イエス・キリストは何者か【ルカによる福音書解説】#3

目次

この記事のテーマ

イエス・キリストは何者でしょうか。この問いは、哲学的な引っかけ問題でも、社会学的な引っかけ問題でもありません。それは、人間は何者なのか、さらに重要なことに、永遠は人間のために何を用意しているのか、ということの核心に迫る問いです。

人々は、イエスの働きを称賛し、彼の言葉を高く評価し、彼の忍耐を激賞し、彼の非暴力を支持し、彼の断固たる態度を絶賛し、彼の無欲さを賛美し、彼の人生の残酷な最期に唖然として立ちすくむことはできます。社会状況を改善しようとした善人—不公正がある場所に公正を注ぎ込もう、病がある場所にいやしを与えよう、悲惨しかない場所に安らぎをもたらそうとした善人—としてイエスを受け入れる準備のできている人も、たくさんいるかもしれません。

確かにイエスは、最高の教師、革命家、卓越した指導者、人の魂の奥底まで探ることのできる心理学者といった名前を得ることも十分に可能でしょう。彼はこれらすべてであるとともに、それ以上でした。

しかし、これらの呼び名のどれ一つとして、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(ルカ9:20)という、イエス御自身が提起された極めて重要な問いに対する答えとしては程遠いです。これは答えを必要とする問いであり、人間の運命はその答えにかかっています。

イエスに対する反応

福音書を、そして新約聖書を読んでみてください。これらの書巻の至る所で、イエスがなさったことだけでなく、さらに重要なことに、イエスが何者であったのかということについて、驚くべき主張がなされています(言うまでもなく、イエスのなさったことは、彼が何者であったのかを力強く証明していました)。イエスは神であり、贖い主であり、彼だけが永遠の命に至る道である。私たちはこれらの主張に注目する必要があります。なぜなら、それらは、人間1人ひとりに永遠の影響を及ぼすという含みにあふれているからです。

ルカ4:16~30を読んでください(ヨハ3:19も参照)。最初、地元の聴衆は、多くの奇跡や不思議な業を行ったあとにナザレに戻って来られたイエスを見て興奮し、彼が語る「恵み深い言葉に驚(き)」(ルカ4:22)ました。しかし、イエスの叱責に対する彼らの反応は、どのような精神が彼らを駆り立てていたのかを示していました。

ルカ7:17~22を読んでください。イエスの先駆けであり、イエスを「神の小羊」と公表したバプテスマのヨハネでさえ、彼の魂に忍び寄る疑いを抱えていました。彼は、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」(ルカ7:19)ということを知りたいと思いました。

イエスがヨハネの質問に直接お答えになっていないことにも注目してください。その代わりにイエスは、大きな証拠となる行動を指摘しておられます。「足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」(ルカ7:22)。イエスはヨハネの質問に直接答える必要がなかった、と言うこともできます。イエスが何者であるかの証拠を、彼の振る舞いや行動が十分に与えていたからです。

神の子

「人の子」と「神の子」は、イエスが何者であるかを言いあらわすために福音書の中で用いられている二つの名前です。前者は肉体を持たれた神を指し、後者は神の第二のお方としての彼の神性を指しています。これら二つの名前はともに、イエス・キリスト、神であり、人でもあられる神という奇跡を熟考するようにと私たちを招いています。これは理解するのが難しい概念ですが、その難しさのゆえに、この驚くべき真理やそれがもたらす大いなる希望の価値が損なわれることは、決してありません。

問1

ルカ1:31、32、35、2:11を読んでください。これらの聖句は、イエスがいったい何者であるかということについて、どのようなことを述べていますか。

ルカ1:31、32において天使は、「イエス」という名前と、「神である主」がダビデの王座をお与えになる「いと高き方の子」とを結びつけています。イエスは神の子であり、またキリスト、地上の解放者としてではなく、神の王座を奪おうとするサタンの企てを永久に打ち砕く終末論的な意味においてダビデの王座を回復するメシアでもあるのです。その天使は羊飼いたちに、飼い葉桶の中の赤子は「救い主……主メシア」(ルカ2:11)であると告げています。

