この記事のテーマ
「キリストが地上で生活された場所をおとずれ、キリストが歩まれた場所を歩き、キリストが好んでお教えになった湖のほとりや、キリストがたびたび目をとめられた丘や谷を眺めることができたら大きな特権だろうと思う人が多い。しかし、イエスの足跡を歩むために、ナザレやカペナウムやベタニヤに行く必要はない。病床のかたわらや、貧しいあばらやや、大都会の雑踏する横町や、人の心が慰めを必要としている場所ならどこにでも、イエスの足跡がみいだされる。イエスが地上におられた時にされた通りのことをすることによって、われわれはイエスの足跡を歩むのである」(『希望への光』1011ページ、『各時代の希望』下巻111ページ)。
イザヤは、同じように憐れみの使命を託された主の僕について、次のように語っています。「〔彼は〕傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく……見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出すために」(イザ42:3、7)。
今回は、この僕(しもべ)について考えます。彼はだれで、何を成し遂げるのでしょうか。
僕である民族(イザ41章)
問1
イザヤ41:8で、神が「わたしの僕イスラエルよ」と語りかけ、42:1でイザヤが「わたしの僕」と紹介しているのは、だれのことでしょうか。
それは、イスラエル人の祖先である「イスラエル」つまり「ヤコブ」でしょうか。「イスラエル民族」でしょうか。それとも、新約聖書ではイエスと呼ばれている「メシア」あるいは「キリスト」を指すのでしょうか。
イザヤ41~53章を読むと、そこには二種類の「神の僕」が見えてきます。一つは、イザヤ41:8、44:1、2、21、45:4、48:20にあるように、「イスラエル」または「ヤコブ」と呼ばれている僕です。ここでは、神が目の前にいる「イスラエル」あるいは「ヤコブ」に呼びかけておられることから、この「ヤコブ」が彼の子孫である民族を表していることは明らかです。このことは、イザヤ48:20に、主の「僕ヤコブ」のための贖いが、バビロンを出る時に成就すると記されていることからも確かです。
もう一つは、イザヤ42:1、50:10、52:13、53:11のように、「神の僕」の名前が記されていない例です。イザヤ42:1に初めて出てくる時、この「僕」が直接だれを指すかは明らかにされません。しかし、後にイザヤがこの僕の人物像を詳しく描くにつれて、この僕が一個人を指すこと、すなわち、ヤコブ(イスラエル)の民を神のもとに回復させ(イザ49:5、6)、罪人のために犠牲となって死ぬ人物であることが明らかになります(同52:13~53:12、49:5、6参照)。この「僕」は、民族ではありません。このように、イザヤは明らかに二種類の「神の僕」について語っています。一つは集団(民族)であり、他方は一個人です。
問2
「僕である民族」の役割は、何でしょうか(イザ41:8~20)
イザヤ41:9、10と続く節に示されているように、イスラエルの基本的役割は、他の神々や偶像に信頼した諸国民のようにではなく、(アハズ王のようにでもなく、)彼らを救うことのできる真の神に信頼することです(イザ41:7、21~24、28、29)。
名前のない主の僕(イザ42:1~7)
問3
神がお選びになり、その上に主の霊を置かれた「神の名前のない僕」の役割と品性は、どんなものでしょうか(イザ42:2~7)。下記の中から、ふさわしい答えを選んでください。
- 国々の裁きを導き出す
- 静かに、穏やかに、しかし確実にその目的を果たす
- 教師である
- 神とその民との間の契約となる
- 見えない目をいやし、囚人を解放することによって、光または希望を与える
- 上記のすべて
問4
この僕の役割と品性を、同じく主の霊が宿っていた「エッサイの根から出た若枝」と比べてみてください(イザ11章)。
イザヤ42章と同様、11章に登場するダビデの血を引く統治者は、神と調和して働き、神の知恵と知識を与えると同時に、裁きを行い、虐げられた人々を解放します。すでに学んだように、このエッサイの「若枝」と「根」は、メシアです。また、イザヤ42章の「僕」は、明らかにメシアであると言えます。
