勝利と奉仕【ペトロの手紙1―生ける望み】#11

目次

中心思想

キリストの苦難と死はクリスチャンに罪に勝利する力を得させてくれます。解放されたクリスチャンはもはや罪深い欲情の奴隷としてではなく、神のみこころに従って生きるのです。

アウトライン

  • 罪に死ぬ(Iペテ4:1)
  • 神に生きる(Iペテ4:2、3)
  • 終わりは近い(Iペテ4:4~7)
  • 変わることのない愛(Iペテ4:89)
  • 神の恵みの管理人(Iペテ4:10、11)

最善の計画

あるアメリカ人の元水兵が、第2次世界大戦のとき南太平洋の船上で仲間と過ごした暑い夜のことを思い出していました。毎晩、彼らが話題にすることは、もし魚雷攻撃を受けたらどうしようという、だれもが心に抱いている恐怖についてでした。彼らはみな、いつ警報が鳴り、そのあとで耳をつんざくような爆発が起こっても不思議ではないと思っていました。船が魚雷攻撃を受けたときにとるべき行動も細かく決められていました。そしてある晩、警報が鳴り、爆発が起こりました。しかし、その水夫によれば、決められた通りに行動した人は一人もいなかったそうです。

クリスチャンの経験はこれと異なります。神はご自分の民のために、終末の大変動を心を一つにして乗り切る助けとなる勧告を与えておられます。これらの勧告に聞き従う人たちは悩みのときに神を避け所とします。今回は、ペテロによって与えられているそれらの勧告のいくつかについて学びます。

罪に死ぬ(Iペテ4:1)

質問1

キリストが肉において苦しまれたのはだれのためでしたか。Iペテ4:1

この言葉は1ペテロ3:18に述べられている思想の続きです。ペテロはそこでイエスの苦難と死について語っています。したがって、ペテロは4:1でイエスの苦難について語ることによって、私たちの関心をイエスの死に向けようとしているのです。罪人のために死なれたイエスのことを思って、私たちもまた同じ覚悟、つまり喜んで死ぬという覚悟をもって武装すべきです。イエスが「肉において苦しまれた」(死なれた)ように、私たちもまた喜んで肉において苦しむ(死ぬ)べきです。

二種類の死

肉体的に死んだ人はたしかに、「罪からのがれた」と言えます(Iペテ4:1)。しかし、次の聖句(Iペテ4:2)を見れば、ペテロが言っているのは、罪に対して死んでしまってはいるが、いま生きつづけている人についてであることがわかります。このような人は、「肉における残りの生涯を、もはや人間の欲情によらず、神の御旨によって過ごす」のです(Iペテ4:2)。イエスは罪のために死なれましたが、クリスチャンは罪に対して死ぬのです。

質問2

罪人のどんな死が罪深い生活を続けることをやめさせますか。ロマ6:1―7

パウロとペテロは同じ思いです

「肉において苦しんだ人は、それによって罪からのがれたのである」というペテロの言葉は、パウロの次の言葉と同じ真理について述べています。「それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。……わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである」(ロマ6:3~7)。「あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである」(コロ3:3)。

古い罪深い人は死んだ。私たちはバプテスマの誓約によってキリストと共に新しいいのちに入ったのである。救い主の品性の美徳を実践しなさい。……回心前に行っていた罪を、古い人と共に脱ぎ捨てなければならない。新しい人、キリスト・イエスと共に、『慈愛、謙そん、柔和、寛容』を身に着けなければならない」(『神の息子・娘たち』300ページ)。堕落した性質は、キリストを信じる以前の自分であった「古き人」の死後も、なお生き残っています(エペ4:22~24、1コリ9:27参照)。

神に生きる(Iペテ4:2、3)

