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第1課 知恵の呼びかけ
第1課 知恵の呼びかけ
エデンの園以来、人間の悲劇の根源は、誤った選択にあります。「神だけが全知であり真理であるにもかかわらず、アダムはその神のみ言葉に従わず、欺く者に聞き従ったために、いっさいのものを失ってしまった。善と悪が入り混じったために、彼の心は混乱し……た」(『教育』16ページ)。
「箴言」は、私たちが正しい選択をし、欺く者の道ではなく神の道を選ぶように助けるためのものにほかなりません。父親であれ、母親であれ、親は自分の息子に語るとき、誤った選択をしないように警告するだけでなく、正しい選択をするように励まします。そうすることは、私たちの行う選択が、文字どおり生死に関わる重大問題なので、とても重要です。
「箴言」の初めの3章は、このような教育方法を例示しています。著者はこの書の目的「知恵……をわきまえ(ること)」(箴1:2)を説明し、標語「主を畏れることは知恵の初め」(同1:7、同9:10と比較)を定めたあと、愚かさに耳を傾けることへの警告と、天の知恵の呼びかけに応答することへの促しを繰り返しています。
知恵の始まり
箴言1:1~6において、「ダビデの子、ソロモンの箴言」(箴1:1)という見出しは、「箴言」のこの箇所と列王記上3:5~14を結びつけています。(「箴言」においてと同様)列王記の中で、ソロモンは神からの知恵を求める子として紹介されています。また、両方の箇所でソロモンが「ダビデの子」と呼ばれていることに加え、重要な共通の言葉「知恵」「理解する(聞き分ける)」「裁き」が用いられています。このような類似は、ソロモンがこの書の作成の背後にいることを裏づけるだけでなく、「箴言」が神からの知恵に対する人間の探求を扱っていることを示しています。
箴言1:7を読んでください。ここに書かれている「知恵」と「主を畏れる」という二つの概念の間には、どのようなつながりがあるのでしょうか。
ここにおいて、「知恵」は宗教的な体験として定義されており、主を畏れることとつながっています。ヘブライ人の宗教におけるこの重要な概念[主を畏れること]は、「箴言」を読み解く鍵です。この概念は繰り返し登場するだけでなく、「箴言」全体の枠組みを形作っています(箴1:7、31:30)。
主を畏れることは、神罰に対する迷信的で子どもじみた恐れとはまったく関係がありません。むしろそれは、いつでも、どこにおいても、神が人格として存在しておられるという強い意識として理解されるべきです。主を畏れることは、シナイにおける神の顕現に対するイスラエルの人々の反応を特徴づけていました(出19:16、20:20)。彼らが、神との契約に応えて、神に忠実であり、神を愛したいと思ったのは(申10:20)、主を畏れたことの結果でした。要するに、主を畏れるとは、神に忠実であり、神を愛することです。
「主を畏れることは知恵の初め」(強調筆者)という言葉は、知恵がこのような「畏れ」に由来することを意味します。「初め」に相当するヘブライ語「レシート」は創造物語の最初の言葉を指し示しています(創1:1)。つまり、知恵の最初の教えは、神が創造主、つまり私たちに命と息を与えておられる方であり、常に存在しておられること、愛と正義(公正)と贖いの神であられること(ヨハ3:16、詩編89:15[口語訳89:14]、ヘブ9:12)を理解することです。
真の教育
箴言1:8~19を読んでください。これらの聖句の中で、二つの対照的な「教育」方法が示されています。
教育は、そもそも家庭の事柄であり、真の教育は、何よりもまず両親によってもたらされます。先の聖句において、このような教育は「諭し(教訓)」とか「教え」(英訳聖書では「律法」)と呼ばれています。「律法」に相当するヘブライ語「トーラー」は「方向」を意味しますから、両親は自分の子どもたちに正しい方向を指し示します。それとは対照的に、もう一方の種類の「教育」は特定されておらず、名称が与えられていません。単にそれは、間違った方向へ導く、ならず者(悪者、罪人)の声とされています。
また、「わが子」(男の子とは限りません)という言葉が、親の諭しを強調するために繰り返し出てきます。親(「父」「母」)は、それぞれ単数形ではっきり示され、個人的に関与している一方、別のグループは、無名で複数形の「ならず者」です。
「賢明な主は、家庭があらゆる教育機関の中で最高のものとなるように定められた。子どもの教育の始まりは家庭にある。家庭は子どもの最初の学校である。
子どもはここで両親を教師として、生涯を通じて彼を導く教訓……を学ぶ。家庭の教育的な感化力は、善にとっても悪にとっても決定的な力である。……子どもがここで正しく教育されなければ、サタンは自分の選んだ機関を通して子どもを教育するだろう」(『希望への光—クリスチャン生活編』674ページ、『アドベンチスト・ホーム』195ページ、安息日学校部訳)。
家庭教育を支持する最良の根拠は、その結果です。それらは品性の内面的な資質であり、頭に載せる冠や首にかける飾りに似ています。中東の文化では、高価な首飾りや腕輪は、価値ある遺産として親から子へ受け継がれました。しかし教育は、物質的な豊かさよりもずっと重要です。子どもと一緒に過ごす時間は、仕事のために費やす時間よりもはるかに価値があります。また、頭や首など、個性を表す人の顔への言及は、教育がその人の人格を形作ることを示唆しています。一方、ならず者、つまり愚かな者たちの道に関しては、あたかも放蕩息子が人格(個性)を失ったように、「足」だけが言及されています(箴1:15)。
知恵の呼びかけ
箴言1:20、21を読んでください。ならず者が「待ち伏せし」、「隠れて待って」(箴1:11、18)いる一方、知恵は「巷に呼ばわり」(同1:20)、「雑踏の街角で呼びかけ」(同1:21)、「語りかけ」(同)ます。ここでは、知恵が擬人化されており、その勧めは路上の男にも女にも与えられています。知恵は、日常生活や仕事をしているすべての人のためのものです。多くの産物と多くの売り手のどなり声とうらみのただ中で、知恵の呼び声は大きくなければなりません。さもなければ、多くの声の喧騒に負けて聞こえなくなるからです。
問1
箴言1:22~32を読んでください。知恵を拒否すると、その結果はどうなりますか。
人々が知恵を拒否する理由は、知恵そのものとは関係がなく、それを拒否する人の品性と大いに関係があります。このような人たちは、あたかも分別があるかのように傲慢で尊大な者と評されています(箴1:25、同30節と比較)。どうやら知恵は、単純で浅はかな人間のためのものであるかのようです。しかし実際は、知恵を拒否する者たちこそが単純で浅はかであり、「知ることをいとう」(同1:22、同29節と比較)愚か者です。
知恵を拒否する者たちは、拒んだ結果(実)を刈り取ることになります。主を畏れることを選ばなかったがゆえに、彼らは自分自身に納得しなければならないでしょう。彼らは「自分たちの意見に飽き足りる」(箴1:31)ことになります。天からの知恵を拒否するとき、私たちはしばしば自分自身のために作り話やうそをでっちあげることになるか、あるいは、ほかの人たちが私たちの受け入れやすい作り話やうそをでっちあげることになります。このようにして、私たちは神と偶像を置き換えます。皮肉なことに、宗教を単純で浅はかなものと評価してあざ笑い、軽蔑する者たちは、しばしば彼らの道において迷信的であり、心の最も基本的な欲求を決して満足させることのない最もはかなく、役に立たないものに価値を置いています。
知恵の利益
箴言2:1~5を読んでください。ここでの話は、[英訳聖書で]‘if(もし)’という接続詞を3回用いており、それは教育の進み具合の三つの段階を示しています。最初の「もし」は、耳を傾けるという受け身の段階(箴2:1、2)、つまり、ただ知恵の言葉に注意を払い、受け入れる状態にあることを、二番目の「もし」は、知恵を叫び求めるという積極的な応答の段階を(同2:3)、三番目の「もし」は、私たちが「宝物を求めるように」(同2:4)知恵を探し求める情熱的な関わりの段階を示しています。
箴言2:6~9を読んでください。6節の「知恵を授けるのは主」という部分が、5節の「あなたは……神を知ることに到達するであろう」に対応していることに注目してください。救いと同様、知恵は神からの賜物です。1節から5節までが人間の過程を描いているように、6節から9節までは神の働き—神が知恵を与え、知恵を蓄え、賢者の道を守り、保護されること—を描いています。
箴言2:10~22を読んでください。「知恵があなたの心を訪れ(る)」ときとは、回心の最終段階を示します。私たちは主の知識を楽しむだけでなく、知恵が私たちの魂の喜びとなります(箴言2:10)。私たちはまた、悪い道から守られ(同2:12)、義の道を歩むことになります(同2:20)。
問2
箴言2:13、17を読んでください。不正の第一段階は何ですか。それはどういう結果になりますか。
私たちは罪人ですが、悪に陥る必要はありません。悪しき道にいるとされる者たちは、最初に、まっすぐな(正しい)道を捨て去ったに違いありません。ですから悪は、何よりも誠実さに欠けることだ、と理解されています。罪はいつの間にか、何食わぬ顔で始まりますが、やがて間もなく、罪人は悪事を働くだけでなく、罪を喜ぶようにもなります。
忘れてはならない!
箴言3:7を読んでください。自分自身を知恵ある者と見ることは、賢明であるために神は必要でない、という思い違いにつながります。これは絶望的な状況です。「彼よりは愚か者の方がまだ希望が持てる」(箴26:12)。ここでもまた、知恵は宗教的な義務として描かれています。賢明であるというのは、神の戒めを心に留めること(箴3:1)、「慈しみとまこと」(同3:3)をあらわすこと、そして「主に信頼すること」(同3:5)です。知恵は、神との親しい関係を暗示しています。神の働きかけに対する私たちの個人的な応答の座(the seat)である「心」が、繰り返し言及されていることに注目してください(知恵の訪れる場所として、箴言2:10でもすでに言及されていました)。
箴言3:13~18を読んでください。知恵には、命と健康が伴います(箴3:2、8、16、18、22)。それを最も連想させるたとえのひとつが、「命の木」(同3:18)—「箴言」の中で何度か繰り返されている約束(同11:30、13:12、15:4)—です。この比喩は、エデンの園をほのめかしています。この約束は、知恵を得ることで永遠の命が与えられると言っているのではありません。そうではなく、人類の最初の両親がエデンで享受していた、神とともに過ごす生活の質が、ある程度回復するということです。神とともに生きるとき、私たちはエデンをそれとなく感じますが、さらに良いことに、この失われた王国が回復されるという約束に望みを置くようになります(ダニ7:18参照)。
問3
箴言3:19、20を読んでください。知恵の必要性は、なぜ切実なのですか。
創造物語への唐突な言及は、この文脈の中で不自然なように思えます。しかし、天地創造において知恵が用いられたことは、知恵と命の木を結びつけている18節の論拠を補強するのです。神が天地を造るために知恵を用いられたとすると、知恵はささいなものではありません。知恵の領域は宇宙的な広がりを持ち、私たちの地球での生活を超えています。そのうえ、知恵は私たちの永遠の命にも関係しています。このような教えが、エデンの園を連想させる命の木への言及の中に暗示されています。またこのような視点は、今回の聖句を締めくくっている約束—「知恵ある人は名誉を嗣業として受け(る)」(箴3:35)—の中にも含まれています。
さらなる研究
「青少年たちは、『いのちの泉はあなたのもとにあり』と聖書に述べられているみ言葉の基礎となっている深い真理をさとらなければならない。神は万物の創始者であるばかりでなく、生けるすべてのものの生命であられるのである。われわれは日光や清いさわやかな空気や、食物を通して、われわれの肉体を築き、われわれの力をささえるものを受けるが、それはとりもなおさず神の生命である。われわれが、時々刻々に生存するのは、神の生命によるのである。罪のために悪用されているものを除けば、すべての神の賜物は、生命と健康と喜びに役立つのである」(『教育』235ページ)。
「多くの人々は、神に献身することが、健康にも、人生の人間関係における快活な喜びにも害を及ぼす、という印象を抱いている。しかし、知恵の道、聖なる道を歩む者たちは、『信心深いことは、現在と将来の生活を約束するので、すべての点で益である』ことがわかる。彼らは人生の真の喜びを味わうことに敏感である」(『SDA聖書注解』第3巻1156ページ、英文)。
第2課 耳から足まで
第2課 耳から足まで
科学は、聴覚が私たちの歩き方に影響を及ぼすこと、また私たちの平行感覚さえも、耳の聞こえ方によって影響を受けることを実証してきました。それゆえ、「諭し(教育)」—つまり、私たちが聞く内容—は、私たちがどのように生きるかということにおいてきわめて重要です。箴言4:7(現代訳)は、「知恵は最高のもの」と言っています。
しかし、諭しがいかに良いものであっても、学ぶ者は注意を払う必要があります。古代エジプトの教師がいくらか皮肉を込めて、「少年の耳は背中に付いている。彼は叩かれるときに聞くのだから」と指摘したとおりです(エジプトの絵画では、背中に付いた大きな耳でしばしば学生をあらわしました)。
善悪について知るだけでは、十分ではありません。悪ではなく、善をいかに選ぶかを、私たちは学ぶ必要があります。知恵の訓練は、適切な諭しを聞くことと、私たちが最終的に誤った方向へ歩いていかないよう、学んだことに従っていくことから成り立っています。
聞け!