その一方、「神の子」という称号は、神におけるキリストの地位を認めているだけでなく、地上におられた間、イエスが父なる神と親しい密接な関係を持っておられたことを明らかにしています。

しかし、父なる神と子なる神の関係は、私たちが神との間に持っている関係と同じではありません。私たちの関係は、創造主にして贖い主なるキリストの働きの結果ですが、子なる神としてキリストが父なる神と持っておられる関係は、平等で永遠なパートナー三者としての関係です。イエスはその神性によって、父なる神と可能な限り親しい関係を維持なさいました。

「イエスは、『天にいますわたしの父』と言われることによって、ご自分が人性によって弟子たちと試練を共にする者として彼らにつながっておられ、また弟子たちの苦難に同情しておられると同時に、神性によって限りない神のみ座につながっておられることを、彼らに気づかせられる」(『希望への光』903ページ、『各時代の希望』中巻223ページ)。

人の子

イエスは、御自分が人の子であり、かつ神の子であることを十分に自覚しておられましたが(ルカ22:67~70)、私たちの救い主が好まれた自称は、「人の子」でした。この称号が登場するほかの例は、ダニエル7:13とステファノの言葉(使徒7:56)、そして黙示録1:13、14:14においてだけです。この呼び名は四福音書の中に80回以上登場し、そのうちの25回がルカによる福音書においてです。

ルカによる福音書における「人の子」という称号の使われ方は、受肉されたイエスの性質、使命、運命についてさまざまな洞察を与えます。

第一に、この称号はイエスを、この世の住所や安全を持たない人間と見なしています(ルカ9:58、7:34)。

第二に、ルカはこの称号をキリストの神性と地位を主張するために用いています。なぜなら、「人の子は安息日の主である」(ルカ6:5)からです。そしてそれゆえに、彼は罪を赦す権威を持った創造主でもあられます(同5:24)。

第三に、天地創造の前に神によって託された贖いの使命を果たすために(エフェ1:3~5)、人の子は失われた者を捜して救うために来られました(ルカ19:10)。しかし贖いそのものは、「人の子(が)必ず多くの苦しみを受け、……排斥されて殺され、三日目に復活する」(同9:22)までは成し遂げられません。人の子は、御自分の歩むべき道と、人類を罪から贖うために支払うべき値についてこのような認識を持っておられました。そのことは、贖いの計画が天に起源を持つものであることとともに、キリストが人性を取ることでこの計画に従っておられたことも明らかにしています。

第四に、ルカが記している苦しむメシアの描写がいかに完全であるかに注目してください。キリストは、御自分の十字架も(ルカ18:31~33)、裏切りも(同9:44)、預言の成就としての死も(同22:22)、十字架につけられて復活することも(同24:7、同11:30と比較)、父なる神の前における仲保者としての役割も(同12:8)、すべて予知しておられました。

第五に、ルカは終末における人の子を、御自分の聖なる者たちに報いを与え、大争闘を終わらせるために地球に戻って来られるお方と見なしています(ルカ9:26、12:40、17:24、26、30、21:36、22:69)。

要するに、「人の子」という称号には、キリストが何者であったのかという側面だけでなく、彼は何をするために来たのか、救済計画において彼は私たちのために何を成し遂げ、これから何を成そうとしておられるのかなど、さまざまな側面が包含されています。

「神のキリスト」

問2

ルカ9:18~27を読んでください。イエスはなぜ、すでに答えがわかっている質問を弟子たちになさったのでしょうか。

「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(ルカ9:20)。2000年前にイエスが問われたその質問は、歴史を通じて今もなおその答えを求めています。人々はさまざまな答えを出してきました。偉大な教師。造詣の深い倫理学者。真理の体現者。自己犠牲の大家。勇敢な預言者。社会の改革者。あらゆることの偉大な模範……。しかし、イエスの質問がペトロの唇から引き出した告白には、どの答えも及ばないでしょう。

自然を支配する力(ルカ8:22~25)、悪霊に命じる力(同8:26~35)、病をいやす力(同5:12~15、8:43~48)、ほとんど何もないところから5000人を養う力(同9:13~17)、死に打ち勝つ力(8:51~56)を示したのちに、イエスは、実のところ二つの質問を弟子たちにぶつけられました。一つは、人々がイエスをどう思っているのかということ。もう一つは、弟子たち自身がどう思っているのかということです。イエスは、御自分がまだ知らないことを知ろうとして質問なさったのではありません。そうではなく、御自分が何者であるかということが、実のところ、すべてを犠牲にするほどの献身を要求するものであることを彼らが理解するのを助けるために、主はお尋ねになりました。

