誘惑に耐える【ヤコブの手紙】#3

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私たちはみな、それを体験したことがあります。誘惑に負けまいと決心するものの、戦いの最中に私たちの決心は弱まり、(とても恥ずかしく、情けないことに)罪に負けてしまいます。ときとして、罪を犯さないことに意識を向ければ向けるほど、誘惑に対してますます無力に感じ、自分の状態がますます絶望的に思えてきます。そして、本当に自分は救われているのだろうかと、私たちは考えます。真面目なクリスチャンで、とりわけ罪に負けた直後に、自分の救いを疑問に思ったことのない人を想像するのは困難です。

ありがたいことに、私たちをいとも簡単に陥れる誘惑に、私たちは勝利することができます。いかに罪に囲まれていようと、私たちはだれ1人として絶望的ではありません。なぜなら、私たちの「光の父」(ヤコ1:17、口語訳)は人間の罪の傾向よりも偉大であり、私たちは神の内にあってのみ、神の御言葉によってのみ、勝利を得ることができるからです。

今回、私たちが研究しようとしている聖句(ヤコ1:12~21)のメッセージは、まさにそれです。確かに、誘惑も罪も実際に存在し、自己との戦いも本当に存在します。しかし、神もまた実在しておられ、私たちは神によって、心の中に起こった誘惑が私たちを打ち倒すのをただ待っているだけでなく、それに打ち勝つことができます。

誘惑の根

ヤコブ1:13、14を読んでください。ヤコブはきっぱりしています。神は悪の創始者でないばかりか、誘惑の源でもありません。悪そのものが誘惑の源です。先の聖句によると、問題は私たちの中にあり、そのことが誘惑に抵抗しがたい最大の理由です。

それゆえ、罪との戦いは心の中で始まります。多くの人が耳にしたくないことですが、実際のところは、私たちが罪を選んでいます。だれも私たちを強制することはできません(ロマ6:16~18)。罪深い欲望、傾向、性癖が、絶えず私たちの注意を引きつけます。魚釣りや狩猟に関する一般的な用語を用いて、ヤコブ1:14は内なる促しを表現しています。私たち自身の欲望が私たちをおびき寄せ、誘惑し、私たちがそれに屈するとき、私たちを最終的に引っ掛け、わなにかけます。

問1

エフェソ6:17、詩編119:11、ルカ4:8を読んでください。これらの聖句すべてに共通するテーマは何ですか。また、そのテーマは、誘惑に対する勝利という問題と、どのように関係していますか。

ヤコブの手紙のこの箇所において、彼は誘惑と罪をはっきり分けています。内側から誘惑されることは、罪ではありません。イエスでさえ誘惑をお受けになりました。問題は誘惑そのものではなく、私たちがそれに対していかに反応するかという点です。罪深い性質を持っていることそれ自体は、罪ではありません。しかしその罪深い性質に、私たちの思いを支配させ、私たちの選択を決定させてしまうなら、それは罪です。それゆえ、私たちは神の御言葉の中に、(もし私たちが自分のものとして主張し、信仰においてしがみつくなら)勝利の確証を与えてくれる約束を見いだすことができます。

欲望がはらむとき

ヤコブ1:13~15を読み直してください。罪がいかに始まるのかを表現するために、この箇所ではいくつかのギリシア語が使われているのですが、すべての言葉が出産と関連しています。人が誤った欲望を育むと、子宮の中の赤ちゃんのように罪を「はらむ」のです。そして、「罪は、それがすっかり成長したとき、死を生みます」(ヤコ1:15、著者による直訳)。

そのイメージは逆説的です。生命を与えるはずの過程は、死しかもたらさない結果になります(ロマ7:10~13と比較)。癌と同様に、罪は宿主を乗っ取り、破壊します。私たちはみな、罪によって損なわれてきたので、このことを知っています。私たちの心は悪く、私たちはそれを変えることができません。

創世記3:1~6を読んでください。エバの体験は、罪との葛藤を生き生きと描いています。罪はそもそも、神に不信感を抱くことから始まります。サタンは天使の3分の1をだましたのと同じ巧みな方法を用いて(黙12:4、7~9)、神の御品性に対する疑いをエバの心に引き起こしました(創3:1~5)。禁断の木に近づくことは罪ではありませんが、その実を取って食べることは罪でした。しかし、たとえそうであっても、悪い思いが彼女の罪深い行為に先立っていたようです(創3:6)。彼女はサタンの提案を自分のものとして受け入れました。

