この記事のテーマ
三つの共観福音書の中で、ルカはイエスと聖霊の関係について、ほかの福音書よりも頻繁に述べています。マタイは12回、マルコは6回聖霊に言及していますが、ルカは福音書において17回、使徒言行録において57回も触れているのです。イエスの受胎(ルカ1:35)から世界宣教達成の命令に至るまで(同24:44~49)、ルカはイエスと聖霊との働きのうえでのつながりを見ています。そのつながりは、私たちの救い主の働きを理解するうえで不可欠です。同様にルカは、イエスの生涯と宣教活動における祈りの重要性も示しています。父なる神、聖霊なる神と等しく、人性を取られた完全な神であるイエスは、祈りのための模範を私たちに残されました。イエスが祈りの必要をお感じになったのであれば、私たちはその必要をどれだけもっと感じなければならないでしょうか。
「常に祈り、忠実に見張っていなければ、私たちは次第に不注意になって、正しい道からそれる危険があります。敵は恵みのみ座への道を遮って、私たちが熱心な祈祷と信仰によって、誘惑に耐え得る恵みと力を受けることができないように絶えず働いています」(『キリストへの道』改定版141ページ)。
イエスと聖霊
改宗した異邦人であり、使徒パウロの宣教の同行者であったルカは、キリストが歴史に介入されたことの全体—イエスの受肉から昇天、さらには教会の広がりに至るまで—を、聖霊によって導かれ、もたらされた神の奇跡と見なしました。私たちはイエスの生涯の中に、神性の全体が私たちの贖いのために働いておられるのを見ますが(ルカ3:21、22)、ルカは絶えず聖霊に言及することでこの点を強調しています。
問1
次の聖句は、キリストが肉体を取って地上に来られたことにおける聖霊の役割について、どのようなことを教えていますか(ルカ1:35、41、2:25~32)。
イエスの宣教活動は、聖霊に関するいくつかの言及をもって始まっています。ルカによれば、バプテスマのヨハネは予言していました。自分は水でバプテスマを施すが、あとから来るお方は聖霊によってバプテスマを授けるであろう(ルカ3:16)。イエスがバプテスマを受けられたとき、父なる神も聖霊なる神も、イエスの贖いの使命が本物であることをお認めになりました。父なる神は、キリストが人類を贖うために遣わされた御自分の愛する子である、と天上から宣言なさり、聖霊は、鳩のような形でキリストの上に降られました(同3:21、22)。そのときから、イエスは「聖霊に満ちて」(同4:1)、荒れ野で敵に立ち向かう準備とともに、御自分の働きを始める準備を完了しました(同4:14)。
ナザレにおけるイエスの説教の開口一番の言葉は、イザヤのメシア預言を御自分に適用したものです。「主の霊がわたしの上におられる」(ルカ4:18)。聖霊は絶えずイエスとともにあり、彼を励まし、彼が弟子たちの中からいなくなってからは、彼らのうちにとどまりました(ヨハ16:5~7)。それだけでなく、イエスは、聖霊の賜物を求める者にはそれを与える、と約束なさいました(ルカ11:13)。かつてキリストを父なる神と贖いの使命に結びつけられた聖霊は、信仰の旅路を行く弟子たちを力づける聖霊と同じお方です。それゆえ、クリスチャン生活において聖霊は極めて重要であり、聖霊に対する冒は、確かに、あらゆる罪の中で最も重い罪です(同12:10)。
イエスの祈りの生活
イエスは何度も祈られましたが、そのうちのいくつかは、ルカによる福音書の中にだけ記録されています。人生の重大な折々に祈っておられるイエスの姿を見せてくれる次の出来事に注目してください。
①イエスはバプテスマの際に祈られました(ルカ3:21)。イエスは、最終的には彼をカルバリーの十字架に連れて行く公生涯というもっと広い舞台に、祈ることなく上がろうとはなさいませんでした。
②イエスは十二使徒を選ぶ前に祈られました(ルカ6:12、13)。自分の弟子をやみくもに選ぶ指導者はいません。しかし、イエスは単に弟子を選ぶのではなく、彼の人格と使命を理解し、それに心から共感する者たちを選ぼうとなさっています。
③イエスは弟子たちのために祈られました(ルカ9:18)。弟子であるには、イエスにすっかり献身し、彼がどなたかを理解することが求められます。イエスが何者であるかを十二弟子にわからせるため、イエスは「ひとりで祈(り)」、それから重要な質問を彼らに投げかけられました。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(同9:20)。
④イエスは変貌の前に祈られました(ルカ9:28~36)。そして、「これ[イエス]はわたし[父なる神]の子」である、という二回目の天の承認をお受けになりました。これまでの試練も、これからやって来る試練も、父なる神と子なる神の間の密接な関係を変えることはできません。
