【ヨナ書】神は人とその住みかを知っておられる【1章解説】#2

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キリスト教の素晴らしい真理のひとつは、神が実在するだけでなく、人格を備えたお方であって、御自分の被造物と親しく交わられるお方であるということです。人間が創造された後で、与えられたものを自分の力で最善に用いるように放置されたというのは、キリスト教の教えではありません。聖書がエデン以後はっきりとあかししているように、私たちの創造主なる神はまた私たちの供給者であり、維持者です。そればかりでなく、この神は私たち一人ひとりについて、また一人ひとりの事情について知っておられます。そのうえ、神は私たちを心にかけてくださいます。

この偉大な真理はイエスの生涯と働きにおいて最もよく啓示されています。主イエスは人性を取ることによって私たちの一人となられましたが、それは永遠にわたって私たちと親密な関係を保たれるためでした。

今回は、ヨナ書の冒頭の聖句について学びます。ここにも、神が私たち一人ひとりだけではなくその住まいについても知っておられることの実例を見ることができます。ヨナ書の最初の2節は人類に対する神の愛を教えています。

個人的な出会い

「主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。『さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている』」(ヨナ1:1、2)。

この聖句にどんな意味が含まれているか考えてください。宇宙の創造者なる神、宇宙を支えておられるお方が今、宇宙の中の一点にすぎない銀河系の、そのまた一点にすぎない地球上の、取るに足らない一人の人間とお交わりになるというのです。

私たちの知っているこの宇宙は200億光年以上の広がりを持つといわれています。つまり、光の速さ(秒速30万キロ)で旅をしても、端から端まで行くのに200億年かかる計算になります。この広大な宇宙を創造し、御自分の力をもってそれを支えておられる神が今、一人の人間と交わり、ほかの人間に与えるべきメッセージをお与えになります。

このように言えば、自分が取るに足らない者で、だれからも心にかけてもらえない惨めな存在であるかのように考えるかもしれません。しかし、ここヨナ書において(もちろん、聖書全体において)、驚くべき神が描かれているのを見ます。私たちを知り、私たちを心にかけられる神、広大な宇宙の広がりを超えて、私たち一人ひとりと交わられる神を啓示しているからです。

詩編104編をご覧になって、世界と私たちの人生における神のメッセージ読み取ってください。特に35節が力説している点は何でしょうか。

この詩編にも、神が御自分の被造物とお交わりになることが描写されています。ここで注目したいのは、それが基本的に創世記における創造の順序に従ってはいるが(創1、2章参照)、神の力に関して用いられている動詞が現在形になっている点です。ここに、被造物の維持者・供給者として絶えず働いておられる神の姿を見ることができます。神は、この世界を創造された後は、自然の法則が支配するままに放置されたのではありません。むしろ、聖書によれば、自然界にも、わたしたち一人ひとりの人生の細部にいたるまで、今もご配慮を及ぼしてくださっています。

私たちの髪の毛

「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」(マタ10:30)。

ヨナ書は、神が目には見えないお方であるにもかかわらず、御自分の被造物に深い関心を寄せておられることを教えてくれます。そればかりでなく、神が私たち人間について知っておられることは個人的で、広範囲に及ぶものです。私たちがあまり関心を払わないことでも、神は詳しく知っておられます。

マタイ10:30は、神が私たちの個人的な生活にまで深くかかわっておられることをどのように例示していますか。

神が私たちについて詳しく知っておられることに関連して、詩編139:1~18を読んで、次の質問に答えてください。(1)これらの聖句と先に読んだ詩編104編との共通点と相違点は何ですか。それらは共に神についてどんなことを教えていますか。(2)詩編記者によれば、神は私たちをいつお知りになり、どんな点まで詳しく知っておられますか。このことは私たちの生き方にどんな影響を及ぼしますか。

神は私たちのすべて、つまり私たちがどこに行き、何を考え、何を言い、何をするかを知っておられます。

神の全知全能について詩編記者は、「あなたの御計らいはわたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。数えようとしても、砂の粒より多くその果てを極めたと思ってもわたしはなお、あなたの中にいる」(詩139:17、18)と記しています。

ヨナ書に啓示された神の力と知識について学ぶときに覚えたいことは、神が愛の神であって、私たちにとって最善のことを心にかけておられるということです。このことを決して忘れてはなりません。

