【エズラ記とネヘミヤ記】イスラエルの指導者たち【解説】#13

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エズラもネヘミヤも、神と、神から命じられた務めを果たすことに献身した偉大な指導者の実例です。神に対する彼らの愛が、忠実な僕でありたいという願いを彼らのうちに呼び起こしました。実のところ、彼らの忠実さが今期の研究の中心部分でした。

私たちは今週、聖書の中に見いだされる指導の実例に目を向けます。そこにはエズラやネヘミヤの例も含まれています。確かに、これらは教訓を網羅しているわけではありません。論じることのできる実例はもっとたくさんあるからです。しかし選び出された教訓は、あらゆる指導者にとって重要なものです。あなたは人生の現時点において、自分を指導者だとは思っておられないかもしれませんが、私たちはみな、だれかに対して影響力を持っています。それゆえ、これらの教訓はすべての人に適用可能です。

これらの指導者の中心になっていたものは、神の言葉でした。御言葉は彼らの思想と人生を変え、リバイバルと改革のためのあらゆるプログラムをもたらしました。彼らは全面的に、神の言葉とその中に見いだされた神の御命令にかかっていました。同様に私たちは、自分が何者であれ、自分の役割が何であれ、神の言葉をセブンスデー・アドベンチストとしての自分の生き方の中心にし続けなければなりません。

指導者の影響力

聖書の至る所に、私たちは指導の実例を見いだすことができます。良い例も悪い例もあれば、両方が混じり合ったものさえあります。時として良い指導者が悪いことをし、その一方で、時として悪い指導者が良いことをしました。結局のところ、指導者はみな人間であり、従って良くも悪くもなりうるし、良いことも悪いこともなしうるのです。このような現実を人生の中で経験したことのない人がいるでしょうか。

しかし問題は、あなたが指導者であるとき、善かれ悪しかれ、あなたは大きな影響力を及ぼすということです。家であれ、職場であれ、あなたの存在が感じられるどこであれ、否定的な影響を及ぼすことは十分に悪いことです。しかし、あなたが指導的立場にあるとき、それが霊的な立場であれ、政治的な立場であれ、その両方であれ、影響力は大きく増します。従って、あなたの役割が何であれ、しかし特に指導者として、あなたが聖書の原則と教えを反映することは、なんと重要なことでしょう。

問1

次の聖句を調べてください。そこにはどのような指導の実例がありますか。良い例であれば、なぜそれが良かったのか、悪い例であれば、なぜ悪かったのかを説明してください。レハブアム(王上12:1~16)、ペトロ(使徒15:7~11)、ヨシヤ(王下23:1~10)、デボラ(士師4:1~16)、アハブ(王上21:1~16)

主が悪とみなされること

問2

次の聖句について考えてください。これらの指導者と、彼らが治めた人々への影響について、私たちは(以下の聖句から)何を学ぶことができますか。列王記上15:26、34、列王記下13:1~3、ヨハネ11:46~53

どのような職責であれ、指導者の立場にある私たちの多くにとって、私たちの指導が人々を霊的に低下させたり、向上させたりしうるというのは、厳粛なことです。そして上記の場合、すべての影響がひどく否定的なものでした。

さらに具体的に言えば、私たちの品性と、キリストに対する私たちの献身は、私たちが交わる人たちに変化をもたらします。霊的指導者はほかの人に対して、もし彼ら自身が神を尋ね求めていれば神に向かう影響を、もしそうでなければ悪に向かう影響を及ぼすのです。

きょう私たちが読んだこととは違い、エズラとネヘミヤが神と強い結びつきを持っていたという事実は、疑いの余地がありません。エズラとネヘミヤに関するこれら二つの書に記録されている断食と祈りの回数は、聖書がほかの指導者に関して報告している回数を超えています。たとえすべてが完全でなかったとしても、彼らの指導のもと、民は神とともに歩んでいました。彼らの生活の方向は神に向いていました。その一方で、エズラやネヘミヤの影響力によって変わらなかった人たちがいたという事実は、私たち自身の信仰以外、ほかのだれの信仰も、私たちに究極的な変化をもたらさないということの証拠です。結局のところ、肉体を取られたイエスを目にし、彼が説教するのを聞き、彼の奇跡について証言したり、聞いたりする機会があったにもかかわらず、最終的に彼を拒んだ人たちのことを考えてみてください。確かに、人生における立場がどうであれ、私たちは果たすべき役割を持っており、良い方向か悪い方向へ導く影響を与える可能性があります。しかし最終的には、1人ひとりが神の前で自分自身の責任を取らなければならないでしょう。

