イエスの初臨【ルカによる福音書解説】#1 

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ルカによる福音書は、おもに異邦人に向けて書かれました。この福音書の宛先であるテオフィロが異邦人であったように、ルカ自身が異邦人だったのです(コロ4:10~14に暗示されています)。

ルカは医師であるとともに、几帳面な歴史家でもありました。福音書の導入部において、ルカはイエスを現実の歴史の中に位置づけています。つまり、ヘロデがユダヤの王であり(ルカ1:5)、アウグストゥスがローマ帝国を統治しており(同2:1)、ザカリアという名前の祭司がエルサレムの神殿で当番の務めを果たしていたとき(同1:5、8)という歴史的文脈の中に、その物語を置いています。3章では、イエスの先触れであったバプテスマのヨハネの働きに関連して、ルカは当時の年代を特定する六つのことを述べています。

このようにしてルカは、彼の物語[福音書]が決して神話だと思われないように、イエスの物語を歴史(現実の人々、現実の時代)の中に位置づけました。彼の読者は、イエスが実在され、「救い主……主メシア」(ルカ2:11)である彼を通して神が歴史に介入されたという事実に、畏敬の念を起こすに違いありません。

「順序正しく書い(た)」物語

使徒言行録1:1は、使徒言行録が書かれる前に、その著者が「先に第一巻を著し(た)」と述べています。このことと、いずれの物語もテオフィロに宛てられたものであるという事実は、二つの書が1人の著者によるものであるという結論に私たちを至らせます。この二つの物語は、「キリスト教会の起源と歴史」の第一部、第二部と見なされうるもので、第一部はイエスの生涯と働きに関する物語(ルカによる福音書)、第二部はイエスのメッセージと初代教会の普及に関する物語(使徒言行録)です。

問1

ルカによる福音書は、どのように書かれましたか。ルカ1:1~3とIIテモテ3:16を読んでください。

ルカは、エルサレムの町や各地を揺るがした出来事(イエス・キリストに関する事件)について、すでに書き記していた人を大勢知っていました。そのような著作物の情報源には、多くの「目撃して御言葉のために働いた人々」(ルカ1:1~2)—明らかに、イエスの弟子や同時代の人たち—が含まれていました。ルカ自身がこれらの目撃者や働き人(例えば、パウロや他の使徒的指導者たち)と接触しており、マルコやマタイによって書かれた福音書にも、たぶん触れていたのでしょう。明らかに、ルカはイエス物語の目撃者ではありませんが、信頼できる本物の改宗者でした。

マタイはユダヤ人の読者に向けて書き、イエスを偉大な教師、預言の成就、ユダヤ人の王として描きました。マタイは、キリストによって成就した旧約聖書の預言にしばしば言及しています。マルコは、行動の人イエスについて、ローマ人の読者に書きました。医師であり、異邦人であったルカは、普遍的なイエス—この世の救世主—についてギリシア人や異邦人に向けて書きました。ルカは、書く目的が二つあると述べています。「順序正しく書い(た)」(ルカ1:3)物語を献呈することと、新しい時代の偉大な教えに確実性を与えることです。イエスの確かさと同様に、真理の確かさが、ルカによる福音書のひとつの目的です。

「その子をヨハネと名付けなさい」

マラキ以後のほぼ400年間、神はイスラエルの歴史において際立って沈黙なさいました。その沈黙が、バプテスマのヨハネとイエスの誕生の告知によって、破られようとしていました。

ヨハネとイエスの誕生物語には、共通点があります。いずれも奇跡です。ヨハネの場合、エリサベトは出産可能な年齢をとっくに過ぎていましたし、イエスの場合は、処女が子どもを産もうとしていました。いずれの誕生の約束も、天使ガブリエルによって告げられました。いずれの告知も、神の御心に対する驚き、喜び、そして献身の心によって受け入れられました。また、いずれの幼子も、身も心も健やかに育ちました(ルカ1:80、2:40)。

しかし、この奇跡による2人の幼子の使命と働きは、明確に異なりました。ヨハネはイエスのための道備えをすることになっており(ルカ1:13~17)、イエスは「神の子」(同1:35)であり、メシア預言の成就でした(同1:31~33)。

