十字架と復活【ルカによる福音書解説】#13 

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イエスは子どもの頃から、御自分が父なる神の御旨を成就するために地球に来られたことを知っていました(ルカ2:41~50)。最後の晩餐を祝ったあと、今や独りで歩き、神の御旨に従い、裏切られ、否認され、裁かれ、十字架にかけられ、そして死に打ち勝って復活すべき時がやって来ました。

生涯を通じて、イエスは十字架が避けられないことをご存じでした。英訳の四福音書では、‘must(必要、義務・命令、主張、必然、当然の推定などを表す助動詞)’という言葉がイエスの苦しみと死に関連して何度も用いられています(ルカ17:25、22:37、24:7、マタ16:21、マコ8:31、9:12、ヨハ3:14)。彼はエルサレムに行くことになっており、苦しむことになっており、排斥されることになっており、上げられねばならない、などです。何ものも神の御子がゴルゴタへ向かうのを思いとどまらせることはできません。彼は、十字架を拒否するようにといういかなる提案も、サタンから来たものとして非難されました(マタ16:22、23)。イエスは、「必ずエルサレムに行って、……苦しみを受けて殺され、……復活することになっている」(同16:21)と確信しておられました。イエスにとって、十字架への旅は選択肢の一つではありませんでした。それは、「起こるはずのこと」(ルカ24:25、26、46参照)、「多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現わされた奥義」(コロ1:26、新改訳)の一部でした。

ゲツセマネ—恐ろしい格闘

歴史の幕開けに、神はアダムとエバを創造し、喜ばしい生活に必要とされるすべてを備えた美しい園の中に彼らを置かれました。しかし間もなく、異常なことが起きました。サタンがあらわれました(創3章)。サタンは最初の夫婦を誘惑して、生まれたばかりの地球を善と悪、神とサタンとの激しい争闘の中へ投げ込みました。

さて、神が定められた時に、もう一つの園が激しい戦場になりました(ルカ22:39~46)。真理と虚偽、義と罪、人類を救済するという神の御計画と人類を滅亡させるというサタンの目的との戦いが繰り広げられる戦場となった園です。

エデンでは、この世が罪の惨事の中に投げ込まれ、ゲツセマネでは、この世の最終的な勝利が保証されました。エデンは、神に向かって自己主張する自我の悲劇的な勝ち誇りを目撃したのに対して、ゲツセマネは、自我の(神への)明け渡しと、罪に対する勝利を明らかにしました。

エデンで起こったこと(創3:1~6)とゲツセマネで起こったこと(ルカ22:39~46)を比較すると、それぞれの園で起きたことの大きな違いが見えてきます。ゲツセマネは二つの重要なものをあらわしています。一つは、神の使命と御目的からイエスを引き離そうとするサタンの最も悪質な試み、もう一つは、神の御心と御目的を果たすために神の力により頼む最も高貴な模範です。ゲツセマネは、いかに戦いが激しく、いかに自分が弱くても、祈りの強さを体験した者には勝利が確実であることを示しています。よく知られているように、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカ22:42)とイエスが祈られたとおりです。

サタンの全軍は、イエスに立ち向かい、イエスが大いに愛された弟子たちは、彼の苦しみに鈍感でした。汗が血のように滴っていました。裏切り者の接吻は間近に迫り、祭司や神殿の守衛たちが襲いかかろうとしていました。しかしイエスは、人生の大きな荷を背負うのに必要な力が、祈りと神の御心に服従することで魂に与えられることを示されました。

ユダ

ルカは、イエスが弟子たちを選ぶ前に夜を徹して山で祈られた、と記しています(ルカ6:12~16)。またイエスは、十二弟子が神からの贈り物であると信じておられました(ヨハ17:6~9)。ユダは、本当に祈りに対する答えだったのでしょうか。ユダの裏切りと背教の中でさえ神の御心は成就するということ以外に、私たちはここに記されていることをどのように理解したらよいのでしょうか(IIコリ13:8参照)。

非常に有能で、もう1人のパウロになりえたユダは、そうなることなく、まったく間違った方向に進んでしまいました。ゲツセマネの体験ができたはずの彼は、エデンにおける堕罪のような体験をしていました。