問1箴言4章を読んでください。ここにはどんな実際的な真理がありますか。神に対して忠実に生きようとするとき、私たちはこの真理を、いかに自分自身の生活に適用させることができるでしょうか。
「聞く」という行為は、教育における第一歩です。ヘブライ人の思想において、知恵や知性の座(the seat)は脳にあるのではなく、耳にあるとされています。これは、私たちが概念化したり、問題を解決したりしようとする前に、まずは聞く必要があることを意味しています。ソロモンが知恵を求めたとき、彼は「聞く心」(王上3:9、直訳)を具体的に求めています。
従って、知恵の最初の行動は「聞くこと」であり、それは、知恵が外部の源(この場合は両親)からもたらされることを示唆しています。私たちは自分の力で知恵を見いだすことができません。自分ひとりで個性を成長させたというのは、聖書の知恵という領域においてはありえない概念です。そもそも知恵というのは、私たちが受け取るものであって、私たち自身の技能で形作ったり、才気や論理的思考で掘り出したりするものではありません。「注意して聞く」(ヘブライ語では「心を注ぐ」)能力は、心が関わっていることを示唆しています。従って、知恵の探求は、単に感情抜きの、客観的な活動ではありません。個人の核(the core)であり、(ヘブライ人の思想における)感情の座(the seat)でもある心が、知恵の探求に関わっています。
問2
マタイ13:44とエレミヤ29:13を読んでください。これらの聖句と、箴言4章にあらわされているような知恵の探求との間に、あなたはどのようなつながりを見いだすことができますか。
あなたの家族を守れ
ひとたび知恵の道を歩むことを決心しても、私たちは依然として大いに警戒する必要があります。なぜなら、私たちはこの先、障害に遭遇することがあるからです(Iペト5:8参照)。私たちが直面する最大の危機の一つは、生活の領域において最も大切で、最も感情的に影響を受けやすく、最も親密である「家族」と関係するものです。
箴言5章を読んでください。私たちは危機を警戒しなければなりません。
第一の危機は、私たち自身から始まります。それは私たちの言葉にあります。私たちは、自分の言うことが不適切なメッセージや混乱したメッセージを伝えないように、自分の舌を警戒しましょう。私たちの唇は、私たちの知識と調和するように、私たちの霊的見識を反映するようにしましょう。
第二の危機は、家族に干渉してくる「よその女」(または「よその男」)によってもたらされます(該当する聖句は、「売春婦」からもたらされる危機のことを指していますが、この言葉は一般的な意味で理解されるでしょう。誘惑は、女からも男からも生じるからです)。いずれも私たちを唆して、結婚の誓いを破るようにさせますが、その罪がいかに破壊的であるかを目にしたことのない人がいるでしょうか。
聖句によれば、しばしば甘い言葉で始まるこのような誘惑に抵抗する最良の方法は、知恵の言葉に耳を傾けることです。霊感を受けた諭しに心を留め、それに従うことで、私たちは最も大切なものに意識を集中し続けることができるようになります。そのようにして、不倫や遭遇するいかなる誘惑からも守られます。
言うまでもなく、私たちは不倫に気をつけるだけでなく、「誘惑する女」のいる場所に行かないようにし、その門口に近寄ってはなりません(箴5:8)。
最後に、よその女や男を愛する誘惑に抵抗する最高の防御法は、たぶん、「若いときからの妻[夫]」(箴5:18)であるあなたの伴侶だけを愛することでしょう。コヘレトの言葉の著者はこの勧告に共感し、「太陽の下、与えられた空しい人生の日々/愛する妻と共に楽しく生きるがよい」(コヘ9:9)と書いています。あなたの持っているものに感謝してください。そうすれば、あなたがよそに目を向けることはないでしょう。
あなたの友情を守れ
かつてある人が言いました、「主よ、私を友人たちから守ってください。そうすれば、私の敵をやっつけることができます」と。「箴言」は友情のもろさにも関心を寄せており、友好関係の保ち方や、必要な場合には、私たち自身を友人から守る方法についても助言しています。「友人」に相当するヘブライ語には、私たちの身近にいる「隣人」、つまり、すでに友人の人やこれから友人になるかもしれない人という意味もあります。聖書の知恵は人間関係を重視していて、その関係における思慮深さと尊敬を奨励しています。
問3
箴言6:1~5を読んでください。ソロモンが言及しているのは、どのような問題ですか。その解決法は何ですか。私たちがここに見いだすのは、どんな重要な霊的原則でしょうか。
トーラー(律法)は、貧しい人を助け、利子を取らずにお金を貸してあげなさい、と人々に勧めていますが(出22:25)、知恵は、負債を抱える友人に金銭的支援を軽率にしないよう、警告しています。慈善(charity)の義務は、正義(justice)の義務を排除しません(同23:2、3)。可能なときには、私たちは気前よくすべきですが、私たちの慈善が大きな損失にならないように、賢明でありたいものです(箴22:26、27と比較)。
それゆえ、賢明な勧告が箴言22:26、27の中に与えられています。第一の注意は、私たちの言葉に向けられたものです。私たちが状況を判断し、友人を助けることができるかどうかを確認することは、なんと重要でしょうか。もしそうなら、助けられると判断したときにだけ、約束してください。確かに、私たちの関係の深さや一時的な感情のゆえにいきなり誓ってしまうと、あとで後悔することになるでしょう。
あなたがどれほど善意にあふれていたとしても、実行できないことを誓う前、行動する前に考えなければいけません。重要なのは、もし私たちが借金を作ってしまったなら、(謙遜になり、自分の誤りを認め、慈悲を乞うなど)その解決のためにできることをする必要があるということです。
あなたの仕事を守れ
問4
箴言6:6~8を読んでください。私たちは蟻から何を学ぶことができますか。
蟻は(個々の体重比において、蟻の運べる荷と人間の運べる荷を比較するなら、人間よりも)懸命に働くだけでなく、自主的に働き、監督される必要がありません。蟻が一生懸命働く主たる理由は、将来です。彼らは困難な時期(冬)を見込んで、それに備えます。つまり蟻は、計画を立てたり、活動に従事したりして将来について考えるという知恵を私たちに教えています。「これは、親も教師も生徒も、老人も青年も、すべての人が考えなければならない問題である。どんな商売の計画も人生の目的も、それが現世の短い年月だけに限られたものであって、永遠の未来のために準備するものでないならば、それは健全であることも完全であることも不可能である」(『教育』161ページ)。
問5
箴言6:9~11を読んでください。私たちは「怠け者」から、何を学ぶことができますか。
蟻から何かを学ぶように勧められているのは、「怠け者よ、蟻のところに行って見よ。その道を見て、知恵を得よ」(箴6:6)とあるように、怠け者の方です。怠け者から蟻が学ぶのではありません。蟻が働いている一方で、怠け者は眠っています。蟻は刈り入れ時に活動的ですが、怠け者は手をこまぬいて(怠惰を象徴する状態の中に)います。蟻は自分よりも重い荷を運び、将来に備えることで実力以上の成果を出しますが、怠け者は今に生き、自分のことだけで頭がいっぱいです。
あなた自身を守る
「箴言」は、生活の三つの領域—家族、社会的な付き合い、仕事—を脅かす特定の悪について私たちに警告を与えたあと、悪を行う者を描写しています。それは、皮肉と心理学的な鋭い観察にあふれた風刺です。二つの詩(箴6:12~15、16~19)は似ていて、同じ詩的リズムを持ち、七つの主題を扱っています。悪を行う者の内面は、心の中の考えとつながっているとされており、同時にそれは、外面においてなされることの中にすべてあらわれるようになります。
「もしあなたがむなしい想像にふけり、清くないことを思いめぐらすならば、あなたは多少なりとも神の前に思いを行動に移したのと同じほどに罪を犯したことになるのである」(『希望への光—クリスチャン生活編』760ページ、『アドベンチスト・ホーム』375、376ページ)。
問6
箴言6:12~19には、どのような警告が与えられていますか。
この比喩は皮肉っぽいものです。悪を行う者たちは、やる気のない怠け者のあとに続いています。両者の態度は異なるように見えますが、含んでいる教訓は同じです。両者ともに自分自身の中に閉じ籠っていて、外部からやって来る諭しに興味がありません。また、自分自身の知恵や好みに従っています。怠け者は眠っていて、耳も足も機能しておらず、悪を行う者は、足と口が動いているものの、耳が動いていません。結果は同じです。両者ともに破滅するでしょう。
その一方、悪は二つの影響を及ぼします。悪は、罪を犯した相手だけでなく、罪を犯した本人にも害を与えます。うそつきは、最終的に自分のうそを信じるようになるでしょう。また注目すべきことに、悪の結末はいさかいや仲たがいであり、それは社会にも影響を及ぼします。確かに、罪の結果は、罪人だけに限定されることがめったにありません。ほかの人たちもまた影響を受け、たいていさらに悪くなるだけです。
さらなる研究
「聖書を研究するときには、学ぶ者としての精神をもって聖書に接すべきであることを教えられなければならない。自分の意見を裏づけるために聖書のページをめくるのではなく、神が仰せになっていることを知るために聖書を学ぶのでなければならない。……
知的に無能力であったり、道徳的に欠点があったりするのは、価値のある目的に向かって、精神を集中することに欠けていることが主な原因の一つである。……出版社からたえまなく送り出される印刷物の大洪水のために、老人も若い者も、大急ぎで上すべりな読書をする習慣がつき、一貫した健全な思考力が失われる」(『教育』224、225ページ)。
「蟻が自分たちのために作る住みかは、技能と忍耐を示している。蟻が一度に運べる穀物は、小さな一粒にすぎないが、勤勉と忍耐によって彼らは驚嘆すべきものを完成させる。
ソロモンは蟻の勤勉さを、魂や体を腐敗させる習慣や怠惰によって時間を浪費する者への叱責として挙げている。蟻は将来やって来る季節のために準備をするが、考える力を与えられている多くの者が、将来の不死の命に対する準備に怠けている」(『次世代につなぐ信仰—両親、教師、生徒への勧め』190ページ、英文)。
第3課 生きるか死ぬかの問題
第3課 生きるか死ぬかの問題
2人の兄弟だけが家に残されていました。しかし、焼きあがったばかりのケーキを食べてはいけないと、母親からきつく言われました。しかも彼女は、子どもたちが言いつけにきちんと従うよう、罰の脅しも付け加えておきました。
母親が家を出てから、少年たちがケーキを食べようと決心するまで、わずか数分しかかかりませんでした。「これは生きるか死ぬかの問題じゃないよね。ママはぼくたちを決して殺したりしないさ。だから、食べちゃおう!」と、2人は言い訳を作りました。
しかし「箴言」の教師にとって、彼が語っている問題は、まさに生死に関わる問題です。彼の言葉は強く、ときとしてあからさまです。言うまでもなく、イエスは永遠の命と死という問題についてお語りになったとき、極めて強い言葉を使われました(マタ5:21~30参照)。それもそのはずです。結局のところ、私たちの最終的な運命、永遠の運命は(これ以上に大切なものがあるでしょうか)、私たちが今ここで行うさまざまな選択にかかっています。それゆえ私たちは、強い言葉の切迫感を文字どおりに受け止めましょう。
私たちの生活における律法
箴言6:21と7:3を読んでください。先の課で触れたように、「箴言」において「心」は感情と思考の座(seat)をあらわしています。「箴言」の教師は、律法を心に結びつけなさい(箴6:21)と言うことによって、私たちは常に律法と密接につながっていましょう、ということを言っています。私たちが律法とのつながりを失ってもよい瞬間はありません。なぜなら、律法は罪を明らかにするものだからです(ロマ7:7)。「箴言」の教師はまた、ちょうど十戒が神によって石の板に書かれたように(出24:12)、この律法は心の中の板に書き記しなさい、とも主張しています(箴7:3)。
律法が心に記されるというのは、単に律法が私たちに課される一連の外的な規則でないことを意味します。律法は私たちの動機、密かな意図にまで浸透し、自己の一部にならなければなりません。これは、「あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望」(コロ1:27)というパウロの約束を私たちの生活の中で実現することを言い換えたものです。
律法を「首」に巻きつけるというのも、私たちが律法を身近なものにしていましょう、という意味です。古代の人々は、よく貴重品を自分の首に巻きつけました。首は、そこを通じて空気が肺に入る場所、呼吸と生命を与える場所であり、「喉」または「呼吸」を意味する言葉から派生した「命」を意味するヘブライ語の「ネフェシュ」(魂)によって説明された思想が集まっている場所です。
律法を「指」に結ぶことは、律法を行動の領域に持ち込むことを意味します。「箴言」の教師は、最も注意を要する私的な行為を示唆するために、指に注目しています。律法は、私たちが行う大きな選択だけでなく、もっと小さな選択にも影響を及ぼすでしょう(ルカ16:10参照)。
これらの比喩を用いた聖書の意図は、純粋に象徴的なものでしたが、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒の伝統の中で、これらの象徴が文字どおりに受け取られてきたということは注目に値します。そのことは、ユダヤ教徒が頭や指に付ける「テフィリン」[聖句の書かれた紙片が収められた小さな箱]、キリスト教徒が首に提げる十字架、イスラム教徒(やキリスト教徒)が指に巻くロザリオ(数珠)などによって確認できます。
光と命
箴言6:23を読んでください。「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」(詩編119:105)とあるように、神の御言葉や律法は、聖書の中で光にたとえられてきました。ヘブライ人の考え方では、「律法」と「光」の間につながりがあります。光が私たちの歩く道を照らすように、律法は、私たちが道を外れずに進むのを助けるでしょう。つまり、私たちが道徳的な選択を迫られるとき、たとえ、理性や個人的な都合が律法を無視するように私たちを誘惑するときでさえ、律法は、何が正しい選択であるかを知る手助けをするでしょう。
問1
神の律法に従わない十分な理由があったにもかかわらず、神の律法に従うことを選んだ人物として、聖書の中にどのような例を見いだすことができますか。彼らの服従から、私たちはどのようなことを学べますか。(もしあったとして、)忠実であろうとした彼らの選択が、少なくとも人間的観点からすると誤っているかのように思えるケースがあったでしょうか。
問2
箴言6:23と7:2を読んでください。律法は、なぜ「命」とつながりがあるのですか。
堕罪以来、永遠の命に対する私たちの希望は、律法の中にではなく、キリストへの信仰を通してのみ、見いだすことができます。しかし、律法と、律法が示す原則に従うことは、信仰生活において中心的役割を果たし続けます(マタ19:17、黙14:12参照)。私たちが従う理由は、数千年前、主がイスラエルの人々に言われたように、「わたしは[キリストが]あなたたち[私たち]の神、主である」(レビ18:4)からです。神が私たちの命の源であるという単純な理由のゆえに、神の律法は「命」とつながりがあります。この原則は、真の霊的な生き方—永遠の命に対する神の約束を信頼することと、神と、現世の生活に対する神の約束を信頼するようにと—を表しています。
誘惑と戦う
昨日の研究で見たように、箴言6:23の著者は、聖霊の霊感の下にあって、光や命を神の律法と直接結びつけています。そして次の節では、その律法が光や命として、いかに強力な霊的保護を与えるかを示す、絶好の実例を挙げています。
問3
箴言6:24で、私たちは何について警告されていますか。明らかな警告のほかに、どのようなさりげない警告がここで与えられていますか。
信心深い人が誘惑されるとき、最大の誘惑は、その不正行為を正当化する宗教的な理由を見つけることです。不品行を合理化するために神を用いることは、単なるひどい冒ではありません。それは極めて欺瞞的です。もしだれかが、「神は私に味方しておられる」と考えているとしたら、あなたは何を言い返せるでしょうか。姦淫の場合でも、このようなことが起こりえます。「私が一緒になるべきはこの人だと、神が示されたのだ」と、彼らが信じているとしたら、一体だれ(何)が「神」の示されたものに勝てるでしょうか。
また、彼を魅了しているのが彼女の肉体的な美しさだけでないことにも注目してください。彼女は、獲物をわなに引き寄せるために言葉(お世辞)を使っています。男も女も、なんとしばしば巧妙で魅惑的な言葉によって、ときには宗教的に表現された言葉によって、恥ずべき関係に陥ってきたことでしょうか。「箴言」の著者は、このような欺きに対して私たちを警告しようとしているのです。
律法は、「みだらな女の、巧みな舌」(箴6:24、口語訳)に対する完璧な防御手段です。律法の命令とそれに従う義務だけが、実にまことしやかですばらしく思える彼女の甘い言葉に私たちが抵抗するのを助けます。確かに、みだらな女は、あなたがハンサムなだけでなく、賢くて聡明であると気づくでしょう。彼女は霊的必要さえ言い出し、皮肉にも、また危険にも、「神の愛」が罪の正当化になるかもしれません。
「盗んではならない」
姦淫に関する警告(箴6:24~29)の直後に、「箴言」の著者はもう一つの罪—盗み(同6:30、31)—について語り始めます。二つの掟(姦淫と盗み)のつながりは、一つの掟に違反することがほかの掟の順守にいかに影響するかを示しています。神の律法をえりすぐること、つまり妥協する態度は、律法をまったく守らないことよりもずっと危険になることがあります。「世の中で最も根強い悪徳のとりでは、すてばちな罪人や卑劣なごろつきたちの邪悪な生活ではなくて、表面善良な尊敬すべきりっぱな生活に見えながら、実は心の中に一つの罪を宿し、一つの悪徳におぼれている生活がそれである。……人生と真理と名誉について高い観念を持っていながら、しかもなお神の聖なる律法の一つを故意に犯している者は、そのとうとい賜物を悪用して罪への誘惑としているのである」(『教育』168、169ページ)。
箴言6:30、31を読んでください。貧しさや乏しさは、盗みを正当化しません。泥棒は、たとえ「飢えを満たそうとして」(箴6:30)いたにしても有罪です。飢えていた泥棒は軽蔑されるべきではありませんが、彼は盗んだものの七倍の償いをしなければなりません。これは、彼の絶望的な状況が罪を正当化しないことを示しています。その一方で聖書は、貧しい人たちが生き残るために盗まざるをえないと思い詰めないように、彼らの必要を満たすのは私たちの義務である、と主張しています(申15:7、8)。
姦淫から盗みに進んだ話が、ここでまた姦淫に戻っているのは、なんと興味深いことでしょう(箴6:32~35)。これら二つの罪は、確かに幾分似ています。いずれの場合も、だれかがほかの人の所有物を不法に奪っているからです。しかし、盗みと姦淫の決定的な違いは、前者の罪が物の損失に関係しているにすぎない一方で、後者の罪はもっと重要なものに関係しているという事実にあります。盗んだ物に対する弁償は、場合によってはできますが、姦淫の場合、特に、子どもが関係する場合、そのダメージは盗みのときよりもはるかにひどいものになります。
「『あなたは姦淫してはならない』(出20:14)。この戒めは、不純な行為だけでなく、好色的な思いや欲望、あるいは、そうしたものを刺激する行為を禁止している。外にあらわれた生活だけでなく、ひそかな意図や心の感情においても、純潔が要求される。キリストは神の律法について深遠な義務をお教えになり、邪悪な思いや目つきは、不法な行為と全く同様に罪であると言われた」(『希望への光』156ページ、『人類のあけぼの』上巻360ページ)。
死の脅威
たいていの人は、罪を犯すときに死について考えたりしません。彼らの心にあるのは別の事柄、たいていは、その罪を犯すことですぐに得られる満足感や喜びです。大衆文化はしばしば姦淫や不正行為を奨励しますが、それも役に立ちません。対照的に、「箴言」は罪を正しい視点で捉えており、その見方は、数百年後にパウロによって繰り返されています。「罪が支払う報酬は死です」(ロマ6:23)。
