この記事のテーマ
「キリストが弟子たちに、『全世界に出て行って、福音を宣ベ伝えなさい』と言われたとき、ペトロはこう質問したでしょう。『主よ、エルサレムに戻って、あなたを殺した者たちに福音を伝えよと言われるのですか』。主は答えます。『そうだ。行って、わたしの顔につばをかけた人を捜し出し、天国に彼のための場所が用意されていると告げなさい。茨の冠を作り、それをわたしの頭にかぶせた人を捜し出し、彼が天国に来るとき彼のためにとげのない冠を用意していると告げなさい。葦(あし) の棒を取って茨の冠をたたき、わたしの額に食い込ませた人を捜し出し、……もしわたしの救いを受け入れるなら、その手に王の笏を(しゃく) 授けると告げなさい。槍(やり) でわたしのわき腹を刺し通した人を捜し出し、わたしの救いを受け入れるなら、彼を赦し、救いに入れると告げなさい』」(D・L・ムーディ)。
今回は神の回復の約束について学びます。ムーディの言葉は、私たちの仕える神がどのようなお方か、アモス書に啓示された神がどのようなお方であるかを例示しています。神はみ子を十字架につけた者を赦し、救うお方です。新天地のイメージ、新天地を象徴するユダヤ捕囚の終わりとエルサレムへの帰還のことも研究しましょう。
ダビデの仮庵
「その日には/わたしはダビデの倒れた仮庵を復興し/その破れを修復し、廃虚を復興して/昔の日のように建て直す」(アモ9:11)。
ある人が有名な伝道者のビリー・グラハムに、「あなたは楽観主義者ですか、それとも悲観主義者ですか」と尋ねたことがあります。これに対して、ビリー・グラハムは、「わたしは楽観主義者です。聖書の最後のページを読んでいますから」と答えました。
この答えは当然であり、私たちもそうあるべきです。しかし、聖書の最後のページだけが、神にあって喜び、神の約束に信頼し、将来を楽観視する根拠を与えてくれるのではありません。新約聖書も旧約聖書も、その詩文、散文、歌、手紙を通して、新しい世界、回復された地球についての素晴らしい約束を与えています。それは、万物が正しく、きよく、真実なものとされるときです。すべての不義、汚れ、不正が永遠になくなるからです。
問1
忠実な神の聖徒たちへの最終的な報いを示す聖句を読んでみましょう。イザ25:8、Ⅰコリ15:52、55、Ⅱペト3:13、黙示21:1~7、黙示22:1~5
破壊された所を建て直す―異邦人への福音
「その後、わたしは戻って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。その破壊された所を建て直して、元どおりにする」(使徒15:16)。
アモス書の最後の数節(アモ 9:11~15)は神の約束について述べています。それはへブライ民族が不従順のゆえに捕囚となるが、神は元の地に回復してくださるという約束です。
しかし、それで終わりではありません。アモスの時代から何世紀もたってから、ヤコブは使徒言行録 15章の中でアモス書 9:11を引用して大事な福音の真理に適用しました。
問1
エルサレム会議で議長のヤコブはアモス9:11、12を引用して重要な真理を述べました(使徒15:16~18)。使徒言行録 15章を読み、アモスが単にユダヤ人の帰還と回復だけを意味しない、もっと大きな福音の姿を伝えようとしたことを学んでください。
「議論を重ねた後、ペトロが立って彼らに言った。『兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした』」(使徒 15:7~9)。
アモスは、ユダヤ人が祖国へ帰還することばかりでなく、福音が異邦人に宣べ伝えられることも預言していたのです。初代教会によって開始された異邦人への宣教は、福音が「あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に」(黙示 14:6)宣べ伝えられるときに最高潮に達します。
神はこの世界を完全に回復し、罪から清め、元の計画どおりに、いやそれ以上のものに再創造しようと計画しておられます。私たちにはすべての人によき訪れを伝える責任があります。
耕す者は刈り入れる者に続く
「見よ、その日が来れば、と主は言われる。/耕す者は、刈り入れる者に続き/ぶどうを踏む者は、種蒔(ま) く者に続く。/山々はぶどうの汁を滴ら(したた) せ/すべての丘は溶けて流れる」(アモ9:13)。