「[ユダは]貪欲という悪い精神を育てたので、ついにはそれが彼の生活の支配力となっていた。富に対する愛着は、キリストに対する愛よりも比重が大きかった」(『希望への光』1052ページ、『各時代の希望』下巻216ページ)。

イエスが五つのパンと二匹の魚で5000人を養われたとき(ルカ9:10~17)、その奇跡の政治的価値を真っ先に理解して、「キリストを無理やりにおしたてて王にしようとする計画に乗り出した」(『希望への光』1053ページ、『各時代の希望』下巻219ページ)のはユダでした。しかし、イエスはその試みを非難され、そこからユダの幻滅が始まりました。「彼の望みは大きく、その失望は激しかった」(同上)。ほかの人たちと同様、ユダは明らかに、イエスがその並外れた力を用いてこの世の国を設立なさるであろうと信じ、その国において何がしかの地位に就きたいとはっきり求めていました。なんという悲劇でしょうか。実現することのないこの世の国における地位を望む欲望が、必ず実現する永遠の国における地位を彼から失わせてしまいました。

また別の機会に、1人の信心深い女性信者がイエスの足に高価な香油を塗ったとき、ユダは彼女の行為を経済的無駄だと非難しました(ヨハ12:1~8)。ユダの目に入るのは金銭だけで、金銭に対する彼の愛情は、イエスに対する愛情を上回っていました。金銭と権力に対するこのような執着が、値の付けられないほど貴重な天国という贈り物に値札を付けさせました(マタ26:15)。それ以降、「ユダの中に、サタンが入」(ルカ22:3)りました。こうして、ユダは失われた魂になってしまいました。

イエスに賛成か反対か

キリストの十字架は歴史を大きく分けるもの—信仰と不信仰、信頼と背信、永遠の命と永遠の死を分けるもの—です。キリストの十字架に関しては、いかなる人間もどっちつかずの立場にはいられません。結局のところ、私たちはいずれかの立場を取っています。

「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」(マタ12:30)。私たちを少し居心地の悪い思いにさせる強い言葉ですが、イエスは単純に、現実の状況と、真理がキリスト対サタンの大争闘に深く関わっている者たちに引き起こすことを表現しているにすぎません。私たちはイエスの味方か、さもなければサタンの味方です。それは、はっきりしています。

問1

次の人たちはイエスとどのように関わりましたか。彼らの実例から、私たちはどのような教訓—私たち自身の神との関係や、キリストの十字架との関わり方に役立つ教訓—を得ることができますか。

①最高法院(ルカ22:66):議員たちはどのような過ちを犯しましたか。なぜ彼らは過ちを犯したのでしょうか。イエスをどのように見るかということに関して同様のことをしないように、私たちはどのように自分自身を守れますか。

②ピラト(ルカ23:1~7、13~25):ピラトは、「わたし(は)彼[イエス]に何の罪も見いだせない」(ヨハ19:4)と言いながら、イエスに十字架刑を宣告しました。何がピラトにそうさせたのでしょうか。正しいとわかっていることをしなかった彼の過ちから、私たちは何を学ぶことができますか。

③ヘロデ(ルカ23:6~12):彼の大きな誤りは何でしたか。私たちはその誤りから何を学ぶことができますか。

④2人の犯罪人(ルカ23:39~43):2人の罪人は同じ十字架を見て、異なる反応をしました。この場面は、救いというものの二者択一の側面をいかに明らかにしていますか。つまり、私たちは大争闘のいずれかの側に味方しています。

「あの方は……復活なさったのだ」

日曜日の朝早く、女性たちはたった一つの目的を持って—埋葬の儀式を仕上げるために—その墓へ向かいました。イエスと長い時間を過ごしたにもかかわらず、彼女たちは何が起ころうとしているのかをまったく理解していませんでした。空の墓を見ることになるとも、天の使いから「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」(ルカ24:6)と告げられることになるとも、まったく予想していませんでした。

女性たちはイエスの復活の直接の目撃者でした。彼女たちはこの良い知らせをほかの人に伝えようと飛んで帰りますが、だれもその話を信じません(ルカ24:11)。それどころか使徒たちは、贖いの歴史の中で最大の物語を、嘆き悲しみ、疲れ果てた女性たちの「たわ言」だ、と取り合いませんでした(同24:10、11)。

