この記事のテーマ
聖書の中で、謙遜は重要な美徳と考えられています。そして、最も偉大な預言者モーセは、地上のだれにもまさって謙遜な人であったとされています(民12:3)。ミカ6:8によれば、神が民にお求めになる主要な義務は、「へりくだって神と共に歩むこと」です。イエスもまた、謙遜は、クリスチャンが身につけるべき究極の目標であると主張なさいました。「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」(マタ18:4)。
結局のところ、人は何を誇るべきでしょうか。呼吸も、心臓の鼓動も、才能も、能力も、すべては神から与えられるのであり、「我らは神の中に生き、動き、存在する」(使徒17:28)のです。そして十字架に照らして見るとき、私たちのあらゆる善行は「汚れた着物」(イザ64:5[口語訳64:6])のようなものにすぎません。だとすれば、私たちはどうして誇れるというのでしょうか。
今回は謙遜について考察します。私たちの状況を考えるなら、謙遜から程遠いというのは、なんと愚かなことでしょうか。
あなたは何者か
問1
箴言30:1~3、32、33を読んでください。これらの聖句は、どのようなことを述べていますか。
これらの聖句の中に見られる自己否定は、自分の知恵、業績、軍事的勝利をしばしば自慢したがった古代中東の王たちの自己称揚とはかなり違います。ソロモン王自身は、「世界中の王の中で最も大いなる富と知恵を有し(ていた)」(王上10:23、コヘ2:9)と記録されています。そして改めて言うまでもなく、「なんとバビロンは偉大ではないか。これこそ、このわたしが都として建て、わたしの権力の偉大さ、わたしの威光の尊さを示すものだ」(ダニ4:27[口語訳4:30])と豪語したネブカドネツァルのような王もいました。
「箴言」の著者は自分の無知を認めているので、誇ることを「恥知らず」と呼んでいます。この「恥知らず」に相当するヘブライ語は「ナバル」で、自分の行動によって愚かなうぬぼれの良い例となった、あのナバルの名前です(サム上25章)。うぬぼれを意味するこのような誇りは、屈辱、怒り、対立を当人に生じさせる可能性を伴っています。自分自身を賢いと思い、さらに悪いことに、それを誇っている教会員のことを、使徒パウロも「愚か者たち」と呼んでいます(IIコリ11:18、19)。
問2
ルカ18:9~14を読んでください。ファリサイ人のようになることは、なぜ人が思う以上に簡単なのですか。かすかにであっても、どうしたらこのようなわなに陥らないようにできるのでしょうか。
あなたは、(通常、不安を隠すために)誇る人たちを哀れに思うでしょう。それは、彼らがいかに勘違いをし、自分の真の姿を知らないかを示しているからです。
聖なる方の知識
うぬぼれは、個人的に主を知らない人たちの中に生じます。それとは対照的に、神との交わりの中に生きている人は、謙遜になるでしょう。なぜならその人は、私たちの中のだれよりもはるかに偉大な方と絶えず触れ合っているからです。宇宙の大きさについて考え、そのような宇宙を創造された方を私たちが礼拝しており、その同じ神が、イエスという人間として私たちのために十字架で苦しまれたのだと悟るとき、こういった思いをいつも抱きつつ、うぬぼれに苦しむなどということは考えられません。
問3
箴言30:3~6を読んでください。これらの聖句は、神の力、威光、神秘について、どのようなことを教えていますか。
「聖なる方の知識」(箴30:3、新改訳)という表現は、[「聖なる方を知ること」と新共同訳聖書で訳されているように]「神についての知識」を意味していると理解されます。そしてその次に、いくつかの修辞疑問が問われており、私たちがどれほど神を理解していないかを気づかせてくれます。
問4
箴言30:4の質問を読んでください。それらは、どのような挑戦を私たちに突きつけていますか。
神は創造主であられるので、私たちの理解をはるかに超えておられます。ヨブ記において神は、ヨブが神と神の道(方法)を理解できないことを自覚させようと、同様の質問を彼にぶつけておられます(ヨブ38章~40:2)。
