私たちの信仰の完成【ヤコブの手紙】#2

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ある歯科医が、なぜ彼のクラウン(人工歯冠)には非の打ちどころがないのかを説明して、こう言いました。「ほかの歯科医と違って、歯科技工所から戻って来るクラウンにまったく問題がないんです。私が完璧な型を取って送れば、彼らは完璧なクラウンを送り返してくれますから」。この歯科医は最終結果(仕上がり)を心配していません。彼は工程の最初の段階における自分の役割に心を注いでいます。

同様に私たちクリスチャンは、自分の品性が最終的に良いものとなるかどうかについて、すべてを行う必要はありません。それは神の働きだからです。私たちの役割は、「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめ(る)」ことによって、「信仰の戦いを立派に戦い抜(く)」(Iテモ6:12)ことです。キリストに対するそのような信仰のゆえに、主は私たちのうちに働いて「御心のままに望ませ、行わせ」(フィリ2:13)、御自分が始められた善い業を成し遂げることがおできになります(同1:6)。信仰がなければ、キリストにではなく、自分自身に集中するので、私たちは始める前にさえ敗北を感じる可能性があります。

イエスが言われたように、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」(ヨハ6:29)。これから見ていくように、ヤコブの手紙は、私たちがこの重要な霊的真理を理解できるように助けてくれるでしょう。

信仰は続く

ヤコブ1:2、3とIペトロ1:6、7を読んでください。苦しみが好きな人はいません。可能であれば、大抵、私たちは苦しみを避けます。ヤコブ1:3の「(信仰が)試される」という箇所で用いられているギリシア語は、「ドキミオン」です。この言葉は、何かが本物であることを証明する過程を指します。ペトロは私たちの信仰が試されること、つまり試練を、火で金を精錬する方法にたとえています。このように試されることは楽しくないかもしれませんが、神は良い結果を期待しておられます。私たちは試練に遭って落胆すべきではありません。というのも、私たちが忠実であり続けるならば、私たちは[試練を経て]「金のように出て来るであろう」(ヨブ23:10、口語訳、箴17:3と比較)からです。

それゆえ、試練が(とりわけ信仰に関する試練が)やって来るとき、私たちは喜ぶべきです。「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」(マタ5:12)と、イエスもおっしゃっています。試練はまた、イエスが私たちのために耐えられたことに対する私たちの感謝の気持ちを深めます。Iペトロ4:13が指摘しているように、試練によって私たちはキリストの苦しみを分かち合うこともできます。

要するに、私たちはそれぞれの試練の向こう側を見通し、神が意図しておられる結果を思い描く必要があります。試練は、信仰が活躍する場です。私たちは愛情あふれる神を信じ、彼の知恵に頼り、彼の御言葉に基づいて行動する必要があります。実際のところ、信仰を通してのみ、また、私たちが自ら神の愛を知り、その愛の光の中を信仰によって生きることを通してのみ、私たちは自分の試練を喜ぶことができるのかもしれません。

ヤコブ1:3において、私たちの信仰が試されることの最終目的は「忍耐」です。その原語(ギリシア語の「ヒュポモネー」)は、「我慢強さ」とか「粘り強さ」とか訳すこともできます。「ヒュポモネー」は、神の最終的な救いの確かさに自信をもって安んじているがゆえに(ルカ21:19参照)、他のあらゆるものよりも長く続くものを指します。

完全

ヤコブ1:2~4を読み、「信仰」「試されること」「忍耐」「完全」という順序に注目してください。ヤコブは信仰から始めています。なぜなら、信仰があらゆる真のクリスチャンの基礎だからです。次に彼は、私たちの信仰が本物であることを試すために試練が必要だ、と言っています。そして、ヤコブは最後に、試練が私たちに忍耐を教えることができ、結果的に私たちは驚きに捕らわれたり、試練や驚きに圧倒されたりしなくなるとはっきり述べています。私たちに対する神の目的は、私たちが「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人にな(る)」(ヤコ1:4)ことです。これ以上の言葉はありません。「申し分なく」(ギリシア語の「ホロクレーロス」)という言葉が、あらゆる面でそろっている(十分である、健康である)ことを指すのに対して、「完全」(ギリシア語の「テレイオス」)という言葉は、霊的成熟を意味します。実際、私たちが自己への執着を断ち切り、主が私たちの「内に働いて、御心のままに望ませ、行わせ」(フィリ2:13)るのを許すならば、私たちは主にあって、より完全で成熟したものとなることができます。

