【ヨナ書】逃れるヨナ【1章解説】#4

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ここまでのところ、ヨナ書に書かれているのは、ごく普通の、当たり前のことです。つまり、預言者が神の召しを受けるという、ただそれだけのことです。事実、これは旧約聖書によく見られることです。たとえば、神はエレミヤに、「立って、ユーフラテスに行き……なさい」と言っておられます(エレ13:4、5)。また、エリヤに、「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め」と言っておられます(列王上17:9、10)。そして、二人の預言者はその通りにしています。

ヨナ書が同じような書き出しになっているので、読者はヨナも同じように、「立って、ニネベに行きなさい」という神の召しに応答するものと考えることでしょう。ところが、そうではありません。ヨナ書は神の預言者とその行動に関する私たちの伝統的な考え方を拒みます。ヨナ書はこれまでの範例を根底から覆します!預言者ヨナは、神の命令に従わないどころか、逆の方向に逃れます。神の預言者として決してよいスタートではありませんでした。

しかし、驚くには及びません。預言者も人間であり、私たちと同じ恐れ、不安、疑いを持っています。主の預言者に完全を期待すべきではありません。そうではないでしょうか。ノア、ダビデ、バプテスマのヨハネ、そしてペトロはどうだったでしょうか。彼らはみな完全ではありませんでした。

「わたしがここにおります。わたしを遣わさないでください!」

ヨナという名前は「鳩」を意味します。彼は神から逃れようとします。

ヨナは神の召しに対してどのように応答しましたか。ヨナ1:3

驚くべきことに、ヨナ書はひとりの預言者が神の召しを受けながら、自分の任務を逃れようとしたと記します。ヨナの行為はとてもほめられたものではありませんが、神の召しに従うことをためらった例はこれだけではありません。

ほかにもだれが神の召しに従うことをためらっていますか。その理由は何でしたか。出4:1、10、13

イスラエル人を奴隷から解放するためにエジプトに戻るように神から告げられたとき、モーセは驚きと恐れのあまり神の命令に従うことを辞退しました。彼はいくつも理由を挙げて任務を拒絶しますが、最終的には従います。エレン・ホワイトはこのときの事情を次のように説明しています。「神の命令がモーセに与えられたとき、彼は、自信がなく、口が重く、おくびょうであった。彼は、イスラエルびとに対する神の代弁者としての、自分の不適任さを思って圧倒された。しかし、ひとたびその任務を受け入れるや、主にまったく信頼を寄せ、全心をこめて働きを始めた。彼はこの偉大な働きのために、彼の知力のかぎりを尽くして働いた。神は、モーセのこのような従順な態度を祝福されたので、彼は雄弁になり、希望に満ち、落ちつきを取りもどして、人間にゆだねられた最大の働きにふさわしい人物となった」(『人類のあけぼの』上巻291ページ)。

「鳩」が逃げる

神はヨナに命令を与えられますが、ヨナはその命令に従わないで逃れようとします。ヨナ1:3には、あからさまな反抗心が示されています。この聖句に用いられている動詞の一つ一つが、主と主の命令から逃れようとするヨナの行為を表しています。ヨナ1:3に用いられている各動詞に注目してください。ヨナは「立って」、逃れます(「立って」という動詞は、語源的には「立って、……ニネベに行きなさい」という主の命令に用いられているそれと同じです――口語訳参照)。彼はヤッファに下り、船を見つけ、船賃を払い、船に乗り込みます。これら一連の行動は、彼がはっきりした目的を持って神の命令を逃れようとしたことを暗示します。著者は巧みな方法を用いて、ヨナの逃亡がはっきりした意図によるものであることを示唆しています。

ヨナ書1:3の初めと終わりにどんな言葉が繰り返されていますか。これは何を意味しますか。

この聖句の中に2回、ヨナが「主から逃れようとした」ことが繰り返されています。1回でよさそうなものです。しかしながら、一つの聖句に同じことが2回繰り返されていることは、ただ預言者にとどまらず、人間が主から逃れることができると考えることの愚かさについて考えさせるものです!

