この記事のテーマ
真の偉大さはイエスに倣って奉仕と謙そんの道を歩むことにあります。大部分の人にとっては、偉大さとは富や名誉、権力を蓄えることを意味します。そのような人にとって、他人の「足を洗う」ことは最大の屈辱でしょう。イエスはここで、人間の常識に反するようなことをされます。
この13章から、ヨハネの福音書の調子が変わります。イエスは公衆伝道を中止し、名もない場所に退き、そこで長時間にわたって、静かに弟子たちを教えられます。
今回と次回は、ヨハネ13章から17章に記された「二階広間の経験」について学びます。書面に制限があるので、ここでは福音書の順序からそれます。今回の研究では、特に洗足(13章)と祈り(17章)について学びます。来週は、聖霊の約束(14~16章)について学びます。
洗足式(ヨハネ13:1―11)
イエスは父のみもとに行くべき時が来たことを知り、自分の者たちを最後まで愛し通されました。イエスは最後に弟子たちに何をされましたか。ヨハ13:1~5
祭りに参加する前に身を清めることは新約聖書時代の慣習でした。いちど身を清めておけば、祭りの場で改めて清める必要はありませんでした。ただ足を洗うだけで済みました。足を洗うことは、来客が他人の家に入る前に足を洗うときの儀式のようなものでした。しかし、ここで行われていることはそれよりもはるかに重要な意味を持つ行為でした。
ペトロは初め洗ってもらうのを拒み、イエスから「わたしが足を洗わないなら関わりがなくなる」と言われて、今度は「足だけでなく手も頭も」と頼みます。イエスは何と答えられましたか。ヨハ13:6~10
全身の清めは、人が信仰生活の初めに受ける完全な清めを象徴しています(バプテスマ)。一方、洗足式は、クリスチャンが罪の世と日ごとに接触することから来る汚れから絶えず清められる必要のあることの象徴です。古代世界においては、足は絶えず地面と接触する部分なので、つねに清潔にしておく必要がありました。
このイエスの模範が教えていることは、クリスチャンとしての私たちの日ごとの失敗も、初めの清め〔バプテスマ〕を無効にしないということです。つまり、失敗を犯すたびにバプテスマを受け直したり、初めからやり直したりする必要がないのです。いちど身を清めた人は足を洗うだけでよいのです。自分からわき道にそれない限り安全です(ヨハ10:27~29参照)。
弟子たちの足を洗っておられるイエスの姿は、バプテスマ後に犯した罪を赦してくださるイエスを象徴しています。互いに足を洗い合う弟子たちの姿は、イエスの御心である愛の一致を脅かす日ごとの罪や怒りを喜んで赦す私たちを象徴しています(ヨハ13:34、35参照)。
真の偉大さ(ヨハネ13:12―17)
イエスが弟子たちの足を洗われたのは、ほかにどんな目的があったためですか。ヨハ13:12~17
真の偉大さは、宇宙の王が部屋の隅に行き、手ぬぐいと洗面器を取り、腰をかがめて、ペトロのような落ち着きのない弟子やユダのような裏切り者の足を洗うことにあります。真の偉大さは、自慢したり、宣伝したりする必要がありません。自制を働かせ、しもべの役割を担うことは真の偉大さを必要とします。他人から笑われ、軽蔑される時にも正しいことをすることは真の偉大さを必要とします。
真の偉大さは、「神の身分でありながら……僕の身分になり……へりくだって……従順」(フィリ2:6~8)であられたイエスのようになることにあります。真の偉大さは「互いに相手を自分よりも優れた者と考え」ることです(3節)。真の偉大さはイエスに倣って奉仕と謙遜の道に歩むことです。
対照的に、自分の都合や利益を第一にすることは偽りの偉大さを追い求めることです。軽べつ、批判、不平にみちた態度は真の謙遜と偉大さに逆らう行為です。他人をけなすことは自分の優位を誇ることです。人を自分よりも優れた者と考えることは、自分を高め、励まし、賞賛することです。
身を低くして僕として仕えられたイエスの姿を見つめることの重要性についてどのように述べられていますか。ヨハ13:12~17、Ⅱコリ3:18