直接的には、悔い改めたイスラエルが長年の捕囚の後に祖国に帰るということが述べられていますが、象徴的には、人類の最終的な望み、すなわち神がキリストの死を通して完成してくださった大いなる贖い(あがな) のことが述べられています(ロマ 8:23、エフェ1:14、ヘブ 9:12)。
アモスは13節で、耕す者が刈り入れる者に続き、ぶどうを踏む者が種蒔く者に続く日が来ると述べています。これは、収穫があまりにも多く、豊かなため、次の種蒔きまでに刈り入れることができないことを示しています。言い換えるなら、収穫があまりにも豊かなため、畑を耕す者がまだ刈り入れている者とぶつかるということです。もちろん、これは象徴的な意味であって、実際の意味は、私たちがキリストによって想像もできないほどの素晴らしい祝福を約束されているということです。「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」(Ⅰコリ 2:9)。
問1
捕囚ユダヤ人の帰還と回復は終末の最終的な贖いの型、または象徴となっています。両者にどのような関連が考えられますか。黙示録 18:1~4の聖句も読んでください。相似点を書き出してみましょう。
新天地の希望
「わたしは、わが民イスラエルの繁栄を回復する。/彼らは荒された町を建て直して住み/ぶどう畑を作って、ぶどう酒を飲み/園を造って、実りを食べる」(アモ9:14)。
ここに田園詩のような美しい光景が描かれています。罪、背信、偶像崇拝、圧迫、堕落、刑罰についての警告に満ちたアモス書の結びにしては信じ難いくらいです。これまでの内容を見ればとても考えられないことです。聖霊の霊感を受けた者にしか預言できません。イスラエル民族は、放っておけばエドム人、モアブ人、エブス人などと共に、とうの昔に歴史の中に埋没していたことでしょう。
同じように、周囲の世界を見渡しても、将来に希望を与えてくれるものはほとんどありません。人間の考え出したユートピアを待ち望んでいるのは一部の楽天主義者だけです。ユートピアを建設しようとしたあらゆる試みが、その甘い言葉とは裏腹に地獄の現実しか生み出さなかったことを見れば明らかです。
たとえ人類がより良い世界を創り出すことができたとしても、科学者の予言によれば、太陽はいずれ爆発します。もしそうなれば、たとえユートピアを創り出しても、何の意味もありません。
幸いなことに、聖書には、愛と力の神がこれまで見たことのない方法で終わりをもたらしてくださることが約束されています。神は必ず実現してくださいます。なぜなら、神がそのように約束し、その約束をご自身の血をもって封印されたからです。
無条件の、永遠の王国
「わたしは彼らをその土地に植え付ける。/わたしが与えた地から/再び彼らが引き抜かれることは決してないと/あなたの神なる主は言われる」(アモ9:15)。
アモス書の最後の節は捕囚後の回復の約束について述べています。それは美しく、希望に満ちた約束ですが条件つきでした(エレ18:7~10参照)。確かにイスラエルは祖国に帰りましたが、何世紀か後には再び故国を失う辛酸(しんさん) な苦痛を経験しました。このことからもアモス書 9:15が神の最終的な回復についての完全な象徴ではないことがわかります。回復された新天地は永遠にわたるものです。
問1
ダニエル7:14、27には、神が最終的に回復されるみ国についてどのように表現されていますか。
キリストの十字架によって神が永遠の王国を確立されるのは疑いの余地がありません。これには何の条件、曖昧(あいまい) さ、疑問もありません。神の国は必ず実現します。キリストの死はそのことの保証です。変更しうる唯一の条件があるとすれば、それは私たち自身の問題であり、私たちの意思、私たちの選択です。あなたはこの無条件の、永遠の王国に入ることを選びますか。
素晴らしい知らせがあります。私たちが神の永遠の王国に入ることができるように、イエスはカルバリーで私たちに代わって死んでくださいました(ヘブ2:9)。イエスの十字架は無条件で、普遍的で、充分なものでした。それは例外なくすべての人のため、また私たちのすべての罪を贖う(あがな) に十分なものでした。取り残される人、見過ごされる人、無視される人は一人もいません。イエスを十字架にかけた人たちでさえそうです。イエスの死はすべての人類を包含します(ロマ5:15~19)――どんな極悪人であっても、です。とするなら、残るのは人間の側の理由だけです。神が私たちのために無条件に成し遂げてくださったことにどう応答するか、です。あなたはそれを受け入れますか、それとも拒みますか。モーセからエレン・ホワイトまで、各時代の預言者たち、またアモスも同じことを訴えてきました。それは、「主を求めて、生きよ」ということです。