問5
新約聖書は、この裁きを導き出す僕(イザ42:1~7)をだれであると見なしていますか(マタ12:15~21)。
マタイ12章は、イザヤ42章からの引用であって、イエスの沈黙の宣教であるいやしの働き、神の愛するみ子、神のみ心に適う者がそれに当てはまります(イザ42:1、マタ3:16、17、17:5)。イエスの働きによって神とその民を結ぶ契約関係は回復されます(イザ42:6、ダニ9:27)。
イエスの十字架の死は、「新しい契約」(マタ26:28、英文新欽定訳)を批准し、「この世の支配者」の地位を奪い取ったよそ者であるサタンを追放することによって、この世のために正義を獲得しました(ヨハ12:31~33)。
ペルシアの「メシア」(イザ44:26~45:6)
問6
イザヤ44:26~45:6には、どんなすばらしい預言が登場しますか。
イザヤの宣教期間は紀元前745年頃から685年頃まででした。イザヤは、東と北からの征服者について述べ(イザ41:2、3、25)、それがエルサレムの良い知らせとなることを暗示した後(同27節)、正確に名指しでキュロスの登場を予告し、彼が何をするかについても記しています(同44:28、45:1)。確かにキュロスはバビロンの北と東からやって来て、紀元前539年に征服しました。彼はユダヤ人をバビロン捕囚から解放するという行為を通して神に用いられました。そして、エルサレムの神殿再建を承認しました(エズ1章と比較)。
この預言を頭に置いて考えてみましょう。イザヤの死から146年後にバビロンは陥落したわけですから、1世紀半も後のことを預言したことになります。
キュロスの行動は、バビロニアの年代記、彼自らが記録した「キュロスの円柱」、そして聖書(代下36:22、23、エズ1章、ダニ5章、6:28、10:1)を含むさまざまな古代の資料によって十分に立証されているので、イザヤの預言の正確さには議論の余地はありません。
問7
神はなぜキュロスを「油を注がれた人」(イザ45:1)と呼んでいるのでしょうか。
この「油を注がれた」というヘブライ語に「メシア」という言葉も由来します。この言葉は他の場所では、油注がれた大祭司(レビ4:3、5、16)、油注がれたイスラエルの王(サム上16:6、24:6、10、サム下22:51)、ダビデの家系に属するふさわしい将来の王また解放者としてのメシア(詩2:2、ダニ9:25、26)などにも用いられています。
キュロスの成就によって、神は、神だけが将来を見通されることを示され、その独自の神性を証明されたのでした(イザ41:4、21~23、26~28、44:26)。主はキュロスについて「暗闇に置かれた宝、隠された富をあなたに与える。あなたは知るようになる/わたしは主、あなたの名を呼ぶ者/イスラエルの神である」と言われました(同45:3)。
将来への希望
イザヤがキュロスの登場を正確に、名前で預言したという事実は、神によって将来を予告する預言者を信じない人々を当惑させます。彼らは「預言者」に対抗するために、キュロスの時代に生きていた「第二のイザヤ」がイザヤ40~66章を書いたのだという説を認めます。こうしてイザヤ書は、伝統的に彼自身がたどったとされる運命(ヘブ11:37参照)と同じように「二つに分断」されることになります。
しかしながら、「第二のイザヤ」が存在したという歴史的な証拠は何もありません。もしそのような人物が実在したのなら、聖書がそのことに言及していないことは理解できません。なぜなら、イザヤ書のこの部分〔40~66章〕は非常に重要であり、その文学的技巧は驚くべきものだからです。最古の聖書写本とされる「クムランのイザヤ書簡」にも、39章と40章の間に、別々の著者によって書かれたことを暗示する切れ目は存在しません。
