【アモス書】第2の幻―火による審判【解説】#9

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聖書はしばしば火を刑罰、または清めの象徴として用いています。火にはどのような意味、性質、役割があるでしょうか。聖書には終わりの時の火、罪と罪人とを滅ぼす報復的で破滅的な地獄の描写がいくつもあります。これが火と硫黄(いおう) の燃える「地獄」です。

このような光景を神の愛と調和させることは容易ではありません。しかしこの火の目的、背景、最終的な結果を理解するなら、それもまた同じ愛の神から出たものであることがわかります。

本当の意味で地獄を理解する唯一の方法は、イエス・キリストが十字架にかかられたときに、私たちに代わって地獄の火を受けられた意味を理解することです。私たちが自らの罪のゆえに、当然の報いとして地獄に行くことのないように、イエスは私たちに代わってカルバリーにおいて「地獄」を経験されました。イエス以上に地獄で苦しまなければならない人は世界にだれもいません。

裁きか、清めか(アモ7:4~6)

「見よ、主なる神は審判の火を呼ばれた。火が大いなる淵をなめ尽くし、畑も焼き尽くそうとした」(アモ7:4)。

アモスは第 2の幻の中で、いなごに代わって神のもとから下る火について描写しています。しかし、旧約の預言者が火の幻を用いて神の裁きを描写しているのはここだけではありません。

「主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした」(創世19:24、25)。

「アロンの子のナダブとアビフはそれぞれ香炉を取って炭火を入れ、その上に香をたいて主の御前にささげたが、それは、主の命じられたものではない、規定に反した炭火であった。すると、主の御前から火が出て二人を焼き、彼らは主の御前で死んだ」(レビ10:1、2)。

「外に出る人々は、わたしに背いた者らの死体を見る。蛆(うじ)は 絶えず、彼らを焼く火は消えることがない。すべての肉なる者にとって彼らは憎悪の的となる」(イザ 66:24)。

問1

火は刑罰や裁きという否定的な意味で多く用いられていますが、何かよいことの象徴としての例はないでしょうか。

火は聖書の中で、刑罰ばかりでなく、浄化、清め、精錬の象徴としても用いられています。「祭司エルアザルは、戦いから帰還した兵士に言った。『主がモーセに与えられた律法の定めは次のとおりである。金、銀、青銅、鉄、錫(すず) 、鉛など、すべて火に耐えるものは、火の中を通すと清くなる。それ以外のものは、清めの水で汚れを清める。火に耐えないものは、すべて水を通さねばならない』」(民数31:21~23)。イザヤ書 6章やマラキ書3:1~3で、火がどのように用いられているか見てください。これらの聖句では、火は先の例とはいくぶん違う働きをしています。

十字架における第2の死

「罪と何の係わりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」(Ⅱコリ 5:21)。

十字架において、イエスは第2の死を経験されました(黙示20:14、21:8)。それは第 1の死ではありません。クリスチャンであると否とにかかわらず、私たちはみなこの肉体の崩壊する第 1の死に直面するからです。イエスがカルバリーで死なれたのは、この肉体の死から私たちを解放するためだけではありませんでした。むしろ、イエスが十字架におかかりになったのは、「第2の死」、つまり火による死、罪に対する神の義なる怒りから来る死から私たちを解放するためでした。イエスご自身、十字架において、私たちに代わってこの第 2の死を経験されたのです。

問1

「エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」(マル15:34)とのキリストの言葉をあなたはどう理解していますか。

「われわれの身代りまた保証人としてキリストの上にわれわれ全部の者の不義がおかれた。律法による有罪の宣告からわれわれをあがなわんがために、キリストは、罪人にかぞえられた。アダムの子孫ひとりびとりの不義がキリストの心に重くのしかかった。罪に対する神の怒り、不義に対する神の不興の(ふきょう) 恐るべきあらわれが、み子の魂を非常な驚きと恐れで満たした。……しかしいま、自ら負っておられる不義の恐るべき重さで、キリストは、天父のやわらぎのみ顔を見ることがおできにならない。この最高の苦悩の時に神のみ顔が見えなくなったために、救い主の心は、人にはとうていわからない悲しみに刺し通された。この苦悩は、肉体的な苦痛などほとんど感じられないほど大きかった」(『各時代の希望』下巻274、275ページ)。

悪人は焼き尽くされる(マラ3:21〔口語訳4:1、3〕)

「見よ、その日が来る、炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者はすべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない」(マラ3:19)。

救いの計画がいかに素晴らしくても、十字架上のキリストの死がいかに完全で十分であろうと、聖書によれば、すべての人がそれを受け入れるわけでなく、またすべての人がイエスの犠牲の究極的な祝福にあずかるのでもありません。信仰によってキリストの身代りの死を受け入れることを拒むために、多くの人が自らの罪に対する刑罰を受けなければなりません。

しかしここにも神の愛と憐れみが現されています。失われた者たちが地獄において永遠の責め苦にあうという一般的な考えに反して、聖書ははっきりと、滅びが永遠のものではあっても、滅ぼされ続けるのではないと教えているからです。これは決定的な違いです。

