エルサレムからバビロンへ【ダニエル―主イエス・キリストの愛と品性の啓示】#2

目次

この記事のテーマ

聖書は、堕落した人間の弱さを示すことを避けたりしません。創世記3章以降、人間の罪深さとその悲しい結果が目立つように並び記されています。その一方で、忠実とは程遠いことをするように強く促されたときでさえ、神に対するすばらしい忠実さを示した人たちの実例も目にします。そのような忠実さの最も感動的な例のいくつかが、ダニエル書の中に見られます。

しかし私たちがダニエル書を研究するとき、この書の真の英雄は神であられることを心に留めましょう。私たちはダニエルと彼の友人たちの忠実さを強調する物語に慣れているので、バビロン帝国の権力と魅惑に立ち向かった4人の青年を導き、支えてくださったお方の忠実さを称賛することを忘れる可能性があります。忠実であることは、自分の国や自分の家でも十分に大変なことですが、外国において異文化や宗教の圧力にさらされるときはなおさらです。しかし、この人間の主役たちは、そのような困難を乗り切ります。彼らは使徒パウロのように、「自分が信頼している方を知っており」(Ⅱテモ1:12)、そのお方を信じていたからです。

神の主権

一見すると、ダニエル書は敗北という重苦しい調子で始まっています。ユダはネブカドネツァルに降伏し、神殿の祭具はエルサレムからシンアルの地に持ち去られました。「シンアル」という言葉は、バベルの塔のあった場所として創世記11:2に登場しています。シンアルは不吉なしるしです。というのも、それが神への公然たる反抗に根差した事業計画を示唆しているからです。しかし、たとえバベルの塔の建設者たちが天に到達しようとする企てに失敗したとしても、外見上、ネブカドネツァルと(シンアルの地にあった)彼の神々は、イスラエルの契約の神を圧倒したかのように見えます。

それでもダニエル書の冒頭の数行は、エルサレムの敗北がバビロンの王の優れた力によるものでないことを明らかにしています。そうではなく、エルサレムが負けたのは、主が、「ユダの王ヨヤキム……を彼〔ネブカドネツァル〕の手中に落とされた」(ダニ1:2)からでした。神はかなり早い時期に、万一御自分の民が神を忘れ、契約を破るなら、彼らを捕囚として外国の地に送ると告げておられます。ですからダニエルは、バビロンの軍事力の背後で(その軍事力を超えて)、天の神が歴史の流れを導いておられることを知っています。神の主権に対するこのような明確な考えがこれらの青年を支え、バビロン帝国の誘惑と圧力に立ち向かう力と勇気を彼らに与えたのです。

問1

列王記下21:10~16、24:18~20、エレミヤ3:13を読んでください。なぜ神は、ユダとエルサレムをバビロニア人の手に渡されたのですか。

私たちは21世紀の困難に直面するとき、ダニエル書の中に鮮やかに描かれている神の概念を捉え直す必要があります。ダニエル書によれば、私たちが仕える神は、その主権によって歴史の諸勢力を動かすとともに、御自分の民が困ったときに大切な支援を提供するため、彼らの人生に憐れみ深くも介入してくださいます。そしてあとから見るように、神は終末時代の御自分の民のために、(さまざまな攻撃が彼らと彼らの信仰を襲ったとしても、)捕囚となったヘブライ人たちのためになさったことをしてくださるのです。

圧力下の信仰

問2

ダニエル1章を読んでください。同調するようにと、これらの青年たちにはどのような圧力がかけられましたか。

バビロンに到着するなり、この4人の青年は彼らの信仰と確信に対する極めて深刻な問題に直面しなければなりませんでした。彼らは王に仕えるための特別な訓練を受けるよう選ばれたのです。古代の王は、宮殿で仕えさせるために最高の捕虜の中の何人かをしばしば採用したものでした。そうすることで、彼らの忠誠心を、彼らを捕らえた帝国の王とその神々に切り替えさせたのです。実際に、そのすべての過程は、最終的に世界観を変えてしまう、ある種の改宗や洗脳をもたらすように意図されていました。その過程の一環として、ヘブライ人の捕虜たちは自分の名前を変えさせられました。新しい名前は、所有者の変更、運命の変化を示唆しています。このように、バビロニア人は捕虜たちの名前を変えることによって彼らに対する権威を確立し、バビロンの価値観や文化を強制的に取り入れさせようとしたのです。青年たちのもとの名前は、イスラエルの神を指し示すものでしたが、外国の神々を称える名前に置き換えられました。それに加えて、王は、青年たちが王の食卓から食べなければならないと決定したのです。大昔、王の食べ物を食べることには深い意味合いがありました。それは、王に対する専心的忠誠と王に対する依存をあらわしたのです。そして、食べ物は通常、帝国の神々にささげられたので、それを食べることには深い宗教的意味もありました。それは明らかに、王の礼拝制度を受け入れ、それに参加することを意味しました。

