塵から星へ【ダニエル―主イエス・キリストの愛と品性の啓示】#13

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ダニエル書は、ネブカドネツァルがユダに侵攻し、捕囚をバビロンへ連れ去ったところから始まり、それとは対照的に、ミカエルが終末時代のバビロンから神の民を救うために立ち上がるところで終わっています。つまり、ダニエル書全体で示されているように、最後に、まさに最後の最後に、神は御自分の民の益となるようにすべてを解決してくださいます。

すでに見たように、ダニエルと彼の友人たちは、捕囚の試練と挑戦のただ中で、神に忠実であり続けるとともに、比類ない知恵を働かせました。同様に、苦難に直面するとき、終末時代の神の民も、とりわけ「国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難」(ダニ12:1)の中で、忠実であり続けます。彼らは、バビロンにおけるダニエルと彼の友人たちのように、知恵を働かせ、理解を示すでしょう。彼らは個人的な美徳として知恵を働かせるだけでなく、その知恵の結果として、人々を義に導くために献身します。死ぬ者もいれば、殺される者もおり、従って塵に戻りますが、彼らは永遠へと復活させられるでしょう。「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入……る」(ダニ12:2)と聖書が言うとおりです。

私たちの君ミカエル

問1

ダニエル12:1を読んでください。時の終わりに、だれが歴史の流れを変えますか。この聖句の意味を理解するうえで、ローマ8:34とヘブライ7:25は、いかなる助けとなりますか。

ここまでダニエル書のすべての章は、異教の国の支配者に言及することで始まっていました。同様にダニエル12章も支配者から始まりますが、ほかの章とは違い、この支配者は、神の民を敵の手から救うために立たれる聖なる天使長です。

ダニエル10章の研究で垣間見たように、ミカエルはチグリス川でダニエルの前にあらわれた力強い天の存在と同じです。そこでは、神の民の天の代表として出現しています。彼はまた、ダニエル書のほかの箇所において、「人の子」(ダニ7章)、「万軍の長」(同8章)、「油注がれた君」(同9章)としてあらわれています。このように、ミカエル(「だれが神のようであろうか」という意味)は、ほかならぬイエス御自身に違いありません。

ミカエルが介入されるタイミングに注目することは重要です。ダニエル12:1によれば、その介入は「その時」になされます。この表現は、直前のダニエル11:40~45で言及されている時を指しています。それは、1798年の教皇制の失墜から終わりの時の復活(ダニ12:2)までの期間です。

ミカエルの働きの二つの重要な側面は、彼の行動を説明するためにダニエル12:1で用いられている「立つ」という動詞から推測することができます。第一に、この「立つ」という動詞は、征服し、支配する王たちの台頭を連想させます。またこの動詞は、元来、軍事的な意味を含んでいます。大争闘の最終段階において、ミカエルが神の民を守り導く軍事的指揮官の役割を果たすことを示しているのです。

第二に、「立つ」という動詞は、裁きの場をも指し示しています。ミカエルは、天の法廷で仲裁人としての役割を果たすために立たれるのです。人の子として、彼は調査審判の間に神の民を代表するため、「日の老いたる者」の前に出てくださいます(ダニ7:9~14)。このように、ミカエルが立つことは、彼の働きの軍事的側面と司法的側面を連想させます。言い換えれば、ミカエルは、神の敵を打ち破る力と、天の法廷で神の民を代表する権威を授けられているということです。

あの書に記された

問2

ダニエル12:1は、「あの書に記された人々」について述べています。それはどういう意味ですか。

ミカエルが介入する時は、かつてなかったほどの苦難の時とも称されています。それは、神の“霊”が反逆的な人類から取り去られる時に相当します。その後、七つの最後の災いが、諸国民に対する神の怒りのあらわれとして終末時代のバビロンに注がれ(黙16章、18:20~24)、闇の力がこの地上に解き放たれるでしょう。エレン・G・ホワイトは、この時について、「その時サタンは、地の住民を大いなる最後の悩みに投げ入れる。神の天使たちが人間の激情の激しい風を抑えるのをやめると、争いの諸要素がことごとく解き放たれる。全世界は、昔のエルサレムを襲ったものよりもっと恐ろしい破滅に巻き込まれる」(『希望への光』1898ページ、『各時代の大争闘』下巻386ページ)と書いています。

