天の知恵としての謙遜【ヤコブの手紙】#8

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多くの大企業や中規模の企業には、「中間管理職気質」というものが存在します。この態度は、職員がそれまで持っていなかった何か(より多くの敬意や給料、より高い役職など)を手に入れたと感じるときに生じるものです。この不健全な態度は、その人が出世しようと懸命に努力するとき、時間とともに悪化します。症状には、意思決定者(上役)に対するへつらいの言葉、同僚に関する否定的なコメントなどが含まれ、いずれも身勝手なライバル意識に味つけされています。ある有名なテレビの報道番組の司会者がほかの人を蹴落とすことなく、そのテレビ会社のトップになったとき、1人の同僚が「一つも死体がなかった」と称賛して言いました。

身勝手なライバル意識は世俗の企業だけの話で、教会はまったく異なった形で運営されていると思えたらいいのですが……。残念ながら聖書は、この世の「知恵」が頻繁に信者の間でも働いていたことを伝えています。

今回は、神の御言葉が語らざるをえないこのような悲しい現実に目を向けましょう。

知恵にふさわしい柔和な行い

「あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい」(ヤコブ3:13)。

注解者の中には、ヤコブの手紙の3章全体が教師たる者の資格に関係している、と考える人たちがいます。当然ながら、「知恵があり分別がある」人はふさわしい候補者であるように思えますが、対象者はもっと広く、教会員全員を含んでいるようです。ヤコブがこの箇所や手紙の至る所で記している知恵は、そもそも古代ギリシア人や今日の多くの西洋諸国で高く評価されているような知性ではありません。むしろ、知恵は人の行いや生き方の中に見られます。ここで「知恵」と訳されているギリシア語の「アナストロフェー」が、「行い」「行動」「生活」などとも訳されることが示すとおりです(Iテモ4:12、ヘブ13:7、Iペト1:15、2:12参照)。私たちがいかに賢いかは、私たちの行動や振る舞いが証明します。イエスは同じことを教えて、「知恵の正しさは、その働きによって証明される」(マタ11:19)と言われました。

興味深いことに、「知恵にふさわしい柔和な行い」と訳されている句は、旧約聖書の中で唯一、神が命じられたすべての掟を守りなさいという、イスラエルに対するモーセの訓戒の中に見いだせます。「あなたたちはそれを忠実に守りなさい。そうすれば、諸国の民にあなたたちの知恵と良識が示され、彼らがこれらすべての掟を聞くとき、『この大いなる国民は確かに知恵があり、賢明な民である』と言うであろう」(申4:6)。

それとは対照的に、ヤコブ3:11に出てくる「苦い水」の泉は、教会の中に「苦々しいねたみや党派心」(14節、口語訳)を生み出します。「党派心」という言葉は、ギリシア語の「エリセイア」(「自分の利益をもっぱら追及すること」(セスラス・スピーキュ『新約聖書神学用語辞典』第2巻70ページ、英文)を訳したものです。それは、地上におけるクリスチャンの態度というよりも、天におけるサタンのような態度です。もし私たちが、自己に死に、自分の意志を主に明け渡すという意識的な選択をしないなら、私たちはみな、ヤコブがここで警告しているような態度をまさに見せる危険性があります。

種類の知恵

問1

ヤコブ3:15、16を読んでください。ヤコブはこの世の知恵をどのように説明していますか。私たちはこの種の「知恵」を、この世において、あるいは教会において、どのような形でよく目にしますか。

私たちが生まれつき持っている知恵は「この世のもの」、まさに「悪魔から出た(悪魔的な)もの」であり、聖霊を欠いています。このことは、さして驚くべきことではありません。昔、ソロモンは言いました。「人間の前途がまっすぐなようでも/果ては死への道となることがある」(箴14:12、16:25)と。このような知恵は芯まで破壊的です。もし妬みや党派心が高じて表に出るなら、その必然的な結果は、コリントの教会の状況に似た混乱であり、不和でしょう(IIコリ12:20参照)。