箴言7:22、23を読んでください。女に従う男は、人格と意志を失った者として描かれています。彼はもはや考えていません。「たちまち」という言葉は、彼が時間をかけてじっくり考えていないことを示唆しています。彼は「屠り場に行く雄牛」や「罠にかかる鳥」にたとえられています。そのどれもが、自分の命が脅かされていることに気づいていません。
箴言7:26、27を読んでください。ここでの女は、「単なる」姦通者以上のものを表現しているのかもしれません。実のところ、彼女は知恵と正反対の価値をあらわしています。ソロモンはこの比喩を用いて、あらゆる形の悪に対する警告を教え子に与えています。この女は傷つけるだけでなく、殺すので、とても危険です。彼女の力は、最強の男たちさえ殺してきたほどに強いものです。言い換えれば、あなたよりも強かった者たちが、彼女の手にかかって生き残れなかったということです。この箇所がだれにでもわかる言葉で書かれていることは、「箴言」の著者が人類全般について語っていることを明確に示唆しています(27節に出てくるヘブライ語の「シェオル」は、一般的に考えられているように、「陰府」とは関係がありません。それは死体が現在ある場所、つまり墓を意味しています)。
結局、重要なのは、姦淫であれ何であれ、罪は、神がイエス・キリストを通じて私たちに与えたいと望んでおられる永遠の命とは正反対のもの、つまり滅びをもたらします。
前に述べたように、強い言葉が用いられていることは驚くに値しません。私たちは文字どおり、生死に関わる問題を扱っているからです。
さらなる研究
「サタンは、もし人間が彼に主権を譲り渡すなら、この世の王国を彼らに提供する。多くの人がそうして天国を犠牲にする。罪を犯すよりは死ぬほうが、だますよりは事欠いているほうが、うそをつくよりは飢えているほうがずっとよい」(『教会へのあかし』第4巻495ページ、英文)。
「罪によって魂を汚すよりは、貧しさ、非難、友との別れなど、いかなる苦しみをも選びなさい。不名誉をこうむるくらいなら死を、神の律法を破るくらいなら死を、というのが、すべてのクリスチャンの座右の銘となるべきである。改革者と公言する民、最も神聖なものを大切にする民、神の御言葉の真理を純化する民として、私たちは現在よりもはるかに高く基準を上げなければならない」(『教会へのあかし』第5巻147ページ、英文)。
*本記事は、安息日学校ガイド2015年1期『箴言』からの抜粋です。
第4課 神聖な知恵
第4課 神聖な知恵
「箴言」の8章、9章において、知恵が再び登場しますが(箴1:20、21参照)、今回の聖句から明らかなように、知恵は真理(神の内に存在する「真理」、あらゆる真理の源、基礎)のことです。
真理の「絶対的な」性質をこのように強調することは、真理が相対的なもの、条件付きな(不確かな)もの、文化的なものとみなす現代の(とりわけ西洋の)思想や、人によって異なる個人の真理と対照を成しています。
しかし、そのような概念[真理は相対的、個人的なものという考え]は聖書的ではありません。私の真理はあなたの真理と同じであるはずです。なぜなら、「真理」は単純に普遍的なものだからです。全人類が認めていようと認めていまいと、真理は特定のだれかの所有物ではなく、すべての人の所有物です。
とても興味深いことに、ピラトがイエスに尋ねた、「真理とは何か」(ヨハ18:38)という有名な質問は、「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」(同18:37)という主の言葉に応えて発せられました。真理、絶対的な真理は存在し、それは私たちに語りかけてさえきます。私たちにとって重要なことは、その語っていることに耳を傾けるかどうか、また従うかどうかです。
呼びかける知恵
箴言8:1~21を読んでください。知恵は重要なので、すべての人に届かなければなりません。神はすべての人間の命を生み出し、キリストは私たち1人ひとりのために死にました。それゆえ、知恵—神の知識と神が提供される救い—は、人類すべてのものです。
知恵を声として描くために用いられている言葉—「呼びかける」「声をあげる」「呼ばわる」「語る」「唇を開く」「口」「唇」「言葉」—に目を向けてください。これらの比喩がどのように理解されようと、はっきりしているのは、知恵は伝えられるものだということ、耳を傾けるすべての者に聞かれるものだということです。つまり前回の研究で触れたように、知恵が語ることは生死に関わる問題です。
知恵は、自分の言葉が真実であることについて8回語っています。とても興味深いことに、ここでの知恵の描写は、申命記32:4における主の描写と似ています。言うまでもなく、この類似は意外なことではありません。なぜなら、万物の創造主であられる神が(ヨハ1:1~3参照)、あらゆる真理の基だからです。
問1
箴言8:10、11を読んでください。これらの聖句は、知恵について何と言っていますか。
実に多くの人が、無知、愚かさ、暗闇の中で生きてきましたし、今もなお、生きています。多くの人が希望を持たずに、あるいは間違った希望を抱きながら生きています。この悲しい状況をさらに悲しくさせているのは、知恵や真理がとてもすばらしいものであるということです。知恵や真理は、現世におけるよりよい生活への希望と約束、また、新しい天と地における永遠の命の確証にあふれており、それらは何もかもイエスの犠牲のおかげです。この世のあらゆる富は、神の知識に比べれば、取るに足りません(コヘ2:11~13)。
知恵と創造
問2
箴言8:22~31を読んでください。知恵は、どのように天地創造とつながりがありますか。
これらの聖句において、知恵は創造主なる主と神秘的につながっています。この詩には、創世記1章、2章の創造物語と共通する言葉がたくさん用いられているとともに、「天」「水(海)」「大地」という三つの基本要素から成る創造物語の修辞構造も反映しています。このような類似の意図は、知恵の基礎的資格を強調することです。神御自身が創造のために知恵をお用いになり、知恵が宇宙よりも古い最古の道具であり、宇宙の存在にとってなくてはならないものであるとすると、私たちは生活の中で行うあらゆることにおいて、もっと知恵を用いなければなりません。
また、知恵の起源が神にあることも強調されています。この詩の最初の言葉は「主(ヤハウェ)」で、この主が知恵を「造られた」(二番目の言葉)と記されています。「造られた」に相当するヘブライ語の「カーナー」は、新改訳聖書で「得ておられた」と訳されているように、「創造する」よりも「得る」という意味合いを持っています(創4:1参照)。その次の言葉は創世記の天地創造と関連した専門用語「レシート」(「初め」)で、創世記の最初の節の中にあります。「初めに、神は天地を創造された」
しかし、箴言8:22の「初めに」という言葉は、創世記1:1とは若干異なる使われ方をしています。創世記1:1では、この言葉は天地創造そのものとつながっていますが、箴言8:22では、神御自身や、神の御性質を意味する「その道」(「デレク」)に結びつけられています。このように、知恵は神の御性質の一部です。
それゆえ知恵は、宇宙が創造される前からすでにありました。神だけがおられたときに存在したのなら、知恵の古さは「永遠の昔」にまでさかのぼれるということです。
ですから、知恵は私たちの中に起源を持つものではなく、私たちに啓示されるものです。私たちが学ぶ何かではなく、私たちによって学ばれる何かです。私たちが自分自身の中から生み出すものではありません。間違いなく、私自身の光によって歩くことは、暗闇の中を歩くことです。イエスは「まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(ヨハ1:9)と、私たちは言われています。すべての人もそれを必要としています。
創造の喜び
創世記1章を見ると、天地創造のそれぞれの段階が、「神はこれを見て、良しとされた」(創1:4、10、12、18、21、25、31参照)という同じ言葉の繰り返しで終わっていることがわかります。最終段階では、さらに「それは極めて良かった」(31節、強調筆者)とまで言われています。「良し(良い)」に相当するヘブライ語には「喜び」という概念が含まれており、この言葉は関係を暗示しています。創造週の最後に、神は一息ついて御自分の創造の業を心ゆくまで楽しまれ(同2:1~3)、この休息の時間、つまり安息日は祝福されます。同様に、私たちが研究している[箴言8:22~31の]詩も、天地創造を喜ぶ知恵で締めくくられています。
問3
箴言8:30、31を読んでください。なぜ知恵は喜んでいたのですか。
知恵の喜びは、天地創造の際の神の喜びを反映しています。この喜びは「日ごと」に、つまり天地創造のそれぞれの段階で起こっているだけでなく、(地球上の命の)創造が完成したときに、創造の業の最後をも飾っています。
箴言8章の中に、私たちは知恵の喜びの理由—「人の子らと共に楽しむ」(31節)—を見いだすことができます。創造週の最後である安息日に、神は人間と交わられました。1週間の働きのすぐあとに、神が休息し、喜ばれたことは、人間の安息日の経験に示唆を与えています。「神のやり方に倣うことで、人間もまた、自分がなし終えた働きを喜びと満足をもって振り返ることができる。このようにして、人間は神の創造を喜ぶだけでなく、被造物を(利己的に利用するのではなく)統治するという責任の重い権利を喜ぶことができるのである」(ゲルハルト・F・ハーゼル『聖書と歴史の中の安息日』[ケネス・A・ストランド編]23ページ、英文)。
知恵の訴え
箴言8章の最後の数節は、再び個人的なこと(知恵を持つことの意味)に戻っています。それに比べると、知恵の先在性に関する知識や、天地創造時に知恵が存在したことに関する知識は、確かに深いものです。しかし聖書の中では、常にある点で、私たちがイエスによって与えられたものに応答できるようにするために、真理が人間のレベルに下げられなければなりませんでした。
箴言8:32~36を読んでください。「幸い」と訳されているヘブライ語は、「うれしい」ということを意味します。この箇所では、「幸い」という言葉が二つの意見と結びつけられています。最初の意見は、行動について述べています。「わたしの道を守る者は、いかに幸いなことか」(箴8:32)。同じ言葉が詩編119:1、2では律法に関して用いられています。「いかに幸いなことでしょう/まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。いかに幸いなことでしょう/主の定めを守……るひとは」
二番目の意見は、態度について述べています。「わたしに聞き従う者……は、いかに幸いなことか」(箴8:34)。いずれの場合も、その必要条件は継続的な努力を暗示しています。正しい道を発見するだけでは不十分で、私たちはそれを「守(ら)」なければなりません。神の御言葉を聞くだけでは不十分で、私たちは「日々……うかがい」、知っていることに従わなければなりません。イエスがおっしゃったように、「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人」(ルカ11:28)です。
「身体的、道徳的な法則に反し、背く生き方に見られるものに、望ましい幸福があるだろうか。キリストの生涯は、幸福の真の源と幸福を得る方法とを指し示している。……もし本当に幸福になりたいのなら、彼らは与えられた義務を進んで果たし、委ねられた働きを誠実にこなし、心を合わせて完全な手本に従って生きるだろう」(エレン・G・ホワイト『きょうを生きる』162ページ、英文)。
どちらかを選ぶ
知恵の訴えに従い、霊感を受けた箴言9章の著者は、二つの生き方(知恵か愚かさ)のいずれかを選択するようにと、ここで聴衆[読者]に迫ります。9章の最初の6節(1~6節)と最後の6節(13~18節)は対照的になっていて、二つのグループの違いを際立たせています。
問4
箴言9:1~6と9:13~18を比較してください。知恵と愚かさの違いは何ですか。
①知恵は有用で、天地創造に関与しており、ここ(1~3節)での知恵の行動を記すために七つの動詞が使われています。また、知恵が「刻んで立てた」(1節)七つの柱は、天地創造の7日間を示唆しています。対照的に、愚かさは座り込んで何もせず、「わきまえがなく、何も知らない」(13節、新改訳)のに、本来の姿を隠しています。
②知恵と愚かさは同じ聴衆に呼びかけているのに(4節と16節が同一であることに注目)、それぞれが提供するものは本質的に異なります。知恵は客を招くとパンを食べさせ、自ら用意した飲み物を飲ませます(5節)。一方、愚かさは食べ物も飲み物も出さず、盗んだ食料をただ自慢するだけです(17節)。
③知恵は私たちに、愚かさを捨てて生きよ、と呼びかけます。一方、愚かさはもっと寛大で、何かを捨てよ、と私たちに要求しませんが、その結果は死です。知恵に従う者は前進し、「分別の道を進む」(6節)でしょう。愚かさに従う者は動かず、彼らの中に「知る者はない」(18節)でしょう。
問5
箴言9:7~9を読んでください。知恵の諭しに対して、神に逆らう人と知恵ある人は、どのように応じますか。何が知恵ある人を、神に逆らう人よりも賢くさせるのですか。
知恵を得る鍵は謙遜です。知恵ある人は、教えやすく、心を開いて諭しに応答する人です。知恵は、子どものように成長の必要を感じている人にのみ与えられます。それゆえイエスは、これ以上にない明瞭さで次のように教えられました。「子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マタ18:3)。
さらなる研究
「宇宙の統治者は、その恵み深いお働きをひとりではなさらなかった。彼には助け手があった。すなわち、彼の目的を理解し、幸福を与えることを、共に喜び合える共労者であった。『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった』(ヨハネ1:1、2)。言であり、神のひとり子であったキリストは、永遠の父と1つ、すなわち、その性質、品性、目的が1つであって、神のあらゆる計画と目的に参加できる唯一のお方であった。……また、神のみ子は、ご自身について、こう言明された。『主が昔そのわざをなし始められるとき、そのわざの初めとして、わたしを造られた。いにしえ、地のなかった時、初めに、わたしは立てられた。……また地の基を定められたときわたしは、そのかたわらにあって、名匠となり、日々に喜び、常にその前に楽し』んだ(箴言8:22~30)」(『希望への光』13ページ、『人類のあけぼの』上巻2、3ページ)。
第5課 神に従う人の祝福
第5課 神に従う人の祝福
タイトルが示しているように、今回は神に従う人の祝福について考えます。「神に従う人(義人、正しい人)」に相当するヘブライ語「ツァディク」は、今回の聖句を読み解く鍵の言葉です。この言葉の派生元である「ツェデク」(「正義」)は、「箴言」の導入部分に登場しています。「ソロモンの箴言。……諭しを受け入れて/正義と裁きと公平に目覚めるため」(箴1:1、3)。「箴言」が私たちに語っているのは、知恵は義(正しさ)であり、「義」とは神の掟に従って歩むこと—つまり、主が私たちに求めておられることを信じ、それに従って歩むこと—だ、ということです。義は、神からもたらされる賜物であり、その対極のものが、愚かさであり、不信です。知恵は、義、正義、慈善。愚かさは、罪、不義、不正、反逆。これから私たちが研究する聖句の中において、両者の違いははっきりしています。
義は全体的なもの
問1
箴言10:1~7を読んでください。人生と信仰に関するどのような原則が、ここに示されていますか。
船に乗っていた1人の男が、自分の足もとにドリルで穴を開け始めたという話があります。同船していた人たちが、やめるように要求すると、男はこう答えました。「あんたたちには関係ないだろ。ここはおれの席なんだから」。このような馬鹿げた答えは、罪人が自分の行動を正当化するために用いる言い訳です。「これは私の人生なんだ。あなたには関係がない」。言うまでもなく、私たちがする(あるいは、しない)ことは何であれ、ほかの人(とりわけ、ごく身近にいる人たち)に影響を及ぼします。一体、ほかの人が取った行動の結果、善かれ悪しかれ、大きな影響を受けたことのない人がいるでしょうか。
霊的・倫理的生活と肉体的・物質的生活は結びついているという原則が、箴言10:3~5で扱われています。その中心思想は、不義や道徳的欠如は、たとえその人が裕福でも割が合わないということ。第二に、義には、たとえその人が貧しくても、いろいろな点で常に報いがあるということです。
イエスは、いかに情欲は姦淫と同じであり、憎しみは殺人と同じであるかということについてお語りになりましたが、より初期の同類の表現が6節と7節の中に見られます。悪しき思いは、しばしば私たちの仕草や口調によって気づかれてしまいます。他者との良い人間関係の最良の出発点は、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ19:18、マタイ19:19と比較)です。また6節と7節が示唆しているように、あなたが与える良い印象は、ほかの人にずっと影響を残します。結局のところ、これはある程度、常識の問題です。悪い評判より、良い評判のほうがよくはありませんか。
神に従う人の口
口は(その構成要素である唇や舌とともに)、「箴言」の中において最も重要な器官です。新キング・ジェイムズ訳の「箴言」の中では、‘mouth(口)’という言葉が50回、‘lips(唇)’が41回、‘tongue(舌)’が19回使われています。この言語の器官が使われていることが、箴言10章から29章における特に重要な主題です。
私たちの言葉には、善かれ悪しかれ、とても強い影響力があるという大前提が極めて重要です。舌は、私たちに与えられた最善の賜物にも、最悪の賜物にもなりえます。舌のこの両義性が、「箴言」における最も重要な教訓の一つです。確かに、舌は命を生み出しますが、死をももたらします。
問2
箴言10:11~14を読んでください。神に従う人の話し方と愚か者の話し方との間には、どのような違いがありますか。
11節の中にある「命の源」という表現に注目してください。これは、象徴的に知恵の性質に言及したもので、命の源であられる主を指す際にも用いられています(詩編36:10[口語訳36:9])。また、この同じたとえは、湧き水が流れ出ている神殿に関連して使われています(エゼ47:1、2)。イエスはこの比喩を、霊の賜物を例示するために用いられました(ヨハ4:14)。このように、神に従う人の口を「命の源」にたとえることは、それを神御自身に結びつけることになります。
この口を特徴づけているのは、「命」というすばらしい賜物です。この性質が、口の果たすべき正しい機能を物語っています。口は、(悪ではなく)善のための力、(死ではなく)命の源になるべきでしょう。ここで言われていることは、ヤコブ3:2~12にも見られます。
神が天と地を創造されたのは、言葉を通して、「御自分の力ある言葉」(ヘブ1:3)を通してであったことも思い出してください。それゆえ、言葉は創造的な目的のためだけに役立てましょう。
神に従う人の希望
問3
「正しい人は自分の無垢に導かれ/裏切り者は自分の暴力に滅ぼされる」(箴11:3)。この聖句が真理であるというどのような証拠を、私たちは持っていますか。この霊的真理が明らかにされたどのような実例を、あなたは見たり、聞いたりしたことがありますか。あるいは逆に、少なくとも今までのところ、この聖句を信仰によって受け入れなければならないどのようなことを、あなたは目撃しましたか。
問4
箴言11章を読んでください。この章は多くの主題に触れていますが、神に逆らう者に起こることとは対照的に、忠実な者に与えられる大いなる祝福には、どのようなものがあるでしょうか。
神に従う人にとって、未来に対する意識や、まだ見ていないものに対する価値観(IIコリ4:18参照)が正しく生きる動機づけに役立ちます。未来に対する希望のゆえに、彼らは謙遜に、正直に、憐れみ深くふるまいます。
一方、神に逆らう者は現在だけに生きます。彼らに関心があるのは、目にしているものだけ、目の前の利益だけです。彼らはほかの人のことを考える前に自分自身のことを考え、欺きや嫌がらせを用いるでしょう。例えば、自分の客を欺く販売員は、高い値段をふっかけることで目の前の利益を得られるでしょうが、最終的には客を失い、彼らのビジネスは失敗するかもしれません(箴11:3、18)。