ルカ1:5~22を読んでください。ザカリアは「非のうちどころがなかった」と書かれていますが、天使の告知に対して信仰が欠けていたために、叱責されました。イエスを信じる者にとって、「非のうちどころがな(い)」とはどのようなことを意味するのかを理解するうえで、ザカリアの話は助けとなります。

「ザカリヤに息子が生れることによって、アブラハムの子の誕生やマリヤの子の場合と同じように、とうとい霊的な真理、すなわちわれわれが学ぶのに手間どり、また学んでもすぐ忘れがちな真理が教えられるのであった。われわれは自分自身では何もよいことをすることができない。しかしわれわれのできないことが、神の力によって、すなおな信ずる魂のうちになされるのである。約束の子が与えられたのは信仰によってであった。霊的生命が生まれ、われわれが義のわざをすることができるのは信仰によってである」(『希望への光』710ページ、『各時代の希望』上巻97ページ)。

ヨハネの奇跡には、御自分の民の扱い方における神の明白な目的がありました。イスラエルの歴史において、預言者が不在であった400年ののち、ヨハネが特別なメッセージと大きな力を伴って、その歴史の中に突然あらわれました。ヨハネの使命とメッセージは、「民を主のために用意する」(ルカ1:17)でした。彼はメシアの先駆けとなり、イエスの宣教の道備えをすることになっていました。

「その子をイエスと名付けなさい」

イエス・キリストの誕生は、普通の出来事ではありませんでした。それは神の永遠のカレンダーの中で印を付けられており、「時が満ちると、神は、その御子を女から……お遣わしになりました」(ガラ4:4)。それは、罪がエデンに入った直後に神がなさった最初の約束の成就でした(創3:15)。

問2

次の聖句を読んでください(申18:15、使徒3:22~24、イザ7:14、マタ1:22、23、ミカ5:1〔口語訳5:2〕、ルカ2:4~7)。それぞれの聖句の預言は、イエスの誕生によって、いかに驚くべき形で成就しましたか。このことは、神の約束をすべて信じなければならない理由について、何を教えていますか。

ヨハネの誕生をザカリアに告知してから6か月後、ガブリエルはナザレのマリアにもっと大きな奇跡を伝えました。「[おとめである]あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」(ルカ1:31)。

イエスの処女降誕は、あらゆる自然に反することであり、自然や自然論的哲学によってそれを説明することはできません。マリアでさえ、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(ルカ1:34)と疑問を抱きました。すると天使は、聖霊の働きによってそうなるのであり(同1:35)、「神にできないことは何一つない」(同1:37)と彼女に断言しました。マリアが直ちに、信心深く従ったことは注目に値します。「お言葉どおり、この身に成りますように」(同1:38)。人間のあらゆる疑問は、それがいかに当然で理にかなったものであっても、神の答えには道を譲らなければなりません。天地創造や十字架であれ、受肉や復活であれ、マナが降ったことや五旬祭に聖霊が注がれたことであれ、神が主導なさる業は人間に降伏と受容を求めます。

マリアは、神の主権と永遠の目的に対する服従と降伏によって自分の疑問に答えましたが、ガブリエルはもう一つのすばらしい答えで彼女を確信させました。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(ルカ1:35)。

ベツレヘムの飼い葉桶

ルカは、歴史に言及することでベツレヘムの飼い葉桶の物語を始めています。ヨセフとマリアは、ローマの皇帝アウグストゥスから住民登録の布告が発せられたためにナザレの家を出て、先祖の町ベツレヘムへ旅立ちましたが、それは、キリニウスがシリア州の総督であったときのことでした。このような歴史的詳細は、ルカが聖霊に従っていたので、歴史の枠組みの中でキリストの受肉に関する詳細を記録できたのだろうと、聖書の学び手たちを理解に導くに違いありません。

問3

ルカ2:7で明らかなように、イエスの貧しさについて考えてみてください。「布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には……泊まる場所がなかった」ということと、パウロがフィリピ2:5~8で述べているイエスのへりくだりとを比較してください。イエスは私たちのために、どのような道を歩まれたのですか。