エフェソ4:13とフィリピ3:12~15を読んでください。パウロと同様、キリストに従う者たちは、無欲で犠牲的な彼らの師の愛を模範とした生き方ができていなければ、決して満足しません。しかし、そのような愛の生き方をしているときでさえ、「既にそれを得た」とか、「既に完全な者となっ(た)」とか感じることは決してないでしょう。

先の二つの聖句において、未来が強調されている点にも注目してください。パウロは、イエスに対する信仰を通して、神において約束されていることを指さしています。クリスチャンの歩みにおいて、少なくとも品性の行き着くべきところまで「達した」などと、私たちが言えるときは決してありません(そのようなことを言う人は、大抵、不愉快で独善的であることに、あなたもお気づきでしたか)。私たちは芸術作品に似ています。常に改善されうる余地があります。そして、私たちが信頼と服従において日々神に従い、信仰の道を進む限り、神はそのとおりに(改善)しよう、と約束しておられます。

信仰をもって願う

ヤコブ1:5、6を読んでください。ヤコブが、「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば」と言っているのは、少し奇妙に思えるかもしれません。そもそも、自分には十分な知恵があると、だれが思うのでしょうか。例えば、ソロモンは知恵の必要を認めて、「善と悪を判断することができるように……聞き分ける心を」(王上3:9)謙虚に求めました。のちに彼は、「主を畏れることは知恵の初め」(箴9:10)と書いています。

問1

私たちは、自分が知っていることを知恵と思いがちです。しかし次の聖句は、真の知恵の別の一面がどのようなものであるかを、いかに示していますか(ヤコ1:19~21、2:15、16、3:13)。

箴言もヤコブの手紙も、知恵を極めて実際的なものとして描いています。知恵は、私たちが知っていることではなく、私たちがいかに生きるかです。例えば、「聞くのに早く、話すのに遅く(あれ)」(ヤコ1:19)といったようなものです。プラトンは、「賢者は、話すべきことがあるから口を開くが、愚者は、話さずにはいられないから口を開くのだ」と言いました。別の言い方をすると、私たちは、この世が提供するあらゆる知識を手に入れることはできますが、真の知恵に欠けています。

言うまでもなく、神はあらゆる真の知恵の源なので、私たちは何よりも神に聞くことによって——つまり、神のみ言葉を読み、「わたしたちにとって神の知恵と……なられた」(Iコリ1:30)キリストの人生を熟考する思索の時を過ごすことによって——知恵を得ることができます。私たちは生活の中でキリストの御品性を反映できるようになることで、イエスのように真理を生きます。それが真の知恵です。

信仰の裏面

ヤコブ1:6~8を読んでください。「疑い」という言葉は、心の中が割れている人に当てはまります。このことは、心が定まらない二心の人とのつながりを理解するうえで助けになるでしょう。その良い例は、カデシュ・バルネアに見ることができます。イスラエルはその地で、信仰をもって前進するか、それとも主に反抗するか、という一つの選択に迫られました。驚くべきことに、彼らは逆らうことを選び、エジプトでの奴隷状態に戻ることを望みました。ところが、神が介入し、イスラエルの民は荒れ野で死ぬだろう、とモーセを通してお告げになると、彼らは急に「信じ」ました!そして彼らは「主が約束された所へ上って行こう。我々は誤っていた」(民14:40)と言いました。