神に従う人の真実
箴言12章を読み、特に真実を語るかうそをつくかを再検討する中で、言葉という主題に焦点を合わせてください。
女性哲学者のシセラ・ボクは、うそをつくことがいかに社会に害を及ぼすか、納得のいく形で論証し、「人々が真実性のあるメッセージと偽りのそれとを区別できないような社会は、成り立つはずがない」(『嘘の人間学』39ページ)と書いています。同じくアウグスティヌスも、ボクの上記の本の序文に引用されているように、「真理への畏敬の念が崩れあるいはいささかでも薄れるとき、すべてが疑わしくなる」(同9ページ)と指摘しました。
エレン・G・ホワイトは次のように記しています。「うそをつく唇は、神が嫌われるものである。『罪に汚れた者、異教のさまざまな罪に陥っている者、偽りを言う者は、決してそこ[聖なる都]に入ることができない』[黙21:27(現代訳)]と、神は宣言なさった。いつも真実を語るように努めなさい。それを生活の一部としなさい。真実をもてあそぶことや、自分勝手な計画に合わせるために真実をごまかすことは、信仰の破滅を意味する。……虚偽を口にする者は、安い市場で自分の魂を売る。彼のうそは緊急時には役立つかもしれないし、それによって、公平な取引では得ることのできないほどの利益が得られるように思うかもしれない。しかし、最終的に彼はだれも信頼できなくなる。自分自身がうそつきである彼は、だれの言葉も信じられないのである」(『きょうを生きる』331ページ、英文)。
言葉がいかに強力であるかを考えるとき、うそをつくことも同様であると考えましょう。なぜなら、たいていのうそは言葉で語られるからです。うそをつかれたときに、痛み、裏切り、汚されたという感覚を味わわなかった人がいるでしょうか。うそをつくことが規範からの逸脱ではなく、規範そのものになるとき、社会が完全な混乱状態に陥ることは想像にかたくありません。
別の観点もあります。つまり、うそをつくことがうそをつく人にも影響するという観点です。中には、うそをつくことに慣れすぎてしまって、気に病まない人もいるでしょうが、多くの人は、うそをつくときに罪悪感やうしろめたさを抱きます。それは、聖霊を受け容れる力がまだ残っていることを意味しているので、彼らにとっては良いことです。しかし、ためらうことなくうそをつく人の危険は、いかばかりでしょうか。
神に従う人の報い
これまで見てきたように、「箴言」の中にある諭しや教えの多くは、二種類の人の対比によって示されています。「知恵ある人はこれを行い、愚かな人はそれを行う」「神を敬う人はそれを行い、神に逆らう者はこれを行う」といった具合です。
もちろん実際には、私たち全員の中に愚かさとわずかな知恵とがたいてい併存しています。イエスを除いて、私たちはみな罪人であり、「神の栄光を受けられなくなっています」(ロマ3:23)。しかし幸いなことに、その次の聖句の中にすばらしい約束が与えられています。私たちは罪人ですが、信仰によって「キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(同3:24)。
最終的に、すべての人間は二つのグループ(救われる人々か、それとも滅びる人々か)のいずれかに入ることになります。
問5
ヨハネ3:16を読んでください。すべての人間は、どのような二つの選択に遭遇しますか。
問6
箴言13章を読んでください。この章は、神に従う人と神に逆らう者の体験や運命を、どのように対比していますか。
知恵ある人が長続きする灯にたとえられている一方、神に逆らう者は消される灯にたとえられています(箴13:9)。知恵ある人は自分の働きの良い実を喜ぶ一方、罪人は災い(悪)を刈り取ります。子孫を通じて(同13:22)、知恵ある人にはずっと先まで未来がありますが、一方、神に逆らう者は自分の富を見知らぬ人に(神に従う人にさえ)残すことになるでしょう。
主を信じ、主に従う人生は、主に逆らう愚かな人生よりも良いものだということが重要な点です。
さらなる研究
「キリストへの信仰を表明して、名前を教会名簿に連ねるだけでは十分でない。……わたしたちが口で何を言おうとも、キリストが義の行為となってあらわされるのでなければ、それは無にひとしい」(『希望への光』1309ページ、『キリストの実物教訓』292、293ページ)。
「キリストの時代に人々の心のうちにあった最大の欺瞞は、真理にただ同意することが義であるということだった。真理を理論的に知っているということだけでは魂を救うのに不十分であることが、人間のあらゆる経験を通して証明された。……。歴史の最も暗黒な幾章かは、頑迷な宗教家たちの犯した罪の記録を背負っている。……同じ危険が今も存在している。多くの者は、ある神学上の教義に同意しているからというだけのことで、自分は当然クリスチャンだと思っている。だが彼らは、真理を実生活に持ちこまなかった。……人は、真理に対する信仰を告白しても、もしその信仰によって、彼らが真実で、親切で、忍耐強く、寛大で、天来の心を持った者となるのでなければ、それは所有者にとって災いであり、また彼らの感化によって、それは世にとっても災いとなる。キリストがお教えになった義とは、心と生活とを神のみこころのあらわれに一致させることである」(『希望への光』826ページ、『各時代の希望』中巻16ページ)。
第6課 考えたようにはならない
第6課 考えたようにはならない
パウロは言いました。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている」(Iコリ13:12)。私たちに見えるのはわずかであり、私たちが見ているものは、常に心のフィルターを通っています。私たちの目や耳—実際には、五感のすべて—は、そこに実在するものを部分的に捉えているにすぎません。
私たちは外界に関して欺かれますが、自分自身に関しても欺かれます。私たちの夢、見方、意見などは、非常にゆがんだ自己イメージをもたらし、それはあらゆる欺きの中でも、飛び抜けて悪いものになる可能性があります。
それでは、このような欺きから自分自身を守るために、私たちは何をすべきでしょうか。「箴言」は基本的な勧告を与えています。私たちは、愚かな人がするように、自分自身を信用すべきではありません。そうではなく、私たちが信用すべきは主—すべてがうまくいかないように思えるときでさえ、物事の成り行きを支配しておられる主—です。要するに、私たちはただ見えるものによって生きるのではなく、信仰によって生きる必要があるということです。なぜなら、私たちの視力は、現実の一部しか見せず、しかもさらに悪いことに、そのわずかなものをゆがめており、非常に当てにならないからです。
愚か者の確信
問1
箴言14章を読んでください。愚か者に関して、何と書かれていますか。
愚か者は傲慢なことを言います(箴14:3参照)。愚か者の最初の描写は、その傲慢な話しぶりについてです。愚か者の口に関連づけられている杖(のたとえ)は、最終的な罰を暗示しています。彼の高慢な言葉は、自らの唇に一撃を招くことになりますが、その結果は知恵ある人の唇と対照的で、後者の唇は守られます(ダニ7:8も参照)。
愚か者は知恵をあざ笑います(箴14:6~9)。愚か者は知恵を求めているように見えますが、実際のところ、彼は知恵を信じておらず、疑っています。愚か者は、自分自身以外には知恵がないと思っているので、知恵を見いだすことはありません。最も驚くことは、律法を冒する彼の態度です。罪をあざ笑うこと以上に致命的なことが、ほかにあるでしょうか。
愚か者は軽率に信じます(箴14:15)。おかしなことに、愚か者は知恵の価値を依然信じている理想主義者を笑い物にしますが、その一方で彼は耳にしたことを批判的に考える能力を失っていて、「何事」も信じ込みます。こういう皮肉な状況は、世俗社会の核心を突いています。懐疑的な人たちは神をあざ笑い、宗教を笑い物にし、こういった信仰は子どもや老人のためのものだ、と主張します。しかし彼ら自身が、単なる偶然によって地上に命が生まれたというような最も愚かしいことをしばしば信じています。
愚か者は衝動的です(箴14:16、29)。愚か者は自分自身の中に真理があると思っているので、考えるための時間を取りません。彼の反応はすばやく、たいてい衝動によって決まります。
愚か者はほかの人を虐げます(箴14:21、31)。抑圧と不寛容という無意識の仕組みは、愚か者の心理の中で動機となっています。彼は他の人々に寛容でなく、彼らをさげすみます(ダニ7:25、8:11、12参照)。
知恵ある人の畏れ
箴言14章には、知恵ある人についても書かれています。
知恵ある人は謙虚に語ります(箴14:3)。知恵ある人は唇を自制して使います。彼らが沈思黙考するのは、傲慢な自信を持っていないからです。知恵ある人は、ほかの人の考えを大切にします。それゆえ、彼らは時間を割いて証拠を検討し、じっくり考えます。彼らはまた、ほかの人の話に耳を傾け、学ぼうとする心構えができているので寡黙にしています。
知恵ある人は学ぶことや知識を大事にします(箴14:6、18)。愚か者は教師の教えを受けることが苦手なので、学ぶことが困難です。対照的に、知恵ある人は謙遜なので、学ぶことが容易です。従って彼らは、学び、成長する体験を楽しむことができます。このような知恵の探求、自分にない知恵の探求とが、彼らを賢くもしているのです。
知恵ある人は慎重です(箴14:15)。知恵ある人は、罪と悪が存在することを知っています。それゆえ、彼らは世渡りに注意深いでしょう。彼らは自分の感情や個人的な意見を強く信頼しないでしょう。彼らは物事をよく調べ、助言を求めます。しかし、ほかの人が言うことに対しても常に注意深く、良い助言と悪い助言をえり分けます(Iテサ5:21)。
知恵ある人は穏やかです(箴14:29、33)。知恵ある人は「自らの道」に頼らず、「神」に頼るので、黙っていることができます(同14:14)。彼らがリラックスし、自制心を働かすことができるのは、神に対する信仰のゆえです(イザ30:15)。彼らに自信を与えているのは、神への畏れです(箴14:26)。
知恵ある人は憐み深く、親切です(箴14:21、31)。「あなたの神である主を愛しなさい」という掟と、「隣人を自分のように愛しなさい」という掟は、結びついています(マコ12:30、31)。私たちはほかの人を粗末に扱いながら、同時に神を愛することはできません。私たちの信仰は、他者をいかに扱うかということの中に、とりわけ困っている人の扱い方の中に最もよくあらわれます。
「主の目」
「どこにも主の目は注がれ/善人をも悪人をも見ておられる」(箴15:3)。
「箴言」の中で次の二つの章(箴言15章と16章)において、文調が変わっています。この二章は、それまでの章よりもずっと神学的であり、それまでの箴言よりも頻繁に「主」に言及しています。また、主について驚くべきことが記されています。「どこにも主の目は注がれ」(同15:3)ている。
主の御臨在に対するこのような強い自覚は、まさに古代イスラエルの人々が「主を畏れること」と呼んだものです。同じようなつながりは、詩編の中にも見られます。「見よ、主は御目を注がれる/主を畏れる人……に」(詩編33:18)。同様に、ヨブは神のことを、地の果てまで見渡し、天の下で起こるあらゆることを見ておられる方と評しています(ヨブ28:24)。それゆえ、「主を畏れ敬うこと、それが知恵」(同28:28)であると、彼は結論づけています。
この箴言は、神が善をも悪をも(それらがどこにあろうと)見抜く力を持っておられることを私たちに思い出させます。ソロモンが理解していたように(王上3:9)、真の知恵は善と悪を判断(識別)する能力です。人間にとってこのような意識は、私たちが決して悪を行わず、常に善を行うように助けてくれるでしょう。なぜなら、私たちのするあらゆることを、たとえほかのだれも見ていなくても、神はご覧になっているからです。私たちは、差し当たって悪事の罰を免れているので、自分は本当に罰を免れ得るのだ、などと思い違いをします。しかし長い目で見れば、そのようなことは決してありません。
「神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません」(ヘブ4:13)。それゆえ、私たちは勤勉にしましょう。
主の喜び
問2
箴言15章を読んでください。喜びは、なぜそれほど人間の重要な財産なのですか。
聖書は私たちに、試練のない人生を約束していません。イエス御自身がおっしゃったように、「その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタ6:34)。箴言15:15は、災いの日々の中にあって朗らかな心でいる人はよりよい時間を過ごすだろう、と説明しています。痛み、苦しみ、試練はやって来ますが、私たちはたいてい、それがいつ、どのようにやって来るかをコントロール(操作)できません。私たちにできるのは、いかに応じるかを選ぶことくらいです。
箴言15:13、14、23を読んでください。これらの聖句は喜びの理由をはっきり述べていませんが、13節と14節の類似性からすると、「喜びを抱く心」は「聡明な心」であるようです。それは、信仰を持ち、目の前の厳しい試練の向こうに贖い(救い)を見る人の心です。だから神に対する信仰が重要なのであり、だから私たちが自分で、自分の体験によって、神と神の愛を実際に知ることが不可欠です。そのとき、どんな試練がやって来ようと、どんな苦しみに遭遇しようと、聡明な人は耐えることができます。なぜなら、彼らは自分で神の愛を知っているからです。
箴言15:23は、もう一つの重要な考えを私たちにもたらします。喜びは、私たちが受けることよりも、私たちが与えることから、よりたくさんもたらされます。与える人に喜びをもたらすのは、ほかの人々と分かち合った良い言葉です。言葉であれ、行為であれ、その両方であれ、ほかの人を祝福することでもたらされた祝福を体験したことのない人がいるでしょうか。「箴言」の中ですでに見てきたように、私たちの言葉には大きな影響力があります。言葉は大きな善をなすこともあれば、大きな悪をなすこともあります。その言葉が、善をなされた人だけでなく、善をなした人をも利するほうが、どれほど良いでしょうか。
神の主権
私たちはみな夢を思い描き、計画を立てますが、物事は、ときには良い方向へ、ときには悪い方向へと、違う方向に展開するものです。聖書は、人間の責任と自由の価値を認めていますが、物事の成り行きに対する神の支配権も認めています(箴20:24、21:31、ダニ2章、7章参照)。
箴言16:1を読んでください。私たちは準備をし、計画を立てますが、それでも最終決定権は神のものです。これは、私たちの準備には価値がないということを意味しているのではありません。しかし信仰生活において、もし私たちが自分の計画を神に委ねるなら、神は私たちの計画に働きかけ、それを導き(箴16:9)、最終的に成し遂げられるでしょう(同16:3)。私たちの敵の働きさえ、私たちの利益となるように用いられるでしょう(同16:4、7)。
こういったことは、とりわけ私たちが困難な状況に直面するとき、簡単に納得できる考えではありません。しかし、たとえ物事がまったくうまくいかないように思え、計画が期待していたとおりの結果にならないときでさえ、先のような考えは私たちに慰めを与え、主に信頼できるように助けてくれるでしょう。私たちにとっての鍵は、神に完全に服従できるようになることです。もし私たちが神に服従するなら、どんなに困難なときでも、神の導きを確信することができます。
箴言16:18、19を読んでください。例のごとく、聖書は高慢を警告しています。結局のところ、堕落した存在である私たちに何か誇るべきものがあるのでしょうか。最初の罪である高慢以上に神に反する悪徳があるのでしょうか(エゼ28:17参照)。イエスは、偉くなろうとする悪についてきっぱり教え、高慢の代わりに謙遜を追い求めなさい、と弟子たちに強く求められました(マタ20:26~28)。
箴言16:33を読んでください。聖書は偶然というものを認めていません。物事が偶然によって決まるように思えるときでさえ、私たちは、神が依然として支配しておられることを信じることができます。
さらなる研究
「サタンは、最初から罪によって利益が得られると人々に言ってきた。こうして彼は、天使たちをあざむいた。同様に彼はアダムとエバを罪に誘惑した。彼は、今もなお、こうして多くの人々を神に従わせまいとしている。罪の道は好ましいもののように見せられているが、『その終りはついに死に至る道』である(箴言14:12)。この道に踏み込んでも、罪の結果の苦さを悟って、早くその道から離れたものは幸福である」(『希望への光』375ページ、『人類のあけぼの』下巻418ページ)。
「感謝と賛美の精神ほど心身の健康を増進するものはない。憂鬱、不満な気持ちや思想に抵抗することは、祈ることと同じように積極的な義務である。もしわたしたちが天に向かって歩いて行っているなら、わたしたちの父の家に行く道すがらを、どうして会葬者の一隊のように嘆き、つぶやきながら歩いたりできよう。常につぶやき、快活や喜びは罪であるかのように思っているクリスチャンと称する人々は、真の宗教を持っていない」(『ミニストリー・オブ・ヒーリング2005』240ページ)。
第7課 争いの扱い
第7課 争いの扱い
「箴言」は、外面的なものに欺かれることを改めて非難しています。私たちは、この世が与えるあらゆるもの—富、権力、楽しみ、名声—を持っているように見えるかもしれませんが、その裏側には緊張や苦悩を持っています。その緊張や苦悩の原因は、まさに人々が手に入れようと懸命に努力している富や楽しみの可能性すらあります。エジプトの格言が言うように、「悩みをもたらす富よりもパンと明るい気持ちのほうがいい」(ミリアム・リヒトハイム『古代エジプト文献』第2巻156ページ、英文)のです。「箴言」によれば、この問題を解決する第一歩は、私たちの優先事項が何であるかに気づくことです。平安な人間関係は、富よりもずっと重要でしょう(箴17:1)。大切なのは、どれだけ持っているかではなく、私たちが内面においてどんな人間であるかということです。このあとに続く助言は、このような優先順位を取り戻すのに役立ち、幸福を増し加える内的平安(ヘブライ語で「シャローム」)へと私たちを導いてくれるでしょう。
罪と友人
問1
箴言17:9、19:11を読んでください。これらの聖句の中で、どんな重要な指摘がなされていますか。私たちは罪を犯す人をどのように扱うべきでしょうか。
だれかが失敗をすると、そのことをほかの人に話して、広めたくなるものです。「ねえねえ、だれそれがしちゃったこと、もう聞いた?」。私たちはその行動にあきれたようなふりをするかもしれませんが、それでも、起こったことをだれかにこっそりと話したくなります。要するに、私たちはうわさ話をしているのであり、それは、しないようにと警告されていることです。そのような行為は、たとえ親友同士の間であっても争い事を生み出すでしょう。結局のところ、もしあなたの友人が失敗したとして、あなたがそのことをほかの人に言いふらすなら、あなたはなんといいかげんな友だちでしょうか。
そのようなことをするのではなく、友人の間違いを「覆う」ように、と私たちは勧められています。しかしそれは、過ちを隠すとか、何も起こらなかったかのように振る舞うとか、当人が不正をしなかったかのようにしなければならない、という意味ではありません。実のところ、このような表現での「覆う」に相当するヘブライ語には「赦し」という特別な意味が含まれています(詩編85:3[口語訳85:2]、ネヘ3:37[口語訳4:5])。だれかが間違いをしたなら、私たちはうわさ話ではなく、愛で応じましょう。
箴言17:17とIコリント13:5~7を読んでください。私たちは、友人や伴侶が完全だから愛するのではありません。彼らに間違いや欠点があるにもかかわらず、私たちは愛します。愛することを通してのみ、私たちはほかの人々を裁かないことを学びます。なぜなら、私たちは自分の短所や欠点があるので、同じくらい過ちを犯しているからです。私たちは裁く代わりに、彼らがしてしまったことを一緒に嘆き、彼らがそれを乗り越えるために、あらゆる可能な方法で助けることができます。結局のところ、もしこういうことをしないのなら、一体何のための友だちでしょうか。
正しくあれ!
