エフェソの信徒への手紙 -EPHESIANS-【解説】#5

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結びの言葉(エフェソの信徒への手紙6章19節~24節)

パウロは、エフェソの教会宛の彼の書簡を、確信と、共同体と、愛の言葉をもって閉じています。ローマの牢獄に彼が投獄されている厳しさについては、この書簡では1度も表明されてはいません。エルサレムにおける彼の誤った捕縛の責任者であるユダヤ人の指導者たちに対する、何の敵意もまた描かれてはいません。使徒にとっては、個人的な事柄は取るに足りないものでした。彼は偉大で高貴な人物でした。彼は純金の液につけられ、天来の恵みによって常に磨かれた品性の持ち主でした。彼の心に常に重荷があるとすれば、それはイエス・キリストの福音であり、異邦人への使徒となるべき彼の召命であり、仲間の信徒たちへの彼の関心でした。これらの三つが、この書簡にうまく混在しています。

確信(エフェソの信徒への手紙6章18節、19節)

クリスチャンの武具についての彼の論議(エフェソ6の11~18)を終わるに当って、使徒は、信徒たちにどのような時でも祈りの心を持つようにと訴えています。自分のため、お互いのため、福音の働きを広めるため、最終の時の備えのためヘの祈りは、個人のクリスチャンにも、また信仰の共同体にも、共になければならないものです。

この願いと共に使徒は、個人的なことを付け加えています。彼は投獄生活を軽くし、そこでの住み心地をもう少し良くするために多くの事柄を頼むこともできました。ところが彼はそのようにはしないで、「鎖につながれた使者」のために祈って欲しいと、エフェソの信徒たちに訴えています。これは実に驚くべきことです。主からの真実で個人的な召命を経験した人は、そのことを決して忘れることはできません。パウロにとって、ダマスコの経験は、彼をお召しになられたお方と彼とを常に結び付けるものでした。使徒は、囚人としての彼のための祈りではなく、王の王であるお方の使者としての彼のために祈って欲しいと頼んでいます。

鎖につながれていても構わない。彼の舌は自由である。彼の思いも新鮮である。彼の心は喜びに躍っている。彼の福音の発見は、昨日の出来事のように鮮明である。そこで使徒は、自由に語ることができる日がもう1度彼のものとなるように、そして彼が「語るべきこと」を「大胆に話せるように」と待望しているのです。使者には伝えるべきメッセージがあります。彼が話すべき時に沈黙していることは、選択肢の中にはありません。

更に、彼は人類歴史に起こった最大の出来事――粉々に引き裂かれた多くの人々から、一つの民を創造する「福音の神秘」の啓示――の使者です。もはやユダヤ人も異邦人もない、というこの宣言が、エルサレムにおけるパウロの捕縛へと導き、更に彼が死ななければならないのは、この宣言と共にである筈です。生涯の終わりに直面して、その唇にイエスの御名を唱え、その心に新しく一つにされた創造の確信を持つことほど、クリスチャンが求めることができる素晴らしい特権が他にあるでしょうか。そこで使徒は、エフェソの信徒たちに、「わたしのために祈ってください」と訴えるのです。

共同体(エフェソの信徒への手紙6章21節、22節)

パウロは彼の結論の中に、キリストの十字架が達成した新しい共同体の思想をも含みました。これはこの書簡――パウロによる新しい人間関係の福音――の重荷でありました。この書物全体を通じて、この福音の神学とその実践的な教えについて、彼は語ってきました。さて、あたかも体で抱擁するかのように、新しい共同体についてのこの思想に対する彼の献身を公言するかのように、パウロはこの手紙をティキコと呼ばれる一人の人の手に託して送るのです。

使徒は彼の使者のことを、「主に結ばれた、愛する兄弟であり、忠実に仕える者」(エフェソ6の21)と紹介しています。ティキコは、使徒に関するすべての知らせをエフェソの信徒たちに知らせる使徒の腹心の友です。彼はパウロが信頼している人物です。ダマスコの経験以前では、使徒は異邦人のティキコに関してこのようなことは言わなかったことでしょう。しかし十字架につけられたキリストの中に、パウロはユダヤ人と異邦人との間にあるすべての壁が崩壊するのを見たのです(2の14~18)。この神秘のために、使徒は主要な管理者となったのです。これが決定的な相違をもたらしました。ユダヤ人と異邦人の両者に貼られたラベルが、価値ある唯一のラベル――キリスト・イエスによって新しく創造された者――に貼り変えられました。このような抱擁性は、和解の福音の力と栄光を証ししています。

愛(エフェソの信徒への手紙6章23節、24節)

使徒はこの書簡を、恵み、愛、平和という言葉で始めました(1の1~4)。彼は同じ言葉で書簡を閉じています(6の23、24)。三つの言葉の中で、愛は最も心を打つ表現です。事実この言葉は、すべての信者はキリストにあって一つであり、愛のうちに生きなければならないというこの書簡の主題を要約するものです。これこそ、クリスチャンの愛が意味するものです。この愛を生きる人々は、イエス・キリストにおいて神が創始なさった新しい関係の福音を実践する人たちです。「恵みが、変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人と共にあるように。アーメン」。

*本記事は、ジョン・M・ファウラー(John M. Fowler)著、山路明訳 2005年9月1日発行『エフェソの信徒への手紙』からの抜粋です。

著者紹介
ジョン・M・ファウラー博士はインドで生まれ、10代の頃に預言の声ラジオ放送を通してアドベンチストとなる。スパイサー・カレッジで神学学士を取得後、32年間、インドで牧師、教師、教会行政、編集に携わる。1990年、『ミニストリー』誌副編集長として世界総会に招聘される。1995年より世界総会教育部副部長。ニューヨーク・シラキュース大学よりジャーナリズム修士号、アンドルーズ大学より博士号を授与される。毎年、3週間伝道に従事する。教会誌および専門誌に300以上の記事を寄稿。『キリストとサタンの宇宙的争闘』ほか、数冊の著書がある。妻メリーとの間に2人の子供がいる。

翻訳者紹介
1933年福岡県生まれ。日本三育学院神学科、米国アンドリュース大学院(宗教学修士)各卒。
福岡、大阪、広島、盛岡、神戸、フレスノ(カリフォルニア州)、天沼、名古屋、宮崎、都城、隼人、ハシェンダ(ロサンゼルス)等で40余年の教会牧師。その間、教団安息日学校部・信徒伝道部長、牧師会長、預言の声代表、沖縄教区長歴任。 著書に『人生百話』『人は何に感動するか』『沈黙のすすめ』、翻訳書に『これで1844年調査審判がよくわかる』 『カウントダウン・シリーズ1-10』等がある。

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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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