勇気と励まし

問3

ネヘミヤ4:7~17を読んでください。ネヘミヤはどのように勇気を示しましたか。何が彼に勇気を与えたのですか。

ネヘミヤは、ユダの人々を怯えさせようとした敵に立ち向かいました。彼は、人々に戦う準備をさせるために、指導力を発揮することで応じたのです。ネヘミヤは単に、「神よ、わかっています。あなたがすべてをしてくださいます」とは言いませんでした。そうではなく、彼は人々に自分たちのやるべきことをさせたのです。彼らは剣やほかの武器を手に取る一方で、同時に城壁を築くために働きました。ネヘミヤの指導のもと、ユダの人々は恐れで縮こまることなく、むしろ自分たちを守るために武器を手に取りました。ネヘミヤは人々を勇気づけ、彼らを信じ、彼らとともに働き、行動の責任を与えました。彼は責任を委譲し、割り振る際に、人々を力づけて仕事をさせました。しかしネヘミヤは、なすべきことを人々にただ告げて、その後、自分の部屋に行って隠れたのではありません。彼は人々とともに立ち、なすべき重労働をこなしたのです。

聖書には、神が人々に、「じっとして私が戦うのを見よ」とおっしゃるときもあれば、「行動するための準備をせよ。私があなたに勝利を授ける」とおっしゃる場合も多々あります。神の解放と祝福を見たいのであれば、私たちは自分の役割を果たさなければなりません。

「ネヘミヤの敵が、彼を自分たちの手中に入れることができなかったのは、神の働きに対するネヘミヤの固い献身と、それと同様に固い神への信頼によるものであった。怠惰な人はやすやすと誘惑に陥る。しかし高尚な目標と熱烈な決心をもった人に、悪は足場を見つけることができない。常に前進している人の信仰は弱らない。彼は、上にも下にも前方にも、神のみこころに従ってすべてのものを備えて下さる、無限の愛の神を認めるのである。神の真のしもべたちは、恵みの座に常により頼んでいるから、くじけることのない決意をもって働くのである」(『希望への光』631ページ、『国と指導者』下巻261ページ)。

結局、ネヘミヤは彼の現実理解と神の力から勇気を引き出しました。が、それにもかかわらず、私たちがすでに見たように、彼は神に関する自分の知識のゆえに、信仰に従って行動したのです。

目的と熱意

問4

エズラとネヘミヤの生活における原動力について、次の聖句はどのようなことを教えていますか(ネヘ2:1~10、エズ7:8~10)。

エズラとネヘミヤは、何をするにしても、神の御旨が神の民の生活の中でなされるのを見ようとしました。確かに、人々は失敗をし、そのために罰を受けました。しかし、回復の約束に忠実であられる神は、御自分の民が約束の地に帰り、もし忠実であれば、神によって設定された目標を達成できる道を開いてくださったのです。そして主は御知恵によって、この回復において中心的な役割を果たす非常に献身的な、どこかモーセに似ている2人の人を選ばれました。それはちょうど、神が特別な任務のために先の世代のモーセを用いられたのと同様でした。

この2人のように偉大な指導者たちは、目標を持っています。彼らは自分のあらゆる行動を駆り立てるような、生きることの目的を持っています。エズラもネヘミヤも人生に目的を持っていた、と言えるかもしれません。彼らは、神の民にこうあってほしいというビジョンを持っており、その目標を実現するためにすべてを注ぎ込んだのです。

エズラは、聖書を研究し、御言葉を人々に教えることによってそうしました。ネヘミヤは、正しいことをなし、神のために大胆に立ち上がるようにと人々を勇気づけました。2人とも、回復されたエルサレムを見たいと思いましたが、それは単なる物質的な回復ではありませんでした。彼らは、そこに住む者たちの霊的生活におけるリバイバルと改革も見たいと願ったのです。だから彼らは正し、非難し、時には何らかの行動方針を要求したのです。偉大な指導者たちは、並外れて偉大な存在、非凡で偉大な存在を信じています。エズラとネヘミヤは、愛情深い、力強い神、奇跡を起こすことのおできになる神を信じていました。そして彼らは、すべての人が神と深いつながりを持つことを望んだのでした。