真の愛は盲目ではありません。私たちが愛によってだれかの過ちを「覆う」というのは、その罪を見ないとか、罪として認識しないとかいう意味ではないのです。「正義」に相当するヘブライ語の「ツェデク」には、「愛」とか「慈善」といった意味もあります。私たちは正しくなければ、真の憐れみを持つことができませんし、憐れみや愛を持っていなければ、正しくあることができません。二つの概念は一緒でなければなりません。
例えば、貧しい人々への施しは、正義を犠牲にしてなされるものではありません。それゆえ、法廷において貧しい人をひいきしないことが勧められています(出23:3)。もし私たちが愛に迫られて貧しい人を助けるとして、彼らが間違っているときに、単に貧しいという理由だけで彼らをかばうことは正しくないでしょう。正義と真実は愛と憐れみに協力します。神の律法であるトーラーを特徴づけ、「箴言」の中で教えられ、奨励されているのは、このような賢明なバランスです。
問2
箴言17:10と19:25を読んでください。叱責や懲らしめの必要性について、これらの聖句は何と言っていますか。
箴言17:10が、愛によって過ちを覆いなさいという要求(同17:9)のすぐあとに続いているのは、偶然ではありません。「愛」との関連で「叱責」に言及することで、愛を正しく位置づけています。愛によって叱責を受けるとき、それは強い力を持つからです。
ヨハネ8:1~11を読んでください。
「この女をゆるし、もっとよい生活をするように励ましておやりになったイエスの行為を通して、イエスのご品性は完全な義の美しさに輝いている。イエスは、罪を軽く見たり、不義の意識を弱めたりはされないが、罪に定めようとしないで、救おうとされる。世の人たちは、過失を犯しているこの女を軽蔑し嘲笑することしかしなかった。だがイエスは、慰めと望みのことばを語られる。罪のないお方は、罪人の弱さを憐れみ、彼女に助けの手をさしのべられる。偽善的なパリサイ人は攻撃するが、イエスは、彼女に『お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように』と命じられる(ヨハネ8:11) 」(『希望への光』913ページ、『各時代の希望』中巻249ページ)。
再び言葉について
問3
箴言18章を読んでください。さまざまな主題がここに出てきますが、私たちの言葉について書かれている内容に注目してください。私たちが口にすることや口にしないことに関して、どんな重要な考えがここで示されていますか。
私たちは再び、言葉の現実とその力に向かい合います。今回は、愚か者が何もしないことに対して、いかに自分の口を用いるかを考えます。特に13節は啓発的です。私たちに向かって言われたことに注意深く耳を傾け、それを理解する前に口を開いてしまうのは、なんとたやすいことでしょう。口を開く前に、私たちが耳にしたばかりのことを注意深くじっくり考えられるようになってさえいたなら、自分自身やほかの人に苦しみや争いをどれだけもたらさずに済んだことでしょうか。確かに、沈黙が最善の応答である場合があります。
箴言18:4を読んでください。「深い水」というたとえは、「箴言」において、知恵をあらわすために肯定的な意味で用いられています(箴20:5)。それは、「静けさ」とともに「奥深さ」「豊かさ」といったニュアンスを伝えます。知恵ある人は浅薄でありません。彼らは、個人的な考察と経験の深みから自分の言葉を引き出します。明らかに知恵と知識を持っている人から出た深い思想や洞察に、驚嘆したことのない人がいるでしょうか。
箴言18:21を読んでください。「箴言」は、私たちがすでに知っていると思われることを改めて述べています。私たちの言葉は強力で、善のための力にも、悪のための力にもなるし、はたまた生死に関わる力にさえなります。ですから、この強力な道具の使い方に関して、私たちはどれほど注意深くあるべきでしょうか。
一つの物語の二つの側面
問4
箴言18:2を読んでください。愚か者は自分の意見をまとめるのに、なぜ時間を必要としないのですか。
愚か者は自分に自信があり、自分の意見を表明したくてたまらないので、ほかの人から学ぶことに興味がありません。彼らの閉じた心は、開いた口に付随しており、これは極めて有害な組み合わせです。私たちは、とりわけ自分が確信を持っている主題について、いつの間にか同じことをしないように、十二分に注意する必要があります。
ある事柄について、その時は正しいと思っていたことが、あとになって間違っていたと気づいたことはありませんか。これは、私たちが考え方において曖昧であるべきだ、という意味ではありません。そうではなく、私たちはだれ1人としてすべての正しい答えを知らないし、たとえ私たちの答えが正しいとしても、真理はしばしば、私たちが認識し、理解しえるよりもずっと深く、微妙な意味を持っているのだから、私たちは謙遜であるべきだ、という意味です。
問5
箴言18:17を読んでください。どんな重要な指摘がここでなされていますか。
神だけが第二の意見を必要となさいません。なぜなら、神の目があらゆる所に注がれているので(箴15:3)、本質的に神はそれをすでに持っておられるからです。神は、いかなる物事であれ、そのすべての側面を見る能力を有しておられます。対照的に、たいてい私たちはあらゆることに対して非常に狭い見方をしており、その見方は、特に私たちが重要だと思う事柄に関して一つの立場に捕らわれたときに、ますます狭くなる傾向があります。
すでにお分かりのように、あらゆる物語には複数の側面があり、情報がたくさんあればあるほど、私たちは物事のより正しい見方をすることができます。
誠実であれ
ある王が、その国の最高の職を担う新しい大臣を任命することになりました。そのために王は、だれが最も大きなうそをつけるのかを競う、うそに関する特別なコンテストを開催しました。現職の大臣は全員参加し、1人ひとりやって来ては、最大のうそをつきました。しかし、王は満足できませんでした。彼らのうそが説得力に欠けているように思えたからです。そこで王は、側近中の側近であり、最も信頼していた相談役に尋ねました。「どうしてお前は参加しなかったのだ」。すると、その相談役は答えました。「陛下を失望させてしまい、申し訳ありません。しかし、私は参加できません」。「なぜだ」。「私は決してうそをつかないからです」。その言葉を聞いた王は、この相談役を最高の職に任命しました。
罪人である私たちは、自分で思っている以上に、簡単にうそを思いつきます。ですから、改めて私たちは自分の言葉にどれほど注意深くあるべきでしょうか。
問6
箴言19章を読んでください。そこには多くの主題が出てきますが、うそをつくことに関しては、何と書かれていますか。
「箴言」は、高い道徳的基準を堅持しています。もし私たちが富や昇進のためにうそをついたり、完全を犠牲にしたり(箴19:1)、人をだましたりしなければならないのであれば、あるいは、誠実を代償にするのであれば(同19:22)、貧しいままでいるほうが、あるいは、昇進を逃すほうがよいのです。
箴言19:9を読んでください。うそをつくことは、それ自体で十分に悪いことですが、法廷でのうそや宣誓したうえでのうそは、一層悪質です。多くの国において、偽証は犯罪、しかも重大な犯罪です。それゆえ、証人は正直な証言をしなければなりません。先の聖句が、「贈り物をする人」(箴19:6)や、友人や兄弟からさえ嫌われる貧しい人(同19:7)に言及したあとに続いているのは、偶然ではありません。要するに、証人はわいろや証言する相手の社会的地位などに影響されてはならない、ということです。
さらなる研究
「うわさ話や告げ口の精神は、いさかいや争いを起こし、友人を仲たがいさせ、私たちの立場の正しさに対する多くの人の信頼を傷つけるサタンの特別な働きのひとつである。兄弟姉妹がたは、ほかの人の中にあると自分で勝手に思っている誤りや間違いについて、とりわけ、神から与えられた叱責や警告のメッセージを果敢に伝えた人の誤りや間違いについて語りがちである。
このような不平を言う人の子どもたちは、耳を澄まして毒のような不満を聞く。こうして親たちは、子どもの心に届く通路を無思慮にも閉じている。どれほど多くの家族が、疑念と疑問で日々の食事に味つけしていることだろう。彼らは友人たちの性格を批評し、おいしいデザートとして食卓に出す。悪口や中傷がひと口ずつ、大人だけでなく、子どもたちによってもコメントを加えられるために食卓を順々に回されている。このようにして、神が辱められている。イエスは、『わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである』と言われた。それゆえキリストは、彼の僕を中傷する者たちによってないがしろにされ、虐待されておられる」(『教会へのあかし』第4巻195ページ、英文)。
第8課 知恵の言葉
第8課 知恵の言葉
私たちはみな、ある程度(実際には、かなりの程度)環境の産物です。遺伝は重要な役割を果たしますが、私たちが持っている価値観は、私たちを取り巻くもの—家庭、教育、文化など—からもたらされます。私たちは幼児期から、見るもの聞くものによって影響を受けています。
残念ながら、私たちが見聞きするものは、必ずしも私たちにとって最善のものではありません。私たちを取り囲むこの世界は、あらゆる面で堕落しており、私たちに悪い影響を与えずにはいられません。それにもかかわらず、私たちには聖霊の約束が与えられており、私たちは、この世が指し示すものよりもずっと高く、ずっと良いものを指し示す神の御言葉を持っています。
私たちは今回、さまざまな箴言と、その箴言が述べている実際的な真理について考えます。その真理は、深く心に刻んで従うなら、私たちがこの堕落した世の否定的な傾向に打ち勝ち、よりよい世界に備えるのを確かに助けるでしょう。
私たちはみな同等
箴言20:12を読んでください。「私たちは精神のない宇宙の偶然の産物にすぎない」と考える進化論と違い、聖書は「すべての人間が神によって創造された」と教えています(使徒17:26)。トマス・ジェファーソンは、まさにすべての人間が神によって「創造」されたがゆえに、すべての人間は同等であると主張しましたが、このことは偶然の産物ではありません。私たちが同等であると信じる根拠は、主において、ただ主のところにのみ存在します。
ところで、私たちはみな同じ創造主を信じていますが、このことは、私たちがみな同じであるということを意味しません。一卵性双生児であっても、寸分たがわぬ行動をするようになるわけではありません。コリントの信徒への手紙の中で、パウロは私たちの違いについて語り、その違いが優越感をもたらすのではなく、互いの必要を感じる助けとなるようにしなさい、と強調しています。「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません」(Iコリ12:21)。
箴言20:9を読んでください。罪は、私たちを同等にする、もう一つの普遍的な要素です。大げさな質問に対するこの箴言の「誰も言えない」という答えは、人類の悲劇的で絶望的な状況を指し示しています。人間はみな弱く、死ぬべき運命にあり、この世のすべてのお金と権力をもってしてもそれを変えることはできません。しかし聖書においては、人間の罪深さに対するこのような言及が絶望につながりません。なぜなら、十字架におけるイエスの死と彼の復活とが、罪深さに関係なく、すべての人に永遠の命の約束を得るための道を開いたからです。そして永遠の命は、私たちの行いによってではなく、イエスに対する信仰によってのみもたらされます。
「しかしどんな良い行いをもってしても救いに値する者になることができないのであれば、それは完全に恵みによるのであって、イエスを受け、信じたゆえに罪人である人間に与えられるものに違いありません。それは完全に無償の賜物なのです。信仰による義認には議論の余地はありません。そして、堕落した人間が良い行いの功績によって永遠の命を手に入れることは決してできないという事実が確固たるものになるや否や、すべての議論は終結してしまいます」(エレン・G・ホワイト『信仰と行い』18、19ページ)。
命のテスト
正しい者たちの報いに関して、「その行いが報われる」と黙示録14:13に書かれています。人間個々の真の価値を証明するのは、未来だけです。人々は今、自分の財産や知識や肉体的能力を誇っているかもしれませんし、それはすべて本当なのかもしれません。しかし神の目から見るとき、それが何だというのでしょうか。非常にしばしば、人間が、重要だとか、すばらしいとか持ち上げる特性、業績、行動などが、実際には意味のない浮きかすであると示されることがあります。私たちが偶像化し、拝んでいるものは、私たちがいかに堕落しているかをはっきり証明しています。
問1
箴言20:6を読んでください(エレ9:22、23[口語訳23、24]、マコ9:35も参照)。これらの聖句は、神にとって真に価値あるものに関して、何と言っていますか。
私たちの対人関係の質の良さを具体的に示すものは、一回限りの驚くような愛の行為や犠牲の行為ではなく、私たちが日々忍耐強く、確実に、長く、定期的に繰り返し行うささやかな行為でしょう。伴侶のために作られる日々の食事、病人に対する付きっきりの看病、仕事における継続的な努力など、一生を通じてなされるこういった謙虚な行為は、あなたの信仰が本物である証拠です。永続的な忠実さは、情熱的ではあるけれどもまれな愛の行為より、ずっと価値があります。
この原則は、私たちと神との関係にも当てはまります。神のために死ぬよりも、神のために生きることのほうがずっと難しく、価値があります。生きることのほうが死ぬことよりも多くの時間を要するという理由で……。神のために生きる聖なる人は、神のために死ぬ殉教者より偉大です。だれでも、自分は神を信じている、神に仕えていると主張することはできます。しかし問題は、「長続きするのか」ということであり、イエスが言われたように、「最後まで耐え忍ぶ者は救われ」(マタ24:13)ます。
主を待つ
問2
箴言20:17、21:5を読んでください。これらの聖句の中に、どんな実際的教訓を見いだすことができますか。
パンを盗む人は、それを得るために働かなければならない人より早く手に入れることができます。粗悪な品をだまして売りつける商人は、正直な商人よりも早く金持ちになるかもしれません(箴21:5を21:6と比較)。しかし、その未来は甘さから「砂利」に変わり、あわてて得た利益は貧しさに変わる、と「箴言」は言います。この見解の正しさを説明するために、「箴言」はいくつかの例を挙げています。
①嗣業(箴20:21)—嗣業をあまりにも早く(たぶん両親がまだ生きているのに)得ることに関するこの聖句は、両親を呪う者への非難のあとに続いています。これら二つの箴言がつながっている点は重要です。あたかも、両親を呪う子どもは、両親の死を望んでもいるかのようです。その子どもは、嗣業を得るために両親を殺そうと画策さえしたのかもしれません。このような言動の将来的見通しは悲惨です。今は大いに助けとなっている灯が「闇のただ中で消え」(同20:20)、両親に対する呪いは子どもに戻ってくるでしょう。なぜなら、彼(彼女)は「後には……祝福されない」(同20:21)からです。
②復讐(箴20:22)—ここにおいて「箴言」は、悪を働かれたがために、復讐したいと誘惑されているらしい犠牲者を扱っています。その助言は、「主に望みをおけ」です。そうするときにのみ救われます。これは、もしあなたが復讐を企てるなら、深刻なリスクを冒すことになる、ということを暗に意味しています。箴言25:21、22は、敵の頭に炭火を積む(後悔や回心を表明するエジプト人の儀式)という比喩を用いて同じ諭しを強調しています。もしあなたが復讐を思いとどまるなら、あなたは主によって救われ、その過程であなたの敵をも救い、善をもって悪に勝つことになると(ロマ12:21)、箴言20:22は約束しています。
貧しい人への憐み
人の品性は、知恵や宗教的な献身によってよりも、貧しい人や困っている人を助けようとする心の備えによって量られるものです。あなたの品性を量るのは、あなたが持っているものではありません。隣人にとってあなたがどのような人間であるかが、品性の尺度です。隣人を救ったあのサマリア人は、霊的な祭司よりも神の国に近づいていました(ルカ10:26~37)。「箴言」はこの優先順位を強調し、説明しています。
神のために—これを優先する第一の理由は、貧しい人に対する人間の憐みを宗教的な熱意よりも好まれる神御自身にあります(箴19:17、21:13)。貧しい人に対するあなたの思いやりや、彼らのための具体的な行動は、あなたのいかなる信心深い行為よりも、神にとってずっと重要です。実のところ、神は個人的にそのような働きに関心があり、深く関与されるので、私たちが貧しい人に与えるとき、それはあたかも神御自身に与えたようなものです(マタ25:35~40)。
問3
マタイ25:35~40を読んでください。イエスが、必要を感じている人たちと御自分をどのように同一視しておられたかについて、これらの聖句はどのようなことを教えていますか。
貧しい人のために—第二の理由は、神が富める人と同様につくられた貧しい人にあります(箴22:2)。神がすべての人間を創造されたという人間同士の平等性のゆえに、貧しい人は富める人たちと同様に注目される価値があります。私たちが隣人を愛そうとするのは、神にかたどって造られた存在としての人であるということのゆえです。
その一方で、必要としている人を助けることが、あなたをどれほど利するかということを考えてください。私たちの基本的性質は利己的です。私たちはほかの人よりも自分自身に自ずと気を配る傾向があります。自分自身を差し出すことによって、私たちは自己に死に、キリストの御品性をよりよく反映できるようになります。私たちにとって、これ以上に価値あるものが何かあるでしょうか。
教育
「教育」に相当するヘブライ語は、「築く」とか「始める」といった意味を持つ言葉に由来します。つまり、こういった意味が、ヘブライ人の教育という概念の中にはすべて含まれています。私たちが「若者を……教育(する)」(箴22:6)とき、私たちは築き、始め、未来の土台作りをしています。それゆえ、親や教育者は子どもたちの将来に、つまりは世界の未来に責任があります。きょう、私たちが子どもたちにすることが、来るべき世代の社会に影響を及ぼすでしょう。
箴言22:6を読んでください。子どもたちを正しく教育することの重要性について、この聖句は語っています。
意義深いことに、ヘブライ語の「教育」という言葉は、神殿をささげるときの「奉献」(王上8:63)という言葉とまったく同じです。早期教育は、神殿が神にささげられたように、私たちの子どもを神にささげることを意味するのです。その教育は、私たち自身の人生さえ超えて、私たちの救いに影響を及ぼします。「両親には、子どもたちを未来の永遠の生命のために教育し訓練しなければならないという、大事業が委ねられています」(『希望への光—クリスチャン生活編』25ページ)。このような教育は、永遠にわたって影響を及ぼします。使徒パウロは、「この書物[聖書]は、……救いに導く知恵を、あなたに与えることができます」(IIテモ3:15)と言い、テモテが幼少時に聖書の訓練を受けたことをほめていますが、その際に彼は箴言22:6にそれとなく触れているようです。
箴言22:8、15を読んでください。教育は「種蒔き」にたとえることができます。私たちの社会や子どもたちの未来は、私たちが何を蒔いたかによって決まります。もし私たちの種が「悪」であれば、私たちの教育(「鞭」)は失敗し、災いを刈り入れることになるでしょう(箴22:8)。もし私たちの種が子どもたちの心を感動させるなら(同22:15)、私たちの教育の諭しは子どもたちの無知を彼らから遠ざけるでしょう。