⑤イエスはゲツセマネで祈られました(ルカ22:39~46)。救済史の中で、たぶんそれは最も重要な祈りでした。ここには天と地を結びつけている救い主がおられ、彼はそうすることで三つの重要な原則を確立なさっています。神の御心と目的が最も重要であること、流血と死を覚悟してでもそれを果たすために献身すること、神の目的を果たす過程であらゆる誘惑に打ち勝つ力が与えられること。
⑥イエスは御自分の命を神の御手にゆだねて祈られました(ルカ23:46)。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」という十字架上の最後の言葉の中に、イエスは祈りの究極の目的を与えておられます。生まれるときも死ぬときも、敵の前でも友の前でも、眠っているときも目覚めているときも、私たちは祈りによって神と常に結びついている必要があります。
手本となる祈り(その1)
ルカ11:1~4を読んでください。これらの聖句は、祈りの働きを理解するうえで助けとなります。
「父」というのは、神を言いあらわすためにキリストが好まれた言葉で、四福音書の中に少なくとも170回記されています。私たちは神を「父」と呼ぶことによって、神が人格を持ったお方、人間と親密な関係を持つことのできるお方であると認めています。神は人の父親と同じように、人間的で、現実的で、愛情深く、思いやり深いお方です。しかし、彼は「(天にいます、私たちの)父」(ルカ11:2、詳訳聖書)です。神は地上の父親とは違います。なぜなら、神は全知全能にして、遍在され、完璧に聖いのですから……。
「(天にいます、私たちの)父」という言葉は、神が聖く、人間的であられるということ、また、キリスト教が哲学的思想でも、すべてを神とする汎神論的考えでもないということを私たちに絶えず思い出させます。
「御名が崇められますように」(ルカ11:2)。ここにも、神の聖さ、神聖さを思い出させる言葉があります。主に従うと主張する者たちは、言葉と行いにおいて神の御名を聖別する必要があります。主に従うと言いながら、主に罪を犯す者は、御名を汚すことになります。マタイ7:21~23のイエスの言葉は、神の御名を崇めることの意味をよりよく理解する助けとなります。
「御国が来ますように」(ルカ11:2)。四福音書は神の国に100回以上言及しており、そのうちの40回近くがルカ、50回近くがマタイ、16回がマルコ、3回がヨハネにおいてです。神の国こそ、イエスが明らかにし、恵みの御国という目下の現実の中でとともに、栄光の御国という未来の約束の中に樹立するために来られたものでした。第一の国に入ることなくして、第二の国には入れません。そして救い主の願いは、彼の弟子たちが第二の国を期待しつつ、第一の国を体験することです。
「あなたのみこころが天で行なわれるように、地上でも、行なわれ……ますように」(ルカ11:2、詳訳聖書)。神の御心は天において承認され、実行されています。イエスはその事実を取り上げ、地上でもそのようになってほしいという希望に変えておられます。「地上でも」という言葉は、一般性ではなく、特定性を暗示しています。神の御心が地上で行われるようにしましょう。ただし、まずは私たちから、私たち1人ひとりから始めましょう。
手本となる祈り(その2)
「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」(ルカ11:3)。この願いは、英文だと「与えてください(give)」という言葉で始まっています。この言葉が億万長者の口から発せられたものであろうと、いつも事欠いている貧しい子どもの口から発せられたものであろうと、その祈りは依存と信頼のあらわれです。私たちはみな、神に依存しており、「与えてください」という差し迫った願いは、神があらゆる賜物の源であることを私たちに認めさせます。神は創造主です。私たちは彼のうちに生き、動き、存在しているのです。「主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの」(詩編100:3)です。