罪はいつも心の中で始まります。エバと同様、想定される悪事の「利益」について、私たちは考えるかもしれません。やがて、私たちの想像や感情がその考えを引き継ぎ、ほどなくその餌に食いつき、罪に堕ちます。

私たちはしばしば、どうしてそんなことになってしまったのだろうか、と不思議に思います。が、答えは簡単です。私たちがそうなるようにしたのです。だれかが私たちを罪へ追い込んだわけではありません。

「熱心な祈りと信仰を生きることによって、私たちはサタンの攻撃に抵抗し、自分の心を汚れから清く保つことができる。最強の誘惑というのは、罪に対する言い訳にならない。どれほど大きな圧力が魂にかかろうとも、罪は私たち自身の行為である。だれかに罪を犯させるのは、地上の力や地獄の力によるのではない。意志が同意し、心が屈しなければ、情熱が理性を圧倒したり、悪が義に勝利したりすることはできないのである」(エレン・G・ホワイト『サインズ・オブ・ザ・タイムズ』1883年10月4日号、英文)。

あらゆる良い贈り物、完全な賜物

「わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません」(ヤコ1:16、17)。

罪は死を生み出しますが、神は命の源です。神は「光の父」(ヤコ1:17、口語訳)です。天地創造を参照してください(創1:14~18)。神は、私たちが「上から」受けることのできる最上の賜物、すなわち新しい命を生み出して、私たちにお与えになります(ヤコ1:17とヨハ3:3を比較)。

救いは神の恵みの結果だと語るパウロと同様(ロマ3:23、24、エフェ2:8、IIテモ1:9)、ヤコブ1:17は救いを「賜物」と呼んでいます。さらに次の節では、救い(新生)は私たちに対する神の目的と御心の結果であると、はっきり述べています。「御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました」(ヤコ1:18)。つまり神は、私たちが救われることを望んでおられます。今も、そして永遠に、私たちが救いと、主にある新しい命を持つことは、私たちが存在する以前からでさえ、神の御心でした。

ヤコブの表現とパウロやペトロの新生に関する表現を比較すると、どうでしょうか(テト3:5~7、Iペト1:23参照)。イエスも、パウロも、ペトロも、そしてヤコブも、救いと新生を結びつけています。救済計画における神の目的は、罪に打ちのめされ、悲しみに打ちひしがれた人類を再び天に結びつけることです。その隔たりは大きく、広く、人間にできるいかなることもその橋渡しができずにきました。人間となられた神の「言」、すなわちイエスだけが、天と地を結びつけることがおできになりました。そして、霊の導きのもとに書かれた御言葉だけが、霊的な命という賜物を受けようと心を開いている者たちに、それを吹き込むことができます(IIテモ3:16)。

要するに、私たちの「光の父」は私たちを愛するゆえに、あらゆる「良い贈り物、完全な賜物」(ヤコ1:17)——最上の賜物であるイエスと彼が提供なさる新生——を、私たちが受けるに値しないにもかかわらず、お与えになります。

話すのに遅く

問2

ヤコブ1:19、20を読んでください。彼はそこでどんな重要な指摘をしていますか。

神の御言葉には力があります。しかし、人間の言葉も同様です。私たちはどれほどしばしば、あとで取り消したいと思うような言葉を口にしてきたことでしょうか。残念なことに、悪い言葉がいかに人を傷つけるか、怒りがいかに破壊的であるかをただ知っているだけでは、私たちが自分を制御するための助けにはほとんどなりません。私たちの裁量に任せれば、私たちは真に変わることなどできません。それゆえ、私たちのうちに働いていただくために、もっと神に耳を傾ける必要があります。

「他のすべての声が静まって、神の前でわたしたちが静かに待つ時、心の静けさは神のみ声をいっそう明瞭に聞こえさせてくれる。神は、『静まって、わたしこそ神であることを知れ』とお命じになる」(『ミニストリー・オブ・ヒーリング2005』46ページ)。

それに反して、私たちが神や周囲の人に耳を傾けることをやめるとき、問題が生じます。家庭であれ、仕事場や教会であれ、聞くことをやめると口論が続いて起きます。そうなってしまうと、発言は熱を帯び、怒りが増大していきます。ヤコブ1:14、15の制御されていない内的な欲望と同様に、このような罪深いコミュニケーションの滑りやすい下り坂は、決して神の義を実現しません。