しかし、神の民はこの過酷な時期に救われるでしょう。なぜなら、天の法廷における調査審判で、彼らは天の大祭司であられるイエスによって正しさを立証され、彼らの名前がその書に記されているからです。この書の意味を理解するためには、聖書が二種類の天の書について言及していることを心に留めておかねばなりません。一つは、主に属する人たちの名前を収録しており、時として「命の書」と呼ばれています(出32:32、ルカ10:20、詩編69:29、フィリ4:3、黙17:8)。

命の書に加えて、聖書は、人間の行為を記録した書についても触れています(詩編56:9、マラ3:16、イザ65:6)。これらの書が、主に対するすべての人の献身を判定するために天の法廷で用いられます。これらは、すべての人間の名前と行為を含む天の記録、「データベース」なのです。天に自分の名前と、とりわけ自分の行為が記されているという考えに、眉をひそめる人もいます。しかし、私たちがひとたびキリストに献身し、私たちの名前が命の書に記されるなら、私たちの悪行は裁きの中で削除されます。この天の記録が、全宇宙に対して裁判上の証拠を提供するのです。それは、私たちがイエスに属しており、それゆえ困難な時期に守られる権利があるという証拠です。

復活

問3

ダニエル12:2、3を読んでください。彼はここで、どのような出来事について語っていますか。死について私たちが理解していることを考えるとき、この出来事はなぜ重要なのですか。

ダニエル書は、たぶん旧約聖書の中で最も明確に来るべき復活に言及しています。そして、この箇所についてじっくり考えるとき、私たちはいくつかの重要な真理を学ぶことができます。第一に、「眠り」という比喩が示すように、不滅の魂は人間の肉体に宿っていません。人間は、体、心、霊が分かちがたく一体となっているものです。死ぬときに人は存在しなくなり、復活まで無意識の状態が続きます。第二に、この聖句は、来るべき復活を罪の結果として起こることの逆の現象として指摘しています。実のところ、ダニエル12:2で「地の塵」と訳されている表現は、原語では「塵の地」と読めます。この珍しい語順は、創世記3:19を指し示しており、「塵」が「地」に先行している個所は、聖書の中でほかにここだけなのです。このことは、アダムの堕罪の際に下された死の判決が取り消され、死がもはや支配しないことを示唆しています。「死は勝利にのみ込まれた」(Ⅰコリ15:54)と、パウロが言うとおりです。

問4

ローマ8:18とヘブライ2:14、15を読んでください。どのような理由で、私たちは死を恐れる必要がないのですか。

死は地上におけるすべてを破壊し、終わらせます。しかし忠実な信徒にとって、死は最終的決定権を持たないという約束が、私たちには与えられています。死はすでに打ち負かされた敵です。キリストは、死の鎖を断ち切り、墓から復活されて姿をあらわされたとき、致命的打撃を死に与えたのです。今や私たちは、一時的な死の現実の向こうに、私たちがキリストによって神から受け取る命の究極的現実を見ることができます。ミカエルが「立つ」(ダニ12:1)ので、彼に属する者たちも立ち上がるでしょう。彼らは星のように永遠に輝くために、「塵の地」の中から起き上がるのです。

封じられた書

問5

ダニエル12:4、ヨハネ14:29を読んでください。なぜダニエル書は終わりの時まで封じられねばならないのですか。

ダニエル書の最後の主要な箇所(ダニ10:1~12:4)の結論部分で、終わりの時までこの書を封じておきなさいという命令を預言者は受けます。その言葉に続けて天使は、「多くの者は、あちこちと探り調べ、そして知識が増すでしょう」(ダニ12:4、口語訳)と預言します。ダニエル書の研究者の中には、これらの言葉を科学的進歩の予想と受け取った人たちもいますが(そのような意味も含まれるかもしれませんが)、文脈からすると、「あちこちと探り調べ」というのは、ダニエル書を調べることそのものを指しているようです。確かに、歴史を振り返るとき、何世紀もの間、ダニエル書がわかりにくい文献であり続けたことに私たちは気づきます。一部の地域では、ダニエル書が知られ、研究されていたかもしれませんが、その中心的な教えや預言は不可解なままでした。例えば、天の聖所の清め、裁き、小さな角の正体と働きに関する預言のメッセージは、これらの預言に関する期間とともに、まったく理解できませんでした。