質問3

ペテロによれば、主と共に苦しみ、死んだ罪人の生き方はどのように変わりますか。Iペテ4:2、3

ここでもペテロとパウロは一致している

ローマ6:13のパウロの言葉と比較してください。ペテロもパウロも、イエスを受け入れ

るとき古い生き方が変わるということを読者に理解させようとしています。

質問4

神は私たちに罪とどのように闘うように望んでおられますか。ロマ6:12、14、ピリ2:12、13

罪の根本的な問題は私たちの堕落した人間性にある

アダムの子孫はみなこの性質を共有しています。私たちはそのように生まれついているのです。人生のどんな場面であれ、キリストの力に頼らないかぎり、私たちは「肉につける者であって、罪の下に売られている」のです(ロマ7:14)。回心後のパウロでさえ、日々、堕落した自己の傾向と闘い続けました(Iコリ9:27、ガラ5:16、17参照)。アダムから受け継いだこの傾向はつねに私たちのうちにあって、たえず私たちを悪に誘います。

質問5

私たちの罪深いからだが罪によって支配されないようにするためには、自分の堕落した性質をたえず服従させ、支配しなければなりません。どうしたら、そのようにできるでしょうか。ヨハ15:7、ロマ8:2

「自己との戦いは最も大きな戦いであります。自己に打ち勝ち、神のみ心に全く従うには戦いを通らねばなりません。しかし神に服従しなければ、魂が聖化されることはできないのであります。……ただ必要なのはほんとうの意志の力とはなんであるかを知る事であります。意志とは人の性質を支配している力、決断力、選択の力であります。すべてはただ意志の正しい行動にかかっているのであります。……意志は神にささげることができます。そうすれば神は私どものうちにお働きになって、神の喜びたもうように望み、また行うようにしてくださいます。こうして性質は全くキリストのみたまに支配されるようになり、キリストが愛情の中心となり、思想もまたかれと一致するようになります」(「キリストへの道』54、60ページ)。

終わりは近い(Iペテ4:4~7)

質問6

ペテロは来るべきさばきについて何と教えていますか。そのときさばきを受けるのはどんな人たちですか。Iペテ4:4、5

キリストに従う者たちはしばしば、現世的な生き方をしている人たちから中傷されます。救いの機会を拒む者たちは、イエスの再臨においてさばきと報いを受けなければなりません(Ⅱテモ4:1参照)。

質問7

福音を宣べ伝えられた死人とは、だれのことですか。Iペテ4:6

この聖句は死人に対する福音の宣教を意味するものではありません。ギリシャ語動詞は過去時制になっています。「死人にさえ福音が宣べ伝えられた」(1ペテ4:6)。死人に福音が宣べ伝えられたのは、彼らがまだ生きていたときのことです。彼らに福音が宣べ伝えられたのは、彼らもほかの人々と同じく死ぬ運命にありながら、神との交わりによって霊的に生きる特権にあずかるためでした。

質問8

ペテロは私たちの関心をどんな出来事に向けさせていますか。私たちが熱心に祈るべきなのはどんな理由からですか。Iペテ4:7、使徒2:16、17

ペテロは、主の再臨が近づいていると言っています。その証拠として、いくつかの出来事をあげることができたでしょう。たとえば、メシヤが来られたこと、聖霊が与えられたこと、福音が世界中に宣べ伝えられていたこと、人々がさばきなどないと侮っていたことなどがそれです。ペテロは確信をもって、終わりが近いと言っています。この世のことがらにはそれにふさわしい物の見方で対処するようにと教えています。

質問9

イエスの間近い再臨を待ち望んでいる者たちはどのように生きるべきですか。Iペテ4:7、Ⅱペテ3:11―14

変わることのない愛(Iペテ4:8、9)

質問10

初期のクリスチャンはお互いにどんな関係にありましたか。1ペテ4:8、9

兄弟愛

愛は使徒教会の満ちあふれた特徴であって、ユダヤ人も異邦人をも等しくキリスト教に引きつけさせる助けとなったものでした。この経験を長く持続させるために、神はアナニヤとサッピラの貫欲と虚偽に対して断固たる態度をとられたのです(使徒5:1~11)。もし彼らの貧欲が厳しく叱責されていなかったなら、信者のうちにあった真の愛が滅びていたかもしれません。