このように、ダニエルと彼の友人たちは、気がつくと厳しい状況の中にいたのです。彼らが神に忠実であり続け、帝国の制度の圧倒的な力を切り抜けるためには、奇跡に等しいものが必要でした。さらに厄介なことに、バビロンの町そのものが人間の偉業の記念碑的しるしとして存在していました。バビロンの神殿の建造美、空中庭園、町の中を曲がりくねって流れるユーフラテス川が、比類なき力と栄光という印象を与えていました。そして、ダニエルと彼の友人たちは、出世の機会とこのような制度から得られる恩恵と繁栄を与えられたのです。彼らはヘブライ人の捕虜でなくなり、宮廷の役人になることができるのです。彼らは栄光への安易な道を歩むために、原則を曲げるのでしょうか。

揺るぎない決意

問3

ダニエル1:7~20を読んでください。ここでは二つの要因(ダニエルの自由意志と神の介入)のどちらが作用していますか。ここにはどんな重要な原則が存在しますか。

4人のヘブライ人の捕虜は、バビロン名を拒絶しなかったようです。おそらく、彼らがこのことに関してできることは、自分たちの間ではヘブライ名を使うこと以外、何もなかったのでしょう。しかし、王の食卓からの食べ物と酒に関しては、それを食べるか否か、自分たちで決めることができました。それゆえ、ここでは4人の自由選択がとても重要でした。

しかし、もし1人の役人が彼らの名前を変えることができるのであれば、彼は食事の内容も変えることができます。4人が王の食卓から食べたがらなかった理由は、おそらく二つありました。

第一に、王の食卓からの食事には、汚れた肉(レビ11章)が含まれている可能性があったこと。第二に、食べ物はまず偶像への食事としてささげられ、その後、王のもとへ運ばれたことです。それゆえ、ダニエルが言い逃れやごまかしといった手段に訴えることなく、自分の要求が宗教的動機に基づくこと(つまり、宮廷の食べ物が彼や友人たちを汚すこと)を明らかにしたとき(ダニ1:8)、彼はとても勇敢でした。

ダニエルとバビロンの役人とのやり取りを調べるとき、いくつかの重要な点が目につきます。第一に、ダニエルは役人の難しい立場を理解していたようで、試験を提案しました。代わりの食事の有益性を示し、役人の恐れを取り除くには、10日間が必要と考えました。第二に、それほどの短期間で前向きな結果が出るであろうというダニエルの確信は、神への絶対的信頼から生じていました。第三に、菜食と水という選択は、神が天地創造の際に人間に与えられた食べ物を指し示していました(創1:29参照)。その事実が、たぶんダニエルの選択にも影響を及ぼしています。結局のところ、神が最初に人間に与えられた食べ物よりも良い食べ物が、ほかにあるでしょうか。

身に傷がなく、賢明な

ダニエルと彼の友人たちは、宮廷の働きのために選ばれました。ネブカドネツァルが定めた方針に彼らが合致していたからです。王によれば、宮廷の役人たちは「身に傷がなく」(ダニ1:4、口語訳)、「容姿が美しく」(同)なければなりません。興味深いことに、聖所の犠牲も、聖所で働く人たちも、「傷(障害)のない」(レビ22:17~25、同21:16~24)ものでなければなりませんでした。バビロンの王は、宮廷で働く者たちに同じ資質を求めるという点に限って、自分自身をイスラエルの神になぞらえているかのようです。一方で、そのような資質は、ダニエルと彼の同胞がバビロニア帝国の挑戦を受けたとき、彼らが生ける犠牲であったことを図らずも示唆しているのかもしれません。

問4

ガラテヤ2:19、20、マタイ16:24~26、Ⅱコリント4:17を読んでください。これらの聖句は、私たちがいかなる誘惑の中でも忠実であり続けられることについて、何を教えていますか。

神は4人のヘブライ人捕虜の忠誠心に報いられ、その結果、10日間の試験期間が終わったとき、彼らは宮廷の食卓から食べていたほかの学生たちよりも健康そうで、栄養状態も良いように見えました。そこで、神はこの4人の僕たちに、「知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵」(ダニ1:17、新改訳)を与えるとともに、ダニエルだけは、「すべての幻と夢を解くことができ(る)」(新共同訳)ようにしてくださったのです。この賜物は、ダニエルの預言者としての働きにおいて、重要な役割を果たすことになります。

