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4:1ところがヨナはこれを非常に不快として、激しく怒り、 4:2主に祈って言った、「主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。 4:3それで主よ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」。 4:4主は言われた、「あなたの怒るのは、よいことであろうか」。 4:5そこでヨナは町から出て、町の東の方に座し、そこに自分のために一つの小屋を造り、町のなりゆきを見きわめようと、その下の日陰にすわっていた。ヨナ4:1-5(口語訳)
ヨナにとって悪であった
ところがヨナはこれを非常に不快として、激しく怒り、ヨナ4:1(口語訳)
「非常に不快として」は原語のヘブライ語では「悪である」と「間違っている」いうニュアンスがあり、強い表現で書かれています[1]。
また「激しく怒り」と訳されているヘブライ語ハガーは、献げ物が受け入れられなかったときにカインが「大いに憤った」という表現(創世記4:5)などに使われ、燃え上がるような強い怒りの表現であるとわかります[2]。
「わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか」(ヨナ4:2)と、ヨナが主張している通り、ヨナのタルシシへの逃亡の動機とも大きく関わる問題だったのです。
アッシリアの悪を知っていたヨナにとってみれば、敵国であるニネベがゆるされるのは理解できず、受け入れがたいことだったのではないでしょうか[3]。それだけでなく、ヨナの預言者としての評判にも関わることでした。
彼は、神の恵みが悔い改めたニネベ人をゆるしたことを喜ぶかわりに、自分勝手で罪深いプライドによって憤慨しました。自分が預言したことが実現しなかったので、自分が偽預言者とみなされるのではないかと思ったのです。彼にとって、評判はアッシリアの首都にいるすべての魂よりも価値がありました。また、この預言が成就しなかったために、神の未来についての知識が異教徒の間で信用されなくなると考えたかもしれません[4]。
預言者はその預言が成就するかどうかによって、偽物か本物であるかを判別されていました(申命記18:21,22、エレミヤ29:9参照)。
つまり、ヨナの預言が成就しなかったというのは彼の評判を傷つける可能性があるものだったのです。
彼は、そうせずに、自分が偽預言者であると思われるのではないかとばかり心配したのである。彼は、自分の名声を守ることに心を奪われて、その悲惨な町のなかの人々に、大きな無限の価値のあることを忘れていた[5]。
ヨナは自分が人からどう見られるかを優先して、神の思いよりも自分の感情を優先させていきました。
災いを思い起こされる神
なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。ヨナ4:2(口語訳)
「人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである」(ヤコブ1:19)と言われているように、「怒ることおそく」あることはクリスチャンが持つべき特性であるとされています。
ヨナが自分の思い通りにならなかったときに「激しく怒り」、神にその思いをぶつけるのに対して、神は「怒ることおそく」、ヨナに対して具体的に言葉を投げかけられるのは4節と9節、10節、11節のたった4節だけです。
それまでヨナがどんなに神の思いを無視して、神の思い通りに動かなかったとしても、何も言われていないのです。
ヨナ書全体を通して、神が「怒ることおそい」方であることがはっきりと示されています。そして、神は悔い改めるならば、必ず救われる方なのです。
あなたの怒るのは、よいことであろうか
主は言われた、「あなたの怒るのは、よいことであろうか」。ヨナ4:4
「あなたに怒る資格はあるのか」とも訳されるこの言葉はヨナの問題を鋭く指摘しています[6]。ヨナは神のあわれみによって自分自身も救われたことを忘れていたのです(ヨナ1:17)。
しかし、恩知らずで自分勝手なヨナが事の顛末を見届けるために、ニネベの近くに小屋を建てることを、神は許されます。
「小屋」を意味するヘブライ語のメスコーモ(ヨナ書に出てくるのは単数形のメスカーモ)は、ユダヤ人の「スコーの祭り」、つまり「仮庵の祭り」の名前にもなっています[7]。
年に一度、小屋をつくって仮庵の祭りを祝う習慣がイスラエル人にはあります。
これは出エジプトの後の荒野における放浪を記念するもので、神に導かれていることを感謝する祭りでした(レビ23:43)。この祭りによってイスラエル人の歴史が、究極的には罪の赦しである贖いの上に立っているという事実を、彼らは確認するのでした。
小屋を建てたときに、仮庵の祭りを思い出し、霊的にも肉体的にも死んでいったところから救われた嵐の経験をふり返る機会がヨナにはありましたが、怒りのあまり忘れていってしまったのです。
そして、彼は「町のなりゆきを見きわめようと」するのです(ヨナ4:5)。
神はこのヨナの行動をとがめません。むしろ続く6節からを見てみると、神はヨナに対して神の判断の正当性を理解させようと働きかけるのです。
このような神の行動はソドムとゴモラを滅ぼすときにも見られました(創世記18:17-21)。神はアブラハムにソドムとゴモラを滅ぼすことを告げ、その判断が正しいかどうかを明らかにするために調査されます(創世記18:21)。
このような段階を踏まずに滅ぼすこともできましたが、あえて神はこの段階を踏まれるのです。その理由はアブラハムとの関係でした。
もし、アブラハムに告げずに実行していたならば、神への不信が彼を襲ったことでしょう。それを防ぐために、神はアブラハムのところへ行くのです。このヨナの話でも、同じ動きが見られます。ヨナの神への不信を消し去るために、ヨナが納得できるまで、神の判断の正当性を考えられるように、ヨナがニネベに留まることを許されました。
まことに主なる神はそのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない。アモス3:7(口語訳)
まとめ―適用―
神は怒ることおそく、また忍耐強く関わりを持ってくださるお方です。わたしたちは一時の感情で揺さぶられてしまう弱さを持っていますが、そのわたしたちに対して忍耐強く、時間をかけて、神は関わりを持ってくださるのです。
わたしたちが不満をぶつけるとき、心の中にはヨナのように自分に対する思いしかありません。そこには神が考えておられる思いはないのです。そのようなわたしたちに、神はご自分の思いを共有するために長く忍耐していてくださるのです。
[1]Stuart, D. (1987). Hosea–Jonah (Vol. 31, pp. 501–502). Dallas: Word, Incorporated.
[2]Koehler, L., Baumgartner, W., Richardson, M. E. J., & Stamm, J. J. (1994–2000). The Hebrew and Aramaic lexicon of the Old Testament (electronic ed., p. 351). Leiden: E.J. Brill.
[3]Rubin, B. (Ed.). (2016). The Complete Jewish Study Bible: Notes (p. 835). Peabody, MA: Hendrickson Bibles; Messianic Jewish Publishers & Resources.
[4]Nichol, F. D. (Ed.). (1977). The Seventh-day Adventist Bible Commentary (Vol. 4, p. 1006). Review and Herald Publishing Association.
[5]エレン・G・ホワイト『明日への希望』「国と指導者 22章」福音社、493頁
[6]Stuart, D. (1987). Hosea–Jonah (Vol. 31, pp. 503–504). Dallas: Word, Incorporated.
[7]ジョアン・デイヴィドソン『安息日学校聖書研究ガイド ヨナ書』セブンスデー・アドベンチスト世界総会安息日学校・信徒伝道部、77頁