この記事のテーマ
神は罪をどのように見、どう扱うのでしょうか。最後に神が罪を罰し、審判を行うということは私たちに慰め、喜びと思えるでしょうか。罪の刑罰より私たちを助けてくださった十字架、創造の神が滅ぼす神でもあること、神だけが公正な審判者であることなどを研究しましょう。
シェイクスピアの戯曲『ハムレット』の中に、若いハムレットが王によって殺された父の復讐を(ふくしゅう) するため王の寝室に忍び込む緊迫した場面があります。しかし、ひざまずいて祈っている王に近づいたとき、ハムレットの心は突然変わります。祈っている人を殺したくなかったからです。彼は考えます。「あの悪党がおれの父を殺して、そしてこの一人息子のおれがその悪党を天国に送りこむ」というのか。
シェイクスピアが神学的に無知であったかどうかは別として(彼は死者の状態について知らなかった)、ここでの問題は復讐心です。ハムレットのように復讐の思いを抱くことは誰にもあるはずです。自分が不公平な扱いを受けたり、憎むべき不正が罰せられず、見過ごしにされたりするのを何度も見聞きしているからです。
全知の神が最終的に正しく裁かれることを今週は学びます。神の完全な正義に信頼しましょう。
祭壇の傍らに立たれる主
「わたしは祭壇の傍らに立っておられる主を見た。主は言われた。『柱頭を打ち、敷石を揺り動かせ。すべての者の頭上で砕け。生き残った者は、わたしが剣で殺す。彼らのうちに逃れうる者はない。逃れて、生き延びる者はひとりもない』」(アモ9:1)。
主は祭壇の傍らに立っておられますが、祭壇がどこかという点では聖書注解者の間でも解釈が分かれていますが、おそらくベテルの祭壇だと思われます。そこはイスラエルの偶像礼拝の中心地でした。神の正義の裁きがまさに不義の民の上に下ろうとしていました。
問1
アモス9:1に書かれている要点は何でしょうか。
神は決して罪を黙認されません。完全に義にして聖なる神が罪を容認することも、見逃すこともありません。しかし神は罪を忍耐されます。これが決定的な違いです。忍耐は黙認や容認とは異なります。むしろその逆で、最終的に神はこの宇宙から罪を完全に、永遠に根絶されます。どのようにして罪人を除去することなく罪を除去することができるのでしょうか。十字架の意味がここにあります。カルバリーにおいて、神は罪人を罰せず、罪を罰することをされたのでした。
問2
十字架において神は罪を滅ぼしたが、罪人を滅ぼしたのではないということをあなたは信じますか。
残念ですが、すべての罪人がその罪から救われるわけではありません。アモス書はこの悲しく、厳しい現実について教えてくれます。最後には、すべての罪が罰せられます。重要な問題は、この刑罰を受けるのがだれかということです。神は十字架によって、私たちがこの刑罰を逃れる道を備えてくださいました。しかし、それは十字架を受け入れるときだけです。受け入れなければ、刑罰が臨みます。これと同じことがアモス書で起こりました。罪から離れよ、という訴えが繰り返されたのに、彼らはその罪のうちにとどまることを選びました。それゆえに、罪が滅ぼされるとき、彼らもまた滅ぼされるのです。
隠れる場所はない―その1(アモ9:2~4)
「たとえ、彼らが陰府(よみ) に潜り込んでも/わたしは、そこからこの手で引き出す。/たとえ天に上っても/わたしは、そこから引き下ろす」(アモ9:2)。
これは恐ろしい言葉ですが、ある意味で慰めを与えてくれる言葉でもあります。なぜなら、最後には神の正義が実現することを教えているからです。いかに悪が満ちあふれようとも、いかに不正がなされようとも、悪を行う者たちは、いつの日かそれに答えなければなりません。この約束は私たちに希望と慰めを与えてくれます。迫害者の手によって苦しんでいる人たちは特にそうです。
問1
次の聖句の共通点を挙げて下さい。ヘブ10:30、黙示20:13~15
私たちの神は正義の神です。正義の実現は遅れているように見えますが、それは私たちが大争闘における神の働きを十分に理解できないからにすぎません。いま理解できないことが多々あったとしても、毎日主に献身する必要があります。たとえ今は理解できないように見える事柄であっても、神はご自身に信頼すべき十分な理由を私たちに与えておられます。理解できる事柄について瞑想すればするほど、またはっきりしている事柄に思いを集中すればするほど、不公平に見える事柄に関して忍耐し、神に信頼することができます。