さらなる研究
「親はいつも本当のことを言うということの良い模範でなくてはなりません。なぜならこれは日々子どもの心に印象づける必要のある教訓だからです。生活のあらゆる面、特に子どもの教育と訓練という面において、親は正しい原則に従う必要があります。……
ご両親がた、決してごまかしてはなりません。教える時であれ、実例を示す時であれ、本当でないことを決して言ってはなりません。真実であってほしいと子どもに願うなら、まずあなた自身真実でありなさい」(『希望への光—クリスチャン生活編』85ページ)。
「多くの父母たちは、子どもに食物を与え、衣服を着せ、世の標準に従って教育しさえすれば、もう自分たちは義務を果たしたのだと考えているようです。親たちは仕事や娯楽で忙しく、子どもたちの教育を、自分たちの生涯をかけての努力の対象とはしていません。彼らは、子どもたちが救い主をあがめるために、各自の才能を用いるように教育しようとはしていません。ソロモンは、『子をその行くべき道に従って教えよ、そうすれば年老いても、それを離れることがない』(箴言22:6)と言ったのであって、『子にその行くべき道を告げよ、そうすれば年老いても、それを離れることがない』と言ったのではありませんでした」(『希望への光—クリスチャン生活編』25ページ)。
第9課 真理の言葉
第9課 心理の言葉
今回取り上げる箴言の中には、エジプトの言葉と類似しているものがあります。霊感の下、ソロモンはこれらの言葉を、特にヘブライ人の見方に従って表現し直したのでしょう。そうすることで、エジプト人の言葉がイスラエルの神の霊と出会い、天の啓示になりました。
このような見解は重要です。というのも、「真理」には普遍的性質があることを私たちに思い出させるからです。イスラエル人に当てはまることは、エジプト人にも当てはまるに違いありません。そうでなければ、それは真理ではないでしょう。真理というものは普遍的に、だれにでも当てはまります。
このような訓戒の領域は、[イスラエル人とエジプト人]双方の共同体に共通しています。つまり、あなたがどのような人間であろうと、信者であろうとなかろうと、どこに住んでいようと、あなたがすべきでないことが何がしかある、ということです。
真理の知識
箴言22:17、18を読んでください。学ぶ者の最初の義務は、耳を傾け、きちんと聞くことです。「耳を傾けて……聞け」(箴22:17)。言い換えるなら、「集中せよ!」ということです。重要なのは、真理を探究する者はひたむきであり、正しいことを学びたいと心から願い、それを実行するという点です。
しかし、教えられることに耳を傾けるだけ、あるいは、それを頭で理解するだけでは、十分でありません。聖書に関する多くの事実を頭の中に持っているにもかかわらず、「真理」(ヨハ14:6)そのものの真の知識や実体験を持っていない人がいるからです。
そうではなく、真理は人間の最も奥深い部分に達する必要があります。箴言22:18(口語訳)の「あなたのうち」という言葉は、「あなたの腹」を意味しています。教訓は表面にとどまらないでしょう。それは消化され、吸収され、私たちの内なる部分になる必要があります。ひとたびメッセージが私たちの組織に深く入り込み、私たちの中に根づくなら、それは私たちの唇に上って来て、私たちは力強いあかしができるようになるでしょう。
箴言22:19~21を読んでください。真理を体験することで、私たちはどのような者となるのでしょうか。
①信仰(19節)—知恵の教えの第一目標は、知恵それ自体ではありません。「箴言」は、より賢明な弟子、より有能な弟子を生み出すことを目指していません。「箴言」の教師の目的は、主に対する弟子の信頼を強めることです。
②確信(21節)—学ぶ者は、なぜこれらの「真理とまことの言葉」が確かであるのかを知る必要があります。なぜそれを信じるのかを知るべきでしょう。当然ながら、信仰とは、私たちが十分に理解できないことを信じることです。それにもかかわらず、私たちはその信仰の妥当な理由を持つべきでしょう。
③責任(21節)—教育の最終段階は、私たちが受け取った「真理とまことの言葉」をほかの人に伝えることです。これが、一つの民として私たちが召されたことの中核を成すものです。
貧しい人からの搾取
問1
箴言22:22、23、23:10を読んでください。私たちはどのようなことをここで警告されていますか。
盗むことは常に悪ですが、ここでの禁止は、貧しい人や虐げられている人、つまり最も弱い人たちから盗むことに関するものです。彼らは本当に無力なので、神の特別な配慮を受ける資格があります(出22:21~27)。ウリヤを殺して彼の妻を奪ったダビデと、雌の小羊を用いたナタンのたとえ話(サム下12:1~4)の一件が心に思い浮かびます。貧しい人から盗むことは、単なる犯罪行為ではありません。それは主に対する罪です(同12:13参照)。あなたよりもわずかなものしか持たない人から奪うことは、盗み以上に悪いことであり、それは卑劣な行為でもあります。そのような盗人たちは、神が彼らの行為を見ておられないとでも思っているのでしょうか。
確かに箴言22:23は、たとえその盗人が人間的な罰を逃れたとしても、神が借りを返されることを示唆しています。贖い主(へブライ語で「ゴエル」)への言及は(箴23:11)、終末時代の裁きという神のシナリオさえほのめかしているのでしょう(ヨブ19:25)。それゆえこの警告は、聖書の中のほかの警告と同様に、目先の「利益」にしか興味がなく、はるか先の結果に関心のない人たちを非難しています。彼らは他人を犠牲にして財産を手に入れ、増やし、そのためなら進んで人をだましたり、殺したりします。彼らはそのようなことを今は楽しんでいるかもしれませんが、後々償いをすることになるでしょう。このような論法は盗人を落胆させるだけでなく、私たちの道徳的価値観が神の主権と分かちがたく結びついていることを教えています。
神に逆らう者をうらやむ
問2
箴言23:17、24:1、2、24:19、20は、どのようなことを私たちに警告していますか。
神に逆らう者たちをうらやむ人が、なぜいるのでしょうか。たぶんそれは、神に逆らう者たちが犯しているかもしれない実際の罪のゆえではありません。むしろたいていの場合、彼らが悪事によって手に入れる目先の利益(富、成功、権力)—人々が自分のためにしばしば欲しがるもの—のゆえです。
言うまでもなく、すべての成功者や金持ちが神に逆らっているわけではありませんが、中にはそういう人たちがいます。そして彼らは、先の聖句の中で私たちが警告されているような種類の人間です。私たちが彼らの「豊かな」暮らしを目にし、とりわけ自分の目から見て、自分自身が苦労しているとしたら、たやすく彼らの持ち物をうらやむことでしょう。
しかし、それはあまりにも狭く、近視眼的なものの見方です。結局のところ、罪の誘惑は、その利益がすぐ手に入るということ、私たちが目の前の満足を味わうことです。しかし、現在を超えた視点が、このような誘惑から私たちを守ってくれるでしょう。つまり私たちは、罪によってすぐ手に入る「利益」の向こう側に目を向け、はるか先の結果についてじっくり考える必要があります。
加えて、罪がいかに破壊的であるかを目にしたことのない人がいるでしょうか。私たちは決して罰を免れません。私たちがしていることを気づかれないように、ほかの人の目から(最も身近な人たちからさえ)隠すことはできるかもしれません。あるいは、自分の罪はそれほど悪いものではないと、自分自身を欺いて思い込ませることができるかもしれません(そうなったら、どれほど多くの人がさらに悪いことをするか、考えてみください)。しかし遅かれ早かれ、いずれにしても、罪は私たちに悪い結果をもたらします。
罪が罪であるがゆえに、私たちは罪を憎むでしょう。罪が私たちやこの世にしてきたこと、また私たちの主にしたことのゆえに、私たちは罪を憎みます。もし私たちが罪の真の代償(犠牲)を見たいと思うなら、十字架のイエスに目を向けてください。これが、私たちの罪の代償です。そのことを実感するだけで、私たちが罪を避け、私たちを罪へ導く人たちからできるだけ遠ざかりたいと思うようになるのに十分に違いありません。
口に入れる物
人間の最初の誘惑が食べ物に関係していたことは(創3:3)、偶然ではありません。罪と死がこの世にもたらされたのは、神に逆らい、不適切な物を食べることによってでした(創3:1~7、ロマ5:12)。私たちはまた、聖書において飲酒に関する最初の言及がなされているのは、極めて否定的でみっともない物語の中であるという厳然たる事実も、見過ごしてはいけません(創9:21)。
箴言23:29~35を読んでください。アルコールがどれほど破壊的になりえるかを、自分の目で見たことのない人がいるでしょうか。確かに、酒を飲む人がみな、惨めな酔っ払いになるわけではありません。しかし、惨めな酔っ払いたちは、最初に酒を飲んだとき、自分が最終的にこのような姿になろうとは、おそらく想像もしなかったでしょう。
「飲酒癖を身につけた者は、絶望的な状況の中にある。酒をやめるように言っても、彼には理屈が通じず、説得することができない。彼の胃や脳は病んでおり、意志の力は弱くなり、食欲は抑制不能である。闇の勢力の君は彼を虜にし、彼には逃れる力がない」(『SDA聖書注解』第3巻1162ページ、英文)。
箴言23:1~8を読んでください。この訓戒は、テーブルマナー以上のものに関係しています。これらの聖句は、食べることが好きで、食欲旺盛な人への警告です(箴23:2)。喉にナイフを突きつけるという比喩は特に強烈で、それは食欲を抑えることを意味するだけでなく、あなたの健康や命さえ脅かす、過食に起因するリスクをも示唆しています。「よく理解せよ」と訳されているヘブライ語「ビン」は、さまざまな種類の食べ物を注意深く選ぶことをあらわします。ソロモンは、「善と悪を判断する」(王上3:9)ことができるように知恵を求めましたが、その際にもこの同じ言葉が使われています。霊感を受けた著者の頭の中には、食欲を抑えるという問題以上のことがありました。彼の勧告は、「供される珍味[ごちそう]をむさぼ(り)」(箴23:3)たいという誘惑に駆られる宴会や飲み会にも関係しているのでしょう。
私たちの責任
問3
「わたしが悪人に向かって、『悪人よ、お前は必ず死なねばならない』と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める」(エゼ33:8)。ここに示されている基本的な霊的原則は、どのようなものですか。私たちはこの考えを、いかに日々の生活に適用したらよいのでしょうか。
昔、ある西部の都市において、1人の女性が夜の通りで襲われました。彼女は助けを求めて叫び、何十人もの人がその声を聞いたにもかかわらず、だれも警察に通報しませんでした。多くの人が窓の外を見たあと、それまでやっていたことに戻って行きました。しばらくすると、女性の叫び声がやみました。のちに、彼女はめった刺しにされた遺体で見つかりました。
この女性の叫び声を聞いたのに何もしなかった人たちは、彼女の死に対して責任があるでしょうか。彼らは彼女を襲いはしませんでしたが、何もしなかったことで彼女を殺したのでしょうか。
問4
箴言24:11、12、23~28を読んでください。私たちにとってどんな重要なメッセージが、ここにはありますか。
モーセの律法は、目撃したことを報告しない者は罰を負う、とはっきり警告しています(レビ5:1)。私たちは犯罪に対抗して行動することはできないかもしれませんが、もし私たちが目にしたことを黙っているなら、その犯罪者と罪を共有することになります。沈黙によって、私たちは共犯者になります。
一方、もし私たちが自分の証言によって真実を報告し、「正しい答えをする」(箴24:26)なら、私たちは適切に対応し、責任ある人間として振る舞ったことになります。このような行動は「くちづけをする」(同)ことにたとえられていますが、それは、その人が相手を大事にしていることを意味します。
さらなる研究
「私たちの周囲にいる魂は、目覚めさせられ、救われる必要がある。さもなければ、彼らは滅びしてしまう。私たちは一瞬たりとも浪費してはいけない。私たちはみな、真理に有利になるか、あるいは不利になる影響力を持っている。私は、自分がキリストの弟子の1人だという紛れもない証拠を持ち歩きたいと思っている。私たちは安息日の宗教以外のものを望んでいる。生きた原則と、個人の責任を日々感じる必要がある。このことが多くの人によって敬遠されており、その結果が不注意、無関心、用心深さと霊性の欠如となっている」(『教会へのあかし』第1巻99ページ、英文)。
「信仰を語り、信仰に生き、神への愛を高めなさい。神の聖なる名を高め、神の慈しみを語り、神のあわれみを伝え、神の力を話しなさい」(『我らが高き召し』—『今日の光』2001年第1期—16ページ)。
第10課 仮面の下
第10課 仮面の下
甘い言葉を口にし、エバの幸福にとても関心があるかのように見えるそのまばゆい蛇の背後には、彼女を死に陥れようと画策する敵が隠れていました(創3:1~6)。サタンは「光の天使」(IIコリ11:14)を装い、人類にとって最も危険なわなを仕掛けます。しかし、さらに危険で欺瞞的なのが自己偽装(本来の自分でないふりをすること)です。私たちが、自分を自分でない誰かだと主張するとき、最終的に、ほかの人や自分自身さえも欺くことになります。
人を欺く方法はいろいろありますが、最も一般的な方法は、言葉によるものです。今回の箴言の中には、言葉、うそ、お世辞、醜い考えや意図を隠すために聞こえの良さやすばらしい感想を用いる美辞麗句などを扱ったものがあります。私たちは、自分がほかの人に何を言うかということに関してだけでなく、ほかの人が私たちに言うことをいかに解釈するかということに関しても、注意深く振る舞う必要があります。おそらく今回のメッセージは、次のように要約することができるでしょう。「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(マタ10:16)。
神の神秘
人生は神秘に満ちています。物理学者のデイビッド・ドイッチュは、かつて次のように書きました。「基礎物理の用語で表現するとき、あらゆる出来事は途方もなく複雑である。もしあなたが電気ポットに水を満たし、スイッチを入れたとして、地球上のすべてのスーパーコンピューターが宇宙の年齢ほどの期間作動しても、その水の分子がするであろうことを予測する方程式を解くことはできない。たとえ私たちが、それらの分子の初期状態や分子への外的影響の状態をどうにか測定できるとしても、それ自体が処理しがたい仕事である」(『無限の始まり—この世界を変える説明』107ページ、英文)。
もし私たちが水の分子のようなありふれたものにさえ当惑するのであれば、神の神秘を理解できると期待することなどできるでしょうか。
問1
箴言25:2、3を読んでください。著者はどのようなことを指摘していますか。私たちはそれを、いかに幅広い状況に適用できるでしょうか。
神の誉れと王の誉れとの間に一線を画すものは、神の「神秘的な」御性質と、暗示されているところの、神を十分に理解できない人間の無能さです。英語の‘mystery’という言葉の源であるヘブライ語の語根‘(str)’(「秘密にする」「隠す」)は、しばしばヘブライ語聖書の中で、神を唯一の真の神とするものを説明するために用いられています(イザ45:14、15)。神には、私たちがどうしても理解できない部分があります。その一方、王の誉れをもたらすものは、彼らが細かく調べられるのをいとわないことです。透明性と説明責任は、指導者の第一の資質でしょう(申17:14~20)。「ことを極める」(箴25:2)こと、つまり出来事を説明したり、自分が行っていることを説明したりすることは、王の義務です。
賢者としての愚か者
新しい作り話ではありませんが、(とりわけ西洋社会において)真理の相対的な性質を主張する考えが近年定着しています。つまり、ある人やある文化にとって正しいことは、ほかの人やほかの文化にとって正しくないかもしれないということです。あるレベルで見れば、確かにこれは正しいのですが(例えば、ある国では道の右側を運転し、ほかの国では左側を運転します)、別のレベル(とりわけ道徳の分野)では危険な誤りです。私たちの住んでいる場所や個人的な好みにかかわらず、あることは善であり、そのほかのことは悪です。ですから、私たちは自分の考え方(見解)を神の御言葉とそこに見いだされる真理に、いつも従わせましょう。御言葉は、私たちが是非や善悪を知るための究極の拠り所でしょう。
箴言26:11、12を読んでください(士師21:25、Iコリ1:20、21、2:6、7、IIコリ1:12も参照)。知ってのとおり、自分の目に正しいことをするという考えは、今に始まったものではありません。しかしこの考えは、当時も今も間違っています。先に触れたように、私たちのだれ1人としてすべてを理解してはいません。それどころか、私たちは何一つとして十分に理解していません。私たちにはみな、成長すべき領域、学ぶべき領域があります。それゆえ、自分はすべての答えを持っていないという事実を常に認める必要があります。
先の箴言(箴26:11、12)にあるように、私たちが愚か者を憂慮するのは、彼らの愚かさの影響が彼ら自身にとどまらないからです。自分の知恵に対する彼らの確信は深まるばかりなので、彼らは愚かさを繰り返します。彼らは、ほかの人が彼らを賢いと思い、彼らを称賛し、大きな問題を引き起こしかねない助言を彼らに求めようとするほど(同26:8)、確信を持っていることさえあるでしょう。愚かさは「知恵」というラベルを付けて広まり、さらに有害なものになることがあります。そのうえ、愚か者は非常に愚かなので、自分の愚かさを自覚していません。
怠け者
「怠け者は鉢に手を突っ込むが/口にその手を返すことをおっくうがる」(箴26:15)。
勉強するためよりも、カンニングの準備をするために多くの時間と労力を使う学生のように、怠け者が自分の怠惰の言い訳を見いだすために努力するというのは、皮肉なものです。
箴言26:13~16を読んでください。「道に獅子が、広場に雄獅子が」(箴26:13)いるという怠け者は正しいかもしれません。それゆえ、家にこもって、危険に遭遇しないようにすることは賢明です。しかし、私たちはそのとおりにすることで、人生が提供するあらゆる機会を逃します。もしバラのとげで傷つくリスクを冒さないなら、私たちはその美しさを楽しむことができないでしょう。もし障害を恐れるなら、私たちは決して前進できないでしょうし、行動しようとしない人は、充実した人生を味わうことが決してできません。
先の聖句に出てくるほかの比喩に目を向けてください。扉がちょうつがいの部分で回転するだけで、どこへも行かないように、怠け者は自分のベッドで寝返りを打ちます。つまり、彼らも体の向きを変えるだけで、どこへも行きません。
15節のもう一つのたとえは、さらに衝撃的です。彼らは食べ物の器に手を突っ込むことはできるのに、あまりにも怠惰なので、食べるためにその手を戻すことができないというのです。
しかしもっとひどいのは、彼らの知的怠惰、了見の狭さ、彼ら自身の立場に対する確信です。それゆえ、彼らは常に正しく、7人の賢者よりも賢く(箴26:16)、彼らの考えよりも賢明であろうほかの考えに心を開こうとしません。すべての答えを持っていると思う人は、たいてい持っていないものです。
敵としての友人
もし私たちが敵よりも友人によって失望しているとしたら、それは、私たちが友人には善を、敵には悪を期待しているからです。しかし、必ずしもそのようになるとは限りませんよね。だからこそ、「箴言」は、ときとして友人は敵のように振る舞い、敵は友人のように振る舞うと私たちに警告しています。
問2
