新たな出発【エレミヤ書、哀歌―神の計画と私たちの役割】#7

目次

中心思想

失敗は決して喜ばしいことではありません。しかし、私たちの失敗は成功の踏み台になる場合があります。霊的な世界においてはとくにそうです。

アウトライン

  • もう一つの器(エレ18:I~12)
  • 対応するたとえ(ルカ15:11~24)
  • ペテロのゆるし(ルカ22:61、62)
  • 第一のものを第一にする(エレ7:1~7)
  • 将来に目を向ける(エレ24:I~10)

例示された神の愛

子供たちから「ウィリーおじさん」と呼ばれていたウィリー・デービスは、ジョージア州のある小学校の心優しい用務員でした。子供たちとその先生は彼のいのちでした。その「ウィリーおじさん」が最近、亡くなりました。

デービスは読み書きができませんでしたが、恵まれない子供たちに新たな出発をさせてやりたいと思っていました。彼は1学年の恵まれない子供たちを自分の生命保険金の受取人に指定しました。

「ウィリーおじさん」の夢を実現するために、その遺産の一部が備品を購入するためにすでに用いられ始めています。

これらの恵まれない、幼い子供たちに対するウィリー・デービスの思いやりは、反逆的なユダに対する神の大いなる関心をよく表しています。これらの子供たちとは異なり、ユダは初めからあらゆる点で恵まれていました。しかし、彼らは偶像崇拝を求めたために背信に陥りました。彼らは一時期、捕囚になりますが、それでも神は彼らに新たな出発をさせようと望まれました。

もう一つの器(エレ18:1~12)

質問1

主はご自分のゆるしと再創造の力を学ばせるためにエレミヤをどこにつかわされましたか。主はどんな挑戦的な質問をユダにされましたか。エレ18:1~6

使徒パウロは、「わたしたちは、彼〔サタン〕の策略を知らないわけではない」と言っています(IIコリ2:11)。敵の計画は私たちに罪を犯させ、罪悪感で押しつぶし、神の救いの恵みが無力であると信じさせることにあります。

ろくろに向かって仕事をしている陶器師の実物教訓は、国家的な改革がまだ可能であったエホヤキムの治世の初期に与えられたと思われます(エレ36:1~3参照)。陶器師が作ろうとした最初の器は失敗でした。しかし、彼は柔らかい粘土をもういちどこねて、新しい作品を作り上げました。

質問2

陶器師のたとえは被造物に対する神の主権を強調しています。陶器師がこのたとえの中で器を作り直しているのはなぜでしょうか。そこにどんな重要な原則が例示されていますか(エレ18:7~10)。ユダは神の警告と勧告に対して何と応答しましたか。エレ18:11、12

神は個人の選択権を侵害されません。神はご自分の民をゆるし、彼らに新たな出発をさせようとしておられました。しかし、その選択は彼らにゆだねられていました。彼らが悔い改めるなら、主はユダを再興し、彼らが拒むなら、主はユダを滅ぼされるのでした。神の契約の約束とさばきは神の勧告に対する人間の応答にかかっています。

エレミヤ書18:8、9において、ユダの選択に対する神の応答が「思いかえす」という言葉で表現されています。しかし、神の悔いは人間の悔いとは異なります。「人間の悔いは心の変化を言うのである。神の悔いは環境と関係の変化を意味する」(『人類のあけぼの』下巻300ページ)。

残念ながら、ユダの民の応答は絶望の叫びではなく、反抗の叫びでした。彼らはあからさまな軽べつをもって、新たな出発を促す恵み深い神の申し出を拒みました。私たちは彼らの足跡に従う必要はありません。悔い改めた罪人として、私たちは偉大な陶器師である神の御手のうちにとどまり、みこころのままに役に立つ器に造り変えていただくことができます。

対応するたとえ(ルカ15:11~24)

エレミヤの時代から600年後、イエスは放とう息子のたとえを語られました。その教えは陶器師の実物教訓と似ています。どちらのたとえも、かつては神の愛を喜んでいたのに、利己心という「遠い国」に出て行ってしまった人々に語りかけています。それらは共に悔い改めた罪人に新たな機会を与えようとする神の愛の深さを表しています。

