知恵の言葉【箴言―正しい選択を導く知恵の言葉】#8

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私たちはみな、ある程度(実際には、かなりの程度)環境の産物です。遺伝は重要な役割を果たしますが、私たちが持っている価値観は、私たちを取り巻くもの—家庭、教育、文化など—からもたらされます。私たちは幼児期から、見るもの聞くものによって影響を受けています。

残念ながら、私たちが見聞きするものは、必ずしも私たちにとって最善のものではありません。私たちを取り囲むこの世界は、あらゆる面で堕落しており、私たちに悪い影響を与えずにはいられません。それにもかかわらず、私たちには聖霊の約束が与えられており、私たちは、この世が指し示すものよりもずっと高く、ずっと良いものを指し示す神の御言葉を持っています。

私たちは今回、さまざまな箴言と、その箴言が述べている実際的な真理について考えます。その真理は、深く心に刻んで従うなら、私たちがこの堕落した世の否定的な傾向に打ち勝ち、よりよい世界に備えるのを確かに助けるでしょう。

私たちはみな同等

箴言20:12を読んでください。「私たちは精神のない宇宙の偶然の産物にすぎない」と考える進化論と違い、聖書は「すべての人間が神によって創造された」と教えています(使徒17:26)。トマス・ジェファーソンは、まさにすべての人間が神によって「創造」されたがゆえに、すべての人間は同等であると主張しましたが、このことは偶然の産物ではありません。私たちが同等であると信じる根拠は、主において、ただ主のところにのみ存在します。

ところで、私たちはみな同じ創造主を信じていますが、このことは、私たちがみな同じであるということを意味しません。一卵性双生児であっても、寸分たがわぬ行動をするようになるわけではありません。コリントの信徒への手紙の中で、パウロは私たちの違いについて語り、その違いが優越感をもたらすのではなく、互いの必要を感じる助けとなるようにしなさい、と強調しています。「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません」(Iコリ12:21)。

箴言20:9を読んでください。罪は、私たちを同等にする、もう一つの普遍的な要素です。大げさな質問に対するこの箴言の「誰も言えない」という答えは、人類の悲劇的で絶望的な状況を指し示しています。人間はみな弱く、死ぬべき運命にあり、この世のすべてのお金と権力をもってしてもそれを変えることはできません。しかし聖書においては、人間の罪深さに対するこのような言及が絶望につながりません。なぜなら、十字架におけるイエスの死と彼の復活とが、罪深さに関係なく、すべての人に永遠の命の約束を得るための道を開いたからです。そして永遠の命は、私たちの行いによってではなく、イエスに対する信仰によってのみもたらされます。

「しかしどんな良い行いをもってしても救いに値する者になることができないのであれば、それは完全に恵みによるのであって、イエスを受け、信じたゆえに罪人である人間に与えられるものに違いありません。それは完全に無償の賜物なのです。信仰による義認には議論の余地はありません。そして、堕落した人間が良い行いの功績によって永遠の命を手に入れることは決してできないという事実が確固たるものになるや否や、すべての議論は終結してしまいます」(エレン・G・ホワイト『信仰と行い』18、19ページ)。

命のテスト

正しい者たちの報いに関して、「その行いが報われる」と黙示録14:13に書かれています。人間個々の真の価値を証明するのは、未来だけです。人々は今、自分の財産や知識や肉体的能力を誇っているかもしれませんし、それはすべて本当なのかもしれません。しかし神の目から見るとき、それが何だというのでしょうか。非常にしばしば、人間が、重要だとか、すばらしいとか持ち上げる特性、業績、行動などが、実際には意味のない浮きかすであると示されることがあります。私たちが偶像化し、拝んでいるものは、私たちがいかに堕落しているかをはっきり証明しています。

問1

箴言20:6を読んでください(エレ9:22、23[口語訳23、24]、マコ9:35も参照)。これらの聖句は、神にとって真に価値あるものに関して、何と言っていますか。

