【アモス書】第3の幻―下げ振り【7章解説】#10

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前の二つの幻と違い、なぜアモスは神への執り成しをしなかったのか、義について、また、恩恵期の積極面などを学びましょう。

マルチン・ルターはある男を捕虜にした貴族について書いています。捕虜になった夫の妻が夫を受け戻しに来たとき、その貴族は夫を返すとの交換条件に彼女に不倫を強要しました。やむなく彼女は条件に従ったのですが、貴族は彼女の夫を殺し、その夫の死体を彼女に返したのでした。彼女は涙とともに事の次第をブルゴーニュ公爵に訴えます。公爵は貴族に彼女を妻とするように命じ、その後で貴族の首をはね、その財産すべてを彼女に与え、彼女の名誉を回復しました。

ルターは実例をあげて、正義が法律や規則にまさる場合があることを教えました。今回は神の正義の約束について学びます。今は完全に理解することができないかもしれませんが、神の正義はつねに憐れみと義に満ちています。

下げ振りを持たれる主

「主はこのようにわたしに示された。見よ、主は手に下げ振りを持って、下げ振りで点検された城壁の上に立っておられる。主はわたしに言われた。『アモスよ、何が見えるか。』わたしは答えた。『下げ振りです。』主は言われた。『見よ、わたしはわが民イスラエルの真ん中に下げ振りを下ろす。もはや、見過ごしにすることはできない』」(アモ7:7、8)。

いなごと火の幻に代わって、アモスは壁や柱などの垂直を確認するときに用いる「下げ振り」を見ました。下げ振りとは「建築家が建物を平行にしたり、垂直にしたりするときに用いる道具です。この『下げ振り』は明らかに、主がイスラエルの行動を点検されることを象徴しています」(『SDA聖書注解』第 4巻 977ページ)。初めの二つの幻においては、神は予告された滅びを「思い直して」おられます。しかしここでは全く条件をつけることなく、起こるべきことをはっきりと告げておられます。

問1

イスラエルに起こる預言の出来事を調べ、なぜアモスは今回、執り成しをしないのか考えてみてください。

主が下げ振りを下ろされたのは「城壁が基準を満たしているかどうかを見るためでした。イスラエルは神の要求を満たしていないために、拒否されるのです。……イスラエルは悪に執着し続けたので、悔い改める希望はありませんでした。それゆえ、預言者は執り成すことをやめました。北王国はアッシリアによって征服され、捕囚の身となるのでした」(『SDA聖書注解』第4巻977ページ)。

アモス7:7、8の主の言葉によって、アモスはイスラエルがもう悔い改めないことを悟ったのでしょう。この言葉は、エルサレムのために涙を流されたときの主に似ています(マタ23:37~39参照)。

まっすぐな義

「主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き/まっすぐにあなたの道を歩ませてください。/わたしを陥れようとする者がいます」(詩5:9)。

下げ振りは町の城壁をまっすぐに保つために用いられました。ヘブライ語聖書にしばしば出てくる「まっすぐ」「正直」という言葉は、主がご自分の民に望まれる特質を表しています。この言葉は「正しい」(民数 23:10)と訳されることもあります。「誰がヤコブの砂粒を数えられようか。/誰がイスラエルの無数の民を数えられようか。/わたしは正しい人[語源は「まっすぐ」「正直」]が死ぬように死に/わたしの終わりは彼らと同じようでありたい」。「正直」という言葉は「正義」に近い意味に用いられています(詩11:7、32:11、33:1参照)。

下げ振りを示すだけでなく、それを「イスラエルの真ん中に」(アモ7:8)下ろすことによって、主はご自分の民の前に裁きの基準を示しておられたのです。下げ振りを正義の象徴と呼んでいる聖書注解者もいます。この聖句に関連して、ある注解者は次のように言っています。「道徳世界における正義は物質世界で垂直に対応する」(『プルピット・コメンタリー、アモス書』147ページ)。

問1

下げ振りは神の義の基準を意味し、イスラエルはこの基準によって裁かれます。次の聖句を見て共通点を注意してください。エゼ40:3、黙示11:1、2

もし私たちが神ご自身によって定められた義の基準によって裁かれるとすれば、自分自身ではとてもそれに耐えられません。私たちのどんな「正しい業もすべて汚れた着物のよう」だからです(イザ64:6)。イスラエルの唯一の望みは信仰によって彼らに与えられる神の完全な義にありました。イスラエルは神に対する信仰を失ったゆえに滅びに直面していました。彼らは下げ振りによって測られる唯一の義である神の義を持たず、義の覆いを失っていました。

