この記事のテーマ
日本兵の横井庄一さんが、まだグアム島のジャングルに隠れていた1945年、第2次世界大戦は終わりました。米軍の飛行機からまかれたビラは平和の到来を宣言していましたが、横井さんはそれを敵のわなだと考えました。
「終戦から27年を経た1972年、漁師が魚を捕っている横井さんを発見しました。その時初めて、彼は終戦の知らせが真実であることを知ったのでした。他の日本国民がみな平和を享受していた数十年の間、横井さんだけが孤独と緊張の生活に耐えていたのでした」(ロイ・ゲイン『説教壇の招き』304ページ、1999年、英文)。
これより数十世紀も前に、神は預言者イザヤを通して、主の民の緊張と苦しみの時は本当に終わったのだと宣言されました。「慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と」(イザ40:1、2)。
今週は、このことが何を意味するのかを考えます。
将来の慰め(イザ40:1、2)
問1
イザヤ40:1、2で、神はその民を慰めておられます。彼らの刑罰の時は、ついに終わりました。それは、どんな刑罰でしたか。
神のユダに対する刑罰を代行した国はまず、神の憤りの杖であるアッシリア(イザ10章)です。神は、紀元前701年に、センナケリブの軍隊を滅ぼすことによって、アッシリアからユダを救われました(同37章)。次は、バビロンでした。バビロンは、ヒゼキヤがバビロンの王メロダク・バルアダンの使者にすべての富を見せたために、ユダの資財と住民を運び去りました(同39章)。さらに、イザヤが託宣を書き送ったその他の国々のうちの一つが用いられます(同14~23章)。
「アッシリア」または「アッシリア人」という言葉は、イザヤ7:17~38:6に43回出てきますが、それ以降は1回しか出てきません。イザヤ書の終わりの部分は、ユダのバビロン捕囚からの解放を預言しています(イザ43:14、47:1、48:14、20)。
イザヤ1~39章は、紀元前701年のアッシリア人からの解放までの諸事件を強調していますが、40章の初めでは、1世紀半先の紀元前539年のバビロンの終焉と、その後のユダヤ人の帰還の記事へと飛びます。
問2
バビロンからの帰還というテーマは、イザヤ書の前に出て来たどんなテーマと関連しているでしょうか。
イザヤ39章は、ヒゼキヤの子孫のある者たちがバビロンの捕囚となることを予告することによって、続く章へのつなぎとなっています(イザ39:6、7)。さらに、イザヤ13、14、21章の託宣は、バビロンの陥落と、それがもたらす神の民の解放を予告しています。「まことに、主はヤコブを憐れみ/再びイスラエルを選び/彼らの土地に置いてくださる。……主が、あなたに負わせられた苦痛と悩みと厳しい労役から、あなたを解き放たれる日が来る」(同14:1~3)。この聖句とイザヤ40:1、2にある、主の民の苦難が終わるという神の約束との密接な関係に注目してください。
臨在、み言葉、道備え(イザ40:3~8)
問3
神の民は、どのようにして慰められますか(イザ40:1~8)。
バビロン捕囚から帰還後、神の民はシナイ山で受け取りながら、その後、背信によって拒んだもの、すなわち、神のご臨在とみ言葉を再び手にします。主のご臨在と永遠に揺らぐことのないみ言葉は、慰めと救いと希望をもたらします。
問4
主をお迎えする備えとして、何が必要でしょうか(イザ40:3~5)。
でこぼこの道を揺られてやって来るというのは、王にとって似つかわしい光景ではありません。その前に、道備えが必要です。「王の王」をお迎えするとなれば、なおさらです。エルサレムの東に連なる起伏に富んだ丘陵地帯をならして、文字通り平らなスーパーハイウェイを作るとすれば、これはたとえ、ダイナマイトやブルドーザーを使っても気の遠くなるような工事になるでしょう。それがおできになるのは、神だけです。「高低のある所を平らにする」(イザ42:16、口語訳)ことのできるお方だからです。しかし、神は移動のための道路を必要とされません。神には天使の翼を持つ空飛ぶ戦車があるからです(エゼ1、9~11章)。