「偉大さ」を誤解したユダ(ヨハネ13:18―30)
イエスが裏切りを予告されたのは、イエスがどういう方であると弟子たちが信じるためでしたか。ヨハ13:18、19
弟子のひとりが裏切ることを考えられて、イエスは心を騒がせられました。それはどんな気持ちだったのでしょうか。ヨハ13:21~26
「弟子たちはユダの意図について何も知らなかった。彼の秘密を見ぬくことがおできになったのはイエスだけだった。しかし主はユダを暴露されなかった。イエスは彼の魂を求めておられた。主は、滅ぶべき都エルサレムについて泣かれたときこの都に対して感じられたような重荷を、ユダに対して感じておられた。主は、どうしておまえをあきらめることができようと、心の中で泣いておられた」(『各時代の希望』下巻120ページ)。ユダの考えていた「偉大さ」は、キリストが洗足式を通してお示しになった偉大さとは別のものでした。この時点においては、ユダは自分自身をキリストよりも賢いと考えていました。偉大さが権力、富、名声から来ることはだれの目にも明らかでした。しかし、ユダの方針は自らの破滅をもたらしただけでした。
「新しい王国で高い地位につけるという見込みから、ユダはキリストのみわざを支持するようになった。……キリストを無理やりにおしたてて王にしようとする計画に乗り出したのは彼だった。……自分は新しい王国でキリストに次ぐ最高の位を獲得するであろう」(『各時代の希望』下巻218、219、222ページ)。
偉大なように振舞ったり、偉大な者として扱うように命令したりすることはだれにでもできます。その機会さえあれば、金を使い、人に命令することはだれにでもできます。ユダはこのことを理解していませんでした。真の偉大さは、しもべとなって、率先して人のために奉仕することにあります。真の偉大さは、人を第一とすること、人を自分よりも優遇することにあります。
イエスの祈り(ヨハネ17:1―19)
イエスは弟子たちに最後に語り終えて、天を見上げて祈られました。イエスはここでだれのために祈っておられますか。ヨハ17:1~19
イエスと弟子たちの送別会(ヨハ13章~17章)は、3部からなる執り成しの祈りをもって終わりに近づきます。まず、ヨハネ17:1~5で、イエスは御自分のために祈っておられます。次に、6~19節では、弟子たちのために祈っておられます。イエスが去られた後、彼らには支えが必要でした(第3部については明日、学びます)。
イエスの祈りの第一の目的は、地上で父なる神の栄光を現す力を受けることです(ヨハ17:1~5)。この働きは十字架において完成されます。イエスの十字架と死において現された品性以上に神の品性をはっきりと現すものはほかにありません。しかし、イエスはこの働きを完成する力を求められます。それは、御自分と父なる神のためばかりでなく、御自身を信じるすべての人のためです。イエスと父なる神が十字架において栄光を受けられるとき、イエスとつながっている者たちに永遠の命が与えられます(2、3節)。このように、御自分のための祈りであっても、イエスは父なる神の栄光と人々の祝福のために祈っておられます。
次に、イエスは弟子たちのために祈られます。彼らは間もなくイエスの臨在なしに生きることを学ばねばなりませんでした。イエスは世のためでなく、世と関係を断った人々のために祈られます(9節)。イエスは御自分の弟子たちのために祈られます。イエスが去った後も、彼らは世に残り、世の悪意の対象になるからです。ヨハネ13章と同様、イエスの関心は御自分の十字架にではなく、御自分が去った後の弟子たちの身の上にありました。
「信じる人々のためにも」(ヨハネ17:20―26)
イエスは共に過ごした弟子たちのために祈られた後、ほかにだれのために祈っておられますか。ヨハ17:20
イエスは、弟子たちと第二世代のクリスチャンが共にどんな経験にあずかるように祈っておられますか。ヨハ17:21~24