天の主は貧しい境遇の中に受肉されましたが、そのような境遇に関する話は、飼い葉桶を最初に訪れた羊飼いたちにつながっています。「大きな喜び」(ルカ2:10)の良き知らせがもたらされたのは、金持ちでも有力者でもなく、律法学者や祭司でもなく、その土地に君臨する支配者でも権力者でもなく、身分が低く、侮られていた羊飼いたちでした。メッセージの荘厳さと単純さに注目してください—「救い主があなたがたに生まれた。ダビデの町に。彼は主なるキリスト、油注がれた者。あなたがたは、布に包まれている彼を見つけるだろう」(同2:11、12、著者の私訳)。天の最も高価な贈り物が、このような粗末な包みでやって来ました。しかしその贈り物は、「栄光、神に……地には平和、御心に適う人に」(同2:14)もたらします。

天使に関するルカの記録(ルカ2:9~12)は、キリスト教神学における三つの重要な事柄を明らかにしています。第一に、福音の良い知らせは、「すべての民」(口語訳)のものであるということ。イエスにあって、ユダヤ人も異邦人も神の一つの民になります。第二に、イエスは救い主であるということ。つまり、ほかに救い主はいないということ。第三に、イエスは主なるキリストであるということ。これら三つの主題は、早い段階でルカによる福音書の中にはっきりと確立され、のちに使徒たちの(とりわけパウロの)説教の基礎になりました。

救い主の目撃者たち

おもに異邦人に向けて書いたとはいえ、ルカは、旧約聖書に基づくユダヤ人の伝統の重要性を知っていました。彼は新約聖書の物語と旧約聖書をしっかり結びつけ、マリアとヨセフがユダヤ人の掟に従って、生後8日目の赤子イエスに割礼を施してもらい、エルサレムの神殿に彼を連れて行くという場面を描いています(ルカ2:22~24)。

問4

ルカ2:25~32を読み、シメオンが明らかにしている救済の神学に関する三つのポイントに注目してください。つまり、救いはイエスによるということ、救いは神によって備えられるということ、救いはイスラエルだけでなく、すべての民のものであるということです。これらの真理は、黙示録14:6、7の第一天使のメッセージとどのように結びつきますか。

シメオンの預言は、イエスの働きの顕著な二つの特徴も予告しています。

第一に、キリストは「イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ……ています」(ルカ2:34)。確かに、キリストはすべての人に光と救いをもたらしましたが、受け取り手に代償が伴わないわけではありません。キリストに関しては、中立の立場というものがないからです。彼を受け入れるか、拒むかであり、人の救いは適切な応答によって決まります。キリストは、キリストだけを選ぶことをお求めになります。私たちは彼のうちにとどまるか、とどまらないかです。彼のうちにとどまる者たちは復活し、彼の国の一員になりますが、彼を拒んだり、無視する者たちは地に倒れ、希望なく滅びます。キリストに対する信仰には、交渉の余地がありません。

第二に、シメオンはマリアに、「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」(ルカ2:35)と預言しています。この言葉は、間違いなく、マリアが目撃することになるキリストの十字架に言及したものです。マリアとその後のあらゆる世代の人々は、キリストの十字架がなければ救いはないことを覚えておく必要があります。この十字架を中心として、救済計画全体が展開しているからです。

さらなる研究

「ルカによる福音書の著者ルカは医事伝道者であって、聖書の中で『愛する医者』と呼ばれている(コロサイ4:14)。使徒パウロは医者としての彼の名声を聞き、主が特別な働きを委任された人だと信じてルカを求めた。そして、彼の協力を得、しばらくの間、ルカはあちこちとパウロと共に旅行した。しばらくしてパウロはマケドニヤのフィリピにルカを残したので、そこで彼は数年の間、医者として、また、福音の教師として働き続けた。医者として病人に仕え、また、病める者の上に、神のいやしの力が加えられるように祈った。こうして、福音の使命を伝えるために、道が開かれた。医者として成功したので、異教の人々の間でキリストを宣べ伝える機会が多くなった。わたしたちも弟子たちのように働くことは、神の計画である」(『ミニストリー・オブ・ヒーリング2005』126ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2015年2期『ルカによる福音書』からの抜粋です。

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