「後の雨」を受ける条件

「後の雨」において最終的な聖霊の注ぎを受けたいと望む者にとって、この愛は欠かすことのできないものです。「地上に神の最後のさばきが下るに先だって、主の民の間に、使徒時代以来かつて見られなかったような初代の敬度のリバイバルが起きる。神の霊と力が神の子供たちの上に注がれる」(『各時代の大争闘』下巻190ページ)。

質問11

愛はどのようにして多くの罪をおおいますか。Iペテ4:8

愛は罪を大目に見ることではありません。むしろ、愛が人の心を支配するとき、人は他人の罪を喜んでゆるし、忘れるようになるということです。イエスの弟子たちは互いに愛するようになったとき、聖霊の大いなる注ぎを受けました。

質問12

ペテロが進んで人をもてなすように教えているのはなぜですか。Iペテ4:9

初期のキリスト教会には、貧しい信者がたくさんいましたo初めのうちは、富める信者が貧しい信者と持ち物を共有とし、分け与えていました(使徒2:44、45参照)。しかし、時がたつにつれて、この自発的寛容の精神が次第にうすれていきました。ペテロは1世紀半ばの兄弟姉妹のうちに、初期の信者と同じように喜びに満ちた交わりを楽しむ姿を見たいと望んだのでした。奉仕に専念する伝道者たちにとっても、援助が必要でした。

神の恵みの管理人(Iペテ4:10、11)

質問13

私たちはどんな方法によって神の恵みの良き管理人となることができますか。Iペテ4:10

愛をもって人々のために行動することが管理人の重要な務めです。それは、いろいろな方法で人々のために働き、重荷を負い、できるかぎり彼らを物質的に援助することです。

質問14

神の栄光をあらわすために、どんな二つの働きが教会でなされなければならないと、ペテロは言っていますか。Iペテ4:11

初代教会では、長老によるみことばの働きと、執事による実際的な働きとが、神によって制定されました(使徒6:1―7参照)。しかし、これらの働きは信徒によるあかしと福祉活動によって補足されました。

終わりの時代の教会に対する神の勧告

「私たちの民の心をイザヤ書58章に向けるように、私は示された。この章を注意深く読み、教会に生命を与える働きがどんなものかを理解しなさい。福音の働きは私たちの労力によってばかりでなく、寛大な施しによってもなされなければならない。助けを必要として苦しんでいる魂に会ったなら、助けを与えなさい。飢えている者を見たなら、食べ物を与えなさい。そうすることによって、あなたはキリストの働きに合致した働きをすることになる。主の聖なる働きは慈善の働きであった。私たちの民もあらゆるところでこの働きに加わるべきである。……神の受け入れられる断食について描写されている。それは飢えた者にあなたのパンを分け与え、さすらえる貧しい者をあなたの家に招き入れることである。彼らの方から来るのを待ってはならない。あなたをさがし、宿を頼む労を彼らにかけさせてはならない。あなたが彼らをさがし、彼らを家に招き入れるべきである。あなたは熱心に彼らをたずね求めなければならない。あなたは一方の手をのばして、救いを与える力強い腕を信仰によってつかみ、もう一方の愛の腕を苦しんでいる人々にのばして、彼らを助けなければならない。あなたは一方の手で神の腕をつかみ、もう一方の手で自分自身の楽しみを満たすことはできない」(『福祉伝道』29~31ページ)。

まとめ

キリストのもとに来るとき、私たちは罪に対して死に、バプテスマにおいて葬られ、キリストと共に新しいいのちによみがえります。罪の「古き人」、古い生き方は過去のものとなります。自分の意志を喜んでキリストにささげるとき、私たちの堕落した人間性は聖霊に支配されるようになります。世界の終末が近づいている今日、私たちはキリストに信頼して生きることによって、神の恵みの管理人としての務めを果たさなければなりません。

*本記事は、安息日学校ガイド1992年3期『ペトロの第一の手紙 生ける望み』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会口語訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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