【エズラ記とネヘミヤ記】主を礼拝する【解説】#10

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今週の暗唱聖句は、ヘブライ人の礼拝で習慣的になされていたことや、神に対する彼らの感謝がいかに賛美の中にあふれていたかということへの洞察を私たちに与えています。紀元前515年、彼らは新しい神殿の奉献を祝い(エズ6:15~18)、それからおよそ60年後、人々は完成したエルサレムの城壁の奉献を祝いました(ネヘ6:15~7:3、12:27以降)。

ネヘミヤ11章と12章で家系図を列挙したあと、記者は町の城壁の奉献を祝ったときへ話題を移します。神殿、町の城壁、家や公共の建物でさえ、さまざまな物を神にささげることは、この民の習慣でした。そのような奉献は周到に準備され、歌、音楽、祝宴、いけにえをささげること、喜び祝うこと、楽しむこと、そして民を清めることがそれに伴いました。奉献の中でいけにえをささげる習慣はダビデが確立したもので、以来、イスラエルの指導者たちはこの前例に従いました。その踏襲は、ソロモンが神殿に契約の箱を持ち込んだときに始まりました(王上8:5)。

私たちは今回、この時に彼らがどのように主を礼拝したのかに目を向け、同じ主を礼拝する私たちに適用できる事柄について考えます。

主に向かって歌う

問1

ネヘミヤ12:27~29を読み、彼らの礼拝と賛美がどのようなものであったかを示すいくつかの鍵の言葉に注目してください。あなたならそれをどのように表現しますか。

イスラエルの民は、神殿の務めのための詠唱者や演奏者になるようにレビ人の特定のグループを任命していました。神は、習慣的になすべきことを命じ、そのための指示を与えられました。神殿の礼拝は、美しく、専門的に行われねばならなかったからです。

ダビデ王はこの習慣的になすべきことを、従来なされていた以上に一層洗練されたすばらしい組織に編成していました。それゆえ、ダビデが神殿での礼拝の指導者に任命したアサフの子孫は、依然として「神殿の務めにおいて詠唱者の役を担う」(ネヘ11:22)者に任命されました。

問2

歴代誌上25:6~8を調べてください。この箇所は、彼らの礼拝や、主に向かって歌うことにとって、音楽がどれほど重要であったのかということについて、何を教えていますか。

詠唱者はレビ人であり、それゆえ職務上、神殿に配属されていました。従って、神殿の務めのために音楽を提供することは、彼らの職業でした。ダビデ王の時代、本格的な音楽学校が組織され、彼はそこの監督をしました。その学校には教師、生徒、老いも若きもおり、彼らは神殿において交代で働き、音楽を提供したのです。楽器の演奏者もいれば、詠唱者もいましたし、神殿の務めで使われる服や楽器の管理をする人たちもいました。そのような専門的組織の目的は何だったのでしょうか。この組織は、才能を伸ばし、礼拝を卓越したものにするという幻を育みました。卓越性は、常に礼拝における目標でなければなりません。賛美は心からなされ、人々が霊的に高められるように、最良の形で表現されなければならないのです。神殿で奉仕したあの演奏者や詠唱者たちは、礼拝を導くために慎重に選抜されたのだと推定できます。

清め

聖書は、城壁の奉献と、続いて詠唱者が集まって来たことについて語ったあと、次の聖句のネヘミヤ12:30で、清めについて語っています―「祭司とレビ人は身を清めたうえで、民と城門と城壁を清めた」

「清めた」に相当するヘブライ語の語幹は、「きれいになること」「純粋になること」を意味し、旧約聖書ではさまざまな状況の中で用いられています。神の前に道徳的にきれいになる、純粋になるという考えもそこには含まれています。

問3

「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(Ⅰヨハ1:7~9)。この聖句は、①人間の性質、②神の赦し、③私たちの人生における神の力について、どのようなことを教えていますか。

神殿とその務めは、古代イスラエルの宗教の重要な要素でした。しかし、神殿とその務めは、目的を達成するための手段であって、それ自体が目的ではありません。そして言うまでもなく、その目的とは、人々を契約の神、すなわち主なるイエス・キリストとの救いの関係へ導き入れ、彼らの人生におけるキリストの清めの力を知ることでした。そして、私たちが神を愛し、神を拝むようになるのは、神が成し遂げてくださったこと、主が私たちを何から救い出してくださったのかを知ることによります。古代イスラエルの人々が、過去に神が成し遂げてくださったことを何度も語ったのは、それが一つの理由でした。何度も語ることは、彼らが主の憐れみと愛を知る助けになりました。そして、主の憐れみと愛を知ることは、彼らの礼拝体験に満ち溢れるべき喜びと感謝の中心を成すものでした。