「おい、お前!」

聖書は、神が異教徒であれ信仰者であれ人々をよく知っておられることの実例で満ちています。

サムエル記上16:1~3を読んで、神が私たちの心の中まで知っておられることに関してどんなことを教えていますか。

ルカ19:1~10を読んでください。イエスはエリコの町を通っておられたとき、群衆に囲まれます。上を見上げると、いちじく桑の木の枝に一人の男が座っているのをご覧になります。イエスは、「おい、木の上にいるお前!」とは言われませんでした。むしろ、その男の名前をお呼びになりました。「ザアカイ」と。イエスはその男の名前まで知っておられたのです。

エレン・ホワイトによれば、ザアカイは罪深い生活を送ってはいましたが、自分に働いておられた聖霊の導きに心を開いていました(『各時代の希望』中巻376ページ)。すでにそのことを知っておられたイエスは、この出来事をザアカイを救うための機会とされました(ルカ19:9参照)。

ヨハネ4:4~19を読むと、イエスはサマリヤの女の経歴を知っておられました。主は、どのようにしてそのことを彼女の永遠の祝福に変えられましたか。

神は神の民の人生にのみ介入されるのではなく、イザヤ書44:28、45:1では、イスラエル人以外の支配者が名指しで呼ばれています。このことは聖書の神の注目すべき特質であって、人間に対する神の態度に関して非常に重要なことを教えています。神が人を呼ぶときには、「おい、お前!」とは言われません。むしろ、彼がだれであり、何を考え、今どんな状況にあるかを詳しく知った上で、呼びかけられます。ヨナの場合もそうです。神は、不特定多数の中の一人としてではなく、特定の個人として、ヨナを知っておられました。

神は人とその住みかを知っておられる

神は人ばかりでなく、場所をも知っておられます。これは重要なことです。というのは、神に愛され、そのために死んでくださった人々は特定の場所に住んでいるからです。しかも、彼らの個人的な事情はその住んでいる場所と密接な関係があります。それゆえ、神は町々の名前を、さらにはそこで起こっている出来事を知っておられるのです。もちろん、神の関心は生命のない建物や通りや岩にではなく、そこに居を構えて住んでいる人間にあります。

次の聖句は、神がこの世界のすべてを知っておられることに関して何を教えていますか。創11:1~9、創18:20、ルカ19:41~44

旧約時代にあっては、エルサレムとヘブライ民族が重要な位置を占めていました。しかし、イエスの死後、人類のための神の救いの計画の中心は特定の場所から離れました。なぜですか。マタ21:43、24:14、ガラ3:28参照

古代世界の都市や町は新約聖書の中で重要な意味を持つようになりました。黙示録の初めにある七つの教会への手紙は、七つの都市と関係があります(黙1:4~3:22)。パウロの宣教旅行はどれも、特定の都市と関係があります(使17:1~4、16~34、18:1~11)。新約聖書の大部分を占めているパウロの手紙の多くは、当時の主要な都市や地域と密接な関係があります(ガラ1:1、2、エフェ1:1、2、フィリ1:1)。

したがって、ヨナの召しにおいて特定の都市の名が出てきたとしても不思議ではありません。ヨナ書の冒頭において、神はヨナという人物を召し、彼にニネベという都市に行くように告げておられます。

大いなる都ニネベ

ニネベが初めて聖書に出てくるのはどこですか。創10:11

古代ニネベの輪郭となる城壁が考古学者の手で発掘されました。ヨナが警告を伝えるために遣わされた時代に存在した主要な宮殿は、アシュルバニパル王の宮殿であったと思われます。この宮殿の建物だけでも約2万4000平方メートルの広さがありました。

紀元前1世紀の文書によれば、ニネベは30キロ×18キロの長方形をしており、周囲は約96キロありました。これは「一回りするのに三日かかった」というヨナ書の記録とほぼ一致します(ヨナ3:3)。

「ニネベ」というヘブライ語は「ニヌワ」というアッシリア語から来ています。この「ニヌワ」は古いシュメール語の「ニナ」から来ています。ニナは女神イシュタルの呼び名の一つで、子宮の中の魚によって表されています。

ニネベはイスラエルの北東約800キロのところにありました

(現在のイラク共和国、モスルの近く)。神の命令に従うためには、ヨナは徒歩で、あるいはラクダに乗って砂漠を旅しなければなりませんでした。それは、イスラエルの最も恐ろしい敵となるアッシリアの首都への長く苦しい旅を意味しました。