「どんな地上の権力でもなく、ただ真の神とメシアなる救い主に信頼しなさい」。これがイザヤ書に一貫して流れる基本的なメッセージです。学者たちが強調するように、イザヤ1~39章はアッシリア時代に焦点を当てていますが、40章以降ではバビロニア時代に焦点が移っています。しかし、すでに学んだように、イザヤ13、14、39章はバビロン捕囚をすでに予見しています。イザヤ1~39章では裁きが、そして40~66章では慰めが強調されているのは事実ですが、それ以前の章にも神の慰めと保証の記述はいくらでもあります。そしてイザヤ42:18~25、43:22~28、48:1~11など、それ以降の章でも、背信のユダ王国に対する神の裁きについて記されています。事実、イザヤの「将来の」慰めの預言は、同時に苦しみも暗示しています。
問8
その罪のために民が恐ろしい災いに遭っても、なお希望を捨てない人々がいます。彼らは神の約束にすがります。レビ記26:40~45を注意深く読んでください。あなたがバビロンによって国を失った残りの民であったなら、この聖句からどんな希望を見いだすことができますか。
苦難を味わう「僕」(イザ49:1~12)
問9
イザヤ49:1~12にある主の僕とはだれのことですか。
主の僕の描写は、僕をメシアとして描いているイザヤ42章の描写と多くの部分で重なります。新約聖書はこの僕の特徴を、初臨および再臨のイエス・キリストに当てはめています(マタ1:21、ヨハ8:12、9:5、17:1~5、黙1:16、2:16、19:15)。
問10
この僕がメシアなら、神はここでなぜ彼を「イスラエル」と呼んでおられるのでしょうか(イザ49:3)。
この課ですでに学んだように、神の僕としての「イスラエル」と「ヤコブ」は通常、民族を指します。しかしこの(「ヤコブ」と共に表記されていない)「イスラエル」は、明らかに民を神に回復させる、個人としての僕を指しています(イザ49:5参照)。この個人の僕は「イスラエル」という名にふさわしくない民族の理想的な体現者、代表者になりました(同48:1参照)。
問11
ここに新たにどんな要素が加わりますか(イザヤ49:4、7)。
ここに初めて、この僕の働きには困難が伴うことが暗示されます。彼は嘆きを口にします。「わたしはいたずらに骨折り/うつろに、空しく、力を使い果たした」(イザ49:4)。この聖句はダニエル9:26の「油注がれた者は/不当に断たれ……荒廃は避けられない」にも呼応します。しかし彼は信仰にすがります。「しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり/働きに報いてくださるのもわたしの神である」(イザ49:4)。
イザヤ49:7は衝撃的です。この僕は「人に侮られ、国々に忌むべき者とされ/支配者らの僕とされ」ます。しかし主は彼に言われます。「王たちは見て立ち上がり、君侯はひれ伏す。真実にいますイスラエルの聖なる神、主が/あなたを選ばれたのを見て」
さらなる研究
参考資料として、『各時代の希望』第26章「カペナウムで」を読んでください。
「救霊の働きにおいては、大いなる機転と知恵が必要である。救い主は決して真理を押しつけることなく、つねに愛をもって真理を語られた。人々と交わるときにも、救い主は大いなる機転を働かせ、つねに親切で、思いやりに満ちておられた。決して粗野な振舞いをせず、不必要に厳しい言葉を語らず、敏感な魂に不必要な苦痛を与えられなかった。人間の弱さを非難されることもなかった。救い主は恐れることなく、偽善、不信、罪悪を責められたが、厳しい非難の言葉を語られるときにも、その声には涙があった。救い主は決して真理を無慈悲なものとして教えず、いつでも人々に対して深い優しさを示された。すべての魂が救い主の目には尊いものであった。ご自身は神の威厳を備えておられたが、神の家族の1人ひとりに対する優しい同情と思いやりに満ちておられた。救い主はすべての人のうちに救うべき魂をご覧になった」(『福音宣伝者』117ページ、英文)。
まとめ
「救う」ためには「救う者」が必要です。神の僕であるイスラエルの民は、2人の「救う者」によって救われます。1人はバビロン捕囚から解放するキュロスであり、もう1人は、現在もその啓示は進行中である、「メシア」であると考えられる名前のない「僕」です。この僕は公正な裁きを回復し、生き残る者たちの集まりを神のもとに連れ戻します。
*本記事は、安息日学校ガイド2004年2期『イザヤ わが民を慰めよ』からの抜粋です。