【ヨハネによる福音書】復活の力【20ー21章解説】#13

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復活の力は現実のものです。ヨハネ20章はヨハネの福音書に関して非常に重要なことを教えています。確かに、十字架上のイエスの死によって、イエスの生涯は「終わった」と言えます(ヨハ19:30参照)。

しかし、ある意味で、それはまだ終わっていません。もしイエスが墓の中にとどまったままなら、キリスト教会は生まれなかったでしょう。イエスの復活は確かな敗北を勝利に変えました。復活は天地創造や出エジプトと同様、神の力ある御業の一つです。

新約聖書は11回にわたって、復活後のイエスの出現について記しています。そのうちの4回がヨハネ20章と21章に記されています。しかも、そのうちの3回がヨハネ20章に記されています(ヨハ20:10~18、19~23、24~29)。ここで最も重要なメッセージは、真の信仰が、イエス御自身からであれ弟子たちのあかしを通してであれ、見たり触れたりすることからではなく、イエスの御言葉を信じることから来るということです。このことはヨハネの福音書全体を通して言えることです。

イエスが葬られた墓で(ヨハネ20:1―18)

イエスの復活を目撃した人が多いということは、復活の記事が面子を立てるために弟子たちによって作られたのではないという確証を与えてくれます。これらの目撃者が生きている間は、彼らの証言を比較・検討することができました(ルカ1:1~4)。

しかしながら、第二世代のクリスチャンにとっては、空になった墓がイエスの復活についての最大の証拠でした。空の墓はこの福音書の重要な特徴の一つです。事実、状況から考えても、墓が空であるということは、イエスが復活しない限り理解できないことです。敵が来て、イエスの遺体を墓から取り去ったのでしょうか。弟子たちが復活をでっち上げるためにイエスの遺体を盗み出したのでしょうか。明日の研究では、これらの筋書きがどれも意味をなさないことを学びます。空になった墓についての最良の説明は(復活の可能性を頭から否定しない限り)、イエスが実際に死者の中から復活されたということです。

空になった墓を見に行ったふたりの弟子は、キリストがよみがえることを述べたことばを理解していましたか。ヨハ20:3~10

マグダラのマリアはどうして前にいるかたがイエスだとわかりましたか。ヨハ20:10~16

次世代のクリスチャンにとって、イエスとマリアとの間の会話は大切なことを教えてくれます。マリアはイエスと共にいたのに、その目が涙で曇っていたので、イエスを識別することができませんでした。イエスの言葉に心を向けるまでは、イエスの臨在は何の役にも立ちませんでした。私たちはヨハネの福音書を通して同じイエスの言葉を与えられています。

二階の広間で(ヨハネ20:19―29)

戸をしめた部屋にいた弟子たちにイエスが現れたとき、トマスはそこにいませんでした。そのことを聞いた時、トマスはイエスの復活を信じましたか。ヨハ20:24、2

第一世代のクリスチャンは、空になった墓とマリアのあかしという証拠があったにもかかわらず、なかなか信じようとしませんでした。彼らはみな、自分の目でイエスを見るまでは、イエスの復活を信じることができませんでした。最初にイエスを見ないで信じたのは、愛された弟子ヨハネだけでした(ヨハ20:8)。第二世代のクリスチャンが持たねばならないのはこのような信仰です。それはイエスの喜ばれる信仰です。

イエスはどのように信じる者はさいわいだと言われましたか。ヨハ21:29

イエスの墓はどのようにして空になったのでしょうか。明らかに、イエスの敵にとって、イエスの遺体を墓から取り去る理由はありませんでした。仮に取り去ったのなら、なぜイエスの遺体を用いてイエスの復活に反論しなかったのでしょうか。

同様に、弟子たちにはイエスの遺体を盗み出す能力も意図もありませんでした。実際のところ、弟子たちはイエスが死なれるとは思ってもみませんでした。イエスが繰り返し、御自身が死ぬと言っておられたにもかかわらず、です。仮に、弟子たちがイエスの遺体を盗み出したとすれば、その後の彼らの行動は全く説明できなくなります。実際になかったことのために〔つまり、イエスが復活していなかったなら〕、喜んで嘲笑され、拷問を受け、殺される者がいるでしょうか。