質問3

イエスはこのたとえの中で、父親の息子に対する計画に背く次男の姿をどのように描写しておられますか。ルカ15:11~16

この若者は家庭生活に束縛されるのがいやになりました。彼は幸福に関して自分なりの考えを持っていました。彼は父親の財産を望んでも、その権威に従うことを嫌いました。自分を幸福にしてくれる権威を捨てて、自分を滅びに導く権威の奴隷になりました。

「外観がどんなものであろうと、自己を中心にしている人の生活は、浪費である。だれでも神を離れて生きようとするならば、自分の財産を浪費するのである。すなわち貴重な年月を浪費し、思いと心と魂の力を浪費し、自分を永遠の破産者にしようとしている」(『キリストの実物教訓』l81ページ)。

質問4

放とう息子を正気に返らせたものは何ですか。彼はどうしようと決心しましたか(ルカ15:17~20)。父親は悔い改めた息子をどのように迎えましたか(ルカ15:20~24)。このことは陶器師の経験とどこが似ていますか。エレ18:4~6

「哀れな罪人が立ち返り、自分の罪を捨てようと望むとき、主は彼が海い改めをもってみもとに来るのを厳しく引き止められるようなことがあるだろうか。そのようなことは絶対にない。……天の父なる神についてそのような考えを抱くことほど、あなた自身の魂を傷つけることはない。神についてのそのような観念は私たちの霊的生命に絶望感を与え、神を求め、神に仕えようとするあらゆる努力を妨害するものである。私たちは神を、宣告を下そうと待ち構えている裁判官のように考えてはならない。神は罪を嫌われる。しかし、神は罪人に対する愛のゆえにキリストにおいてご自身をささげられた。それは、望む者がすべて救われて、栄光の王国で永遠の祝福にあずかるためである」(『教会へのあかし』第5巻633ページ)。

ペテロのゆるし(ルカ22:61、62)

陶器師の経験(エレ18:I~12)も放とう息子の物語(ルカ15:11~24)も、たとえでした。それらが描いているのは神の計画であって、神の実際の行為ではありません。しかしながら、聖書には私たち自身のように神によって造り変えられた多くの人々のことが記されています。

質問5

ペテロの失敗はどんな欠点によるものでしたか。彼は何を最も必要としていましたか。ルカ22:31~34

質問6

ルカ22:54~60を読んでください。キリストはペテロの臆病な態度にどのように応答されましたか。ペテロはそれにどう応答しましたか。彼が悲しみのあまり自殺しなかったのはなぜですか(61、62節)。キリストはどのようにしてペテロを再出発させられましたか(ヨハ21:15~22)。まもなくペテロのうちにどんな変化が起こりますか。使徒4:13

ペテロの霊的状態が危機を迎えようとしていました。彼の失敗の原因として、(1)自分自身を高く評価していたこと(マタ26:33、35)、(2)不規則な祈りの生活(マタ26:40、41)、(3)自己犠牲の十字架を拒んだこと(マタ16:21~24)、(4)自分自身を過信していたことが考えられます。他人のことのように聞こえるでしょうか。ひょっとしたら、あなた自身のことかもしれません。

「ペテロを救った同じあわれみが、試練におちいったすべての魂にさし伸べられている。人に罪を犯させ、そのまま、絶望と恐怖の中に放任して、ゆるしを求めることを恐れさせるのは、サタンの特別の策略である。しかし神は、『わたしの保護にたよって、わたしと和らぎをなせ、わたしと和らぎをなせ』といっておられるのであるから、何を恐れることがあろうか(イザヤ書27:5)。

キリストは、ご自分のさかれた体を提供して、神の嗣業を買いもどされた。……〔ヘブ7:25引用〕。キリストは、彼の清い生涯、服従の生活、カルバリーの十字架の死とによって、失われた人類のためにとりなしをされた。そして、今わたしたちの救いの君は、単なる嘆願者としてではなくて、戦いに打ち勝った勝利者として、わたしたちのために、とりなしをなさるのである」(『キリストの実物教訓』136ページ)。

第一のものを第一にする(エレ7:1~7)

