舌を制御する【ヤコブの手紙】#7

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言葉には大きな力があります。「時宜にかなって語られる言葉」(箴言25:11)——称賛、詩、物語など——は、人生を根底から形作ります。私たちが口にすることは、何日も、あるいは何年も残ることがあります。例えば、子どもたちはスポンジのように言葉を吸収します。それゆえ、生育の過程で耳にする言語が何であれ、彼らはすぐ流暢に話すようになります。子どもたちが自分自身について耳にするメッセージが、彼らの将来の成功、不成功を予示することがあるのも、同じ理由によります。善かれ悪しかれ、親のコミュニケーションの取り方は、子どもたちの中に再現され、一層強くなります。

書き言葉も影響力が強く、こちらのほうがさらに持続します。中でも最も強力なのが神の御言葉です。次の聖句をよく考えてみてください。「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」(詩編119:105)、「わたしは仰せを心に納めています/あなたに対して過ちを犯すことのないように」(同119:11)。イエスは弟子たちの注意を、つかの間の祝福からはるかに重要な祝福へと向けられました。「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」(ヨハ6:63)。

言葉は人をなだめ、安心させることもできれば、人に害を与え、人を汚すこともできます。取り消せたらいいのに、と思うような言葉を、あなたは何度言ってしまったことがありますか。今回、これから見ていくように、ヤコブは言葉遣いについて重要な言葉を述べています。

説明責任

問1

ヤコブ3:1を読んでください。ヤコブは説明責任について、どんな重要な指摘をここでしていますか。

教会やキリスト教の学校の教師は、特に重い責任を担っています。なぜなら、彼らは長年にわたって続くような形で、思いや心を形成するからです。その結果には、彼らの影響が直接及ぶ範囲を超えて、波紋のように多くの人に広がっていく影響も含まれます。私たちは知れば知るほど、その知識を用い、分け与えることに対して、ますます責任が重くなります。

イギリスのケンブリッジ大学にあるティンダル・ハウス図書館の玄関には、一つの額が掛かっています。それは入館するすべての研究者に、「主を畏れることは知恵の初め」(箴9:10)であることを思い出させるためのものです。万物の尺度は人間でなく、神であり、あらゆる真の教育は、神に始まり、神に終わります。残念なことに、知識が増すにつれて、神に頼ることは少なくなる傾向があります。例えば、科学は神とは無関係に役目を果たすものだということが、あまりにもしばしば教えられ、実践されてきました。称賛を得ようと奮闘している神学の教師たちの中にも、信仰の余地をまったく、あるいは少ししか残さない手法を使う人がいるかもしれません。その結果、教師と学生の双方の思いと心の中から、信仰は次第に締め出されてしまいます。しかし、単なるこの世のための教育ではなく、永遠のための教育が、教師や学生にとって等しく最高のものである限り、学習は貴重な努力、さらに言えば刺激的な努力となるでしょう。

パウロも、彼が立ち上げた教会の指導者を訓練し、任命したので(使徒14:23、テト1:5と比較)、このような責任を理解していました。彼はテモテに、未熟で愚かな羊飼いから神の群れを守りなさい(Iテモ1:3~7、3:2~6、6:2~5、IIテモ2:14、15参照)という指示さえ出し、彼らの中には、「いつも学んでいながら、決して真理の認識に達することができ(ない)」(IIテモ3:7)者たちがいると警告しています。

親たちは自分の子どもを教えることにおいて、重い責任を担っています。子どもたちは、次にはほかの人に影響を与えるからです。実際、私たちはみな、自分が示した手本によって、周囲の人々に多大な影響を与えることができます。ですから、神が約束されている知恵を求めること(ヤコ1:5)、神の方法を手本にし、神聖な影響力を行使することは、なんと重要でしょうか。というのも、善かれ悪しかれ、私たちは他者に影響を及ぼしているからです。

言葉の力

「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです」(ヤコ3:2)。ヤコブが振る舞いを重視していることを特に考慮するなら、これはなんと正直な告白でしょうか!しかしこの告白によって、地上における神の代表者としての私たちに神が抱いておられる理想、その理想に対する私たちの信念は、曇らされるべきではありません。

「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です」(ヤコ3:2)。原語(ギリシア語)の条件文の形は、言葉で誤りを犯さないことは現実に可能であることを示唆しています。言葉の重要性が強調されすぎるということはありません。考えていることが言葉になり、次にその言葉が行動になります。言葉はまた、私たちが考えていることを強化します。それゆえ、言葉は私たちの行動だけでなく、ほかの人の行動にも影響を及ぼします。私たちは言葉によって相互につながっています。

