この記事のテーマ
やせ衰えた男が、裸足で2人の息子と歩いています。別の家族は、やせた牛が引く荷車に荷物を積んで運んでいます。男が牛を引き、荷車の上には2人の女が座っています。荷車のない貧しい人たちは、荷物を肩に背負って歩いています。
至るところに兵士の姿があり、破城槌が城門を打ち砕いています。破城槌に乗った兵士たちは、城壁の上で町を守る兵士たちに向かって、矢を放っています。兵士の死体の山が、この戦いが独り勝ちにあることを物語っています。
その前方に目をやると、戦利品と捕虜を前に、1人の王が威厳をもって玉座に座っています。王の足元には、両手を上げて、あるいは跪いて命乞いをしている捕虜がいます。この場面の説明は、次のような言葉で始まっています。「玉座に座り、……ラキシュの町から奪った戦利品を品定めする世界の王、アッシリアの王、センナケリブ」(ジョン・マルコム・ラッセル『壁画』137、138ページ、1999年、英文)。
この壁画は、センナケリブの王宮の壁を飾っていたものですが、今は大英博物館にあって、なお神の民が置かれる苦境について物語っています。
付帯条件(イザ36:1)
問1
ユダにどんなことが起こりましたか(王下18:13、代下32:1、イザ36:1)。
背信のアハズ王が死に、信心深い息子のヒゼキヤが王位を継ぎますが、ヒゼキヤの継いだ王国は、完全な独立性を失っていました。シリアと北イスラエルの同盟軍に対抗するために、アッシリアの助けを買収したユダでしたが、その後もいわゆる「みかじめ料」として、アッシリアに貢ぎ物を納め続けることになります(代下28:16~21参照)。アッシリアのサルゴン2世が遠征中に死に、紀元前705年にセンナケリブが後を継ぐと、アッシリアは弱体化したかに見えました。アッシリアと聖書の記録によれば、ヒゼキヤはこれを反逆の好機と捉え(王下18:7参照)、アッシリアに対抗する弱小諸国を束ねる大胆な行動に出ます。
しかし、不幸にも、ヒゼキヤはアッシリアの回復力を見くびっていました。センナケリブは、紀元前701年に帝国内の反乱勢力を鎮圧すると、圧倒的な戦力をもってシリア・パレスチナに侵攻し、ユダを占領します。
問2
ヒゼキヤは、アッシリアとの戦いに備えて、どんな準備をしましたか(代下32:1~8)。
センナケリブが首都エルサレムを攻略しようとしていることを知ったヒゼキヤは、アッシリアとの戦いに備えて、完璧に準備を整えます。要塞を強化し、軍隊を補強し、エルサレムに安定した水道を確保しました(王下20:20、代下32:30参照)。
ヒゼキヤは軍事的、政治的に優れた指導者であったばかりでなく、霊的にも優れた指導者でした。危機的状況にあって、次のように民の士気を奮い立たせています。
「しかしユダの王は、敵に抵抗するために彼のなすべき分をつくす決意を固めた。そして人知と精力の限りをつくした上で彼は軍勢を集めて、彼らに勇気を出すように勧告したのである」(『希望への光』521ページ、『国と指導者』上巻316ページ)。
宣伝工作(イザ36:2~20)
アッシリアの統治者たちは、残忍であるだけでなく、聡明でした。彼らの目的は、単に破壊することではなく、富と権力を手に入れることでした(イザ10:13、14)。そこで、センナケリブは、ラキシュを包囲する一方で、高官のラブ・シャケを送って、宣伝工作によってエルサレムを奪おうとします。
問3
ラブ・シャケは、どんな論拠を用いて、ユダの戦意をくじきましたか(イザ36:2~20、王下18:17~35、代下32:9~19参照)。
ラブ・シャケの言葉には、説得力がありました。彼は次のように言いました。
「エジプトは、弱く頼りにならない。ヒゼキヤ王が、ユダ中の主の高台と祭壇を取り除き、エルサレムの祭壇だけで礼拝するように言って主を怒らせたので、主に頼ることはできない。事実、主はアッシリアに味方し、センナケリブにユダを滅ぼすように言われたのだ。お前たちには、我々が二千頭の馬を与えたとしても、それだけの数の訓練された兵士もいまい。町を包囲され、餓死する前に降伏せよ。そうすれば、悪いようにはしない。ヒゼキヤには、お前たちを救うことができない。なぜなら、アッシリアに征服された他の国々の神々が彼らを救うことができなかったように、お前たちの神もお前たちを救うことはできないからだ」
