管理者の務めと環境【創世記―起源】#10

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私たちの住んでいる世界は創造主なる神、「天と地、海と水の源を創造した方」からの愛の贈り物です(黙14:7)。神は人間をこの被造物の中に、しかも意図的に神御自身、ほかの人々、そして周囲の世界との関係の中に置かれました。したがって、セブンスデー・アドベンチストにとって、この環境を保護し、養成することは神に対する私たちの奉仕と密接な関係にあります。

「人間の貧困と環境の荒廃は相互に関連しているため、私たちはすべての人の生活の質を向上させることを確約する。私たちの目標は人間の必要を満たす一方で、持続可能な方法で資源を開発することにある。……

私たちはこの誓約において神の被造物に対する私たちの管理責任を確認する。また、全面的な回復は神が万物を新しくされるときにのみ完成することを信じる」(『被造物への配慮—セブンスデー・アドベンチスト世界総会環境に関する声明』より抜粋)。

創造において与えられた支配

創世記1:26によれば、アダムの支配は海の、地の、空のほかのすべての被造物にまで及んでいます。支配することは、これらの生き物を統治し、その上に権限を持つことを含みます。言われているのは生き物に対する支配だけであって、自然の力に対する支配については何も言われていません。しかも、聖句によれば、この支配は全世界的なものでした。アダムは実質的に地上の支配者となるのでした。

問1

詩編8編を読んでください。神が人間に与えられた栄光に対して、ダビデは何と応答していますか。私たちが「栄光」と「威光」を与えられているとはどんな意味ですか。人間が地を支配する権限を与えられていることに照らして考えてください。

創世記2:19によれば、アダムの最初の仕事の一つは動物に名をつけることでした。聖書時代においては、名前は重要な意味を持っていました。人の名はその人の人格を、またしばしばその人の地位を表していました。鳥や獣に名をつける権限は、動物に対する支配者としてのアダムの地位を確証するものでした。

問2

創世記2:15を読んでください。ここに、管理者の務めに関する原則がどのように表されていますか。

アダムは園を世話する、つまりそれを管理し、その必要を満たす役割を与えられました。ここで「守る」と訳されているヘブライ語の語根、“シャーマール”は、しばしば「見守る」、「保護する」を意味します。園はアダムへの贈り物、神の愛の表れであって、アダムは今それを守る責任を与えられました。ここにも、アダムが創造のときに受けた支配権の実例を見ることができます。

ほかの生き物への配慮

問3

「森の生き物は、すべてわたしのもの山々に群がる獣も、わたしのもの」(詩編50:10)。この聖句は地球に対する私たちの管理責任についてどんなことを教えていますか。

問4

黙示録4:11を読んでください。この聖句は創造主によらない創造、つまり被造物が単なる偶然によって生じたとする無神論的概念とどのように根本的に対立しますか。

動物の創造は偶然でもなければ、あと知恵でもありませんでした。神は目的をもって動物を創造されました。動物が存在するのは神の意思であって、この原則が動物を扱うときの私たちの指針となるのでした(出23:5、12、箴12:10、ルカ14:5参照)。事実、動物に対する虐待とその苦痛に対する無関心は、広く人格障害の徴候と考えられています。動物愛護を推進するために多くの団体が組織されていますが、これは正しいことです。

しかしながら、同時に、人間は本質的に動物以上に重要ではないのだから、人間を優先的に扱うべきではないとまで主張する人たちがいます。多くの点で、これは理論的に進化論にもとづく人間起源説の流れから出ている思想です。結局のところ、もし人間と動物が時間と偶然によってのみ隔てられているのであれば、人間が他の動物より特別な存在だというのはおかしいではないか、と彼らは言います。ニワトリや魚でさえ、胎児や新生児と同じように「人格」を持っているのである、と主張する哲学者さえいます。どれほど滑稽に聞こえようとも、こうした考えは無神論的進化論にもとづく人間起源説から導き出される考えであって、しかも論理としても十分成り立つものです。

もちろん、こうした考えは聖書によって支持されるものではありません。動物とは異なり、人間は神の計画の中で特別な地位を与えられています(創3:21、出29:38、レビ11:3参照)。

安息日と環境

すでに見たように、管理者の務めという考え方はこの地球を管理する方法を意味するのであって、それは直接的に被造物と関わりがあります。創造に関する私たちの考えは、被造物に対して取るべき私たちの考えに影響を及ぼします。

ある人たちにとっては、被造物は自分自身の欲望や欠乏を満たすためなら必要なだけ搾取し、利用し、収奪すべきものです。対照的に、他の人たちにとっては、被造物は礼拝の対象そのものです(ロマ1:25参照)。このほかに、聖書の立場というものがあります。それは主が私たちのために造られた世界に対する私たちの関わり方について、バランスのとれた見方を与えてくれるものです。

