信仰を守る【ペトロの手紙1―生ける望み】#10

目次

中心思想

クリスチャンは、有利なときも不利なときも、どんなときにでも自分の信仰をあかしするように求められています。現在における平和と喜び、将来における確信がどこからくるのかを、人々にあかしするのをためらってはなりません。

アウトライン

  • 祝福する者は祝福される(Iペテ3:8~12)
  • 信仰を守る(Iペテ3:13~17)
  • 福音の核心(Iペテ3:18)
  • イエスと獄に捕われている霊(Iペテ3:19、20)
  • バプテスマの意味(Iペテ3:21、22)

霊的因果の法則

ある路傍伝道者が正午ごろ、食堂に急ぐ人々に向かって熱弁をふるっていました。昼食時間が短いので、だれも立ち止まって耳を傾ける人はいません。説教者はその説教のあいまにときどき個人的な質問をはさんで、通行人に訴えかけていました。「あなたは罪の支払う報酬が死であることを知っていましたか」。「奥さん、あなたの心をイエスにささげるなら、平安が与えられますよ」。すると、ツイードの服を着た身なりのよい紳士が言いました。「あなたの話し方はだめだが、因果関係の理由づけだけは立派なものだ」。

イエスは霊的因果の法則の宣言者であって、次のように言われました。「人をさばくな。自分がさばかれないためである」(マタ7:1)。「おおよそ自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」(ルカ4:1)。

ペテロも因果の法則について教えています。「悪をもって悪に報いてはならない……それはあなたがたが祝福を受けることができるためである」(Iペテ3:9改訂標準訳)。「しかし、万一義のために苦しむようなことがあっても、あなたがたはさいわいである」(14節)。

祝福する者は祝福される(Iペテ3:8~12)

質問1 

1ペテロ3:8にあげられているクリスチャン品性の五つの特徴の根本にある原則は何ですか。

「キリストの御あとに従う者であると称していながら、ことばや態度が乱暴で不親切で無作法な人たちは、イエスを学んでいない人である。どなり散らしたりおうへいであったり、あげ足とりをしたりする人はクリスチャンではない。……彼らが誠実であることは疑いない。また彼らが正直であることも異議がない。しかし誠実で正直であることは、親切で礼儀の欠けていることの償いにならない」(『アドベンチスト・ホーム』486ページ)。

質問2

クリスチャンは虐待に対してどんな態度をとるべきですか。Iペテ3:9

ペテロがクリスチャンに求めているのは、虐待されてもただ忍耐強く耐えることではなく、むしろ積極的に善をもって悪に報いるということです。祝福をもって虐待に報いることはクリスチャンの義務です。それには報酬がともないます。神と神の民との永遠の契約という祝福は、善をもって悪に報いる人々のためにあります。

「まちがって非難されても、正しい人は冷静で思慮深い態度をとることができる。神は、人から誤解され、まちがったことを言われていることを全部ご存じであるから、問題を神のみ手にまかせて安心していることができる。神は……確実に、ご自分に信頼する人の主張を弁護してくださる。キリストの精神に動かされている人は、寛容で情深い愛の心をもつのである」(「人類のあけぼの』下巻151ページ)。

質問3

幸福で実り多い人生の秘訣として、ペテロは何をあげていますか。Iペテ3:10~12

これらの聖句はイエスの山上の説教の要約と考えられます(マタ5:33―48参照)。ペテロはきよい言葉と敵への愛についてのイエスの勧告を聞いていました。彼は辛い経験を通して、イエスが正しいことを学んだのでした。幸福というものは、人が私たちをどのように扱うかによってではなく、私たちの心を支配するキリストの愛によって決まります。

信仰を守る(Iペテ3:13―17)

質問4

義のために苦しむ人々はどのように考えるべきですか。Iペテ3:13、14

クリスチャンは苦しみの中にあっても安全で祝福に満ちています無実の罪で苦しむ者は神の特別な恵みを受けると、ペテロは言っています。肉体的、経済的、あるいは感情的な外面の苦しみは、私たちの心の平安やキリストとの深い交わりを奪うことができません。