隠れる場所はない―その2
「主は……助けを求める叫びに耳を傾けてくださる」(詩34:16)。アイザック・ニュートンは最も基本的な運動の法則の一つを確立しました。「すべての作用にはそれと同等の反作用がある」(作用反作用の法則)。私がいくら強く壁を押しても、壁はそれと同じ力で押し返しているというのです。この法則は、ある意味で、霊的な世界にも当てはまります。アモス書9:1~4は、悪人が神の裁きを逃れることができないと教えています。たとえ彼らがどこに逃れようとも、全知全能の神は彼らを探し出されます。
しかし、この法則は逆の方向にも働きます。神は私たちの特別な状況、痛み、悲しみ、恐れをご存知です。もし神から逃れようと望む者たちが逃れることができないのであれば、神の助け、約束、保証を求める私たちはそれ以上に神の守りのうちにあることになります。
問1
次の聖句にはどのような約束が見られますか。マタ18:20、マタ28:20、ロマ8:38、39
共産主義のもとで何年も牢獄(ろうごく) につながれていたリチャード・ブルムブラントは、信仰の驚くべき事実について記しています。多くのクリスチャンが牢獄の中でさえ十分の一を捧げていたというのです。「週に一度、一切れのパンが、また毎日、薄いスープが支給されますが、そのときでさえ、われわれは忠実に『十分の一』を捧げることを決めました。10週に一度、われわれはその一切れのパンを取って、それを主に献げる『十分の一』として、衰弱した兄弟たちにお分けしました」(『キリストのために苦しむ』45ページ)。どんな過酷な状況にあっても、主が共におられると信じる人たちでなければできないことです。
創造主にして破壊者(アモ9:5、6)
問1
「万軍の主」で始まり「その御名は主」で終わるこの聖句に神のどのような属性が強調されていますか。
神は意思と力において独立したお方(詩 115:3参照)、すなわち全能のお方です。神は天の万象の支配者であり、すべての被造物の正当な支配者です。神は天と地においてあらゆる権威を持っておられます(Ⅰペト3:22参照)。アモス書9:5、6は神の力、威厳、権威をはっきりと描写しています。それらはイスラエルの裁きにおいて明確に啓示されるのです。
問2
神の力が「大地に触れる」と何が起こりますか。
ろう神の火は「火の前ののように」地を溶かします(ミカ1:3、4参照)。再臨においてはいろいろな自然の災害が地を滅ぼすために用いられますが、多くの活火山もまた地中からマグマを噴き出します。アモス書 9:5、6はキリスト再臨における出来事を象徴的に描いていると考えられます。
興味深いのは、アモス書9章の5節と6節に見られる違いです。5節では、主が大地を溶かし、それを洪水のように盛り上がらせると書かれていますが、6節では、主が天に高殿を設け、地の上に大空を据えられると書かれています。一方では神が創造者として、他方では神が破壊者として描かれています。これはきわだった対照です。
私たちは神を創造者としてのみ見がちですが、それだけが神の役割ではありません。神は創造者にして破壊者なのです。重要なのは、神が何を創造し、何を破壊されるのかを理解することです。このことを理解するときに、私たちの神がどのようなお方であるかがわかります。
ふるい
「見よ、わたしは命令を下し/イスラエルの家を諸国民の間でふるいにかける。/ふるいにかけても/小石ひとつ地に落ちないように」(アモ9:9)。
ヨーロッパでのある宗教戦争のときのこと、ある村を包囲した司令官が王に向かって、村のだれが味方であり、だれが敵であるかを識別する方法を教えるように要求しました。王は答えました。「彼らをすべて殺すがよい。神が裁きのときに彼らを識別されるであろう」。
これは性急な言葉かもしれませんが、その中にはいくぶん真理が含まれています。「主は御自分の者たちを知っておられる」(Ⅱテモ2:19)。アモス書に描かれた危機に際しても、神は忠実な人を識別されるのでした。
問1
このようなふるいの時にも「もっとも小さい実も地に落ちない」(新欽定訳、英文)とは何を意味しますか。