それゆえ、ヤコブは神の義と人間の怒りを並置しています。私たちが、自分の罪深い性質の中から自然に泡立つものに頼る限り、神の御言葉の創造的な力は遮断され、私たち自身の役に立たない言葉、もしくは人を傷つけさえする言葉が出てきます。私たちの「光の父」が新しい命という賜物によって私たちになさることについて語った直後に、語ることに気をつけなさい、とヤコブが言っているのは、少しも不思議ではありません。

受け入れることによって救われる

ヤコブ1:21を読んでください。この聖句は、信仰や救いについてこれまでずっと言われてきたことを締めくくっています。これは、あらゆる汚れを捨て去り、悪から離れなさい、という訴えです。「捨て去りなさい」という命令は新約聖書の中で9回用いられており、そのうちの7回は、キリストに献身した命にはふさわしくない悪しき習慣から遠ざかるために用いられています(ロマ13:12、エフェ4:22、25、コロ3:8、ヘブ12:1、Iペト2:1)。またこの動詞は服を脱ぐことにも関係しているので(使徒7:58)、罪に「汚れた[私たちの]着物」(イザ64:5[口語訳64:6]と比較)を脱ぎ去ることもたぶん意味しているのでしょう。実際、「汚れ」という言葉はヤコブの手紙において、輝くばかりに清潔な金持ちの服とは対照的な貧しい人の「汚らしい服装」(ヤコ2:2)をあらわすために出てきます。イエスと同様にヤコブは、外見をひどく気にする人間の傾向を非難しています。なぜなら、神は何よりも私たちの心の状態に関心を持っておられるからです。

ギリシア語訳旧約聖書の中で、この「汚れ」に相当する言葉(「リュパロス」)は、大祭司ヨシュアが罪深いイスラエルを代表しているゼカリヤ3:3、4の一箇所でのみ用いられています。神はその大祭司の汚れた衣を取り去り、イスラエルの赦しと清めを象徴する清潔な服を彼に着せられます。

この場面は、私たちが時折目にする、イエスが白い服を罪人の薄汚れた汚い服の上に着せておられる有名なクリスチャンの絵とはかなり違います。日常生活において、いったいだれがそのようなことをするでしょうか。だれ1人として、きれいな服を汚い服の上に着せたりはしません。ゼカリヤ書におけるのと同様、汚い服を脱がせてから、きれいな服を着せるでしょう。これは、私たちがキリストの義を着せていただくには、その前に私たちから罪がなくなっていなければならない、ということを意味しているのではありません。もしそれが本当なら、だれが救われうるでしょうか。また、ゼカリヤ書の場面は、私たちが再び罪に堕ちるなら救われないとか、イエスの元に戻れないとかいうことを意味しているのでもありません。そうではなく、罪深い古い生き方に日々死ぬことを選び、神によって私たちを御かたちに造り変えていただくことを選びつつ、私たちは完全に神に自らを明け渡さなければならない、ということを意味しています。そうするとき、キリストの義の完全な服が、私たちを覆ってくれるでしょう。

さらなる研究

「あがないの計画には、われわれをサタンの権力から完全にとり戻すことがもくろまれている。キリストは、悔い改めた魂を、いつでも罪から引き離される。主は、悪魔のわざを滅ぼすためにおいでになったのであって、すべての悔い改めた魂に聖霊を与え、罪を犯さないように道を備えられた」(『希望への光』827ページ、『各時代の希望』中巻20ページ)。

「もし、キリストを自分の救い主として信じたならば、自分を忘れて、他を助けようと努力するはずである。わたしたちは、キリストの愛と憐みについて語り、負わせられるすべての義務を果たし、心には、救霊の責任を感じて、失われた者を救うために、力の限りを尽くさなければならないのである。

もしも、わたしたちが、キリストの霊、すなわち、他に対する無我の愛と働きの精神を受けるならば、自然に成長して、実を結ぶのである。あなたの品性にはみ霊の実が熟し、信仰は増し加わり、確信は強固になり、愛は完成される。そして、すべての純真なこと、すべての尊ぶべきこと、すべての愛すべきことにおいて、ますますキリストのみかたちを反映するようになるのである」(『希望への光』1211ページ、『キリストの実物教訓』46、47ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2014年4期『ヤコブの手紙』からの抜粋です。

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そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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