質問5

神の民はどんな備えをしておくべきですか。Iペテ3:15

キリストを最高のおかたとして尊ぶことが、すなわち心の中で「キリストを主とあがめる」ことです。私たちは親切と優しさと敬意をもって、キリストを第一とする理由を人々に説明すべきです。ペテロのこの勧告が与えられたのは虐待と迫害という背景においてでした(13~17節)。クリスチャンは敵対的な質問者の前で自分の信仰の弁明をすべきであると、ペテロは言っているのです。これらの勧告が与えられた頃のクリスチャンは、自分の信仰のゆえに異教の裁判官や行政長官の前に呼び出されていました。彼らは強力に、しかし敬意をもって自分の信仰の理由を説明することによって、イエスの福音を弁護する用意をしておく必要がありました。

質問6

イエスによれば、私たちは信仰の弁明をする力をどこから受けますか。マタ10:19、20

信仰の弁明をする備えは日ごとになされるべきものです。時間をかけて学んだ神のみことばの真理は私たちの記憶の中に残ります。そして、私たちが自らの望みについて説明を求められるとき、聖霊は記憶の中に蓄えられたものを思い出させてくださるのです。しかし、もし今日の備えがなされないなら、明日、弁明をしようとして記憶が空白ということになりかねません。

福音の核心(Iペテ3:18)

質問7

「キリストも……ひとたび罪のゆえに死なれた」とは何を意味していますか(Iペテ3:18)。

福音の核心は、キリストが私たちの罪のために死に、生ける救い主としてよみがえられたということです。パウロはこの真理を「最も大事なこと」とみなしました(Iコリ15:3)。すでに学んだように、ペテロもこの真理を強調しています(Iペテ2:24)。必要ならば真理と正義のために苦しむことは神に喜ばれることであると、ペテロは教えています(Iペテ2:20を3:17と比較)。キリストの無実の苦しみはその最高の例です。

キリストは「ひとたび」死なれた(Iペテ3:18)

この真理は新約聖書のほかのところでも繰り返されています(ヘブ7:27、9:28、10:10参照)。キリストの一度限りの犠牲は、聖さん式がキリストのあがないの犠牲の繰り返しであるという考えを否定します。聖さん式は、キリストの一度限りの犠牲がすべての時代のすべての

人にとって十分なものであったことを私たちに思い起こさせるものです。

質問8

キリストの犠牲は、「あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために」なされたものでした(Iペテ3:18)。このことはキリストの犠牲についてどんなことを教えていますか。

ペテロは事実上、「義なるキリストは私たちを義とするために死なれた」と言っているのです。このことは、ペテロ第1.2:24の次の言葉を見れば明らかです。「わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた」。十字架上のキリストの一度限りの犠牲は罪の刑罰のための代価として完全なものでしたが、罪人のための彼の働きはそこで終了するものではありませんでした。私たちさえ受け入れるならば、キリストはその犠牲によって私たちの罪をゆるし、そのよみがえりによって私たちの生き方を変えてくださるのです。十字架前における生き方の変化はささげられるべき犠牲のゆえであり、十字架後における生き方の変化はささげられた犠牲のゆえです。

キリストはいかにして悔い改め、告白した罪人を義とされるのか

それは恵みにより、信仰によります(エペ2:8)。キリストの恵みは私たちの心に信仰を目ざめさせます。そして、キリストは聖霊の臨在によって私たちに義を与えてくださいます(ロマ8:9、10)。

質問9

イエスはどのようにしてよみがえられましたか(Iペテ3:18、ロマ10:9、ヨハ10:17、18比較)。イエスのよみがえりは私たちにどんな祝福をもたらしますか。

イエスと獄に捕われている霊(Iペテ3:19、20)

1ペテロ3:19、20の解釈は、死者の状態をどのように理解するかによって決まります。もし死後も人に意識があれば、イエスはノアの説教を通して与えられた神の恵みを拒んだ人々の、獄に捕われている霊に宣べ伝えることもおできになりました。死後の意識を信じる人はその根拠として1ペテロ4:6を引用します。「死人にさえ福音が宣べ伝えられたのは、彼らは肉においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神に従って生きるようになるためである」。しかし、聖書は死後の意識を支持していないので、ペテロの言葉に対して別の解釈を求めなければなりません。