「イエスに対するわれわれの知識は、間接であってはならない。人は、今日までイエスに対してのべられた評価、意見をことごとく知り、人間が研究したキリスト論のすべてをきわめ、イエスの教説に対する偉大な思想家、神学者の意見を完全に理解したとしても、そこで、クリスチャンであるとはいえない。キリスト教の信仰は、イエスについて知ることではなく、イエスを知ることである。イエス・キリストは個人的な判断を要求される。イエスはペテロばかりでなく、すべての人に問いかけられる、『あなたは—あなたは、わたしをだれだ言うか』と」(ウィリアム・バークレー『マタイによる福音書』〈下巻〉153ページ)。

イエスが問われた質問に対する私たちの答えは、「神のキリストです」(ルカ9:20)というペトロの告白に及ばないものにはなりえません。キリストは「油注がれた者」、つまりメシアのことで、彼の使命は政治的解放者のそれではなく、人類をサタンと罪の支配から解放し、義の国をもたらすであろう救い主です。

変貌

変貌に関する三つの福音書の記事と、この出来事に関するペトロの目撃談を読んでください(ルカ9:28~36、マタ17:1~8、マコ9:2~8、IIペト1:16~18)。ルカはこの物語を、マタイもマルコも触れていない細かいことから始めています。イエスは祈るために、ペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて山に登られました。イエスは目と心をエルサレムに向け、前途に待ち受ける苦しみの道を予見なさいました。イエスは、御自分がなそうとしていることが神の望んでおられることだと、確信したいと願われました。そのようなときに、確信を見いだすための唯一の方法は祈りです。祈っておられるうちに、たちまち神の栄光が人間であられるイエスに注ぎ出されました。「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」(ルカ9:29)。

変貌されたイエスは、御自分が「エルサレムで遂げようとしておられる最期について」(ルカ9:31)、モーセ、エリヤと話し合われました。この「最期」という言葉は、二通りに理解できます。まずは、エルサレムにおけるイエスの差し迫った死という意味。ただし、ここで用いられているギリシア語「エクソドス」は、死という意味ではあまり用いられません。それゆえ、この「最期」は、イエスがエルサレムで成し遂げようとしておられる大いなる「脱出」、罪からの解放をもたらす壮大な贖罪的「脱出」をも意味します。

三人の会談は、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」(ルカ9:35)という天からの承認の声で締めくくられました。この変貌によって、イエスは栄光の油を注がれ、御自分が子なる神であることを改めて保証され、贖いのために子なる神の命が犠牲になるであろうことを告げられました。それゆえ、弟子たちに対する天の命令は、「これに聞け」というものでした。イエスに対する服従と絶対的忠誠なくして、弟子ではありえません。

さらなる研究

「誤解されがちなキリストの人性に関するすべての質問を避けなさい。真理は憶測の小道のかたわらにある。キリストの人性を扱う際には、あなたの言葉がその意味するところ以上に受け取られないように、また、それによって神性と結びついている彼の人性に関するはっきりした認識を失ったり、薄れさせたりしないように、あらゆる断言を頑強に慎む必要がある。キリストの誕生は神の奇跡であった。……罪の痕跡、つまり罪の傾向がキリストにあったとか、キリストが多少なりとも罪に屈したというような印象を、人々の心にほんの少しでも残してはならない。キリストはあらゆる点において人間と同様に誘惑を受けられたが、彼は『聖なる者』と呼ばれている。キリストがあらゆる点において私たちと同様に誘惑を受けたのに罪を犯されなかったということは、説明できないまま人間に残されている神秘である。キリストの受肉はこれまでも、そしてこれからも、ずっと神秘のままだろう」(エレン・G・ホワイト『SDA聖書注解』第5巻1128、1129ページ、英文)。

*本記事は、安息日学校ガイド2015年2期『ルカによる福音書』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

よかったらシェアしてね!
目次