「今となっては、彼らは、自分たちの罪深い行為を心から悔いているように思えた。しかし、彼らの悲しみは、忘恩と不従順を感じたからではなく、むしろ彼らの悪行の結果のためであった。主がお決めになったことを容赦なくなさることがわかったとき、人々はまたわがままな気持ちを起こし、自分たちは荒野に帰りたくないと主張した。神が、敵の地から引き返すようにお命じになったのは、彼らの表面的服従が真実かどうかを試みておられたのであったが、それが真の服従でなかったことが明らかになった」(『希望への光』202ページ、『人類のあけぼの』上巻470、471ページ)。

問2

ルカ17:5、6を読んでください。イエスはここで、信仰についてどのようなことをおっしゃっていますか。

弟子たちがさらなる信仰を求めたとき、イエスは、からし種一粒ほどの信仰で十分だ、とおっしゃいました。重要なのは、私たちの信仰が生きていて、成長しているかどうかであって、それは、私たちが伝道し、あらゆる状況で神に信頼することで信仰を働かせ続けるときだけに起こりうるでしょう。

しかし、疑いがときとして立ち塞がります。この世は疑いや不信で私たちを翻弄し、だれもそれから免れることができません。私たちにできるのは、過去において神が誠実であられたことを思い出し、自分の未来においても神を信頼しつつ、祈って疑いの道を通り抜けることだけです。

貧しい者と富んでいる者

この短い手紙の中で、ヤコブは貧しい者たちのことをとても気遣っています。それが彼の最も重要な主題だ、と考える人さえいるほどです。しかし現代人の耳には、貧しい者に好意的で、富んでいる者に痛烈な彼の批判は行き過ぎで、衝撃的であるようにすら聞こえます。しかしそう言いつつも、ヤコブは、イエスがおっしゃったことと大きく異なることを言ってはいません。

問3

ヤコブ1:9~11とルカ8:14、ヤコブ1:27とマタイ25:37~40、ヤコブ2:15、16とルカ10:29~37、ヤコブ5:1~4とルカ12:16~21を比較してください。そこにある共通のメッセージは何ですか。そこにはっきり表現されていることから、私たちはどのような警告や訓戒を得ることができますか。

言うまでもなく、ヤコブはあらゆる富んでいる者に王国の扉を閉ざしたりしていません。しかしイエスと同様、彼は富に伴う油断のならない誘惑を認めています。富んでいようと貧しかろうと、私たちは本物の賞に目を注ぎ続ける必要があります。お金に関する問題は、それが私たちを永遠のものよりも一時的なものへ目を向けさせるように欺く傾向があるという点です(IIコリ4:18)。

確かに、富、高等教育、社会的影響力などを獲得することで、その人たちは「恵まれない人々」から分かれる傾向があります。しかし、初代教会は世俗的な価値をひっくり返すことによって、その二つの階級を結束させました。最も低い地位を占める者、謙虚な役割を果たす者が、天国において栄誉ある地位につきます。

「養われるべき空腹な者たち、服を着せられるべき裸の者たち、救いのパンと水に飢え渇いている者たちが、神が創造したこの世界にいる限り、あらゆる不要なぜいたく、あらゆる有り余ったお金は、貧しい者たちや裸の者たちのために用いる必要がある」(エレン・G・ホワイト『福祉伝道』269ページ、英文)。

さらなる研究

「神は、御自分の僕たちが彼らの心を知るようになさるだろう。彼らが自分の状態を正しく知り、清められるために、神は、苦悩の炎が彼らを襲うことをお許しになる。人生の試練は、私たちの品性から不純物、欠点、粗さを取り除き、栄光に包まれた汚れなき天使たちの社会にふさわしい者とするための神の職人なのである。やがて私たちが試練をくぐり、苦悩の炎が私たちを燃やすとき、私たちは目に見えないもの、永遠の嗣業、不死の命、『比べものにならないほど重みのある永遠の栄光』に目を注ぎ続けないだろうか。私たちがそうする間、炎は私たちを焼き尽くすのではなく、浮きかすを取り除くだけであり、私たちは神の刻印を押され、7倍清くなって出て来るだろう」(エレン・G・ホワイト『アドベンチスト・レビュー・アンド・サバス・ヘラルド』1894年4月10日号)。

*本記事は、安息日学校ガイド2014年4期『ヤコブの手紙』からの抜粋です。

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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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