質問10

次の聖句は死についてどんなことを教えていますか。マタ9:18、24、ヨハ11:11(Iコリ15:6、18~20、51、1テサ4:13、Ⅱペテ3:4比較)

聖書ははっきりと、死が無意識の状態であって、いわば眠りのようなものであると教えています。では、獄に捕われている霊どもとはだれのことでしょうか(Iペテ3:19、20)。それらは死者のことではありません。なぜなら、死者に意識がなく(眠り)、福音の招きを聞くことができないからです。

説明

アダム・クラークは獄に捕われている霊について正しい解釈をしています。「神に背いて、重大な罪を犯した洪水前の住民は神の正しい律法によって滅びの宣告を受けていた。しかし、彼らに悔い改める機会を与えるために刑罰はのばされた。忍耐強い神は、福音の彼らの悔い改めのために120年間、待たれた。そのあいだ、犯罪人が裁判を受け、有罪の宣告を受けるように、彼らは『獄に捕われている』のである。神の正義に捕われたまま留置され、悔い改めか猶予期間の終了かを待つのである。それから、宣告されていたさばきが執行される」(『われらの救い主イエス・キリストの新約聖書』第6巻861ページ)。

イエスはどのようにして彼らに宣べ伝えられたのか

「神の御霊が洪水前の人々に働きかけ、罪を自覚させ、叱責されたことは創世記6:3から明らかである。……ノアが義の宣伝者となって、不信仰な世界を罪に定めたのは、この御霊によってであった』(クラーク、861ページ)。

質問11

バプテスマは私たちを救うというペテロの言葉は何を意味していますか。Iペテ3:21

聖書はバプテスマの儀式に救いの力があるとは教えていません。バプテスマは新生の経験によって罪に死に、新しいいのちによみがえることを象徴しています。イエスの死とよみがえりだけがこの経験を可能とします。ペテロは1ペテロ3:20において、8名の者たちが箱舟に乗り込むことによって救われたと述べています。彼らは神によって救われたのでした。水は、神が彼らを洪水によって滅びようとしていた悪しき世界から分離させるために用いられた手段でした。したがって、「水を経て救われたのは、わずかに8名だけであった」という言葉は比喩的な表現です。この水は神によって与えられた救いを象徴していました。

質問12

私たちはどのようにして救われますか(エペ2:8)水のバプテスマは救いとどんな関係にありますか(ロマ6:1―7)

「この水はバプテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである」という言葉は、比輸的な表現です(Iペテ3:21)。水のバプテスマは、信じる者たちをやがて滅びるこの悪の世界から分離する手段を象徴しています。1ペテロ3:20~22の要点は、ノアの洪水がノアとその家族を悪の世界から分離する神のあわれみの象徴であったように、バプテスマは今日、キリストを受け入れる人たちに対する神の救いの恵みの象徴であるということです。

人が救われるのは水で洗われることによるのではなく、良心が神の力によってきよめられることによるのです(Iペテ3:21、22)。

質問13

「キリストは天に上って神の右に座し」(Iペテ3:22)という言葉は、私たちにとってどんな特別な意味を持ちますか。ヘブ9:11~15(ヘブ7:24、25、8:1、2、1テモ2:5比較)

イエス.キリストの大祭司としての執り成しの働きがなければ、罪のゆるしはありません。「父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる」(Iヨハ2:1)。私たちの「祝福の大祭司」であられるキリストは(ヘブ9:11)、私たちの良心を罪からきよめ、神に仕える者としてくださいます(14節)。

まとめ

霊的な因果の法則というものがあります。善をもって悪に報いよというペテロの勧告は、この法則に従ったものです。神の残りの民として信仰をもってこの勧告に従うとき、私たちは神の祝福にあずかります。イエスは死んで、よみがえられたゆえに、私たちの大祭司となることがおできになります。彼は私たちの心をきよめ、私たちを御国に入るにふさわしい者としてくださいます。

*本記事は、安息日学校ガイド1992年3期『ペトロの第一の手紙 生ける望み』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会口語訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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