「わたしたちの罪を赦してください」(ルカ11:4)。「わたしたちも……赦しますから」(同)赦してくださいという祈りは、私たちが本当に神の赦しを心に受け入れたなら、私たちは他者をも喜んで赦す心構えができているであろうという事実を強調しています。つまり必然的に、私たちが他者を赦さないなら、私たちは神の赦しを本当には受け入れていないことになります。「神の赦しは、神が私たちを有罪宣告から単に解放してくださる司法行為ではない。それは罪の赦しであるとともに、罪からの更生でもある。それは、心を変える贖いの愛がほとばしり出たものなのである」(エレン・G・ホワイト『私を生かす信仰』129ページ、英文)。それゆえ、キリストの弟子である私たちは、広がりゆく神の恵みの輪—神の慈愛を受ける一方で、その愛と赦しを、私たちを傷つけたかもしれない相手にも与えること—の中で生きる喜びを持っているのです。
「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」(ルカ11:4)。二つの事実に注意する必要があります。第一の事実は、誘惑は罪でないということ。「誘惑」に相当するギリシア語は「ペイラスモス」です。語末が「……アスモス」で終わるギリシア語の名詞は、通常「結果」ではなく、「過程」をあらわします。聖書は誘惑を最終的な結果と見なしていません。それは特定の結果を生みだすために用いられる手段、過程です。誘惑は罪ではありませんが、誘惑に負けることは罪です。第二の事実は、誘惑を生み出すのは神ではないということ(ヤコ1:13)。神は、誘惑がやって来ることを許されますが、だれかをそそのかして罪を犯させるという意味で、神は決して誘惑なさいません。ですからこの祈りは、神が悪しき誘惑に抵抗する究極の力の源だ、と認めています。
祈りについてのさらなる教え
手本となる祈りを弟子たちにお与えになった直後、イエスは真夜中の友人のたとえ話(ルカ11:5~13)を通して、粘り強い祈りの必要性を彼らに教えられました。さらに、御自分の働きが終わりに近づいたとき、イエスは弟子たちに、祈りにおける懺悔とへりくだりの必要性を気づかせておられます(同18:9~14)。いずれのたとえ話も、祈りが単なる宗教的な日ではなく、父なる神と絶えずともに歩み、話し、生きることだと示しています。
ルカ11:5~8を読んでください。イエスは粘り強く祈ることを奨励するために、このたとえ話を語られました。祈りを型にはまった行動にしないようにしましょう。祈りは神との関係の基礎、神に対する絶対的、継続的な信頼の基礎です。祈りは魂の呼吸であり、それがなければ、私たちは霊的に死んでしまいます。イエスは、親切であることを拒否した1人の隣人についてのたとえ話を語っておられます。真夜中の急な必要を満たすために少しのパンを求め続ける彼の友人の訴えは、無駄に終わりかけます。しかし最後には、そのような隣人でさえ、真夜中の絶え間ないノックのしつこさに根負けします。神であれば、粘り強く祈る者に対してなおさらそうでしょう。ただし、そのような粘りは神の心を変えるのではありません。私たちの信頼する気持ちを強くします。
問2
ルカ18:9~14を読んでください。祈りに関するここでの重要な教えは何ですか。
そのファリサイ人は、自分がしたこと、自分の義の行いに基づいて、神が自分を支持してくださると思っていました。一方、その徴税人は神の憐れみにすがり、神の恵みによって受け入れられることを願いました。神が私たちを受け入れられるのは、私たちが何者であるかということによるのではなく、ただ神の恵みによってです。罪を悔い、謙虚で、魂の砕かれた者たちだけが、その恵みを受けることができます。
「柔和と謙遜が、成功と勝利の条件である。栄光の冠は、十字架のもとにひざまずく者を待っている」(『希望への光』606ページ、『国と指導者』下巻196ページ)。
さらなる研究
「日々真剣な祈りによって神を仰ぎ、助けとささえと力を求める魂は、気高い抱負を持ち、真理や義務についての明確な認識が与えられ、行動の目的も高められ、たえず義に飢え渇くようになる。わたしたちは神との結びつきを保つことによって、人々に接する時に、自分の心を支配している光と平和と落ち着きとを、彼らのうちにひろめることができる。祈りによって与えられる力と、人間の思慮深さを養おうとするたゆまぬ努力とによって、人は毎日の義務を行う力が与えられ、どういう立場に置かれても、心の平静を保つことができるようになる」(『希望への光』1158ページ、『思いわずらってはいけません』110、111ページ)。
「神を父と呼ぶことによって、わたしたちは神のすべての子らをわたしたちの兄弟と認めるのである。わたしたちはみな、人類という大きな織物の一部であり、同じ家族の一員である。祈りのうちに、わたしたちは、自分たちのことだけでなく隣人をも含めるべきである。自分のための祝福だけを求める者は、正しい祈りをささげているとは言えない」(『希望への光』1167ページ、『思いわずらってはいけません』137ページ)。
*本記事は、安息日学校ガイド2015年2期『ルカによる福音書』からの抜粋です。