まとめ
来るべき神のみ国、完全な救いについて瞑想しましょう。この世に生きる私たちはやがて来る永遠の世界をどれほど待望しているでしょうか。どれほどの価値を期待しているでしょうか。
次の聖句を読んで、主の日に関連した出来事について理解を深めてください。イザ 25:9、ゼファ 1:14、18、マラ3:23(口語訳4:5)、マタ 16:27、25:32、Ⅰテサ 4:16、17、Ⅱペト3:10~ 13
「間もなく、わたしは、天地を振動させる神のみ声を聞いた。大きな地震が起こった。建物はいたるところで倒れた。その時わたしは、大きな、音楽のような、はっきりした勝利の叫びを聞いた。わたしは、ついさきほどまで困惑と捕われの中にあった一団の人々を見た。彼らの束縛は解かれた。彼らの上には栄光の光が輝いていた。その時彼らは、なんと美しく見えたことだろう。心労と苦労のあとはすべて消え、すべての者の顔に健康と美がみなぎっていた。彼らの回りの敵や異教徒は、死人のように横たわっていた。彼らは、救われた聖なる人々の上に輝いた光に耐えられなかったのである。イエスが天の雲にのって来られ、忠実で試みを経た一団の人々がまたたく間に一瞬にして栄光から栄光へと変えられるまで、この光と栄光とは、彼らの上にとどまった。そして、墓は開かれ、聖徒たちが、不死をまとって、『死と墓に対する勝利』を叫んで出てきた。彼らは、生きている聖徒たちと共に天に携えられて、空中で主と会った」(『初代文集』441,442ページ)。
アダムを通してすべての人は滅亡の運命が不可避となりました。キリストを通してその不可避と思ったものは避けられることが確実になりました。アダムによって全世界は有罪とされました。キリストを通して全世界は第2のチャンスを与えられました。この第2のチャンスを私たち個人個人がどう受け取るのかが究極の選択です。十字架によるイエスの救い、み業に私たちはどう応えますか。
ミニガイド
アモス書の研究を終えて……瞑想の課題
アモス書の主題は、(1)イスラエル滅亡の危険を警告すること
(2)罪を指摘し、彼らが悔い改めて神に帰ることの使命伝達にありました。不幸にして人々は預言者の言葉を無視し、その結果としてアッシリアによる滅びを経験したのでした。列王記下17章の前半はサマリア陥落の事情を述べ、続いて「こうなったのは……」と滅亡の理由を克明に挙げています。注意深く読んでみてください。そこには「イスラエルの人々が……他の神々を畏れ敬い、……諸国の民の風習に従って歩んだ」(7、8)、「自分たちの神、主に対して正しくないことをひそかに行い」(9)、「主が、『このようなことをしてはならない』と言っておられたのに、彼らは偶像に仕えたのである」(12)とあります。具体的には「聖なる高台を建て、……石柱やアシェラ像を立て、……香をたき、……息子や娘に火の中を通らせ……」と説明しています。外国の宗教は幼児犠牲と神殿売春などの悪習を神の民に覚えさせました。しかもこれらは宗教の名においてなされた非人間的な犯罪でした。神の介入がなければ世界にこの種の悪がはびこったでありましょう。
3か月間の研究で私たちは何を学んだでしょうか。相次ぐ厳しい刑罰に、世の終わりについての恐怖を感じませんでしたか。聖書のテーマは救いと言いますが、その一方、最後の審判、滅亡、死について預言者をはじめ、多くの警告が発せられています。私たちは日本の同胞にどのような使命を伝えることが最善と考えますか。地獄の恐怖を迫って悔い改めに導きましょうか。神にある平和、愛、希望を語って福音を証ししましょうか。脅しはキリスト教的とは思えませんが、悔い改めへの迫力としては大きな役割を持っています。このことをどのように理解し、日本伝道にどのように語るべきかを話し合ってみましょう。
聖書の最後にある黙示禄の最終章は永遠の新天地です。アモスの預言もイスラエルへの滅亡のメッセージで終わっておらず、最終的なイスラエルの救済の約束でした。アドベンチストの使命は終末のメッセージであるはずはなく、希望と究極的な救済です。このことを神に感謝しましょう。
*本記事は、安息日学校ガイド2001年4期『アモス書 主を求めて、生きよ』からの抜粋です。