今日の私たちにとって、罪の赦しの体験や、そのことへの感謝は、神と継続的な喜びに対する感謝の気持ちから生じるべきです。その時、主を賛美することも、主の御品性のすばらしさを感謝することもたやすいのです。十字架のイエスを見ること、私たちが自ら罪の罰を受けることがないようにその罰を受けてくださったイエスを見ること以上に、神の御品性の偉大な啓示があるでしょうか。

二つの大きな合唱隊

問4

ネヘミヤ12:31~42を読んでください。この祝典において、音楽はなぜ重要だったのですか。

ネヘミヤの時代、礼拝の一部として二つの合唱隊が編成され、楽器を伴って歌いながらエルサレムの町を歩いて回りました。二つの合唱隊は同じ場所を出発して、やがて分かれ、それぞれが町の城壁を別の方向へ回りました。一つの集団は、先頭に立ったエズラに率いられ、もう一つの集団には、ネヘミヤが後ろから続きました。二つの合唱隊は警備の門で再び合流し、そこから神殿の中へ行進して入りました。ラッパを吹く祭司たちがそれぞれの行進を引き立て、合唱隊は神殿に入ると向かい合って立ちました。それは見事に組織だった行進であり、礼拝でした。

なぜ音楽が祝典や礼拝の重要な部分であったのかという質問に答えるためには、神殿との関連において音楽の意味を考えなければなりません。神殿での音楽は、コンサート会場で演奏されるベートーベンの交響曲第四を聞きに行くかのように、人々が楽しみに行くコンサートではありませんでした。それどころか、詠唱者が歌い、演奏者が楽器を演奏するとき、人々は顔を地に伏せて祈りました。音楽は彼らの礼拝の一部だったのです。

神殿や礼拝の中心的行為は犠牲に関係することであり、それ自身が不愉快な行為でした。結局のところ、彼らがしていたのは、罪のない動物の喉を切ること以外の何だったでしょうか。さまざまな意味で、美しい音楽を演奏することは、人々の思いを天に引き上げることに加えて、礼拝体験全体をより心地よいものにするのに役立ったのです。

問5

音楽が礼拝の重要な側面であった聖書の中の例を調べてください。特に、出エジプト記15:1、歴代誌下20:21、22、黙示録15:2~4について、じっくり考えてください。

地上でも天上でも、音楽は礼拝体験の一部です。上記の聖句の中で、歌うことすべてが、主が御自分の民のために成し遂げてくださったことに関係している点に注目してください。そこには、「獣」に対する勝利を主が与えてくださったことも含まれます(結局のところ、そうでなければ、どうして彼らは勝利できたでしょうか)。音楽は、神の救済行為のゆえに神を賛美することなのです。

礼拝の一部としてのいけにえ

問6

ネヘミヤ12:43を読んでください。彼らが礼拝形式の祝典の一部として「大いなるいけにえ」を屠ったのは、どういうところが特別でしたか。

神殿があった時代、いけにえは礼拝の最も本質的な側面でした。いくつかの異なるいけにえが用いられましたが、いずれも赦しの約束のためであったり、神との交わりの喜びや神への感謝をあらわしたりするためのものでした。いけにえは礼拝を実質のあるものにしました。それが礼拝者たちに、神の真実や、神がどのようなお方であるかという真理を思い出させ、約束された子孫、つまり(神の小羊であるがゆえに、彼らのために御自分の命を犠牲になさる)メシアを指し示したからです。

問7

ヨハネ1:29、36、Ⅰコリント5:7、黙示録5:6、12、13を読んでください。いけにえが究極的に何を指し示していたのかということについて、これらの聖句はどんなことを教えていますか。古代イスラエルの人々が死んだ家畜(限られた真理しか明らかにできなかった死)を喜ぶことができたのなら、私たちには彼らよりも喜ぶべき理由が、どれほどもっとあることでしょうか。