私たちの対人関係の質の良さを具体的に示すものは、一回限りの驚くような愛の行為や犠牲の行為ではなく、私たちが日々忍耐強く、確実に、長く、定期的に繰り返し行うささやかな行為でしょう。伴侶のために作られる日々の食事、病人に対する付きっきりの看病、仕事における継続的な努力など、一生を通じてなされるこういった謙虚な行為は、あなたの信仰が本物である証拠です。永続的な忠実さは、情熱的ではあるけれどもまれな愛の行為より、ずっと価値があります。

この原則は、私たちと神との関係にも当てはまります。神のために死ぬよりも、神のために生きることのほうがずっと難しく、価値があります。生きることのほうが死ぬことよりも多くの時間を要するという理由で……。神のために生きる聖なる人は、神のために死ぬ殉教者より偉大です。だれでも、自分は神を信じている、神に仕えていると主張することはできます。しかし問題は、「長続きするのか」ということであり、イエスが言われたように、「最後まで耐え忍ぶ者は救われ」(マタ24:13)ます。

主を待つ

問2

箴言20:17、21:5を読んでください。これらの聖句の中に、どんな実際的教訓を見いだすことができますか。

パンを盗む人は、それを得るために働かなければならない人より早く手に入れることができます。粗悪な品をだまして売りつける商人は、正直な商人よりも早く金持ちになるかもしれません(箴21:5を21:6と比較)。しかし、その未来は甘さから「砂利」に変わり、あわてて得た利益は貧しさに変わる、と「箴言」は言います。この見解の正しさを説明するために、「箴言」はいくつかの例を挙げています。

①嗣業(箴20:21)—嗣業をあまりにも早く(たぶん両親がまだ生きているのに)得ることに関するこの聖句は、両親を呪う者への非難のあとに続いています。これら二つの箴言がつながっている点は重要です。あたかも、両親を呪う子どもは、両親の死を望んでもいるかのようです。その子どもは、嗣業を得るために両親を殺そうと画策さえしたのかもしれません。このような言動の将来的見通しは悲惨です。今は大いに助けとなっている灯が「闇のただ中で消え」(同20:20)、両親に対する呪いは子どもに戻ってくるでしょう。なぜなら、彼(彼女)は「後には……祝福されない」(同20:21)からです。

②復讐(箴20:22)—ここにおいて「箴言」は、悪を働かれたがために、復讐したいと誘惑されているらしい犠牲者を扱っています。その助言は、「主に望みをおけ」です。そうするときにのみ救われます。これは、もしあなたが復讐を企てるなら、深刻なリスクを冒すことになる、ということを暗に意味しています。箴言25:21、22は、敵の頭に炭火を積む(後悔や回心を表明するエジプト人の儀式)という比喩を用いて同じ諭しを強調しています。もしあなたが復讐を思いとどまるなら、あなたは主によって救われ、その過程であなたの敵をも救い、善をもって悪に勝つことになると(ロマ12:21)、箴言20:22は約束しています。

貧しい人への憐み

人の品性は、知恵や宗教的な献身によってよりも、貧しい人や困っている人を助けようとする心の備えによって量られるものです。あなたの品性を量るのは、あなたが持っているものではありません。隣人にとってあなたがどのような人間であるかが、品性の尺度です。隣人を救ったあのサマリア人は、霊的な祭司よりも神の国に近づいていました(ルカ10:26~37)。「箴言」はこの優先順位を強調し、説明しています。

神のために—これを優先する第一の理由は、貧しい人に対する人間の憐みを宗教的な熱意よりも好まれる神御自身にあります(箴19:17、21:13)。貧しい人に対するあなたの思いやりや、彼らのための具体的な行動は、あなたのいかなる信心深い行為よりも、神にとってずっと重要です。実のところ、神は個人的にそのような働きに関心があり、深く関与されるので、私たちが貧しい人に与えるとき、それはあたかも神御自身に与えたようなものです(マタ25:35~40)。

問3

マタイ25:35~40を読んでください。イエスが、必要を感じている人たちと御自分をどのように同一視しておられたかについて、これらの聖句はどのようなことを教えていますか。