問2

ヤコブ3:17、18を読んでください。この聖句は、「上から出た(天の)知恵」についてどのようなことを教えていますか。

ヤコブは聖霊に直接触れていませんが、彼の言葉の中には新生という考えがはっきり存在しています。代わりに彼は、種を蒔き、実が実るという農業のたとえを選んだようです。たぶんそれは、福音のメッセージを聞いたときに人々の心に「蒔かれる」御言葉の種に言及したイエスのたとえ話に基づいてのことでしょう(マタ13:3~9、18~23参照)。天の知恵は「良い実」であるとともに、「憐れみ」に満ちています。これまで見てきたように、ヤコブの手紙では信仰の実としての服従や良い行いが強調されていますが、裁きの時においてさえ、憐れみが打ち勝ちます(ヤコ2:13)。言い換えれば、真に賢い者は、イエスのように柔和で謙虚であるばかりか、平和を好み、穏やかで、情け深く、寛大でもあり、ほかの人の欠点に進んで目をつぶり、彼らを批判したり、裁いたりしません。

対立や争いの原因

問3

「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか」(ヤコ4:1、ガラ5:17と比較)。これら二つの聖句は、どのような基本的対立について述べていますか。

ヤコブの手紙4章の最初の数節は、激しい内部抗争によってバラバラになってしまった信者たちを描いています。教会における外面的な争いには、内面的な原因があります。それは快楽に対する強い欲望です(「欲望」という訳語に相当するギリシア語から、英語の‘hedonism’(快楽主義)という言葉が生まれました)。パウロが比喩的に「肉」と呼んでいるこの罪深い欲望は、私たちが抱く、より高尚で霊的な動機を盛んに攻撃してきます。クリスチャン生活には、もし「上から出た知恵」によって制御されなければ、教会そのものに波及し、信者の間に霊的な傷をもたらす持続的な戦いが伴います。

ヤコブ4:2、3を読んでください。これらの聖句は、十戒に直接触れています——「あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができ……ない」(ヤコ4:2)。妬み、むさぼり、強い欲望(つまり情欲)に繰り返し触れていることは(ヤコ3:14、16と比較)、山上の説教においてイエスが示されたのと同様の視点を反映しています。山上の説教では、単に外面的な行動だけでなく、内面的な動機が視野に入っていました。それゆえに殺人への言及は、このような広い意味で、怒りをも含むように意図されていたに違いありません。初期の教会員の中に、互いに殺し合うような人たちはいなかったでしょうから……。その一方で、使徒言行録からわかるように、とりわけヤコブが本拠地にしていたエルサレムでは、密告によって教会員があっけなく逮捕され、殺されたことが何回もありました。

「不安を生じさせるのは自分を愛する心である。われわれが天から生まれる時に、イエスのうちにあったのと同じ心がわれわれのうちに宿るようになる。それはわれわれを救うために自らいやしい身となられたイエスの心である。その時われわれは、最高の地位を求めなくなる。われわれはイエスの足元にすわってイエスについて学びたいと望むようになる」(『希望への光』839ページ、『各時代の希望』中巻51、52ページ)。

世の友となること

問4

ヤコブ4:2~4を読んでください。なぜヤコブは、読者を「不貞のやから」(口語訳)と呼んでいるのですか(エレ3:6~10、20、イザ54:5、エレ2:2、ルカ16:13参照)。

「イスラエル」の聖書的概念を神の「花嫁」としてほのめかしながら、ヤコブは信者がこの世の習慣に従ったり、この世の態度に影響を受けたりすることを霊的姦淫になぞらえています。実際に、彼らは別の主人を選んでいました。

次の5節は、わかりにくい聖句です。ある人たちはこれを、「新約聖書における最も難解な聖句」と呼んできました。原文のギリシア語の曖昧さが、主要な翻訳聖書の中に反映されています。ここでの「霊」は聖霊のことだ、と考える人たちもいれば、人間の霊のことだ、と考える人たちもいます。この聖句の構文や直近の文脈に対する注意深い研究に基づけば、5節と6節は次のように訳すことができるでしょう。