箴言27:5、6を読んでください。どのようなときに叱責は愛のしるしになりえますか。
接吻や甘い言葉だけが愛ではありません。ときとして私たちは愛のゆえに、やむをえず友人や子どもたちを叱責し、不愉快で、断罪的で、批判的に見られる危険を冒します。遠慮なくずばり言うなら、私たちは友人を失うかもしれません。しかし、もし友人のしていることについて(とりわけ、それが彼らに災いをもたらすのに)、私たちが彼らに警告しないとしたら、私たちはなんといいかげんな友だちでしょうか。率直な叱責は、愛が錯覚や見せかけの上に成り立っているのではなく、真実と信頼に基づいていることのしるしです。
問3
箴言27:17を読んでください。友人同士の対立は、どのような結果をもたらしえますか。
鉄をもって鉄を研ぐというたとえは、相互利益を示唆しています。真の対立を乗り越えた友情は、その友情の質を向上させるだけでなく、両者の人格を刺激し、強めるでしょう。それぞれの武器が鋭くなり、結局、将来の戦いに備えて装備を高めることになるでしょう。自分自身の考えだけに逃げ込み、異なる見解という挑戦に立ち向かわない人は、知識においても、品性においても、成長しないでしょう。
友人としての敵
問4
箴言26:17~23を読み、そこに書かれていることを要約してみてください。
「箴言」は、再び言葉の力を取り上げ、今回は悪口や口論によってもたらされる害を扱っています。自分をあなたの味方と思わせるために、あなたの目の前であなたの敵の悪口を言う人は、まるで「炭」(21節)のようです。彼らは口論に燃料を加え、あなたをさらにやっかいな火の中へ追い込みます。
同様に、雄弁に聞こえる燃える唇は、心に悪意を隠していることがあります(23節)。当選したい政治家、物を売り込みたいセールマン、女を口説き落としたい遊び人—彼らはみな、雄弁の力を知っています。
この箇所(箴26:17~23)の教訓は、耳にするすばらしい話を鵜呑みにしてはいけないということです。それらはすばらしいからこそ、危険である可能性があります。ある人たちは話がとても上手で、説得力があり、誠実で、思いやり深く聞こえるのですが、心の中では、まったく違うことが進行しています。私たちはみな、このような人たちの犠牲になったことがあります。彼らは、自分が考えたり、感じたりしていることとはまったく違うことを口にするのです。「箴言」はここで、このような欺きを強く非難しています。
「クリスチャンのするあらゆることは、日光のように裏表があってはよくないだろう。真実は神のものであり、欺きは、どのような形であれ、サタンのものである。……正確に真実を語るというのは、楽なことでも簡単なことでもない。私たちは真実を知らなければ語ることができないし、先入観、精神的偏見、不十分な知識、判断ミスなどが、私たちの関係する事柄の正しい理解をどれほどしばしば妨げていることだろう。私たちの心が真理であられる神によって常に導かれていなければ、私たちは真実を語ることができない」(『キリストを映しつつ』71ページ、英文)。
さらなる研究
「神の霊の働きは、私たちの能力や才能を用いる必要性を私たちから取り除くことではなく、神の栄光のためにすべての力を用いる方法を私たちに教えることである。神の恵みの特別な指導の下にあるとき、人間の能力はこの世で最高の目的のために用いられうる。無知は、キリストの弟子と自称するいかなる人の霊性や謙遜を深めることはない。神の言葉の真理は、知的クリスチャンによって最も理解されうるのである。キリストは、知的に彼に仕える者たちによって最も栄光をお受けになる。教育の最大の目的は、聖書の宗教をあらわし、神の栄光を広めるような形で、私たちが神から与えられた力を使えるようになることである。
私たちは、託された才能のゆえに、私たちを生み出された神に恩義があり、これらの才能を育て、高めることは、私たちが神に対して負っている義務である」(『次世代につなぐ信仰—両親、教師、生徒への勧め』361、362ページ、英文)。
第11課 信仰によって生きる
第11課 信仰によって生きる
いろいろな所から、いろいろな声が聞こえてきます。何が正しく、何が間違っているのか、人はどうしたらわかるのでしょうか。その答えは神の中にあるとともに、書かれた神の啓示の中にあります。私たちは神に信頼し、神の律法に従うことを学ぶ必要があります。そうすれば、ほかのことは自ずとそれに従うでしょう。
イエスが、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(マタ6:33)、そうすれば私たちが必要とするものはすべて与えられるだろう、とおっしゃったとき、彼はこのことを言っておられました。私たちは神を信じ、神に従うことを最優先しましょう。さもなければ、何かほかのもの(こと)、まさに偶像礼拝を、最優先することになるでしょう。そして、私たちは、信仰生活を送ることによってだけ、神を信頼することを学ぶことができます。クリスチャンの歩みとは、まさに「歩くこと」です。私たちは、主から命じられたことをするという選択をしましょう。そしてその結果は、主にお任せするのです。
律法を守る
「律法」あるいは「教え」を意味する「トーラー」という言葉は、「箴言」の中に13回登場しますが、そのうちの4回は28章の中においてです(4節で2回、7、9節で1回ずつ)。「箴言」でこの言葉が使われるとき、普通は賢人の「教え」(箴13:14)を意味しますが、イスラエルの伝統において、この言葉は霊的な含みを持ち、「箴言」それ自身が裏づけているように(同29:18)、神の啓示を指すこともあります。
問1
箴言28:4、7、9を読んでください。これらの聖句は、私たちの生き方における律法の大切さについて、どのようなことを述べていますか。
イスラエルにほかの国民との違いをもたらしたのは、彼らの考え方でもなければ、彼らの「霊的」で抽象的な神学上の見解ですらありませんでした。彼らを「聖」としたのは、つまり、ほかのあらゆる国民から「区別」したのは、とりわけ食べ物、休息、自然環境といったことに関する、生活上の具体的な選択でした。そしてそれらの選択は、理想的には、律法と、律法の中に見いだされる諸原則を軸としたものでした。
結局のところ、私たち人間は独力で賢くなることはできません。善悪を判断することさえ、必ずしもできるというわけではありません(王上3:9)。それゆえ、私たちは見分ける力を獲得するために、神の律法の助けを必要としています。言い換えれば、知恵の獲得は、知的訓練や霊的訓練にかかっているのではなく、私たち自身や私たちの文化、私たちの個人的性格や私たちの欲望とは無関係な律法を守ることと基本的に結びついているということです。
言うまでもなく、この律法は神の永遠の律法です。そして、この律法に従うことこそ、まさに信仰の行いです。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」(ロマ1:16、17)。
主を尋ね求める
信仰生活にとっていかに重要であったとしても、律法(トーラー)それ自身は、命の源ではありません。それどころか、律法は罪を指摘し、罪は死をもたらします(ロマ7:7~13参照)。トーラーを有効にするのは、神からもたらされるものです。神から離れては、トーラーは神の当初の意図とは無関係な律法主義的教義となるでしょう。神の律法を守る生活は、神とともに生きる生活と結びついているからです。トーラーは神に置き換わるものではなく、(パウロの比喩によれば)学ぶ者を教師のもとへ導く養育係にすぎません(ガラ3:24)。
問2
ガラテヤ3:24を文脈に即して読んでください。私たちが「信仰によって義とされる」ために、律法はどのようにイエスを私たちに指し示すのですか。
「箴言」は、単なる知恵の書ではありません。それは第一に、知恵を啓示してこられた神に関する本です。律法を守ることによって知恵を尋ね求めるなら、私たちは主に近づけるとともに、イエスに対する信仰によって無償で与えられる救いに近づけるでしょう。
箴言28:5を読んでください。「教え(律法)」という言葉が4節において2回使われているように、「理解する」という言葉が5節において2回用いられています。二つの聖句にはつながりがあります。教えを守ること(4節)と主を尋ね求めること(5節)は、一体です。しかしその活動範囲は、正しいこと(「公義」[5節、新改訳])を知り、それを行うことだけではありません。この理解は「すべて」に関係しています。なぜなら、この理解が「すべて」の神に由来するからです。古代イスラエルにとって、すべてを知ることと宗教的体験とは、切り離されていませんでした。信仰は、知性や論理的理解と密接に結びついていました。思考なき信仰を持つことも、信仰なき思考を持つことも、ありえないことでした。なぜなら、いずれの領域においても神が基礎であられたからです。
金持ちのための言葉
問3
Iヨハネ2:15~17を読んでください。私たちはここで、どのようなことを警告されていますか。これらの聖句が語っている危険から、私たちはどうすれば自分自身を守ることができるでしょうか。
「富」が何を意味するのか、その考え方には大きなばらつきがあります。しかし「箴言」には、「富」をいかに得るか、そしてひとたび得たその「富」をいかに扱うかに関して、いくつかの諭しが含まれています。
①弱者(貧しい人)を犠牲にして富んではならない(箴28:8)—もしあなたの富が弱者を犠牲にして得られたものであるなら、それは正当化されません。すでに見てきたように、聖書は、私利私欲のために弱者を食い物にする人々を強く非難しています。
②貧しい人に与えなさい(箴28:27)—箴言28:25の「貪欲な者」(「貪欲」の文字どおりの意味は、「魂の飢えや食欲が大きいこと」)とは対照的に、貧しい人に気前のよい人たちは祝福されます。
③一生懸命働きなさい(箴28:19)—富は、盗みの結果として生じたり、偶然によって生じたりすべきものではなく、私たちの懸命な働きに対する報酬として生じるべきものです。得られるものは、私たちの労働の質によって決まります。もし私たちが富んでいるなら、それは当然の権利でしょう。
④急いで富を得ようとするな(箴28:20、22)—箴言は可能性のある二つのシナリオを提示しています。(1)何らかの不正行為に目をつぶり、結果として、その行為に加担する場合(箴28:20)。(2)親の財産を享受したいと強く思うあまり、親が今必要としているものを奪う場合(同28:24)。さらに悪いことに、こういったことをする人たちは、自分が何も悪いことをしていないとひとり合点するまで、その不正行為を心の中で正当化します。それゆえ、「これは罪ではない」と、彼らは言うのです。
貧しい人のための手引き
箴言29:13を読んでください。貧しい人も富める人も同等です。この箴言で用いられている光のたとえは、この問題を天地創造の視点から捉えています。貧しい人も富める人も神によって造られました(同22:2)。両者はともに命という賜物を享受し、太陽は両者を照らします。富める人が、貧しい人の扱い方について警告されていたように、貧しい人は彼らを虐げる者(ときとして、富める人〔マタ5:44、45〕)さえ愛さなければなりません。
箴言28:3を読んでください。貧しい人は、富める人と同じ義務を負っています。貧しさが不正行為の言い訳になるべきではありません。あなたが虐げられてきたからといって、その事実は、ほかの人を虐げてもよいという権利をあなたに与えはしません。自分よりも貧しい仲間を虐げた容赦なき家来に関するイエスのたとえ話(マタ18:21~35)は、このような対応が、貧しい人の側では思いがけないものだとしても珍しくなかったことを示しています(貧しい人は、ほかの貧しい人に対してもっと情け深いだろうと思われがちですが……)。箴言28:3において、通常祝福を意味する雨が、破壊的な激流に変わっています。この比喩は、その行為の異常さとそれがもたらす失望とを説明しています。
箴言28:6を読んでください。正しき貧しい人は、悪しき富める人よりも幸いです。昔ながらの知恵によれば、正しい人が貧しいはずはありません。なぜなら、貧しさは怠惰に対する罰と考えられていたからです(同24:34)。しかし、現実の人生はもっと複雑です。貧しい人は、不正行為や手に負えない状況の犠牲者かもしれません。それはよくあることです。にもかかわらず、「箴言」によって擁護されている価値の尺度は明瞭で、曖昧さがありません。正しさは富よりも重要であり、成功は正しさの絶対確実な指標ではありません。
真理を愛する
パウロは失われた人々について書きながら、彼らは「真理を愛そうとしなかった」(IIテサ2:10)と述べています。私たちが自分の子どもや生徒、あるいは私たちから学ぼうと心を開いているすべての人に教えることのできるあらゆる事柄の中で、たぶん最も重要な教訓がここにあります。言うまでもなく、イエスは真理であられるので、真理を愛しなさい、とだれかに教えることは、イエスを愛しなさい、と教えることです。もっと重要なことがほかにあるでしょうか。
「真理に到達しようとの純粋な目的を持っているかぎり、われわれは、万物の中に働き、また万物を通して働いておられる目に見えない大能の神に触れるようになるのである。人間の思いは、神のみこころに交わり、有限な人間が無限の神と交わるようになるのである。こうした交わりが、人の知、徳、体におよぼす影響には、測り知れない価値がある」(『教育』3ページ)。
箴言29:15を読んでください(同29:19も参照)。教育だけでなく、人生全般における重要な原則が、ここに見いだされます。
私たちの模範的行動は、(とりわけ、私たちが叱ったり、罰したりできない相手には)重要です。しかし、ときにはそれ以上のものが必要とされます。このことは、特に私たちの子どもに当てはまります。ときとして子どもたちは、協調のために罰せられる必要があります。
私たちの本質はすっかり堕落し、腐敗しており、私たちが愛するかわいい小さな存在、つまり私たちの子どもたちですら、その例外ではありません。私たちは望むことを何でもさせることによって、自分の子どもや自分自身を益することができません。実際のところ、子どもたちは訓練を必要としているだけでなく、それを望んでいます。彼らは、境界線が存在すること、その中にとどまっていなければならないことを知る必要があります。自分の子どもの自由を尊重しなければならないと信じ、わが子に「ダメ」と言うことなく、したい放題にさせる母親は、最終的に自分自身に「恥」(箴29:15)を、子どもに悲しみをもたらすでしょう。たとえ今でないとしても、子どもたちが大人になったときにそうなるでしょう。
さらなる研究
「神の律法は、不変の公正さに基礎を置いており、それを守る者たちの幸福が増し加わるように作られている。……宗教は、神との個人的な関係に人を至らせるが、そこで終わらない。なぜなら、人類を助け、祝福する天の原則が実現されることにあるからである」(『神の息子・娘』267ページ、英文)。
「神のために子どもをしつけることをまったくしなかったために、悪は永続し、思慮深く世話をすればキリストの共労者になっていたかもしれない多くの人を敵の軍団に送り込んできた。誤った考えと愚かで間違った愛情が、子どもを愛らしくなく、不幸にする習性、親たちの人生を辛いものにする習性、有害な影響を何世代にもわたって及ぼす習性を育んできたのである。自分の思いどおりにすることを許された子どもは、だれであれ、神を侮辱し、両親の面目を潰すだろう。……親たちは自分の義務を怠り、子どもを誤って甘やかすことで、わが子が神の都の門を通れないようにしている」(『教会へのあかし』第5巻325、326ページ、英文)。
第12課 知恵ある人の謙遜
第12課 知恵ある人の謙遜
聖書の中で、謙遜は重要な美徳と考えられています。そして、最も偉大な預言者モーセは、地上のだれにもまさって謙遜な人であったとされています(民12:3)。ミカ6:8によれば、神が民にお求めになる主要な義務は、「へりくだって神と共に歩むこと」です。イエスもまた、謙遜は、クリスチャンが身につけるべき究極の目標であると主張なさいました。「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」(マタ18:4)。
結局のところ、人は何を誇るべきでしょうか。呼吸も、心臓の鼓動も、才能も、能力も、すべては神から与えられるのであり、「我らは神の中に生き、動き、存在する」(使徒17:28)のです。そして十字架に照らして見るとき、私たちのあらゆる善行は「汚れた着物」(イザ64:5[口語訳64:6])のようなものにすぎません。だとすれば、私たちはどうして誇れるというのでしょうか。
今回は謙遜について考察します。私たちの状況を考えるなら、謙遜から程遠いというのは、なんと愚かなことでしょうか。
あなたは何者か
問1
箴言30:1~3、32、33を読んでください。これらの聖句は、どのようなことを述べていますか。
これらの聖句の中に見られる自己否定は、自分の知恵、業績、軍事的勝利をしばしば自慢したがった古代中東の王たちの自己称揚とはかなり違います。ソロモン王自身は、「世界中の王の中で最も大いなる富と知恵を有し(ていた)」(王上10:23、コヘ2:9)と記録されています。そして改めて言うまでもなく、「なんとバビロンは偉大ではないか。これこそ、このわたしが都として建て、わたしの権力の偉大さ、わたしの威光の尊さを示すものだ」(ダニ4:27[口語訳4:30])と豪語したネブカドネツァルのような王もいました。
「箴言」の著者は自分の無知を認めているので、誇ることを「恥知らず」と呼んでいます。この「恥知らず」に相当するヘブライ語は「ナバル」で、自分の行動によって愚かなうぬぼれの良い例となった、あのナバルの名前です(サム上25章)。うぬぼれを意味するこのような誇りは、屈辱、怒り、対立を当人に生じさせる可能性を伴っています。自分自身を賢いと思い、さらに悪いことに、それを誇っている教会員のことを、使徒パウロも「愚か者たち」と呼んでいます(IIコリ11:18、19)。
問2
ルカ18:9~14を読んでください。ファリサイ人のようになることは、なぜ人が思う以上に簡単なのですか。かすかにであっても、どうしたらこのようなわなに陥らないようにできるのでしょうか。
あなたは、(通常、不安を隠すために)誇る人たちを哀れに思うでしょう。それは、彼らがいかに勘違いをし、自分の真の姿を知らないかを示しているからです。
聖なる方の知識
うぬぼれは、個人的に主を知らない人たちの中に生じます。それとは対照的に、神との交わりの中に生きている人は、謙遜になるでしょう。なぜならその人は、私たちの中のだれよりもはるかに偉大な方と絶えず触れ合っているからです。宇宙の大きさについて考え、そのような宇宙を創造された方を私たちが礼拝しており、その同じ神が、イエスという人間として私たちのために十字架で苦しまれたのだと悟るとき、こういった思いをいつも抱きつつ、うぬぼれに苦しむなどということは考えられません。
問3
箴言30:3~6を読んでください。これらの聖句は、神の力、威光、神秘について、どのようなことを教えていますか。
「聖なる方の知識」(箴30:3、新改訳)という表現は、[「聖なる方を知ること」と新共同訳聖書で訳されているように]「神についての知識」を意味していると理解されます。そしてその次に、いくつかの修辞疑問が問われており、私たちがどれほど神を理解していないかを気づかせてくれます。
問4
箴言30:4の質問を読んでください。それらは、どのような挑戦を私たちに突きつけていますか。
神は創造主であられるので、私たちの理解をはるかに超えておられます。ヨブ記において神は、ヨブが神と神の道(方法)を理解できないことを自覚させようと、同様の質問を彼にぶつけておられます(ヨブ38章~40:2)。