質問7

徹底的な変化のために、エレミヤはまず何を求めましたか。この割礼は何を意味していましたか。エレ4:3、4

いつまでも古い生き方や経験に固執しているなら、新しい霊的出発は不可能です(エペ4:22参照)。キリストを信じる者にとって、これは重要な「第1歩」です。

エレミヤの説教の基礎となっていたのは「律法の書」と言われるモーセの五書、とくに申命記でした。モーセによれば、霊的な割礼には神に対するかたくなで強情な態度を捨て(申命10:16)、その代わりに神と神のみこころに対する真心からの献身を養う(申命30:6)ことが求められました。

質問8

のちに神殿の前で説教したときにも、エレミヤは徹底的な改革を求める神の要求をどのように繰り返しましたか。エレ7:1~7

異教の偶像崇拝がまことの神の礼拝に取って代わっていましたが、形式的な神殿礼拝だけは続いていました。しかし、態度と生活が徹底的に変化しないかぎり、ユダに新たな出発は起こらないのでした。

「流れが清くなるには、心の泉がきよめられなければならない。……クリスチャンの生活は古いものを修正したり改良したりすることではなくて、性質が生れ変ることである。自我と罪に対する死があり、まったく新しいいのちがある。この変化は聖霊の効果的な働きによってのみ行われる」(『各時代の希望』上巻201、202ページ)。

質問9

いろいろな所で教えられている新生の経験(エゼ36:26、27、ヨハ3:1~17)が、新たな出発に欠かせないのはなぜですか。エレ13:23

信仰生活を喜びの経験でなく苦しみの経験と感じる理由の一つは、心の中で罪と偶像を大事にしながらキリストに従おうとしているからです(マタ6:24、『青年への使命』112ページ参照)。

将来に目を向ける(エレ24:1~10)

ユダは陶器師と粘土の実物教訓に示されていた新たな出発についての申し出を拒みました(エレ18:12)。しかし、神は捕囚という訓練を通してご自分の民に新たな出発をさせたいと望んでおられました。

質問10

紀元前597年の捕囚からしばらくして、エレミヤにどんな不思議な幻が与えられましたか(エレ24:1~3)。だれが捕囚となっていましたか。列王下24:10~16

二つのかごに盛られたいちじくはバビロンとユダに分割されたユダヤ人社会を表していました。

質問11

捕囚民は神の怒りにあい、残った人々は守られたのだと、私たちは考えるかもしれません。しかし、神はだれを「良いいちじく」とみなしておられますか(エレ24:5)。彼らに対する神の計画は何でしたか。6、7節

バビロン捕囚は容易にユダヤ教と真の信仰を根絶やしにしていたはずです。バビロンのユダヤ人は大部分、背信していましたが、彼らとその子孫には国家再建の可能性が残されていました。エレミヤの書き物を通して(ダニ9:2)、またとくにエゼキエルの働きを通して(エゼ2、3)、神は長い捕囚のあいだ真理の光をともし続けられました。残りの者たちは神の恵み(新しい心)を受け入れ、その契約関係を更新するのでした(エレ24:7、エゼ36:24~28)。神は彼らを再びパレスチナに住まわせられるのでした。

質問12

神はエレミヤに対してバビロンにいるユダヤ人に手紙によってどんな勧告を与えるように告げられましたか(エレ29:1~10)。神が彼らに建て、植え、めとり、家族を育てるように望まれたのはなぜですか。神はどんな霊的訴えをされましたか。11~14節

神の摂理は私たちには不可解に思われます。終わりに思われるものがしばしば新たな出発点となります。精錬者なる神の用心深い監視のもとで、戦争と追放という厳しい試練が銀(エレ24:5~7)からカス(8~10節)を取り除き、新たな出発を可能にさせつつありました。

まとめ

粘土の器を造り直そうとしている陶器師のたとえ、放とう息子についてのイエスのたとえ、キリストを拒んだあとで立ち直ったペテロ―これらはみな一つの重要な教訓、すなわち失敗や背信は必ずしも有意義な人生の終わりではないことを教えています。

「やり直しのきく国」があります。真の悔い改めをもって神のみもとに来る者たちを完全に救うことはキリストの栄光です。

*本記事は、安息日学校ガイド1994年2期『エレミヤ書、哀歌 神の計画と私たちの役割』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会口語訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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