「それとも、聖書が妬みに反対して語っていることは無駄だと思うのですか。神が私たちのうちに住まわせた霊は慕っていますが、神はさらに恵みを与えられます。それゆえ、こう書かれています。『神は高慢な者に抵抗し、謙遜な者に恵みをお与えになる』と」(ヤコ4:5、6、著者の私訳)。

1節から4節が明らかにしているように、人間の霊(つまり「心」)は、罪によって邪悪な方向へねじ曲げられてしまった欲望(もともとは、つまりそれ自体は悪くない願い)であふれています。そして恵みだけが、私たちの苦境に対する真の解決策なのです。しかし高慢な者たちは、そのような恵みを簡単には受けられない立場に自分の身を置いてきました。「私たちは、流れ落ちる水の前に求める人々がコップを差し出すように恵みを受けるのだ」と書いた人がいます。謙遜で、従順で、自分の足りなさや頼りなさを心からわかっている人だけが、恵みと、あらゆる面で無価値な者に与えられる身に余る好意とを受けます。エレン・G・ホワイトが、「われわれの大きな必要こそ神の憐れみを求める唯一の資格である」(『希望への光』831ページ、『各時代の希望』中巻29ページ)と書いているとおりです。

神への服従

「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます」(ヤコ4:7)。この聖句における命令の順番に注目してください。もし私たちが自分の力で悪魔に反抗するとしたら、成功の見込みはどれほどあるでしょうか。悪霊払いの祈祷師をしている7人のユダヤ人が、イエスとパウロの名前を用いて、悪霊に取りつかれている人から霊を追い出そうとしたことがありました。そのとき、悪霊に取りつかれている人のほうが祈祷師たちよりも力において勝っていたので、彼らは裸にされ、血を流しながら逃げ出す羽目に陥りました(使徒19:13~16)。このように、悪魔に反抗するためには、神とその御心に服従する必要があります。実際、私たちはまさにそのような手順を踏んで、悪魔に反抗しています。

その一方で、ヤコブの手紙を最初に読んだ人たちが、神にまったく服従していなかったのだろう、と考えるべきではありません。ヤコブは明らかに、信者と自称する人たちに手紙を書いています。ですから私たちは、日々神に献身し、悪魔の誘惑が迫ってくるときはいつでも抵抗するという観点から考える必要があるでしょう。

ヤコブ4:8~10を読んでください。これらの聖句における「変えなさい」という訴えは、ヤコブが前の章の13節から言ってきたあらゆることのまとめです。今回、これまで学んできている聖句の中には、天の知恵と悪魔的な知恵との対比、悪魔のように自己称揚する高慢な人と(イザ14:12~14参照)、神に服従し、へりくだる人との対比があります。また、神との契約に対する背信への非難があるとともに(ヤコ4:4)、心の定まらない人への非難が繰り返されています(ヤコ4:8、1:8と比較)。それゆえ、神に服従しなさい、という呼びかけは、道徳的な訓戒を超えたものであり、イエスが招かれたように、罪人を悔い改めへと招いています(ルカ5:32)。

人はいかに悔い改めるべきでしょうか。ヤコブは(詩編24:3~6に基づいた)段階を提供しています。(1)神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。(2)手を清め、心を清めなさい(つまり、行動も思いも清めなさい)。(3)必要こそ神の憐れみを求める唯一の資格であることを改めて実感しつつ、あなたの欠点を悲しみ、嘆き、泣きなさい。

さらなる研究

「この世の標準に達しようとして、心配の重荷に心を痛めている人が多い。彼らは世の奉仕を選び、世のわずらいを受け入れ、世の習慣をとり入れた。こうして彼らの品性はそこなわれ、人生は疲れはてたものとなる。野心と世俗的な欲望を満足させるために、彼らは良心を傷つけ、悔恨というよけいな重荷まで背負いこむ。たえまない心配のために、生活の力はすりへって行く。主は彼らがこの束縛のくびきを放棄するように望まれる。……イエスは彼らに、まず神の国と神の義とを求めなさいと命じられる。そうしたらこの世の生活に必要なものはすべて加えられると、主は約束しておられる」(『希望への光』839ページ、『各時代の希望』中巻50ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2014年4期『ヤコブの手紙』からの抜粋です。

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そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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