神が創造主であられ、私たちが彼を十分に理解できないという事実は、学者たちが常に問題にしている、書かれた神の啓示を私たちがどのように受け取るべきかということに関して、重要な教訓を与えています。神の御言葉に(たとえそれが私たちをまごつかせ、当惑させるような箇所であっても)楯突く私たちは、一体何者でしょうか。自然界の中の最も単純なものさえ、私たちは曖昧にしか理解できず、疑問だらけだというのに……。
多すぎもなく、少なすぎもなく
箴言30:7~9には、「箴言」の中で唯一の祈りが記されています。この願いが、神を偉大な創造主として認め(箴30:4)、神の誠実さを約束すること(同30:5)の直後に続いているのは、偶然ではありません。
箴言30:7~9を読んでください。私たちが神に何かを願い求める前に、神と私たちの関係がしっかりしていることを確認することが重要です。もし私たちがうそをついているなら、私たちは、あらゆることを知っておられる神が、あたかも存在しておられないかのように振る舞っていることになります。だからこそ、私たちの罪の告白が赦しの前提条件です(Iヨハ1:9)。私たちは神をだませません。神は、私たちのありのままの姿をご覧になります。祈るとき、私たちは塵に伏す死者のように(哀3:29)ドラマチックにひれ伏すしぐさをします。このような行為は、私たちの畏敬の念と謙遜をあらわすとともに、神の前では自分が霊的に裸であるという自覚を示します。
箴言30:8において著者は、「貧しさも富も私に与え」(新改訳)ないでください、と神に願っています。聖書において、人間との関連で「与える」という動詞が最初に用いられているのは、神からの賜物である食べ物に言及している箇所においてです(創1:29)。ですから、多くの文化の中で、食べ物は伝統的に祈りと関係しています。この必需品は、私たちを創造主なる神に依存させ、祈りの体験を私たちの生存の中心に据えます。
二つの願いは、人間の品性のバランスを取ることを単に目指しているのではありません。いずれの願いも目指すところは一つ、神に栄光を帰すことです。私たちは、得るものが少なすぎれば、盗みを働いて神を侮辱する傾向があり、得るものが多すぎれば、神の必要を感じず、その存在すら否定しかねないからです。しかし、次の点は注目に値します。私たちが神から離れるのは、得るものが多すぎる状況だけであり、得るものが少なすぎる状況では、神との関係は保たれるであろうという点です。
「主の祈り」にも、同じ二重の関心事(考え)が含まれています。(1)「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」(マタ6:11)は、必要なものを必要なだけ備えてくださいということを、(2)「わたしたちを誘惑に遭わせず」(同6:13)は、私たちの必要を顧みてくださいということを含意しています。
高慢な者の行動
謙遜が好ましいことであり、祝福をもたらすように、謙遜を欠くことは危険であり、呪いをもたらします。箴言30章は、謙遜の報いと実を示すことでその美徳を奨励したあと、うぬぼれがもたらす危険について厳しく警告しています。
親を呪うこと(箴30:11、17)—著者のアグルは、この主題から始めています。なぜなら、子どもたちが自分の命の源を軽蔑するとき、それが最も深刻な高慢を象徴しているからです。そして意義深いことに、自分の親を敬い、祝福することが、命の約束に関係する唯一の掟であり(出20:12、エフェ6:2、3)、その違反には死刑が規定されています(出21:15、17)。
独善(箴30:12、20)—自分を正しいと考える罪人の状態は深刻です。というのも、彼らは、自分が清く、赦しを必要としていないと信じており、罪にとどまり続けるからです。これが、赦しを得るために罪の告白が不可欠だ(Iヨハ1:9)という理由です。(貧しく、目が見えず、裸であることに気づかず、)自分は富んでいて、知恵があり、良い身なりをしていると言い張るラオディキアの教会員たちは、彼らの惨めな状態を改善するための手段を神から得なさい、と勧告されています。