ヨナは主を知り、イスラエルの神を拝み、天と陸と海の創造主を知っていました(ヨナ1:9参照)。したがって、自らの行動の愚かさをだれよりも知っていたはずです。何の力も持たない異教の神々に従っていたわけではありません。

それどころか、自ら白状しているように、彼は神の力を知っていました。すべてを承知の上で逃れたのでしょうか。いったい、何を考えていたのでしょうか。

向かった

ヨナ書1:3は3回、ヨナがタルシシュに向かったと記しています。一つの聖句に3回も、です。ヘブライ語の物語体を記述する場合の、この特徴的な繰り返しに注意してください。著者はだらだらと書いているのでもなければ、口ごもっているのでもありません。そうではなく、著者は読者に重要な問題について考えさせようとしているのです。ここでタルシシュの町が3回繰り返されているのは、この町が、主がヨナに行くように言われたニネベと正反対の方角にあるからです。ニネベは東の方角で、タルシシュは西の方角です。ヨナの反逆はこれではっきりします。

神の明らかな命令と反対のことをした人物の例をほかにあげてください。創2:16、17と3:6、サム上15:3と15:21~23、出20:4~6とエゼ8:10

ヨナ書1:3で、ほかにどんな動詞が2回用いられていますか。

この聖句の中に2回、ヨナが「下った」と書かれています〔英語聖書参照〕。5節にも同じことが書かれています。つまり、ヨナはヤッファに「下り」、船に「乗り込み(下り)」、船底に「降りて」います。このように、続けて3回、ヨナは「下った」と書かれています。著者は注意深く、ヨナが神の命令から離れて行く様子を描いています。このような特殊な動詞が用いられているのは偶然ではありません。ここでは、それは否定的な含みを持ちます。事実、現代ヘブライ語では、「下る」という動詞は否定的な意味を持ち、反対に、「上る」は肯定的な意味を持ちます。

神の忍耐深い恵み

ヨナが主から逃れたとき、タルシシュへの船賃を払ったとき、全てが、そして彼の召しも終わっていたはずです。私たちが反逆し、神の指示から逃れ、神の命令に背くとき、それは私たちの終わりを意味します。神にはいつまでも私たちと取り引きしなければならない義務はありません。私たちが決定的な過ちを犯したときには特にそうです。しかし、神は私たちの理解を超えた愛のゆえに、私たちの度重なる失敗にもかかわらず、私たちのために働いていてくださいます。この忍耐深い神の恵みのゆえに、私たちは心から神に感謝すべきです。私たちの一つの大きな失敗のゆえに、神が私たちを見捨てられるとしたらどうでしょう。もしそうなら、いかなる聖人であれ、救われる望みはありません。恵みとは、もう一度、いや何度もやり直す機会が与えられること以外の何ものでもありません。

神の命令に背いた人たちのために、神がなおも働いてくださった実例を聖書からあげてください。創3章、創16章、サム下11章、マタ26:74、75      

決定的なときに信仰を捨てた人たちに対する神の恵みについての記録から、どんな教訓を学ぶことができますか。

神はヨナを召されますが、ヨナはそれを拒みます。主はヨナを反逆したままにされるでしょうか。ヨナの大きな過ちのゆえに彼をお見捨てになるでしょうか。そうではありません。ヨナは大胆にも逃亡しますが、主は彼と共におられます。ヨナは主を拒みますが、主はヨナを拒まれません。主によって召されたヨナは主を捨てますが、聖霊は彼をお捨てになりません。

自然界を支配される神

神はヨナの不服従にどのように応えられましたか。ヨナ1:4、ヨナ2:1(口語訳1:17)、ヨナ2:11(口語訳2:10)

ヨブ記38章を読んでください。今日の研究に関連して、この章はどんな重要なことを教えていますか。

自然界の法則を定められたのは神です。これらの法則は自らの力で機能しているのではありません。法則の賦与者である神がそれらを支配しておられるのです。一連の原因とその結果も神によって定められました。聖書によれば、神はそれらを思いのままに管理し、支配し、動かしておられます。

神がヨナの逃亡に対してとられた最初の行為は何ですか。ヨナ1:4

この大風は単に自然の力によるものではなく、自然界を含む万物を支配される神によるものでした。しかし、それは単なる力の誇示ではありません。自然の力と多くの無実の水夫たちがヨナの冒険に巻き込まれています。大風が起こったのは気むずかしい預言者(ヨナ)を追跡するためであり、その過程で預言者と同じ船に乗り合わせていた多くの人々を巻き込みました。