ヨナ書1:2を読んでください。神がヨナをニネベに遣わされたのはなぜですか。

ニネベは異教の繁栄と暴虐の中心でした。最も栄えた時には、犯罪と罪悪の都でもありました。実際のところ、ニネベに警告したのはヨナだけではありませんでした。ヨナから100年以上も後に、預言者ナホムが神から遣わされてニネベに神の裁きを警告しました。

まとめ

ペトロがヤッファにいたとき、コルネリウスという名のローマの百人隊長に福音を伝えるように主から召しを受けます。コルネリウスは異邦人として生まれ、異邦人として教育を受けていました。エレン・ホワイトは使徒ペトロとコルネリウスとの出会いを次のように記しています。

「コルネリオが祈っていると天使が現れた。百卒長は自分の名が呼ばれたので恐れたが、神の使者が来たことを悟って『主よ、なんでございますか』と言った。すると天使が答えて『あなたの祈りや施しは神のみ前にとどいて、おぼえられている。ついては今、ヨッパに人をやって、ペテロと呼ばれるシモンという人を招きなさい。この人は、海べに家をもつ皮なめしシモンという者の客となっている』と言った。これらの命令の明白なこと、また、ペテロが宿っている家の人の職業まであげられていることを見ると、どんな身分の人々の一生も仕事も天には知られていることがわかる。神は王の経験や働きを知っておられるだけでなく、身分の低い労働者のこともごぞんじなのである」(『患難から栄光へ』上巻142、143ページ)。

「この地球について、聖書は、創造の働きが完成されたものであることを宣言している。『みわざは世の初めに、でき上がっていた』とある。しかし神の能力は、いまもなお、お造りになった物をささえるために働いている。脈膊がうち、呼吸がつづけられるのは、一度動きはじめた機械組織が、その固有のエネルギーによって活動をつづけるせいではない。呼吸の一つ一つ、心臓の鼓動の一つ一つは、われわれの生命と活動と存在の根源である神の守りの証拠である。小さな昆虫から人間にいたるまで、ありとあらゆる生物は日々に、神の摂理によって生きているのである」

(『教育』141ページ)。

ミニガイド

預言者について

聖書で預言者という言葉を用いる場合、広い意味と狭い意味の預言者があると思います。広い意味の預言者とは、文字通り「神の言葉を預かる人」で、言い換えれば伝道したり、説教や聖書研究の賜物のことでしょう。要するに神の言葉を他の人に伝える技術や能力を指して

います。コリントの信徒への手紙Ⅰ・14章1節で、「特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」とコリント教会の一般の信徒に勧められている賜物です。その意味では、主を信じ、伝道を志す人には、不特定多数の人が預言者になれるわけです。

狭い意味の預言者は、神に直接に召され、啓示と霊感を授かったある特定の人です。「神のはかりごと」を示された預言者は、神の言葉を携え、それを叫ぶものとされるのです。未来の事柄を『預言』するのもその職務ですが、それは副次的、付随的な場合が多いのです。

最大の任務は、神から告げられた神のご意思、神がなそうとされる行為をそのまま告げることです。彼らは、また聖書全体の教理を体系的に、神学的に理解した上でそうするのでもありません。

預言者は、神の民が犯した罪の故に、彼らの命と存続が危機に瀕した時に、神の御意志を伝えるために遣わされます。啓示を逐一述べ、神の目でご覧になった人々の状況や側面を客観的に知らせます。

彼らは、機械的に一字一句神の言葉を伝えているのではないと思います。聖霊を通して神の臨在とその痛いほどの御心に触れ、確信に満たされます。その圧倒的な確信の故に、言葉がほとばしり出て、あたかも神が直接に語っておられるように見えるのです。

ヨナの預言の内容は、単純でごく短いものですが、そのメッセージは、ニネベの人々の心に力強く訴えました。その意味でヨナも後者の意味での預言者であって、他の預言者と肩を並べることができる人です。

また彼の預言活動から逃避しようとしたいただけない経験も思わぬところで、死んで葬られ、三日目に復活された主のさきがけの象徴になろうとは、思いもしなかったことでしょう。

*本記事は、安息日学校ガイド2003年4期『ヨナ書』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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