ヤコブの手紙の中で今回研究する箇所には、舌[言葉]の力に関する実例がいくつか含まれています。最初の三つは、小さなものがいかに大きな結果を招くかということを強調しています。くつわと手綱は馬の向きを変えることができ、舵は船の進路を変えることができ、火の粉は森を炎で飲み込むことができます。

幼い子どもは感受性が強いものです。しかし、木が育つにつれて堅くなり、地面にしっかり根づいていくように、子どもたちも年を取るにつれて変化に抵抗するようになります。教会においてであれ、家庭においてであれ、ある意味で、私たちはみな教師です。私たちの言葉は大きな力を持っているので、早い段階で私たちの思いを神の御言葉に浸すことが重要です。詰まるところ、私たちの思いや言葉を養うものは何でしょうか。神の霊でしょうか、それとも別の何かでしょうか。別の何かとは違い、神の御言葉によって生じえる大きな変化を、私たちは過小評価してはなりません(詩編33:6、IIコリ4:6と比較)。

言葉は潜在的にとても強力で、ほんの数行でもってだれかを(死ぬまでずっと)打ちのめすことができます。その一方、好ましい言葉はだれかを(やはり同じくらいの間)元気づけることができます。

「小さい」ものは大きい

問2

ヤコブ3:3~5を読んでください。二つの実例は、どのような共通点を持っていますか。また、舌とどのように関連していますか。

馬の口のくつわも、船の舵も、それらが御する(操る)ものに比べれば、とても小さいものです。しかし、ほんの少し手を動かすだけで、馬や船の進む方向は、すっかり変わります。「同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです」(ヤコ3:5)。言い換えれば、ちょっとした言葉、あるいはちょっとした目つきや身ぶりでさえ、どれもささいな(小さな)もののように思えるかもしれませんが、友人を敵に、悪い状況を良い状況に一変させることができるということです。「柔らかな応答は憤りを静め/傷つける言葉は怒りをあおる」(箴15:1)。1頭の馬が全速力で走っているところや、1隻の船が全速力で水上を走っているところを想像してみてください。しかも、いずれも間違った方向に進んでいます。速く進めば進むほど、目的地からますます遠ざかってしまいます。従って最善策は、できるだけ速やかに停止して、向きを変えることです。私たちの言葉にも同じことが言えます。会話がどんどん悪い方向へ進んでいるなら、より早くそれをやめるほうがよいのです。

ルカ9:51~56を読んでください。弟子たちの提案には、聖書に書かれた前例があったのですが(王下1:10、12)、イエスはそれを退けられました。彼の叱責で、状況はがらりと変わりました。物語は、「一行は別の村に行った」(ルカ9:56)とだけ述べて、あっさり終わっています。イエスは、サマリア人の村から拒絶されたことを、弟子たちにとってためになる体験に変えられました。感情が激してカッとなり、自分の立場を強く主張したいとき、私たちはイエスのこの模範を思い出し、(比喩的に言って)「別の村に行(く)」ことができます。

「水のしずくが川となるように、小さなものが人生を作り上げる。人生は静かで穏やかで楽しい川であるか、常に泥や土を岸に打ち上げ洪水を引き起こす川である」(エレン・G・ホワイト『キリストを知るために』209ページ、英文)。

被害対策

私たちはみな、それを体験してきました。私たちの言ったことが、恐らくは誇張されて、自分の言葉とは思えないほどに大きくなってしまいます。ヤコブが言うように、「御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう」(ヤコ3:5)のです。祈りつつ、ヤコブ3:6を注意して読んでください。象徴的に用いられるとき、火は「清め」をあらわすことがある一方(イザ4:4、ゼカ13:9)、それよりも頻繁に、軽率な言葉の破壊性(箴16:27、26:21)など、「滅ぼすこと(破滅)」を意味します(ヨシュ6:24、11:9、11、サム上30:3、マタ7:19参照)。

大火は、火の粉から始まることがあるだけでなく、驚くほどの速さで荒廃と破壊を生み出します。同様に言葉は、友情、結婚生活、信用といったものを破壊します。言葉は子どもの精神に染み込み、彼らの自己概念や将来の発達を損なうこともあります。

罪はこの地上において、一見すると無邪気な疑問から生じました(創3:1参照)。ルシファーは、「天使たちを支配していた律法に対する疑惑をほのめかし始めた」(『希望への光』15ページ、『人類のあけぼの』上巻7ページ)のです。このように、舌は「地獄の火によって燃やされます」(ヤコ3:6)と言っても、言いすぎではありません。