ネヘミヤ12:43の中だけでも、「喜ぶ」とか「喜び祝う」という言葉が何度も登場していることに注目してください。つまり、畏怖の念と、たぶん人々が礼拝の中で体験したであろう敬虔な恐れの中でも(そもそも、彼らの罪のために動物を殺すというのは厳粛なことでした)、そこには、喜びや祝う気持ちもあったのです。私たちが神に近づくとき、それは畏敬と畏怖の念とともに喜びを持ってでなければなりません。詩編95編は、真の礼拝行為には、主の前にひざまずくこととともに(詩編95:6)、歌い、喜びの叫びをあげ、神を祝うために音楽を奏でようという呼びかけが含まれることをはっきり示しています(同95:1、2)。喜びと畏怖の間のバランスを取るように努めることが、私たちの創造主を礼拝し、賛美するためには極めて重要なのです。

礼拝の一部としての祭司とレビ人

問8

ネヘミヤ12:44~47を読んでください。ユダの人々はなぜ、「祭司とレビ人の働きを喜んでいた」のですか。祭司やレビ人は、なぜ重要だったのですか。

問9

(レビ人であった)祭司たちの仕事は、何を象徴しましたか。ヘブライ9:1~12を参照してください。

「天の聖所における、人類のためのキリストのとりなしは、キリストの十字架上の死と同様に、救いの計画にとって欠くことのできないものである。キリストは、ご自分の死によって開始された働きを、復活後、天において完成するために昇天されたのである。われわれは、信仰によって、『わたしたちのためにさきがけとなって、はいられた』幕の内に入らなければならない(ヘブル6:20)」(『希望への光』1834ページ、『各時代の大争闘』下巻222ページ)。

改めて言えば、当時の人々は、確かに現在の私たちが持っている光を持っていませんでしたが、神殿の中で唯一奉仕のできたレビ人の働きが非常に重要であることは十分に理解していました。人々は、神の働きが彼らを通してなされることに興奮しました。

民は、御言葉を読み、祈り、礼拝し、自分自身を神に再献身することで、神との時間を過ごしてきていました。彼らはその中で、神殿の務めがなおざりにされてきたので回復する必要があると気づいたのでした。今やこれらが改めて確立され、人々は、レビ人が彼らのためにする重要な働きを喜びました。神は、神殿の務めが御自分の礼拝構想の一部であると民に印象づけられました。

残念なことに、牧師、御言葉の教師、音楽家たちは、しばしば軽く見られます。ネヘミヤの時代でさえ、レビ人への支援は、強いときもあれば、非常に弱いときもありました。レビ人は、自分の家族を養うためにほかの仕事に何度も戻らねばなりませんでした。なぜなら、人々が十分の一や献げ物をやめてしまったからです。

十分の一や献金がなければ、組織的な世界規模の教会はありえません。もし私たちの働きを続けたいのであれば、私たちは言葉による感謝とともに、金銭的な貢献によって牧師たちを支えることに貢献しなければならないのです。教会は完全でないかもしれませんが、そのことのゆえに、神にささげることをやめるべきではありません。神の働きを世界中で継続させるためです。

さらなる研究

参考資料として、『キリストへの道』の「キリストに向かっての成長」の章を読んでください。

「キリストの十字架は、永遠にわたって、贖われた者たちの科学となり歌となる。栄光につつまれたキリストのうちに、彼らは、十字架につけられたキリストを見る。広大な空間に、数えきれないほどの諸世界を、その力によって創造し、支えておられるお方、神の愛するみ子、天の大君、ケルビムや輝くセラピムが喜んであがめるお方、そのお方が、堕落した人類を救うために身を卑しくされたことは、決して忘れられることがない。また彼が、罪の苦痛と恥とを負われ、天父からはそのみ顔を隠されて、ついには失われた世界の苦悩がその心臓を破裂させて、カルバリーの十字架上でその命を絶たれたことは、決して忘れられることがない。諸世界の創造者、すべての運命の決定者が、人類に対する愛から、ご自分の栄光を捨てて、ご自分を卑しくされたことは、いつまでも宇宙の驚嘆と称賛の的となる。救われた諸国民が、贖い主を見て、そのみ顔に天父の永遠の栄光が輝いているのをながめる時、また、永遠から永遠にいたるイエスのみ座をながめ、イエスのみ国には終わりがないことを知る時、彼らはどっと歓喜の歌声をあげて、『ほふられた小羊、ご自身の尊い血によって、わたしたちを神に贖って下さったおかたは、賛美を受けるにふさわしい、賛美を受けるにふさわしい』と叫ぶのである」(『希望への光』1917ページ、『各時代の大争闘』下巻433、434ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2019年4期『エズラ記とネヘミヤ記─忠実な指導者を通して神がなしうること』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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