「ここに、霊的な知識と強みを有することを誇る人が描かれています。彼らは自分が受けるに値しない祝福を、神が与えてくださっても応答しません。反抗心と忘恩に満ち、神を忘れています。それでも神は、まるで寛大な父親が恩知らずで強情な息子に接するように、彼らにお接しになりました。彼らは神の恵みを拒み、特権を乱用し、機会を軽んじ、嘆かわしい忘恩と、うわべだけの形式主義と、偽善的で不誠実な状態に満足してきました」(『信仰と行い』96ページ)。
軽蔑(箴30:13、14)—高慢な者を描いた絵は、醜いものです。彼らは誇らしげな顔つきをしていますが、彼らの高慢は顔にとどまりません。それは、彼らが自分より劣っていると思う人たちに見せる軽蔑の中にあらわれます。「歯」や「牙」といった比喩は(箴30:14)、彼らの行動がいかに悪いものであるかを示しています。
自然からの教え
聖書全体を通じて、霊的真理を教えるために自然から採った比喩が用いられています。ここでも自然を用いることで、「箴言」は謙遜に関する教訓を私たちに教えています。
問5
箴言30:18、19を読んでください。人間の理解力の限界について、ここでもどのようなことが言われていますか。
アグルは、多くの「ありふれた」ものの中にさえ不思議を見ています。彼がここで挙げている不思議は、実に興味深い組み合わせです。最初の二つは動物に関するもので、音もなく空を飛ぶ鷲と音もなく地を這う蛇。アグルは次に、人間に関係する二つに目を転じます。海を行く船と女に向かう男です。今日でさえ、あらゆる科学的知識をもってしても、多くの不思議が残っています。私たちが命の深さと偉大さに対する感謝を失わないことは、なんと重要でしょうか。そのような態度は、私たちが神の前にいつも謙虚でいるための助けとなります。
問6
箴言30:24~28を読んでください。自然の中のほかの不思議で、著者の注意を引き、彼に畏怖の念を起こさせているものは、何ですか。
直前の聖句(箴30:20~23)が人間の愚かさ、高慢、不道徳を取り上げているのは、興味深いことです。著者は次に、動物の世界に目を転じます。彼は小さくて控えめな生き物を挙げていますが、その動物たちに対して、人間(同3:13)や神(ヨブ12:13、詩編104:24)に対して用いられているのと同じヘブライ語(「賢い」に相当する言葉)を使っています。今日でさえ、科学におけるあらゆる進歩をもってしても、彼らの行動の仕方を私たちは十分に理解しきれていません。ですから、動物たちの行動は、当時の賢者であったこの人をはるかに当惑させたに違いありません。しかし、彼は本当に賢かったのです。なぜなら、知恵があることの最大のしるしの一つは、ありふれたものに関してでさえ、私たちはほとんどわかっていない、と認めることだからです。
さらなる研究
「われわれは神のみ言葉を敬うべきである。聖書に対して崇敬の念を示し、これを凡俗のことに用いたり、不注意に取り扱ったりしてはならない。聖句を冗談に引用したり、気のきいた言い方を強調するために言い換えたりしてはならない。『神の言葉はみな真実である』『主のことばは清き言葉である。地に設けた炉で練り、七たびきよめた銀のようである』とある」(『教育』288ページ)。
「山の上で、キリストが民に語られた最初の言葉は祝福の言葉であった。自分の霊的な貧しさを認めて、あがないの必要を感ずる者はさいわいであるとイエスは言われた。福音は、貧しい人たちに宣べ伝えられるのである。福音は、霊的に高慢な人たち、すなわち自分は富んでいる、何も必要なものはないと主張する人たちに示されないで、へりくだり、くだけた心を持っている人たちに示される。……
自分自身の弱さを自覚し、すべてのうぬぼれを取り去って、自分自身を神の支配にまかせるまでは、主は、その人の回復のために何もすることがおできにならない。自分自身を神にまかせるときに、彼は、神が与えようと待っておられる賜物を受けることができる。必要を感じている魂にはどんなものも与えられないものはない」(『希望への光』821ページ、『各時代の希望』中巻3、4ページ)。
*本記事は、安息日学校ガイド2015年1期『箴言』からの抜粋です。