貧しい人のために—第二の理由は、神が富める人と同様につくられた貧しい人にあります(箴22:2)。神がすべての人間を創造されたという人間同士の平等性のゆえに、貧しい人は富める人たちと同様に注目される価値があります。私たちが隣人を愛そうとするのは、神にかたどって造られた存在としての人であるということのゆえです。

その一方で、必要としている人を助けることが、あなたをどれほど利するかということを考えてください。私たちの基本的性質は利己的です。私たちはほかの人よりも自分自身に自ずと気を配る傾向があります。自分自身を差し出すことによって、私たちは自己に死に、キリストの御品性をよりよく反映できるようになります。私たちにとって、これ以上に価値あるものが何かあるでしょうか。

教育

「教育」に相当するヘブライ語は、「築く」とか「始める」といった意味を持つ言葉に由来します。つまり、こういった意味が、ヘブライ人の教育という概念の中にはすべて含まれています。私たちが「若者を……教育(する)」(箴22:6)とき、私たちは築き、始め、未来の土台作りをしています。それゆえ、親や教育者は子どもたちの将来に、つまりは世界の未来に責任があります。きょう、私たちが子どもたちにすることが、来るべき世代の社会に影響を及ぼすでしょう。

箴言22:6を読んでください。子どもたちを正しく教育することの重要性について、この聖句は語っています。

意義深いことに、ヘブライ語の「教育」という言葉は、神殿をささげるときの「奉献」(王上8:63)という言葉とまったく同じです。早期教育は、神殿が神にささげられたように、私たちの子どもを神にささげることを意味するのです。その教育は、私たち自身の人生さえ超えて、私たちの救いに影響を及ぼします。「両親には、子どもたちを未来の永遠の生命のために教育し訓練しなければならないという、大事業が委ねられています」(『希望への光—クリスチャン生活編』25ページ)。このような教育は、永遠にわたって影響を及ぼします。使徒パウロは、「この書物[聖書]は、……救いに導く知恵を、あなたに与えることができます」(IIテモ3:15)と言い、テモテが幼少時に聖書の訓練を受けたことをほめていますが、その際に彼は箴言22:6にそれとなく触れているようです。

箴言22:8、15を読んでください。教育は「種蒔き」にたとえることができます。私たちの社会や子どもたちの未来は、私たちが何を蒔いたかによって決まります。もし私たちの種が「悪」であれば、私たちの教育(「鞭」)は失敗し、災いを刈り入れることになるでしょう(箴22:8)。もし私たちの種が子どもたちの心を感動させるなら(同22:15)、私たちの教育の諭しは子どもたちの無知を彼らから遠ざけるでしょう。

さらなる研究

「親はいつも本当のことを言うということの良い模範でなくてはなりません。なぜならこれは日々子どもの心に印象づける必要のある教訓だからです。生活のあらゆる面、特に子どもの教育と訓練という面において、親は正しい原則に従う必要があります。……

ご両親がた、決してごまかしてはなりません。教える時であれ、実例を示す時であれ、本当でないことを決して言ってはなりません。真実であってほしいと子どもに願うなら、まずあなた自身真実でありなさい」(『希望への光—クリスチャン生活編』85ページ)。

「多くの父母たちは、子どもに食物を与え、衣服を着せ、世の標準に従って教育しさえすれば、もう自分たちは義務を果たしたのだと考えているようです。親たちは仕事や娯楽で忙しく、子どもたちの教育を、自分たちの生涯をかけての努力の対象とはしていません。彼らは、子どもたちが救い主をあがめるために、各自の才能を用いるように教育しようとはしていません。ソロモンは、『子をその行くべき道に従って教えよ、そうすれば年老いても、それを離れることがない』(箴言22:6)と言ったのであって、『子にその行くべき道を告げよ、そうすれば年老いても、それを離れることがない』と言ったのではありませんでした」(『希望への光—クリスチャン生活編』25ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2015年1期『箴言』からの抜粋です。

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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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