問4
ラブ・シャケは、真実を語っていたでしょうか。
ラブ・シャケが語ったことの多くは事実でしたので、主張には説得力がありました。ユダの住民はみな、アッシリアに敗北した他の軍隊や町々がどうなったかを知っていました(北イスラエルの首都、サマリアを含む〔王下18:9、10〕)。人間的に見れば、エルサレムも同じ運命をたどると考えたはずです(イザ10:8~11と比較)。確かに、ヒゼキヤはエルサレムの神殿を礼拝の中心とするために、国中の祭壇を破壊しました(王下18:4、代下31:1)。しかし、この改革は、民の唯一の希望である主を怒らせたでしょうか。
揺り動かされるが、捨てられない(イザ36:21~37:20)
問5
雄弁なラブ・シャケの説得は、ヒゼキヤとその家臣たちにどんな影響を与えましたか(王下18:37~19:4、イザ36:21~37:4)。
ヒゼキヤは心身を震わせ、嘆きの中で喪に服して神のもとに行き、へりくだって、彼の父がかつてその勧告を無視したイザヤに執り成しを求めます。
問6
神はどのように、ヒゼキヤを勇気づけられましたか(イザ37:5~7)。
神からのメッセージは短いものでしたが、十分なものでした(イザ37:5)。神は、ご自分の民の側におられました。イザヤは、センナケリブがうわさを聞いてユダに対する戦意をくじかれると告げます。そして、その預言は、すぐに実現することになります。
センナケリブは、一時的にひるみましたが、決してあきらめたわけではありませんでした。彼はヒゼキヤを脅迫して、次のように伝えます。「お前が依り頼んでいる神にだまされ、エルサレムはアッシリアの王の手に渡されることはない、と思ってはならない。……諸国の神々は彼らを救いえたであろうか」(イザ37:10、12、代下32:17参照)。
ヒゼキヤは、今度はまっすぐに神殿に行き、「ケルビムの上に座しておられる」万軍の主の前に、センナケリブの手紙を広げて祈ります(イザ37:14~16)。
問7
ヒゼキヤの祈りは、エルサレムの危機に際して、真に危機に瀕していたのは何だと述べていますか(イザ37:15~20)。
センナケリブは、ヒゼキヤの最強の砦である彼の神への信仰を攻撃したのでした。しかし、ヒゼキヤはこれに屈することなく、神にご自身を示してくださるように嘆願します。「……地上のすべての王国が、あなただけが主であることを知るに至らせてください」(イザ37:20)。
物語の続き(イザ37:21~38)
年代記によれば、センナケリブは46の要塞都市を奪い、エルサレムを包囲し、ユダヤ人ヒゼキヤを、「かごの鳥のように、その王の住みかエルサレムに捕えた」と記録しています(ジェームズ・B・プリチャード編『旧約聖書に関する古代近東文書』288ページ、1969年、英文)。しかし彼は、自慢好きの途方もないうぬぼれ屋であったにもかかわらず、文書にも壁画にもエルサレム奪取の記録を残していません。人間的に考えて、アッシリアに逆らう者は生かしておかなかった冷酷非情な権力者センナケリブが、反逆を企てたヒゼキヤを見逃したとは考えられません。
聖書には記録されていませんが、なんらかの奇跡が起きたことは確かであり、学者たちも認めています。センナケリブがその「比類なき王宮」を彼の武勲であるラキシュ陥落の壁画で飾ったのは、明らかに彼の面目を保つためであったはずです。しかし、神の憐れみがなかったなら、この壁画には、ラキシュでなく、エルサレムの陥落が描かれていたことでしょう。その後に起きたことについて、センナケリブは沈黙していますが、聖書は語っています。
問8
この物語の続きは、どのように記されていますか(イザ37:21~38)。
ヒゼキヤの揺るがない信仰の祈りに答えて、神はユダに揺るがない安全保障のメッセージをお与えになります。それは、高慢なアッシリアの王に対して下った、燃える神の怒りでした(イザ37:23)。神は速やかに、エルサレムを守る約束を成就されます(王下19:35~37、代下32:21、22、イザ37:36~38)。
アッシリア軍の死者は、実に18万5千人に上りました。センナケリブは、撤退を余儀なくされ、自国で非業の死を遂げます(イザ37:7~38と比較)。