イエスはその祈りの最後の部分で、第二世代のクリスチャンに心を向けておられます。この第二世代のクリスチャンには、イエスと直接会ったことのないすべてのクリスチャンが含まれます。
イエスの祈り求められる愛が教会に一致をもたらすとき、世界はイエスこそ父なる神の品性を地上に現されたお方であると認めるようになります(ヨハ13:34、35参照)。しかし、もし教会が分裂して争っているなら、世界は決してキリストに引きつけられることはないでしょう。
イエスの祈りの中に、祈りが答えられない理由が示されています。教会が一致する上で必要なものはすべて備えられています。しかし、教会に見られる明らかな不一致は、イエスの祈りでさえ、かたくなで利己的な人間の思いによって妨害されることを教えています。もし神の民さえ喜んで神の御心に従うなら、神は教会に多くのことをさせようと望んでおられます。
イエスはまたこの章の中で、御自分の弟子たちと私たちのために祈っておられます。イエスは地上の働きに全力を尽くされましたが、同時に他者のために祈ることに大いなる価値を認められました。他者のために祈ることはほかの方法では決してできないことをこの世に成し遂げます。
しかし、大部分のクリスチャンにとって、他人のために祈ることはなかなか難しいものです。そこで、祈るための時間を決めておくことは役に立ちます。長くなりすぎない限り、祈りのリストを作ることも役に立ちます。最も良いのは、困難を感じたときに互いに励まし合うことができるように、祈りの友だちやグループを作ることです。これによって祈りの生活に一定の責任が生まれます。
まとめ
ヨハネの福音書以外に記されている「告別説教」を読んでください(創47:29~49:33、申命記全体、ヨシュ23、24章、歴代上28、29章、使20:17~38、Ⅱテモ3:1~4:8)。これらの講話に共通している要素は何でしょうか。イエスはヨハネ13~17章においてどの程度、共通の文学的手法に従っておられますか。逆に、どんな点で先の模範からそれていますか。もしあなたが聖書の模範に従って自分の家族や友人に告別説教をするとしたら、どのように語りますか。
イエスはヨハネ17章で、父なる神の「栄光を現す」ことと御自身が栄光を受けることについて語っておられます(ヨハ17:1、4、5)。この栄光についての思想はヨハネの福音書の中心的なテーマです(ヨハ1:14、2:11、7:18、8:50、12:23、24、14:13、15:8、21:19。「栄光」の代わりに「栄誉」という言葉を用いている翻訳者もいます)。これはまた黙示録にある第一天使のメッセージの重要な要素です(黙14:6、7)。これらの聖句は栄光についてどんなことを教えていますか。それはあなたの生き方とどんな関係がありますか。私たちはどうしたら毎日の生活の中で神の「栄光を現す」ことができますか。
ヨハネ13:1は「愛し」を2回使って、主が最後まで弟子達を愛されたことを強調しています。主が彼らの足を洗われたことがその具体的な証明でした。弟子の中にユダがいました。主はユダのことを最後まで愛しておられました(日曜日と火曜日の学び参照)。それにもかかわらずユダはイエスを信じませんでした。ユダの存在は、人が救われない時、その責任が神にはないことの証しです。主は常に人を愛し、最後まで人に仕えられます。ここに真の偉大さが示されています。また、イエスの告別説教が祈り(ヨハ17章)であったことは大切なことを教えています。パウロの手紙もいつも祈りで終わっています。信仰者は愛する者を神にゆだねることができるのです。そしてガイドの著者は、私たちの最後について考えさせようとしています。私たちは愛する者と別れなければならない時、どんな言葉を残すでしょうか。ここで個人的な経験を書くことをお許しください。ガイドの著者であるポーリーン先生が、帰国する私に下さった言葉を紹介させて頂きたいと思います。「日本にいる私たちの民の中で、神の言葉が生きた存在となるためなら、どんなことでもしなさい」。
*本記事は、安息日学校ガイド2004年1期『ヨハネ 愛された福音書』からの抜粋です。