ネヘミヤ記の最初の章を読み始めるとき、読者は、神の働きに対するネヘミヤの献身と、神の民の窮状に対する彼の嘆きに感銘を受けます。1章において彼は、ユダにいるイスラエルの人々の苦難を告げられて泣き、ひざまずき、神がお命じになることを何でもします、と誓います。この世に変化をもたらしたいという思いによって突き動かされているようです。彼は神のために行動する人でした。ネヘミヤが変化をもたらすことを選んだのは、高給をもらうことや秀でた地位を得ることによってではなく(彼はペルシアで両方とも手にしていましたが)、ユダというあまり豊かでない国に行くことによってでした。しかも、それにはあらゆる段階で反対が伴いました。ネヘミヤは、自分を待ち受ける障害にもかかわらず、信仰によって踏み出したのです。

謙遜と忍耐

問5

エズラ8:21~23、31、32を読んでください。王に話すまいとエズラが心に決めたことを、あなたは愚かだと思いますか。勇敢だと思いますか。エズラと同行者たちは、どのように謙遜をあらわしましたか。

十数年後、ネヘミヤは護衛のための王の随行員を受け入れました。しかしエズラの場合、彼は、王に何も求めなければ神が最善の形で御姿をあらわしてくださると信じたのです。それゆえ、エズラの一行が無事にユダに到着したとき、それは神のおかげだとみなされました。ある状況において、私たちはほかの人に頼りすぎて、神に御姿をあらわしていただくよう、神に十分頼っていないかもしれません。エズラは、あの状況の中で神に働いていただき、確かに神が力強いお方であることを王に証明することを選んだのでした。

しかし、エズラは憶測で行動したのではありません。彼は人々を呼び集め、断食し、現状について祈りました。彼らが旅立ったのは、神との真剣な時間を過ごしたあとのことでした。彼らは謙遜に神の御前に行き、御加護が神の力のしるしとなるようにと求め、神はそれに応えてくださいました。

問6

ネヘミヤ5:14~19を読んでください。ネヘミヤはどのように謙遜を示しましたか。

真の指導者は自ら進んで身を低くし、僕になる必要があります。有能な指導者は、名声を得るために「肩書」を求めたり、必要としたりしません。ネヘミヤは人々に自宅の扉を開き、惜しみなく与えました。彼は神への信仰を行動で示し、神に対する彼の驚くべき献身は、人々への模範でした。彼は強い個性とまじめな気質を持っていましたが、優れた者として自分をだれかの上に置くようなことは決してありませんでした。当時、彼はユダの国において最も高い地位にありましたが、物惜しみをしなかったのです。このようにして、彼はイエスの生き方と教えを反映しました。そのイエスは、最高の指導方法が他者に仕えることだと教えられました。イエスがそれを実行なさったのですから、私たちは自分の立場にかかわらず、同じことをする必要があります。

さらなる研究

「ゼルバベル、エズラ、ネヘミヤの指導のもとに、帰還した捕囚たちが行った回復と改革の働きは、この地上歴史の最後の時代に行われるべき、霊的回復の働きの情景を示している。イスラエルの残りの民は、敵の襲撃にさらされた弱い民であった。しかし神は、彼らによって、神ご自身とその律法についての知識を地上に示そうとなさった。彼らは真の礼拝の擁護者であり、聖なる言葉の保管者であった。彼らは神殿を再建し、エルサレムの城壁を建設した時に、様々の経験をしたのである。彼らは強力な反対に当面しなければならなかった。この工事の指導者たちの負った荷は、実に重かった。しかしこの人々は、神が真理に勝利をお与えになることを信じつつ、揺るがぬ確信と謙遜な精神と、神に対する固い信頼をもって前進した。ネヘミヤはヒゼキヤ王のように、『固く主に従って離れることなく、主が……命じられた命令を守った。主が彼と共におられた』(列王紀下18:6、7)」(『希望への光』636ページ、『国と指導者』下巻276、277ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2019年4期『エズラ記とネヘミヤ記─忠実な指導者を通して神がなしうること』からの抜粋です。

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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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