」(「畏れる」)と結び付けられる可能性がある。それは古代エジプト語においては立証されている。

⑬        J. Levenson, Creation and Persistence of Evil (San Francisco: Harper & Row, 1988), 78-99.を参照のこと。

⑭        大贖罪日における裁きと創造については、J. Doukhan, Secrets of Daniel (Hagerstown, Md.: Review and Herald, 2000), 124-132を参照のこと。

⑮        大贖罪日と三天使の使命のメッセージとの関係については、J. Doukhan, Seclets of Revelation (Hagers- town, Md.: Review and Herald, 2001), 133-135を参照のこと。

この記事は、ジャック・B・デュカーン(英:Jacques B. Doukhan)著、我妻清三訳『コヘレトの言葉 ーすべてはむなしい』からの抜粋です。

ジャック・B・デュカーンはアルジェリアで生まれ、フランスで教育を受けた。フランス・ストラスブール大学でヘブライ語と文学の博士課程を修了。エルサレムのヘブライ大学から博士課程終了後の奨学金を受けた。アンドリュース大学旧約聖書釈義博士号取得。同大学においてヘブライ語および旧約聖書釈義教授、ユダヤ・キリスト教研究所所長を務める。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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