「ヘブル人の神は、高慢なアッスリヤ人を打ち負かしたのである。周囲の国々の目の前で、主の名誉が保たれた。エルサレムでは、人々の心は聖なる喜びに満たされた」(『希望への光』525ページ、『国と指導者』上巻327ページ)。
もし、センナケリブがエルサレムを征服していたなら、住民を国外に強制移住させ、ユダは北イスラエルと同じように、その独自性を失っていたでしょう。そうなれば、メシアが生まれるはずのユダヤ民族も消滅し、彼らの歴史はそこで終わっていたでしょう。しかし、神は希望の光を灯し続けてくださいました。
病と富(イザ38、39章)
イザヤ38章と39章(王下20章)の出来事は、神がヒゼキヤをセンナケリブから救出されたちょうどその頃に起きました。
「サタンはヒゼキヤの死とエルサレムの陥落を同時に引き起こす決意をした。それはヒゼキヤを取り除けば改革の働きは途絶え、エルサレムの陥落は確実なものになると考えたからであった」(『SDA聖書注解』第4巻240ページ、英文)。
問9
主は、ヒゼキヤの信仰を確かなものとするために、どんなしるしをお与えになりますか(王下20:8~10、イザ38:6~8)。
神がお与えになったしるしを、父アハズが拒んだことによって(イザ7章)、アッシリアとの関係は悪化の一途をたどります。ヒゼキヤは、主にしるしを求め(王下20:8)、神は、アハズがユダに招いた危機に対処する力をお与えになります。実際、アハズの日時計の影を後戻りさせることは、奇跡によってのみ可能なことでした。
バビロニア人は、天体の運行を研究し、それを正確に記録していました。ですから、彼らはこの太陽の不自然な動きに気づき、その意味について考えたはずです。メロダク・バルアダン王がこの時期に使節を遣わしたのは、偶然ではありません。彼らは、ヒゼキヤのいやしと奇跡的なしるしとの関係を知っていたはずです。
神がなぜこのような特別な奇跡を用いられたのか、現在の私たちにはわかります。後に、ベツレヘムの星によって東方の学者たちを導かれたように、神は太陽を後戻りさせることによって、バビロンの使者たちを導かれたのです。これは、彼らが真の神について知るための特別な機会になるのでした。バビロンの王メロダク・バルアダンは、アッシリアからの永続的な独立を勝ち取るために、統治期間のすべてを費やしました。王がヒゼキヤと接触したのは、強力な同盟国が必要だったからでした。王は、ヒゼキヤが求めれば太陽でさえ動くのであれば、アッシリアを動かすことなどたやすいことだろうと考えたのでしょう。
さらなる研究
「日時計の影を10度退かせることは、ただ神の直接の介入によってのみなし得ることであった。そして、ヒゼキヤはこれを、主が彼の祈りを聞かれたしるしとして求めたのであった。『そこで預言者イザヤが主に呼ばわると、アハズの日時計の上に進んだ日影を、10度退かせられた』(列王記下20:11)」(『希望への光』518ページ、『国と指導者』上巻305ページ)。
「遠国の王からのこれらの使者たちの訪問は、生ける神を賛美する機会をヒゼキヤに与えたのである。彼がすべての造られたものを支えておられる神について語ることは、何と容易なことであったことだろう。その神の恵みによって、全く絶望的であった彼自身の生命が助けられたのである。……
しかし、誇りと虚栄がヒゼキヤの心を捕らえた。そして彼は得意気に、強欲な人々の目の前に神がお与えになった、神の民の宝を開いて見せた。王は、『宝物の蔵、金銀、香料、貴重な油および武器倉、ならびにその倉庫にあるすべての物を彼らに見せた。家にある物も、国にある物も、ヒゼキヤが彼らに見せない物は一つもなかった』(イザヤ39:2)。彼がこうしたのは、神に栄光を帰するためではなくて、外国の君たちの前で自分を高めるためであった」(『希望への光』519ページ、『国と指導者』上巻309ページ)。
まとめ
信心深い王の叫びに応えて、神はその民を救い、ご自身を示されました。地上の運命を支配されるイスラエルの全能の王は、主の民を滅ぼそうとする敵を滅ぼされるだけでなく、なんとかして主の民以外の「バビロン人」にも、主の民となるチャンスをお与えになります。
*本記事は、安息日学校ガイド2004年2期『イザヤ わが民を慰めよ』からの抜粋です。