問5

出エジプト記20:8~11を読んでください。この戒めの中に、管理者の務めがどのように教えられていますか。

「神が第7日安息日を聖別されたのは、御自分の創造行為と世界の確立を記憶し、また永遠に記念するためであった。この日に休息することによって、セブンスデー・アドベンチストは創造主や被造物との特別な意味での関係を強化する。安息日を守ることは、私たちが環境全体と一体となることの重要性を強調するものである」(『被造物への配慮—環境に関する声明』より抜粋)。

安息日は、神が私たちと私たちの住む世界を創造された事実を指し示しています。それはまた、私たちが他人や世界そのものに対して思いのままに振る舞うことのできる、完全に独立した生き物ではないことを絶えず思い起こさせます。安息日は、私たちが管理者であって、管理者の務めには責任が伴うことを教えています。十戒そのものの中に見られるように、この責任は私たちの「管理下」にいる人たちへの処遇の仕方にまで及ぶものです。

健康の管理者

今回、ここまで学んできたように、神の当初の被造物は「良い」もの、それも「極めて良い」ものでした。すべてのもの、すべての人は完全な状態で創造主の御手から出てきました。苦しみや病気、死は全くありませんでした。進化論が苦しみや病気、死を創造の手段そのものの一部と考えるのとは対照的に、これらのものは堕落後に、罪の侵入後に、初めて生じました。したがって、天地創造物語を背景にしてのみ、私たちは健康といやしについての聖書の教えを正しく理解することができます。

問6

コリントIの3:16、6:19、20を読んでください。私たちは自分の体を守ることに関して神にどんな責任を負っていますか。

私たちの体は私たちの頭脳の容れ物であって、聖霊は私たちの頭脳を通して私たちとお交わりになります。もし神と交わることを望むなら、私たちは自分の体と頭脳を守らなければなりません。自分の体を虐待する者は肉体的、精神的に自分自身を滅ぼすのです。これらの聖句によれば、健康の問題全般、また「神の神殿」である私たちの体をどのように守るかは道徳的な問題であって、永遠の結果をともなっています。

自分の健康を管理することは私たちの神との関係の重要な一部です。私たちの健康には、私たちの能力を超えた領域があることは確かです。私たちはみな劣性遺伝子を持ち、未知の化学物質や有害物質にさらされ、健康を損なうさまざまな物理的危険に囲まれています。神はこれらすべてをご存知です。しかし、能力のおよぶ範囲において、私たちは最善を尽くして、神にかたどって造られた自分の体を守るべきです。

「神を信じると言う者たちはだれひとり、体の健康に無関心であってはならない。彼らは、不節制は少しも罪でない、自分の霊性にも影響を与えないなどとうぬぼれてはならない。肉体的性質と道徳的性質との間には、密接な共感作用がある。徳性の標準は肉体的な習慣によって高くもなれば、低くもなる。……人体の組織に健康的な作用を促進しない習慣はすべて、より高く、より高尚な能力を低下させる」(エレン・G・ホワイト『レビュー・アンド・ヘラルド』1月25日、1881年、英文)。

管理者の務めの原則

問7

「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません」(ヤコ1:17)。この聖句は聖書に述べられている管理者の務めという考え方を理解する上でどんな助けになりますか。

私たちはしばしば、管理者の務めをお金と結びつけて考える傾向があります。しかしながら、今回の研究で学んだように、管理者の務めはそれよりもずっと広い意味を持ちます。お金であれ、環境問題であれ、私たち自身の健康であれ、良い管理者の務めには一定の原則が含まれます。この原則は創世記に描かれた天地創造に最終的な基礎を置いています。つまり、神は私たちの創造主であり、私たちの持ち物はすべて神からの賜物であるゆえに、私たちは自分に委ねられた一切のものに関して神の前に良い管理者である義務を負っています。

問8

マタイ25:14~30を読み、このたとえが良い管理者の働きに対して与えられる報酬をどのように例示しているか考えてください。このたとえは一般的な管理者の務めの原則について何を教えていますか。

「キリストは、その僕たちに、『自分の財産』、つまり神のために用いるべき何物かをお与えになる。キリストは、『それぞれ仕事を割り当てて』おられる。すべての者は、天の永遠の計画の中に自分の占めるべき場所があるのである。だれでも、魂を救うために、キリストと協力して働かなければならない。天の住居の中に、わたしたちの場所が確実に用意されているのと同じように、わたしたちがこの地上で神のために働くべき特別な場所が定められているのである」(『希望への光』1312ページ、『キリストの実物教訓』301ページ、一部改訳)。

さらなる研究

「キリストに従う者は、奉仕をするためにあがなわれた。主は、奉仕が人生の真の目的であることをお教えになった。キリストご自身が勤労者であられて、彼に従うすべての者に、神と人類に仕えるという奉仕の法則をお与えになる。ここで、キリストは、彼らが、これまで考えもしなかったところの人生に対する高尚な見方をお示しになった。他者への奉仕に生きることによって、人はキリストと一つに結ばれる。奉仕の法則が、わたしたちを神と同胞とに結びつける鎖となるのである」(『希望への光』1312ページ、『キリストの実物教訓』300ページ、一部改訳)。

*本記事は、安息日学校ガイド2013年1期『起源』からの抜粋です。

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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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