新約聖書は、イザヤの預言を、バプテスマのヨハネの説教によって完成した霊的な道備えに適用しています(マタ3:3)。ヨハネのメッセージは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(同2節)であり、彼の施したバプテスマは「罪の赦しを得させるため」の「悔い改めのバプテスマ」(マコ1:4)でした。つまり、この道備えとは、神の赦しとご臨在の慰めにあずかるために喜んで罪から離れ、悔い改めることでした。
エレミヤ31:31~34には、神のために道備えをするという霊的な意味を理解するために、捕囚にあったユダに多くの時間をかけて伝えられたのと同じ霊的メッセージが述べられています。その中で主は、喜んで新しいスタートを切ろうとする人々に「新しい契約」を約束されました。その契約とは、主ご自身が彼らの心に主の律法を書き記され、主が彼らの神となるとの誓いでした。彼らは主を知り、主のご品性を知るのです。それは、主が彼らを赦してくださったからです。
宣教の始まり(イザ40:9~11)
問5
イザヤ40:9~11には、どんな出来事が描かれていますか。
〔ヘブライ語では、〕イザヤ書の後のほうでエルサレムに良い知らせを伝える声は男性です(イザ41:27、52:7)が、イザヤ40:9で山の上から「見よ、あなたたちの神」と呼びかけて、へブライ人の中にもたらされる事実を伝える声は女性です。
新約聖書は、イザヤ40:3~5を、その民の間で肉体を取り、「主の臨在」となられたキリストのために道を備えたバプテスマのヨハネに当てはめています(ヨハ1:14)。
ヨハネより前にも、キリストの来臨の良き知らせについて語った者たちがいました。年老いたシメオンとアンナが最初であり、彼らは宮で仕えていた時に、幼な子イエスに会いました(ルカ2:25~38)。イザヤ書の「声」と同じように、彼らは男性と女性でした。シメオンは、メシアとして来られる「イスラエルの慰め」を待ち望んでいました(同25、26節)。
イザヤの預言の光に照らして見るとき、女預言者アンナが最初に、公の場である山の上にある宮でエルサレムの人々に主がおいでになったことを告げたのは、偶然の一致ではありません。「そのとき、〔彼女は〕近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々に幼子のことを話した」(ルカ2:38)。これこそが、キリストが救いをもたらすためにおいでになったとの福音の宣言、良い知らせであり、キリスト教宣教の始まりであったのです。そして、後にキリストは、もう1人の女性マグダラのマリアに、主の勝利の復活の最初の知らせをゆだねます(ヨハ20:17、18)。この知らせこそが、主の、惑星地球に対する福音使命の完結を確実なものにしたのでした。肉体は、草のようにはかないものです。しかし、肉体を取られた「神の言葉」は、永遠です(イザ40:6~8参照)。
憐れみ深い創造主(イザ40:12~31)
問6
イザヤ40章は、神の憐れみと力というテーマをどのように展開していますか。
この章全体を通じて、神の憐れみと力が織り合わされ、一つに溶け合っていると言っても良いでしょう(表参照)。それは、神がその民を救うためには、憐れみと力の両方が必要だからです。神は救いたいのです。それは、主が憐れみのお方だからです。神は救うことができます。それは、主が力のお方だからです。
憐れみ(1~5節) 慰め、救うためにおいでになる主
力(3~8節) 栄光、永久不変と人間の弱さ
憐れみ(9~11節) 救いの良き知らせ、主の民の牧者
力(12~26節) 比類なき創造主
憐れみ(27~31節) 弱い者に力を与えられる創造主
問7
「お前たちは、神を誰に似せ……ようというのか」(イザ40:18)とのイザヤの問いかけに対する答えは何ですか。
ヨブと同様、イザヤもこれらの問いに対して、「だれもいない。だれを神に比べることができようか」とは答えずに、先に進みます。しかしイザヤは、自らの問いに対する答えとして、神を偶像のように見なした多くの古代の人々の行為を引き合いに出します(イザ40:19、20)。