神が創造主であられ、私たちが彼を十分に理解できないという事実は、学者たちが常に問題にしている、書かれた神の啓示を私たちがどのように受け取るべきかということに関して、重要な教訓を与えています。神の御言葉に(たとえそれが私たちをまごつかせ、当惑させるような箇所であっても)楯突く私たちは、一体何者でしょうか。自然界の中の最も単純なものさえ、私たちは曖昧にしか理解できず、疑問だらけだというのに……。
多すぎもなく、少なすぎもなく
箴言30:7~9には、「箴言」の中で唯一の祈りが記されています。この願いが、神を偉大な創造主として認め(箴30:4)、神の誠実さを約束すること(同30:5)の直後に続いているのは、偶然ではありません。
箴言30:7~9を読んでください。私たちが神に何かを願い求める前に、神と私たちの関係がしっかりしていることを確認することが重要です。もし私たちがうそをついているなら、私たちは、あらゆることを知っておられる神が、あたかも存在しておられないかのように振る舞っていることになります。だからこそ、私たちの罪の告白が赦しの前提条件です(Iヨハ1:9)。私たちは神をだませません。神は、私たちのありのままの姿をご覧になります。祈るとき、私たちは塵に伏す死者のように(哀3:29)ドラマチックにひれ伏すしぐさをします。このような行為は、私たちの畏敬の念と謙遜をあらわすとともに、神の前では自分が霊的に裸であるという自覚を示します。
箴言30:8において著者は、「貧しさも富も私に与え」(新改訳)ないでください、と神に願っています。聖書において、人間との関連で「与える」という動詞が最初に用いられているのは、神からの賜物である食べ物に言及している箇所においてです(創1:29)。ですから、多くの文化の中で、食べ物は伝統的に祈りと関係しています。この必需品は、私たちを創造主なる神に依存させ、祈りの体験を私たちの生存の中心に据えます。
二つの願いは、人間の品性のバランスを取ることを単に目指しているのではありません。いずれの願いも目指すところは一つ、神に栄光を帰すことです。私たちは、得るものが少なすぎれば、盗みを働いて神を侮辱する傾向があり、得るものが多すぎれば、神の必要を感じず、その存在すら否定しかねないからです。しかし、次の点は注目に値します。私たちが神から離れるのは、得るものが多すぎる状況だけであり、得るものが少なすぎる状況では、神との関係は保たれるであろうという点です。
「主の祈り」にも、同じ二重の関心事(考え)が含まれています。(1)「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」(マタ6:11)は、必要なものを必要なだけ備えてくださいということを、(2)「わたしたちを誘惑に遭わせず」(同6:13)は、私たちの必要を顧みてくださいということを含意しています。
高慢な者の行動
謙遜が好ましいことであり、祝福をもたらすように、謙遜を欠くことは危険であり、呪いをもたらします。箴言30章は、謙遜の報いと実を示すことでその美徳を奨励したあと、うぬぼれがもたらす危険について厳しく警告しています。
親を呪うこと(箴30:11、17)—著者のアグルは、この主題から始めています。なぜなら、子どもたちが自分の命の源を軽蔑するとき、それが最も深刻な高慢を象徴しているからです。そして意義深いことに、自分の親を敬い、祝福することが、命の約束に関係する唯一の掟であり(出20:12、エフェ6:2、3)、その違反には死刑が規定されています(出21:15、17)。
独善(箴30:12、20)—自分を正しいと考える罪人の状態は深刻です。というのも、彼らは、自分が清く、赦しを必要としていないと信じており、罪にとどまり続けるからです。これが、赦しを得るために罪の告白が不可欠だ(Iヨハ1:9)という理由です。(貧しく、目が見えず、裸であることに気づかず、)自分は富んでいて、知恵があり、良い身なりをしていると言い張るラオディキアの教会員たちは、彼らの惨めな状態を改善するための手段を神から得なさい、と勧告されています。
「ここに、霊的な知識と強みを有することを誇る人が描かれています。彼らは自分が受けるに値しない祝福を、神が与えてくださっても応答しません。反抗心と忘恩に満ち、神を忘れています。それでも神は、まるで寛大な父親が恩知らずで強情な息子に接するように、彼らにお接しになりました。彼らは神の恵みを拒み、特権を乱用し、機会を軽んじ、嘆かわしい忘恩と、うわべだけの形式主義と、偽善的で不誠実な状態に満足してきました」(『信仰と行い』96ページ)。
軽蔑(箴30:13、14)—高慢な者を描いた絵は、醜いものです。彼らは誇らしげな顔つきをしていますが、彼らの高慢は顔にとどまりません。それは、彼らが自分より劣っていると思う人たちに見せる軽蔑の中にあらわれます。「歯」や「牙」といった比喩は(箴30:14)、彼らの行動がいかに悪いものであるかを示しています。
自然からの教え
聖書全体を通じて、霊的真理を教えるために自然から採った比喩が用いられています。ここでも自然を用いることで、「箴言」は謙遜に関する教訓を私たちに教えています。
問5
箴言30:18、19を読んでください。人間の理解力の限界について、ここでもどのようなことが言われていますか。
アグルは、多くの「ありふれた」ものの中にさえ不思議を見ています。彼がここで挙げている不思議は、実に興味深い組み合わせです。最初の二つは動物に関するもので、音もなく空を飛ぶ鷲と音もなく地を這う蛇。アグルは次に、人間に関係する二つに目を転じます。海を行く船と女に向かう男です。今日でさえ、あらゆる科学的知識をもってしても、多くの不思議が残っています。私たちが命の深さと偉大さに対する感謝を失わないことは、なんと重要でしょうか。そのような態度は、私たちが神の前にいつも謙虚でいるための助けとなります。
問6
箴言30:24~28を読んでください。自然の中のほかの不思議で、著者の注意を引き、彼に畏怖の念を起こさせているものは、何ですか。
直前の聖句(箴30:20~23)が人間の愚かさ、高慢、不道徳を取り上げているのは、興味深いことです。著者は次に、動物の世界に目を転じます。彼は小さくて控えめな生き物を挙げていますが、その動物たちに対して、人間(同3:13)や神(ヨブ12:13、詩編104:24)に対して用いられているのと同じヘブライ語(「賢い」に相当する言葉)を使っています。今日でさえ、科学におけるあらゆる進歩をもってしても、彼らの行動の仕方を私たちは十分に理解しきれていません。ですから、動物たちの行動は、当時の賢者であったこの人をはるかに当惑させたに違いありません。しかし、彼は本当に賢かったのです。なぜなら、知恵があることの最大のしるしの一つは、ありふれたものに関してでさえ、私たちはほとんどわかっていない、と認めることだからです。
さらなる研究
「われわれは神のみ言葉を敬うべきである。聖書に対して崇敬の念を示し、これを凡俗のことに用いたり、不注意に取り扱ったりしてはならない。聖句を冗談に引用したり、気のきいた言い方を強調するために言い換えたりしてはならない。『神の言葉はみな真実である』『主のことばは清き言葉である。地に設けた炉で練り、七たびきよめた銀のようである』とある」(『教育』288ページ)。
「山の上で、キリストが民に語られた最初の言葉は祝福の言葉であった。自分の霊的な貧しさを認めて、あがないの必要を感ずる者はさいわいであるとイエスは言われた。福音は、貧しい人たちに宣べ伝えられるのである。福音は、霊的に高慢な人たち、すなわち自分は富んでいる、何も必要なものはないと主張する人たちに示されないで、へりくだり、くだけた心を持っている人たちに示される。……
自分自身の弱さを自覚し、すべてのうぬぼれを取り去って、自分自身を神の支配にまかせるまでは、主は、その人の回復のために何もすることがおできにならない。自分自身を神にまかせるときに、彼は、神が与えようと待っておられる賜物を受けることができる。必要を感じている魂にはどんなものも与えられないものはない」(『希望への光』821ページ、『各時代の希望』中巻3、4ページ)。
第13課 女と酒
第13課 女と酒
「箴言」は、父親に関する教えで始まり(箴1:1、8、4:1)、母親に関する教えで終わっています(同31:1)。「レムエル」という名前は、ソロモンを指しているのかも知れません。もしそうであれば、レムエルの母親はソロモンの母親であり、その彼女が自分の息子に、王にとっての二つの深刻な脅威(酒と女)を警告していることになります。
酒と女が結びつけられているのは意図的です。有能な統治者であるために、王は、自分が受ける影響に対して注意深くあらねばなりません。そして、これら二つの要素は、強い影響を及ぼします。心正しい女は益をもたらすでしょうが、酒がもたらすのは問題だけです。
父親の諭しが記されている序論は、霊的な知恵の獲得に関係していました。そして、母親の諭しが記されているこの結論部分は、知恵を実生活に適用することに関係しています。父親によって教えられた霊的原則は、もしそのあとに母親によって与えられる実際的な助言が続かなければ、意味を成さないからです。
「命」に乾杯
多くの文化において、酒を飲むことは命と関連づけられています。人々は乾杯の際に互いの長寿を祈りますが、皮肉なことに、どの杯も命を破壊するように働きます。すてきなデザインの瓶、詩的で愉快な酒宴の歌、巧妙な宣伝広告、さらには「科学的な」研究成果さえもが、酒は体に良い、と考える酒飲みたちを元気づけています。しかし「箴言」は、この致命的な欺きをすでに警告していました(箴23:30~35)。この主題が再度ここで取り上げられ、飲酒がもたらすさらなる害が示されています。
問1
箴言31:4、5、8、9を読んでください。これらの聖句は、どのようなことを述べていますか。そのメッセージは、王に限らず、主に従うすべての者に、いかに適用したらよいのでしょうか。
同じような言い回しで、ヨブは自分について、「わたしは見えない人の目とな
り/歩けない人の足となった」(ヨブ29:15)と記しています。同様に、王や裕福な人は、貧しい人たちや困っている人たち—だれも訴えを聞いてくれないので、発言力のない「ものを言えない人たち」—を助ける必要があります。
酒の破壊的な影響は、人の判断をたやすくゆがめてしまうことの中にも見られます。酒は一般人にとっても良くありませんが、王や権力者の場合には、悲惨な状況を生み出すことがあります。酒飲みの王は「おきてを忘れ」(箴31:5、口語訳)、何が正しいかわからないばかりか、その結果としてゆがんだ裁きを下すからです。つまり、有罪の者が無罪とされ、無罪の者が有罪とされてしまうということです。
ここで危機的状況にあるのは、善と悪、正と邪を見分ける能力です。飲酒の禁止は基本的な知恵と関係しており、そのような知恵として、すべての人に適用されるでしょう。また、「聖と俗……を区別する」(レビ10:10)祭司の飲酒が特に禁じられている理由がまさにこのような懸念であることは、注目に値します。
「死」に乾杯
問2
箴言31:6、7を読んでください。私たちはこれらの聖句を、どのように理解すべきですか。
これらの聖句をざっと読むと、レムエルの母親は、死にかかっている者(6節、口語訳)や鬱病で苦しむ者(7節)が酒を飲むことを認めているかのような印象を受けます。しかし、そのような読み方は直近の文脈(レムエルの母親が王に飲酒を警告していること)と矛盾するだけなく、飲酒を意図的に強く禁じている「箴言」全体の文脈とも矛盾します。
加えて、滅びようとしている者に彼らの健康や幸福を損なうしかないものを与えるというのは、つじつまが合いません。それに、鬱状態の人に酒を与えるというのは、すでに脱水状態の人に塩を与えるようなものです。知ってのとおり、もし神が私たちの体や健康を気にかけておられるのなら、これらの聖句が酒の使用を勧めていると理解するのは、特に文脈からして、筋が通りません。
さらに重要なことに、「箴言」において「滅びようとしている者」(口語訳)という表現の使われ方を分析してみると、この動詞が「神に逆らう者(悪しき者)」にいつも結びつけられていることがわかります(箴10:28、11:7、10、21:28、28:28)。レムエルの母親は「滅びようとしている者」という表現によって、実のところ、「神に逆らう者」を指しています。「苦い思いを抱く者」(同31:6)という表現に関してはどうかというと、これは、神に逆らう者たちのように無感覚になり、貧しさを「忘れ(る)」(同31:7)鬱状態の人を指しています。
「サタンは堕落した天使たちを集め、人類に最も悪影響を及ぼす方法を考案した。次々に提案がなされ、最終的にサタン自身が一つの計画を思いついた。彼は、神が食物としてお与えになったぶどうの実や麦などを使って、それらを、人間の肉体的、精神的、道徳的力を失わせ、サタンが完全に支配すべき感覚を無力にする毒に変えることにしたのである。酒の影響によって、人はあらゆる種類の犯罪を行うようになり、ゆがんだ食欲によって世界は堕落するだろう。酒を飲むように人間を仕向けることで、サタンは、彼らがますます堕ちて行くようにするのである」(『節制』12ページ、英文)。
有能な女
「有能な妻を見いだすのは誰か。真珠よりはるかに貴い妻を」(箴31:10)。
この聖句の「有能な妻」とは、どのような人のことでしょうか。いくつかの手がかりからすると、著者は、信心深い女や理想的な女以上のものを考えているようです。「箴言」の中の多くの聖句に従えば(箴1:20~30、3:13~20、4:5~9、8章)、「有能な妻」が知恵を意味していると考えるのに十分な理由が得られます。知恵が女として擬人化されているという理解は、「知恵」に相当するヘブライ語「ホフマー」が女性名詞であるという理由だけでなく、このヘブライ人の著者がそれ(知恵)から、私たちの日常生活のためのさまざまな具体的教訓を引き出していることからも裏づけられます。知恵は、高貴で手の届かない理想の女としてではなく、極めて日常的で親しみやすい女として描かれています。知恵に関するこの最後の教えは、哀歌や多くの詩編と同様、各行の初めの文字がヘブライ語のアルファベット順になっています。
問3
箴言8章と「有能な妻」に関するこの箇所を、比較してみてください。「有能な妻」のどんな特徴が、「箴言」における知恵を思い起こさせますか。
①彼女は貴重で、探し出すだけの価値がある(箴31:10、8:35)。
②彼女の価値は真珠や金にまさる(同31:10、8:10、11、18、19)。
③彼女は食べ物を提供する(同31:14、8:19)。
④彼女は強い(同31:17、25、8:14)。
⑤彼女は賢い(同31:26、8:1)。
⑥彼女は称賛される(同31:28、8:34)。
私たちは、いわゆる「情報化時代」に生きており、これまでの世代よりも多くの知識を持っていますが、私たちの世代のほうが彼らよりも賢いことを示すものは、ほとんどありません。まさに、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアが、「ミサイルは正しく誘導され、人間は誤った方向に誘導されてきた」と言ったとおりです。
彼女は働く
箴言31章の有能な妻は、怠惰ではありません。彼女はよく働き、とても行動的です。「箴言」は、愚かな者とは対照的に(箴6:6、24:33、34)賢い者を特徴づけるこの資質を強調しています(同31:27)。有能な妻の活動の舞台は幅広く、しかも具体的です。霊的であるというのは、極めて重要な宗教的問題に関わっているので、「ごく小さなこと」に対処する時間などないといったもっともらしい理屈の下(ルカ16:10参照)、私たちが怠惰でいることを意味しません。この妻は、「手ずから望みどおりのものに仕立て」(箴31:13)ます。興味深いことに、この極めて霊的な女性は、祈っているところや瞑想しているところを描かれていません。彼女は、福音書に出てくるマルタのように(ルカ10:38~40)、手際が良く、生産的な女性として描かれています。
問4
箴言31:12、15、18を読んでください。この妻はなぜ、常に働いているのですか。
この妻は「生涯の日々」、夜間でさえも働きます。彼女が油断なく、行動的でいることは、常に効果的です。彼女が絶えず気を配る理由は、それが彼女の責任だからです。
問5
箴言31:20、25を読んでください。この妻の働きは、どれくらいの時間的範囲に及んでいますか。
私たちはここで、私たちの働きや努力に関する重要な点に触れます。私たちの働きや努力は時間によって試されるでしょう。未来だけが、私たちの行動の質を証明するでしょう。賢く働くというのは、未来を念頭に置いて働くことであり、目先の報いのためだけに働くことではありません。
同じことを扱っているわけではありませんが、黙示録の次の聖句の中にある原則は、とても大切です—「『書き記せ。「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」と。』“霊”も言う。『然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである』」(黙14:13)。
彼女は心を配る
問6
箴言31:26~31を読んでください。この妻には、ほかにどのような特徴が見られますか。それらの特徴は、私たちが何者であるかにかかわらず、私たちにとってなぜ重要なのですか。
このシリーズずっと見てきたように、ここでも言葉(私たちが口にする言葉)が重視されています。この妻は、その知恵と親切で知られています。両者は関連があります。結局のところ、親切というのは知恵が形を変えたものだ、と言えるのではないでしょうか。とりわけ私たちが、知恵というのは単に私たちの知っていることではなく、私たちが言ったり、行ったりすることだと理解するときに、そう言えます。
「慈しみの教え」(箴31:26)という言葉にも注目してください。つまり親切とは、時折彼女の口から漏れるはかないものではありません。それは教えであり、彼女が存在するうえでの原則です。もし「慈しみの教え」が私たちの口から漏れるあらゆる言葉を導くなら、それはどれほど効果を発揮することでしょうか。
問7
箴言31:30を読んでください。重要であるにもかかわらず、しばしば忘れ去られているどのような点が、ここで示されていますか。
あまりにもしばしば、女性たちは外見だけで評価されています。外見は、薄っぺらで表面的な指標にすぎません。聖書は、そのような態度が最終的にどれほど「空しい」かを指摘しています。この妻の真の美しさは、彼女の品性の中や、またその品性のあらわれ方の中に見られます。美しさは消え去りますが、品性は永遠に持続します。「人々の間における偉大な名声は、砂の上に書かれた文字のようなものだが、汚れなき品性は、永遠にわたって持続する」(『神の驚くべき恵み』81ページ、英文)。
さらなる研究
「酒に対する欲求を満たし、その興奮性の刺激を受けて理性は曇り、彼ら[ナダブとアビフ]は聖なるものと普通のものの区別ができなかった。神の明瞭な指示に反して、彼らは聖なる火の代わりに普通の火をささげることで神を侮辱した。神は彼らに怒りをもたらし、御前から出た火でふたりを滅ぼされた」(『教会へのあかし』第3巻295ページ、英文)。
「少年少女たちは、神が日々の勤労者の働きをどんなにとうとんでおいでになるかを、聖書から学ぶ必要がある。……『箴言』の中に描かれている賢い婦人すなわち『羊の毛や亜麻を求めて、手ずから望みのように、それを仕上げ』『家の者の食べ物を備え、その女たちに日用の分を与え』『ぶどう畑をつくり、……その腕を強く』し、『手を貧しい者に開き、乏しい人に手をさしのべ』『家の事をよくかえりみ、怠りのかてを食べることをしない』婦人について書かれていることを読んでいただきたい」(『教育』257、258ページ)。