彼らは自分たちの間違いにどれほど早く気づく必要があったことでしょう!キリストの復活は、神の贖いの行為にとって、またクリスチャンの信仰と存在にとって基礎を成すものです。使徒パウロはこのことをはっきり述べています。「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(Iコリ15:14)。宣教が無駄であり、虚しいのは、キリストの復活の中にしか、私たちの復活の希望を見いだせないからです。その希望がなければ、私たちの人生はこの地上で、しかも永遠に終わります。しかしキリストの人生が墓の中で終わらなかったように、大いなる約束は、私たちの人生も終わらないということです。

「もしキリストが死者の中から復活しないなら、自分の民を救うという、神の贖いの行為の長い道は、袋小路、つまり墓で終わる。もしキリストの復活が現実でないなら、神が生きている神だという保証を私たちは失う。というのは、死に最終決定権があるということだからだ。信仰の対象が自身を命の主として証明できないのだから、信仰は無益だ。そのときキリスト教信仰は、キリストという、神の最終にして最高の自己啓示とともに墓の中に閉じ込められてしまう。もしキリストが本当に死んでいるなら」(ジョージ・エルドン・ラッド『新約聖書の神学』318ページ、英文)。

「必ずすべて実現する」

ルカ24:13~49を読んでください。イエスの復活は、彼がメシアであられることを証明するための十分な証拠になるはずでした。十字架にかけられる前に鞭打たれ、残忍に扱われ、最終的に槍を刺され、イエスは布に包まれて墓に納められました。ある者たちがからかって言ったように、たとえイエスが十字架にかけられ、葬られたあとも生きており、よろめくようにかろうじて墓から出て来られたとしても、その血まみれで、ボロボロで、弱り果てた姿は、だれもが想像するような勝利に満ちたメシアではなかったでしょう。

しかしイエスは、エマオへの道を2人の男と少なくとも数マイル歩けるほどに健在でした。しかもそのときでさえ、御自分の正体を明かされる前に、イエスは彼らに聖書を指し示し、御自分に対する2人の信仰のための揺るぎない聖書的根拠をお与えになりました。

次にイエスは、弟子たちの前にあらわれ、彼らに御自分の肉体を見せ、一緒に食事をなさったときに、それ以上のことをしました。イエスは彼らに神の御言葉を指し示されました。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」(ルカ24:46~48)。

ここにおいても、イエスは(御自分が生きており、弟子たちの中にいるという証拠に加えて)単に聖書を指し示すだけでなく、御自分に起こったことを彼らが正確に理解するのを助けるために聖書を用いられました。彼はまた、御自分の復活とあらゆる国の人々に福音を宣べ伝えることを直接結びつけておられます。

このように、御自分の正体を証明する強力な証拠がありながらも、イエスはいつも、御自分に従う者たちが神の御言葉を振り返るようになさったのです。そもそも、もし今日私たちの間に神の御言葉がなかったなら、この世に福音を宣べ伝えるという私たちの召しや使命を、どうやって知るのでしょうか。何が福音であったのかということさえ、どうやってわかるのでしょうか。ですから、聖書はイエスや彼の弟子たちにとって中心であったように、私たちにとっても中心です。

さらなる研究

「キリストの死の意義は、聖なる者たちや天使たちには理解されるであろう。堕落した人間は、天地創造の時から屠られた小羊なくして神の楽園に住むことはできなかった。だとしたら、私たちはキリストの十字架をたたえないであろうか。天使たちは誉れと栄光をキリストに帰す。なぜなら、神の御子の苦しみに目を向けなければ、天使たちでさえ安全ではないからだ。天の御使いたちが背教から守られるのは、十字架の効力によるのである。十字架なくして、彼らは、サタンが堕落する以前の天使たちと同様に、悪に対して安全ではない。天使たちの完全は天において損なわれ、人間の完全さは至福の楽園エデンで損なわれた。地上であれ天上であれ、安全を願う者はみな、神の小羊に目を向ける必要がある」(エレン・G・ホワイト『SDA聖書注解』第5巻1132ページ、英文)。

*本記事は、安息日学校ガイド2015年2期『ルカによる福音書』からの抜粋です。

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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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