道を外したイスラエル

「わたしはサマリアを野原の瓦礫(がれき) の山とし/ぶどうを植える所とする。/その石垣を谷へ投げ落とし/その土台をむき出しにする」(ミカ1:6)。

第 3の幻の中で、主はまずイスラエルを裁き、次にその罪のゆえにイスラエルを罰すると言われます。さらに「もはや、見過ごしにすることはできない」と言われます(アモ 7:8)。9節には、イスラエルがこの裁きの結果、廃墟になる様子が描かれています。

(1)高き所(口語訳)は荒らされる(エレ 2:20、ホセ 4:13参照)偶像礼拝のための宮はふつう、近隣の最も高い場所に建てられました。神は申命記7:5や33:29で、イスラエルにこれらの高い所を壊すように命じておられます。しかし、アモスによれば、イスラエルはそれらを壊すどころか、自分で自分のものを建てていたようです。彼らが壊そうとしないので、神が壊されるのです。

(2)イスラエルの聖なる高台は廃墟になる これらの高台はギルガル、ダン、ベテルにおける偶像礼拝の中心になっていました。

(3)「わたしは剣をもって/ヤロブアムの家に立ち向かう」ヤロブアム 2世の父イエフがヤハウェに従わずに、ヤロブアム1世の罪に従ったので、ヤハウェはイエフの子孫が4代にわたって統治すると言われました(列王下10:30)。ヤロブアム2世の死後、4代目の息子ゼカルヤは6か月間統治した後で、殺害されます(列王下15:12)。こうして、ヤハウェ神の言葉は成就し、イエフ王朝は終わります。

国と言葉

「ベテルの祭司アマツヤは、イスラエルの王ヤロブアムに人を遣わして言った。『イスラエルの家の真ん中で、アモスがあなたに背きました。この国は彼のすべての言葉に耐えられません』」(アモ7:10)。

米国の哲学者ジョージ・サンタヤナは言いました。「歴史を忘れる者はそれを繰り返す運命にある」。「運命にある」という言葉を用いていることからもわかるように、歴史はこうした教訓から学ぶことをしない悲劇を続けてきました。この世の過去の記録は何度も繰り返してほしいほど楽しく美しいものではありません。

アモスの時代にも同じパターンが繰り返されています。アモスは宗教指導者たちが聞きたくない言葉を語りました。彼らにとって、自分たちが批判されること、その考えや行政を非難されることは許しがたく、そこで彼らがまずしたことは、政治的指導者を利用して自分たちに反対して語る者の口を封じてもらうことでした。結果は長く悲しい流血の歴史です。このようなことは以前にもなかったでしょうか。

問1

宗教が政治を利用して反対者を圧迫するというような例が旧新約聖書の中に書かれていませんか。宗教と政治が混合するときの危険性について私たちが学ぶことは何でしょうか。世界歴史の中で、宗教者が自分たちに反対し、反抗する人々をこの世の権力を用いて沈黙させ、処刑した例を考えてみましょう。

祭司アマツヤは、「この国は彼のすべての言葉に耐えられません」と言っています。これは興味深い言い方です。もちろん、アモスの言葉に耐えられないのは国そのものではなく、アモスの言葉を聞こうとしない国民のことです。アマツヤが言いたかったのはアモスの言葉が国そのものをだめにしているということでした。

恩恵期の終わり

アモス書のこの部分には、どこか恩恵期間の終了を思わせるところがあります。無理な類推はすべきではありませんが、一つ共通点があります。つまり、何度もメッセージと悔い改めの機会が与えられた後で、ついに裁きが下されているということです。しかし異なる点もあります。恩恵期間が終了するときには、多くの人が正しい選択をしていますが、アモス書の場合は、イスラエルのほとんどすべての人が滅びに定められています。