まとめ

エジプトの災害に関するエレン・ホワイトの言葉は多くの教訓を含んでいます。「破滅と荒廃が、滅びの天使の通ったあとを示していた。ゴセンの地だけが助かった。地は、生きた神の支配のもとにある。そして、自然は、神のみ声に従っている。だから神に従うことだけが安全であることが、エジプト人に明らかに示された」(『人類のあけぼの』上巻308、309ページ)。

黙示録によれば、キリスト再臨前にも同じような状況がこの世界に起こります。エレン・ホワイトはヨナの経験に関連して次のように記しています。

「人間の力ではいやすことのできない悲しみが、この世界に起こる時が近づいている。神の霊が取り去られつつある。海にも陸地にも、次々と急速に災害が起こる。地震、大竜巻、火事、洪水による破壊、人命財産の大損害などを、なんと度々耳にすることであろう。一見、こうした災害は、人間の力を超えた自然の猛威が突発的に起こしたものと思われるであろう。しかし、その中にあって、神のみこころを悟ることができるのである。神は、こうした方法によって、人々に、彼らの危険を自覚させようとしておられるのである」(『国と指導者』上巻244ページ)。

ミニガイド

ヨナの逃亡の理由

ヨナが、明白な神の命令を聞きながら、あえて逃亡したのはなぜでしょうか。彼が臆病だったからでしょうか。そんなふうには見えません。暴風雨が起きて船が沈みそうになった時、水夫たちも他の乗客たちも右往左往している中で、彼は船底で熟睡していたとあります。ガリラヤ湖上で暴風雨に巻き込まれた弟子たちの狼狽ぶりを尻目に、艫(とも)の方で眠っておられた主イエスの姿にも似た落ち着きぶりです。またクジに当たって、自分が荒れ狂う波間に投げ込まれる時も、おじ惑った様子はありません。大胆沈着な人だったようです。

ですから、他に理由があるようです。聖書には詳しく書かれてありませんが、ヨナ書4章2節に示唆があります。すでに預言者として名を馳せていた彼の目には、当時の政界情勢は一目瞭然でした。アッシリアが大きな勢力を得て他国を侵略していましたし、無防備な北王国イスラエルを攻撃してくるのも時間の問題でした。

この大国はパレスチナを領有する野望を持ち、アッシリアの碑文には、アダド・ニラリ3世がヤロブアム王の治めていたイスラエルにみつぎ物を課したことや、シャルマネセル3世はアハブ王と戦い、エフーからみつぎ物を受け取ったという記録が残っています。

また、アッシリアが征服した敗戦国をいかに残酷に取り扱うかも知っていました。どちらかと言えば、ヨナはアッシリアに天罰が降ることこそ望ましいと考えていたかもしれません。ヨナが宣教の命令を受けた頃は、アッシリア自身も北からの脅威を受けて、士気が衰えていた時でもありました。したがって、自分がニネベに出かけて悔い改めを促せば、その町の住民たちが神の警告を心に留め、悔い改めれば、神はこれを是認される可能性が強い。そうなれば、この国が力をつけて、再び自分の母国にとって脅威になりかねないと判断したのではないでしょうか。自分が、ここで敵前逃亡したとなれば、預言者としての名声に傷は付くかもしれないが、そのために祖国が助かればよいという愛国心からこのような行動をとったのでしょう。

ヨナ書には、彼が主のみ顔を避けて逃れようとしたと書いてあります。しかし、主は、世界中どこにも遍在なさるお方であり、誰も主から逃れる術はないのだということも重々知ってはいたはずです。それでも、彼がタルシシを選んだのは、当時の地理観では、そこが地の果てであり、引き返すことができないほど遠くへ足を伸ばせば、神はあきらめて自分以外の人を預言者に選ばれるだろう。そうすればこのいやな任務をはずしてもらえると期待したのでしょう。それとも、多分、神に対する無駄な抵抗と知りつつも、あえて逃亡を企てたのでしょうか。

*本記事は、安息日学校ガイド2003年4期『ヨナ書』からの抜粋です。

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