神は、バビロンの宮廷の僕たちの信仰に報いられたように、私たちがこの世の問題に直面するとき、知恵を与えてくださいます。私たちはダニエルと彼の友人たちの体験から、現代社会の腐敗した要素に染まらずにいることは確かに可能であることを学べます。また、神にお仕えするために、社会やその文化的生活から隔離する必要はないということも学べます。ダニエルと彼の友人たちは、うそ、誤り、神話の上に築かれた文化の中で生活をしただけでなく、そのようなうそ、誤り、神話に基づいた教育を受けました。それにもかかわらず、彼らは忠実であり続けたのです。

最終試験

問5

ダニエル1:17~21を読んでください。4人の青年の成功の鍵は何でしたか(ヨブ38:36、箴言2:6、ヤコブ1:5も参照)。

「バビロン大学」における3年間の訓練のあと、4人のヘブライ人は最終試験のために王の前に連れて来られました。彼らはほかの学生たちより健康であったばかりでなく、知識と知恵においても上回っていました。ただちに4人は、王に仕えるために雇われました。私たちは、この「知識と知恵」の多くが間違いなく異教信仰から成っていたことを忘れるべきではありません。しかし、彼らはそれを信じないまでも、とにかくそれを首尾よく学びました。

ネブカドネツァルは、その成績が宮廷の食事や、4人の学生が受けた訓練内容に関係していると考えたかもしれません。しかしダニエルと彼の友人たちは、(物語がはっきり示しているように、)彼らの優れた成績がバビロンの制度とは、まったく無関係であることを知っていました。すべては神からもたらされたのです。神を信頼する者たちのために、神がどのようなことをしてくださるかということのなんと力強い実例でしょう。神の子としての私たちの独自性を破壊するかもしれないメディア、政府、そのほかの機関の圧倒的な力を恐れる必要はありません。神に信頼を置くとき、困難な時にも神が私たちを支え、あらゆる不利な戦いから守ってくださると、私たちは信じることができます。信仰に対する挑戦に直面したとき、私たちにとって重要なのは、正しい選択をすることです。

ダニエル1章を見るとき、神に関する極めて重要な教訓をいくつか学ぶことができます。①神が歴史を支配しておられること。②私たちの文化や社会の中の敵対的環境を乗り切ることができるように、神が知恵を与えてくださること。③心の内の確信と生き方を通して神を信頼する者たちに、神は栄養を与えてくださること。

この章は、「ダニエルはキュロス王の元年まで仕えた」(ダニ1:21)という指摘で結ばれています。ここでキュロス王が言及されていることは重要です。その言及が、捕囚体験の中での希望を垣間見せているからです。キュロスは、神の民を解放し、彼らがエルサレムへ帰ることを許可するために、神から選ばれた人間でした。ダニエル1章は、敗北と捕囚という状況で始まっていますが、希望と帰郷を垣間見せることで終わっているのです。これが私たちの神です。私たちの人生の最も困難な時にも、神はいつも希望の窓を開き、私たちが苦しみのかなたにある栄光と喜びを見ることができるようにしてくださいます。

さらなる研究

「バビロンでのダニエルとその同僚たちの青年時代は、エジプトでのヨセフの初期の生活にくらべてはるかに幸運であったようにみえる。しかし、彼らもまたヨセフに劣らない激しい品性の試練をうけた。王族の血統をうけたこれらの青年たちは、比較的質素なユダヤの家庭から、最も繁華な都会へ、しかも時の最大の君主の宮廷へ移され、国王の特別の奉仕のために選び出されて教育を受けることになった。腐敗した豪奢な宮廷では彼らを取り囲んでいる誘惑は強かった。エホバ神の礼拝者たちがバビロンに捕囚の身となっていることやエホバの神殿の器具がバビロンの神々の寺院に納められていることや、イスラエルの王さえバビロン人の手中にとりことなっていることなど―こうした事実を数えあげて、勝利者たちは自分たちの宗教や風習が、ヘブル人のそれよりもすぐれているという証拠として誇った。こうした境遇のもとにあって、イスラエル人が神の律法を離れて自ら招いた屈辱そのものを通して、神はご自身の至上権と聖なるご要求と服従の確かな結果についての証拠とを、バビロン人にお示しになった。しかも神は、その唯一の方法として、神への忠誠心を堅く持ち続けている人々を通してこの証拠を与えられたのである」(『教育』51ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2020年1期『ダニエル書 主イエス・キリストの愛と品性の啓示』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

よかったらシェアしてね!
目次