問1

黙示録22:11には「義、聖なる者」と「汚れたまま」の人のことが書かれています。この2種類の人の差は何だと思いますか。

恩恵期間の終了は否定的に見られがちです。確かに、誤った選択をする人々にとって、それは悲しむべき時となります。しかし、恩恵期間の終了は、多くの人が正しい選択をする時であり、その選択は神ご自身によって最終的に確定されたものとなります。ある意味で、「一度救われたなら常に救われている」という思想が現実となります。キリストを選んで恩恵期間が終了した時、私たちは決して滅びることがありません。これは喜ばしい福音です。

問2

恩恵期は死とともに閉じられますが、私たちはいつ死ぬかを知りません。「毎日、毎瞬、神と正しい関係にある」という状態は何によって実現すると思いますか。

恩恵期間の終了は、イエスがご自身の血をもってすべての人の魂をあがなってくださった十字架の光に照らして理解する必要があります。さもなければ、それはきわめて否定的なものとなります。確かに、魂の永遠の運命が量られるという意味で、恩恵期間の終了はきわめて厳粛な時です。しかし、神がひとりでも多くの人を永遠の王国に導き入れようとしておられること、またこの永遠の命がイエスご自身の死によって可能となったことを、私たちは覚えるべきです。

まとめ

イスラエルの最後の王はホシェアです。アッシリアによってサマリアが陥落したとき、ホシェアは捕囚となり、イスラエルの運命は決しました。恩恵期の終了はやがて来る世界に対する恩恵期の終了を指し示すものです。

「北王国の陥った破滅は、天からの直接の刑罰であった。アッスリヤ人は、神がご自分の目的を達成させるためにお用いになった器に過ぎなかった。サマリヤが陥落する少し前に預言し始めたイザヤによって、主はアッスリヤの軍勢が、『わたしの怒りのつえ』であると言われた……(イザヤ書10:5新改訳)。……[イスラエルが]頑強に悔い改めることを拒み続けたために、『主は……彼らを苦しめ、彼らを略奪者の手にわたして、ついに彼らをみ前から打ちすてられた』。……主は、12部族に下った恐るべき刑罰の中に、賢明であわれみ深いご計画を秘めておられた。神は、先祖たちの地においては、もはや彼らに実行させ得なくなったことを、異邦人の間に彼らを離散させることによって達成しようとなさったのである。人類の救い主によって、ゆるしを受けようとするすべての者に対する神の救いの計画は、なお達成されなければならなかった。そして、イスラエルに与えられる苦難によって、神は、神の栄光が地の諸国にあらわされる道を備えておられたのである。捕らえられて行った者が、みな悔い改めなかったのではなかった。彼らの中には、神に忠実に仕えた者があり、神の前に自らを低くした者があった。このような『生ける神の子』によって、神は、アッスリヤ帝国の大群衆に、神の品性の特質と神の律法の恵み深さとをお知らせになるのであった(ホセア書1:10)」(『国と指導者』上巻258,259ページ)。

ミニガイド【下げ振り】

新共同訳は「下げ振り」とありますが、他に「測りなわ」(口語訳)、「重りなわ」(新改訳)などという語が使われています。「下げ振り」は今日でも大工さんが家を建てるときに使う道具で、図をご覧ください。イスラエル時代には、城壁を建てたあと、この下げ振りを使って城壁が正しく、まっすぐ、垂直に建っているかどうかを確認したのでした。神はイスラエルの城壁を調べるのでなく、イスラエルの神との関係を調べる例証として「下げ振り」を挙げたのです。「下げ振り」は義の基準を表すもので、神の正義を基準としてイスラエルの状態を測り、調べることを述べられたのでした。結局、神の検査によれば、イスラエルは義の規準を離れており、明らかに神との関係はゆがんだ状態で、もはや修復不可能とされました。

ミニガイド【祭司アマツヤ】

「ベテルの祭司」とありますが、ベテルは最初のころ「神の家」(創世 28:19)を意味しました。ところがホセアは「ベト・アベン(害悪の町)」(10:5)と呼んでいます。アマツヤはそこの偶像礼拝の大祭司であったようです。アモスの攻撃的な非難に耐え切れず、アマツヤは預言者を「裏切り者」とヤロブアムに伝え、彼を迫害して「ユダヤに帰れ」と排除しようとしました。身の危険に遭ってもアモスは毅然と神の言葉を語りました。(『SDA聖書注解』参照)

*本記事は、安息日学校ガイド2001年4期『アモス書 主を求めて、生きよ』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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