問1

次の聖句を読んで下さい。ヨハ3:16、ヨハ10:28、Ⅱテサ1:9

神はどんな悪人であっても、地上における一時の間に起こった悪業のために彼を永遠の火で罰し続けるということはありません。こうした誤った理解のため、神の愛を疑う人があります。神が地獄の火で罪を焼き尽くされる目的は、罪とその痕跡を消し去り、汚れのない新しい地球を出現させるためです。罪と罪人を滅ぼす前に、神はすべての人に悔い改めの機会をお与えになります。

主は再び「思い直される」(1)

「わたしは言った。/『主なる神よ、どうぞやめてください。/ヤコブはどうして立つことができるでしょう/彼は小さいものです。』/主はこれを思い直され/『このことも起こらない』と主なる神は言われた」(アモ7:5、6)。

ここでも、先の幻と同じことが繰り返されています。すなわち、アモスは神に執り成し、その結果、神は予告されていた滅びについて「思い直され」、「考えを変え」られます。このことは重要な問題を提起します。先週の研究でも学びましたが、ある人々の執り成しの結果、預言が撤回されたり、延期されたりしています。つまり、これらの預言が条件付きであったということです。ある預言が条件付きであるとするなら、他の預言もすべて条件付きということになるのでしょうか。

問1

次の聖句のうち、どれが条件的預言で、どれが神の不変の預言と思いますか。イザ1:19、20、エレ18:7~10、使徒1:11、ロマ14:10、Ⅱペト3:13

主は再び「思い直される」(2)

「わたしは初めから既に、先のことを告げ/まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。/わたしの計画は必ず成り/わたしは望むことをすべて実行する。/……わたしは語ったことを必ず実現させ/形づくったことを必ず完成させる」(イザ46:10、11)。

アモス書7:5と昨日の研究は非常に興味深い問題にふれています。それは“預言”の性質という問題です。

アドベンチスト教会は、聖書にある多くの預言が条件付きであると理解しています。つまり、預言が実現するか否かは人間の応答にかかっていると考えています。たとえば、主はしばしばイスラエルに災いについて警告されました。もし彼らが従わなければ、それは起こりますが、従うならば、その災いは起こりません(申命記 28章参照)。アモス書の場合もそうです。

問1

なぜ神は、イスラエルの人々が恐るべき結果を避けるべく罪から離れようとせず、行動を変える希望もないのに警告を発して危険を訴えられるのでしょうか。

すべての預言が条件付きなのでしょうか。長期的に見れば、神はつねに支配しておられ、ご計画にしたがってみ旨を実施されます。神の救いの計画は永遠不変な種類のものです。罪と反逆に終止符を打つという神の最終的な目的は実現します。地上の歴史を締めくくる諸事件についての預言は条件付きではありません。

しかし短期的に見れば、人間個人、国家、民族単位の種類についてはそれぞれが神にどのように応答し、反応するかが運命を左右し、預言の実現に影響を与えているように見えます。神は人間に意志の自由をお与えになりました。私たちの自由意志が自分の将来を決定するのです。

まとめ

神は火をもってイスラエルを罰すると警告されました。預言者アモスが主に執り成したとき、神はそれをおやめになりました。やがて歴史の最後にこの世のすべてが火をもって新しくされ、永遠の義が住む新天地が神によって創造されます。

「悪人の運命は自分自身の選択によって定められる。彼らが天国から締め出されるのは自分自身の自由意思によるのであり、神にとっては正当で、憐れみ深い行為である」(『終末の諸事件』279、280ページ)。

「だが定められた広大な軌道にある星のように、神の目的は急ぐことも遅れることもない。大いなる暗黒とけむるかまどの象徴を通して、神はアブラハムに、イスラエルがエジプトで奴隷生活を送ることを示し、その滞在期間は400年であると宣言された。『その後かれらは多くの財産を携えて出てくるでしょう』と神は言われた(創世記15:14)。このことばに対して、パロが誇りとする帝国は、全力をあげて戦ったがむだだった。神の約束に定められていた『その日に、主の全軍はエジプトの国を出た』(出エジプト記12:41)。同じように、天の会議では、キリスト来臨の時が決定されていた。時という大時計がその時間を指し示すと、イエスはベツレヘムにお生れになった」(『各時代の希望』上巻 22ページ)。

ミニガイド【火】

いなごの場合と同じく、第2の幻に出てくる「火」も焼き尽くすような旱魃(はんばつ) を意味するのか、敵国の侵入を指すのか聖書学者の意見は分かれています。神の裁きを考えれば、前者は理解できますし、国が滅びるということを考えれば敵の侵入は状況にかなった象徴と言えましょう。アッシリアは周辺の国々を完全に征服し、サマリアをなめ尽くすように占領しました。(『SDA』聖書注解参照)

北王国イスラエルには19人の王が立ちましたが、その全部が初代王ヤロブアムと同じ罪を犯しました。指導者が偶像礼拝をしたことは国民すべてに悪の感化を与え、イスラエルは当然の審判を受けたのでした。神は預言者を次々に送られましたが、すべての警告と改革の使命は空しく終わりました。そして火は北王国を舐め尽くしたのでした。二世紀にわたって神の警告を無視し、神に逆らった結果、イスラエル王国は壊滅し、イスラエル人はアッスリヤに捕らえられていきました。

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