しかし、プロテスタントによる宗教改革以降、ダニエル書を研究し始める人がだんだん多くなりました。とはいうものの、この書が最終的に開かれ、内容がより詳しく明らかになったのは、終わりの時になってからでした。エレン・G・ホワイトが記しているように、「1798年以来、ダニエル書は封を開かれ、預言の知識は増加し、審判の切迫という厳粛なメッセージを多くの者が宣言したのである」(『希望への光』1767ページ、『各時代の大争闘』下巻51ページ)。「18世紀の終わりから19世紀の初めにかけて、ダニエル書と黙示録の預言に対する新たな興味が、地上のさまざまな場所で広く呼び起こされた。これらの預言の研究は、キリストの再臨が間近であるという信仰を広めた。イギリスの多くの解説者、中東のジョゼフ・ウォルフ、南米のマヌエル・ラクンザ、アメリカのウィリアム・ミラーたちは、ほかの多くの預言の研究者たちとともに、ダニエル書の預言に関する彼らの研究に基づいて、再臨は近いと力説した。今日、この確信が世界的な運動の原動力になっているのである」(『SDA聖書注解』第4巻879ページ、英文)。

待ち時間

問6

ダニエル12:5~13を読んでください。ダニエル書はどのように終わっていますか。

興味深いことに、この最後の場面は「川」のそばで、つまりダニエルの最後の大きな幻の場所(ダニ10:4)であるチグリス川で繰り広げられています。しかし、ここで用いられているのは、「川」をあらわすヘブライ語の一般的な言葉ではなく、「イェオール」という通常「ナイル川」を意味する言葉です。このことは私たちに、出エジプトを思い起こさせ、主がイスラエルをエジプトから救われたように、終末時代の御自分の民を救われるであろうことを示しているのです。

預言に関する三つの予定表が与えられています。最初のもの(「一時期、二時期、そして半時期」)は、「これらの驚くべきことはいつまで続くのでしょうか」(ダニ12:6)という質問に対する答えです。「驚くべきこと」とは、ダニエル11章の幻の中に描かれていることを指しており、それはダニエル7章と8章の詳しい説明です。さらに具体的に言えば、この期間は、ダニエル7:25でも、またのちに黙示録11:3、12:6、14、13:5でも言及されています。これは教皇に支配権のあった(西暦538年から1798年に及ぶ)1260年に一致します。そしてダニエル11:32~35は、期間に言及していないものの、同じ迫害を指しているのです。

ほかの二つの期間は1290日と1335日で、これらは、ダニエルが麻の衣を着た人にぶつけた質問(「これらのことの終わりはどうなるのでしょうか」)への答えです。そしていずれの期間も、「日ごとの供え物」が廃され、「憎むべき荒廃をもたらすもの」が立つときに始まります。私たちはダニエル8章の研究(第9課)で、「日ごとの供え物」がキリストの継続的な執り成しを指し、それが偽りの礼拝制度に置き換えられたことを学びました。このように、この預言的期間は、フランク王クロビスがカトリック信仰に改宗した西暦508年に始まるはずです。この重要な出来事が教会と国家の結合の道を開き、それが中世を通じてずっと権勢を振るいました。こういうわけで、1290日は1798年に終わりました。この年、フランス皇帝ナポレオンの権威のもとで教皇が捕らえられたのです。また、ダニエル書で言及されている最後の預言期間の1335日は、1843年に終わりました。それはミラライト運動と聖書の預言の研究が更新された時、差し迫ったイエスの到来を待ち望んだ時でした。

さらなる研究

「預言は、審判が始まるまでに相次いで起こる種々の事件を示している。特にダニエル書がそうである。しかし、ダニエルは、最後の時代に関する預言を、『終りの時まで』秘し、封じておくように命じられた。この時が来るまで、これらの預言の成就に基づいて審判に関するメッセージを宣布することはできなかった。しかし、終わりの時に、『多くの者は、あちこちと探り調べ、そして知識が増すでしょう』と預言者は言っている(ダニエル12:4)。

使徒パウロは、彼の時代にキリストが来られると期待しないようにと、教会に警告した。『まず背教のことが起り、不法の者……が現れるにちがいない』と彼は言っている(Ⅱテサロニケ2:3)。大背教が起こり、『不法の者』の長い支配期間の終わったあとで、初めてわれわれは、主の再臨を期待することができる。『不法の秘密の力』『滅びの子』とも言われている『不法の者』とは、1260年の間、至上権をふるうと預言された法王権のことである。この期間は、1798年に終結した。キリストの再臨は、この時より前には起こり得ないのであった。パウロは、1798年までに及ぶキリスト教時代全体を、彼の警告の中に含ませている。キリスト再臨のメッセージが宣布されるのは、その時以後になるのである」(『希望への光』1766ページ、『各時代の大争闘』下巻50ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2020年1期『ダニエル書 主イエス・キリストの愛と品性の啓示』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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