そのようなばかげた考えに応えて、イザヤは続けます。偶像を神のように見なすことはもとより愚かなことですが、ここでイザヤは、彼の論点をはっきりさせるために、神の独自性について詳しく述べ、神が聖なる創造主であることに関して反論の余地のない議論を展開します(イザ40:21~26)。
問8
イザヤ40:27は、創造主についてのメッセージに対する人々の態度について、どのように述べていますか。私たちも同じ態度を取ることはないでしょうか。
偶像崇拝の問題点(イザ40:19、20)
問9
イザヤ41:29を読んでください。あなたは、このイザヤの偶像についての描写をどのように理解しますか。なぜ、この描写はあらゆる偶像を正確に表していると言えるのでしょうか。
古代の偶像崇拝者たちは、像や象徴を通して、自分たちは力のある「神のような存在」を礼拝しているのだと信じていました。「ほかの神」に当たる偶像を礼拝することは、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出20:3)との十戒の第1条を破ることです。しかし、単なる偶像でなく、金の子牛のように(同32:4、5)その偶像が真の神に代わるものとなるなら、主はそのような「神に似せた作り物」を退けられます。神をどのように描けば良いかを知る人間は、1人もいないからです(申4:15~19)。そして、何物も神の比類ない栄光と偉大さを表すことはできないからです。したがって、偶像の存在そのものが「ほかの神」となるのであり、それを礼拝することは十戒の第1条と第2条を破ることなのです。
問10
今日、教会はどんな偶像崇拝に直面しているでしょうか。それは、どのようにより巧妙な形に変わってきているでしょうか。
「多くのクリスチャンと名乗る者たちが、主をおいて他の神々に仕えている。私たちの創造主は、私たちの最高の献身と私たちの第一の忠誠をご要求になる。私たちの神への愛を弱めようとするもの、神のための奉仕を妨げようとするものは何であれ、私たちにとって偶像となるのである」(『SDA聖書注解』第2巻、1011、1012ページ、英文)。
古代の文書によって、当時から偶像崇拝は魅力的なものであったことがわかります。それが物質主義と結びついていて、偶像崇拝者たちは、彼らに豊穣と繁栄をもたらすことができると信じて、その力を崇めていたのです。それはいわば、私たちにも馴染みのある、「御利益」宗教でした。
主が再びおいでになる直前に、エリヤの最終的な和解のメッセージ(マラ3:19~24〔口語訳4章〕)である主の「道備え」をするために、わたしたちは創造主を礼拝するか、それとも何か他のものを礼拝するか(黙13、14章)という、エリヤの時代と同じ選択に迫られるでしょう。終わりの時には、それが何であれ、私たちが常に拝むものがはっきりするのです。
さらなる研究
参考資料として、『国と指導者』第26章「あなたがたの神を見よ」を読んでください。
「イザヤの時代には、神について誤った解釈がなされ、人類の霊的理解は暗かった。サタンは、長い間、創造主が、罪と苦しみと死の創始者であると人々に思わせてきた。こうして、サタンに欺かれた人々は、神をかたくなで、苛酷なお方であると考えた。彼らは、神を、罪を非難して宣告を下すために目を見張り、援助せずともよい正当な理由がある限り、罪人を快く受け入れないもののように考えた。天は、愛の律法に支配されているのであるが、大欺瞞者はそれを人類の幸福を束縛するもの、重苦しいくびきであると誤表し、人類は律法から解放されることを喜ぶべきであると言った。戒めは守り得ないもので、罪に対する罰は、独断的に与えられたものであると彼は言った」(『希望への光』507ページ、『国と指導者』上巻276ページ)。
まとめ
イザヤを通して神は、苦しむ者たちに慰めをお与えになりました。その苦難の時代は終わり、神は彼らのところに戻って来てくださるのでした。彼らは失望と困惑から解放され、彼らのためにいつでも創造の力を働かせる用意のある神に信頼することができるのでした。
*本記事は、安息日学校ガイド2004年2期『イザヤ わが民を慰めよ』からの抜粋です。