主はこのようにして、聖書の明らかなあかしのほかに、キリストの復活を信じる助けになる合理的・歴史的証拠を与えてくださいました。もしイエスが死者の中から復活されたとすれば、ほかのいかなる奇跡も不可能ではなくなります。私たちの祈りは、もし神の御心にかなうものなら、実現します。私たち自身の復活もイエスの復活によって保証されています。イエスを死者の中から復活させたのと同じ神の力が、どんなに絶望的な状況にある人にも命といやしを与えてくれます。

イエスの復活の力(ヨハネ2:22、7:37―39、12:16)

「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、……何とかして死者の中からの復活に達したいのです」(フィリ3:10、11)。パウロはフィリピの信徒にこのように書き送っています。イエスの復活は人類の歴史において最も驚くべき出来事でした。人間のどんな科学や技術をもってしても、死者を生き返らすことはできません。もし死者を生き返らす力を持った人がいたなら、彼は人間のどんな必要でも満たすことができるでしょう。

イエスが死者の中から復活されたという新約聖書のあかしは、キリスト教信仰の中心です。イエスの復活の力はこれまで、クリスチャンの人生における力ある神の御業の基礎でした(Ⅱコリ5:14~17)。復活の力はまた、今日のクリスチャンの人生における限りない力の基礎です。それなのに、今日の多くの教会にこれらの「限りない力」が見られないのはなぜでしょうか。今日の世界に力ある神の御業が見られないのはなぜでしょうか。

旧約聖書の重要なテーマの一つは、思い出すことと忘れることです。イスラエルの民は、過去における神の力ある御業を忘れたときに、神の力と臨在を失い、神の御業を思い出したときに、もとの活気を取り戻すことができました。事実、旧約聖書の霊的生命は、過去の歴史における神の力ある御業を数え直す(思い起こす)ことから来ていました。

イスラエルの民はどのような神のみわざを思い起こして力を得ましたか。申命26:7~9

実際のところ、イスラエルの民が過去における神の力ある御業について語ったとき、彼らは再び初めの力を体験しています(歴代下20:1~30)。旧約聖書について言えることは新約聖書についても言えます。神の最も力ある御業は十字架と復活においてなされた御業です。キリストの御業について語ることには力があります。自分の信仰をあかしすることがクリスチャンの経験に欠かせないのはそのためです。神の力ある御業について語らないところには、力がありません。しかし、神がしてくださったことを語るときに、リバイバルと改革が与えられます。復活の力は形式的な宗教を生きた、力ある宗教に変えてくれます。

漁に出ていく弟子たち(ヨハネ21:1―14)

再び漁に出ていた弟子たちはイエスに出会い、その指示を受けて網をおろすと大漁でした。この出来事はどんな意味で、イエスの昇天後における弟子たちの働きを象徴していると言えますか。ヨハ21:1~11

ヨハネ21章はしばしば、第四福音書の結語として描かれています。結びの言葉のような聖句(ヨハ20:30、31)の後に来ているからです。ヨハネ21章は、イエスの復活後、弟子たちがどのようにしてガリラヤでイエスと出会ったかを描写しています。イエスは多くの魚を獲り(1~6節)、朝食を調え(7~14節)、浜辺でペトロと重要な会話を交わしておられます(15~23節)。

特にヨハネによる福音書から受ける印象は、イエスが復活後、しばしば、また不意にお現れになっているということです。マグダラのマリア、10人の弟子たち、トマス、そしてここに出てくる7人の弟子たちはみな、イエスの突然の出現に驚いています。実質的には、弟子たちに対するイエスの働きは二階の広間において終わっています(ヨハ13~17章)。記録を見る限り、イエスは復活後、弟子たちに多くのことを語っておられません。おそらく、イエスの出現の目的は、教えることよりも、むしろ御自分の復活の事実を確証することにあったと思われます。

イエスに招かれて弟子たちは浜辺でどのように過ごしましたか。ヨハ21:9~13

その日の朝食は静かなものでした(『各時代の希望』下巻352ページ参照)。弟子たちは二階広間での出来事以後のイエスの行動をどのように理解したらよいのかわかりませんでした。彼らはこの日、第二世代のクリスチャンが愛された弟子ヨハネの死に対して抱くであろう不安と同じ不安を感じていました。弟子たちは物理的にはイエスと共にいましたが、イエスの物理的な存在は彼らにとって何の力にもならなかったようです。きたるべき聖霊だけが不動の確信を与えてくださるのでした。聖霊は第一世代と第二世代のクリスチャンに同じ確信を与えてくださるのです。