イエスは毒麦のたとえの中で(マタ13:25~30)、「良い麦と悪い麦」が一緒に育つこと、それらが分けられるのは最後の収穫においてであること、区別をするのは御自身の役割であることを教えておられます。イエスがこのたとえの中で教えておられるのは、人を裁くな、裁きはわたしのすることであるということです。
問2
人が人を裁けないことについて教えている聖句を挙げて下さい。
これらの聖句はアモスに、自分の口を閉じて、自分のことに専念するように教えていると考えることもできます。いずれにせよ、アモスにもこれらの民を裁くことはできませんでした。
まとめ
聖書は裁きについて述べており、この事実を避けることはできません。恐ろしいことですが、神は逃れの道や方法を私どもに啓示しておられます。なぜ私たちはおびえ、心配するのでしょう。キリストの宗教は心の平和を与えるものではありませんか。神だけが公正な審判者です。人がそれをしてはなりません。これが聖書の堅い教えです。
「国民が主の前に集められる時、そこには二つの階級しかないのであって、彼らの永遠の運命は、貧しい者や悩める者を通して主のためにつくしたか、それともつくすことを怠ったかによって決まるのである。
その日には、キリストは、ご自分が人々のあがないのために生命をささげて彼らのためにつくされた大いなるみわざを彼らの前にお示しにならない。主は、人々が主のためになした忠実な働きをお示しになる。主はその右手を置かれる人々にこう言われる、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』(マタイ25: 34~36)。しかしキリストからほめられる人たちは、自分がキリストに奉仕していたことを知らない。彼らのとまどった質問に、主はこう答えられる、『わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』(マタイ25:40)」(『各時代の希望』下巻107、108ページ)。
ミニガイド【神の裁きの完全さ、徹底さ】
最後の幻においてアモスは祭壇の側に立つ主の姿を見ました。その命令は「打ち砕け」でした。この章で終始一貫裁きが宣告されています。しかもその時は差し迫っていました。裁きは神の家、ベテルの神殿、イスラエル国家の礼拝の中心地、信仰のよりどころ、神聖な神の臨在を示すその場所から始まりました。「柱頭を打ち、敷石を揺り動かし……」。柱頭を打てば屋根は落ち、建物は崩れて倒壊し、中にいる礼拝者は命を落とします。地面にもぐっても主は見つけ出し、宙に浮いても(たとえ有り得ないような状況に逃れても)滅ぼされると仰せになり、主は裁きを逃れ得る者が一人もないことの確実さを教えています。恐るべき運命を逃れる道はただ一つ、キリストの十字架です。
ミニガイド【セブンスデー・アドベンチスト教会の理解】
第一の死は肉体が死ぬことで、アダム以来の全人類が罪の結果として受ける刑罰です。人はこれを逃れることができません。聖書はこの死を“眠り”として形容しています。眠りであれば死が感覚を持つものでなく、眠りであればいつか目が覚める時があるわけです。主を信じる聖徒たちにとって、肉体の死は悲しいことですが、再び会う希望のゆえに、信仰によって乗り越える力が与えられます。第二の死もアダム以来の全人類が罪の結果として受ける永遠の刑罰ですが、キリストは十字架でこの刑罰を私に代わってお受けになり、私はこの死から救われました。第二の死は最後の裁きにおいて受けるものですが、それは天から降る火による一瞬の滅びです。永遠に死ぬこともできない、永遠に意識を持って苦しむ地獄では決してありません。キリストは十字架の死においてこの二つの死を通られました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタ27:46)と叫ばれたキリストは、単に第一の肉体の死を恐れたとは考えられません。主は弟子たちに以前から「わたしは死んでよみがえる」と何度もおっしゃっています。主が十字架で通られた死は、神のみ子が、最愛の父なる神との別離という罪のもたらす究極の恐れと苦悩を表しています。命を持ちたもう神、キリストはご自身のうちにある命によって復活されたのでした。この復活の主を私たちキリスト者は信じているのです。
*本記事は、安息日学校ガイド2001年4期『アモス書 主を求めて、生きよ』からの抜粋です。