確かに、ひとたび語られた言葉は永遠に行ったきりですし、私たちが口にしたことは取り消せませんが、その被害を減らしたり、訂正したりするためにできることは、何でもすべきです。関係を修復するために対策を講じることは、私たちが同じ過ちを繰り返さないために役立つでしょう。例えば、神からさらなる啓示を受けたあと、預言者ナタンはすぐにダビデをもう一度訪れ、彼がすでに告げていたことを訂正しました(サム下7:1~17参照)。ペトロは、キリストを否認したことで号泣し、のちに彼の改心が本物であることをはっきり示しました(ヨハ21:15~17)。

「舌を制御できる人は一人もいません」(ヤコ3:8)が、「舌を悪から/唇を偽りの言葉から遠ざけ(よ)」(詩編34:14[口語訳34:13])と、私たちは勧告されています。私たちが言葉を抑制できるのは、神の霊によってのみです(エフェ4:29~32参照)。

祝福と呪い

ヤコブ3:9~12を読んでください。クリスチャンの口から祝福と呪いの両方が出てくるというのは、憂慮すべきことだと言わざるをえません。一週の間に、神を冒する言葉にあふれたテレビ番組や映画を見て、安息日には、神の御言葉を聞くために教会へ行くというのは、どうでしょうか。だれかがイエスについて真理とすばらしい言葉を語り、その後、同じ口から下品な冗談が聞かれるとしたら、どうでしょうか。こういった様子は、私たちが正しいと知っていることとは正反対であり、霊的に憂慮すべきものです。この正反対の行為のどこが問題なのでしょうか。

ヤコブは、たとえに泉を用いています。水の質は源泉で決まり、実は根によって決まります(マタ7:16~18と比較)。同様に、もし神の御言葉が私たちの中に蒔かれるなら、その働きは私たちの生活の中で明らかになるでしょう。この真理を理解することは、私たちの信仰を「証明する」という重荷から解放します。きれいな泉が、そこから自然に流れ出る水以外の証拠を必要としないように、純粋な宗教は信仰に根差しており、自らその純粋さを証明します。

しかしその一方で、次のような疑問を投げかけることもできます。「もし私たちが、献身的に神に従うだれかが最悪のことをしているところ(例えば、モーセがエジプト人を殺しているところや、ダビデがバト・シェバと一緒にいるところ)を写真に撮ったなら、彼らの告白を疑問視しても当然ではないだろうか」と。

言うまでもなく、神の御心は、私たちが罪を犯さないことです(Iヨハ2:1)。しかし、アダムとエバが罪に堕ちて以来、神は、私たちが罪を犯すなら、約束された犠牲に対する信仰に基づいて私たちを赦す備えをなさっています(詩編32:1、2と比較)。それにもかかわらず、罪は悲しみをもたらし、服従は祝福をもたらすという事実に変わりはありません。モーセは彼を殺人へ導いた[エジプトでの]訓練を捨て去るために、40年かけて羊の世話をし、ダビデは、バト・シェバが産んだ子どもの死とともに、自分の王国を脅かす家族の分裂に死ぬまで苦しみました。確かに、私たちは罪を犯しても、そのあとに赦されます。しかし問題は、それらの罪の結果がしばしば残るということ、しかも精神的に打ちのめすような結果を私たち自身だけでなく、ほかの人にも残すということです。ひざまずいて勝利する力を求めることのほうが、あとから赦しを求め、その被害が抑えられるのを嘆願するよりも、どれほどよいでしょうか。

さらなる研究

「愚かな話をする仲間の中にわたしたちが入った時には、できるだけ、話題を変えるように努力することが、わたしたちの義務である。神の恵みの助けによって、静かに一言注意をするか、または、有益な話題を提供して人々の心をその方に向けるべきである。……わたしたちは、受けた恵みについてこれまでよりももっと多く語らなければならない。神の憐れみといつくしみ、救い主の愛のはかり知れない深さについて、語らなければならない。また、賛美と感謝をすべきである。心に神の愛があふれているならば、それが、会話にあらわれてくる。わたしたちの霊的生活の中に入ってきたものを、他の人々に分け与えることは、むずかしいことではない。偉大な思想、高貴な抱負、明確な真理の理解、無我の精神、敬虔と清めに対する渇望などは、当然言葉となってあらわれ、心の中に秘められた宝がどんなものであるかを示す。こうして、キリストが、わたしたちの言葉にあらわされる時に、その言葉は魂をキリストに導く力を持つようになるのである」(『希望への光』1317、118ページ、『キリストの実物教訓』312、313ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2014年4期『ヤコブの手紙』からの抜粋です。

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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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