ペトロの回復(ヨハネ21:15―23)

イエスがペトロに3度も同じ質問をされたのはどうしてだと思いますか。ヨハ21:15~17

ヨハネ21:15~17には、質問、回答、応答が三度繰り返されています。このようなイエスの態度はやや乱暴なように思われます。それは相当な苦痛をともなうもので、ペトロに深い内省を促す効果がありました。ペトロの過信は徐々に消えていきました。そして、イエスが自分の心を知り、公正に裁いてくださるという確信を持つに至りました。

苦痛、損失、貧困、苦悩などには、人を霊的に成長させてくれる何かがあります。ペトロの場合もそうですが、このような試練は時としてイエス御自身から来ます。イエスは愛に満ちた外科医のように、いやすために苦しみを与えられます。彼は性急な、表面的な答えでは満足されません。イエスは御自分の愛する者たちの真の思いや動機にまで関心を寄せられます。

ペトロの経験は、イエスとの関係には浮き沈みがあることを教えています。私たちが倒れるとき、イエスはどうするように求められるでしょうか。言動において過ちを犯したときにも、イエスから受け入れられていることはどのようにしてわかるでしょうか。

  1. 私たちの信じている神がどのようなお方であるかを知る。神は罪人を愛されるお方です!これは、罪が大した問題でないという意味ではなく、過去にどんな過ちを犯したとしても、今日やり直すことができるという意味です。あなたが最も失望しているときこそ、最も神の憐れみを求めることのできるときです!
  2. 自分自身について真実を告げる。聖書はこれを告白と呼んでいます。告白とは現実を直視し、神に正直に告げることです。告白は時として困難をともないます。人間の本性に反することだからです。しかし、真に十字架の意味を理解しているなら、告白することは告白しないことの苦しみに比べればはるかに楽です。
  3. 赦しを求める。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(Ⅰヨハ1:9)。
  4. 永遠に罪から離れる決心をする。魅力的な罪が多い中で、どうしたらそのようなことができるでしょうか。一つの方法は、罪を犯し続けることの結果をすべて書き出し、誘惑を感じるときにそれを黙読することです。

まとめ

「イエスは弟子たちに何度も、これから起こることを明らかにしようとされたが、彼らは主が言われたことを考えようとしなかった。このために主の死は、彼らにとって思いがけないこととしてやってきたのである。のちに彼らが過ぎこしかたを振り返って、自分たちの不信の結末を見たときに、悲しみで胸がいっぱいになった。キリストが十字架にかけられたとき、彼らは主がよみがえられるとは信じていなかった。主は、三日目によみがえるとはっきりお語りになっていたが、彼らは主の言われたことに当惑していた。この理解不足のために、彼らはキリストがなくなられた時、全く絶望状態になったのである。彼らはひどく失望していた。彼らの信仰は、彼らの視界をさえぎるようにサタンが投げかけた影のかなたを見透さなかった。彼らにはすべてがばく然としていて、不可解であった。もし弟子たちが救い主のみことばを信じていたならば、どんなにか悲しみも少なかったことであろう」(『患難から栄光へ』上巻18、19ページ)。

人々が「聖書とイエスの語られた言葉」(ヨハ2:22)によって主を信じることが、ヨハネによる福音書の目標でした。それは難しいことかもしれません。ヨハネでさえ「見て、信じた」のです(20:8)。彼も「イエスは……復活されることになっているという聖書の言葉を……まだ理解してい」ませんでした(20:9)。福音書は、弟子達が「聖書と主の言葉を思い出した」ことを記録しています(2:22、12:16)。これは「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」という主の言葉の成就でした(16:13)。今も同じ聖霊が働いています。自分のペースで聖書の言葉を自分のものにしましょう。人の証し、自分の経験は助けになりますが、一番大切なのは「聖書にこう書いてあるから私は信じます」という信仰です。

最後に一つお勧めします。イエスや聖書記者が旧約聖書を引用している際、その箇所を読んでみましょう。一見文脈を無視しているように思われるかもしれません。しかしそこに大切な真理が隠されています。もしわからなければ、解説書を読んだり、牧師に尋ねたり、また何より主にある兄弟姉妹と共に学んでみましょう。そうする時、私たちの信仰は確実に強められます。真理の霊が助けてくださるからです。

*本記事は、安息日学校ガイド2004年1期『ヨハネ 愛された福音書』からの抜粋です。

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