「食べるべきか、食べざるべきか」それが問題だ【ダニエル—ダニエルに学ぶゆるぎない祈り、忍耐、愛】#1

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1945年4月、太平洋上の激戦地で、80名近くのアメリカ兵がデズモンド・ドス二等兵のお陰で助かりました。彼らはそれまで、銃を取ることを拒んだドス二等兵をばかにしていました。しかし、兵士たちが敵の十字砲火によって次々と倒される中で、衛生兵のドス二等兵は生命の危険をも顧みずに、75名以上の負傷した兵士たちを次々と安全な場所に搬送したのでした。皆からからかわれていた男が英雄となりました。

ドスは自分の信じることのために立つことを恐れませんでした。彼は戦場で立つことを恐れませんでした。この勇敢な行為のゆえに、彼は合衆国大統領から名誉勲章を授与されました。

今回は、全く異なる状況において、別の場所で戦われた別の戦いに注目します。状況は異なるとはいえ、彼らもドス二等兵のように、犠牲を顧みず、自らの信じることのために立ちます。彼らは何のために立ったのでしょうか。私たちは彼らの模範から何を学ぶべきでしょうか。

二都物語――バビロンとエルサレム(ダニ1:1)

ダニエル書は二つの都、つまりエルサレムとバビロンについての物語です。前者は義の支配を、後者は悪の支配を表します。一方は信仰の秘められた真理を、他方は罪の秘密の力を啓示します。このように、ダニエル書の物語と預言はキリストとサタンとの大争闘の原則を例示しています。これは、しばしば善と悪、正義と邪悪、真理と虚偽の闘争として表されます。

聖書の中でバビロンとエルサレムが最初に出てくるのは創世記であり

(創11:9、14:18)、最後に出てくるのは黙示録です(黙18:21、21:10)。それは、字義的であれ比喩的であれ、様々なかたちで、聖書全体を通して出てきます。

問1

バビロン、エルサレムは、どんな歴史的状況において聖書に最初に出てきますか。創11:1~9、14:17~20

バビロン

バビロニア人が自分たちの都に付けたバビロンという名前は、

「神の門」を意味する“バブ・イル”から来ています。しかしながら、創世記11:9によれば、この名は「混乱」を意味します。「主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ」られたからです。ここには、語呂合わせがあるように思われます。「混乱」を意味するヘブライ語の“バラル”と「神の門」を意味する“バベル”が同じように聞こえるからです。人々がバベルを建設しようとしたのは、天まで届く塔を建てるためでしたが、神はそれを人間の狂気と虚栄の象徴に変えられました。

エルサレム

ヘブライ語の“シャレム”は「完全」または「平和」を意

味します。詩編76:3(口語訳76:2)では、エルサレムは創世記14:18に出てくるサレムの町と同一視されています。ダビデがこの町を征服した頃は、エルサレムはエブス人によって占領されていました(歴代上11:4

~7)。ダビデによる支配以降、この町はユダヤ国家の首都となりました。

問2

バビロンの都は黙示録の中で何の象徴とされていますか(黙14:8、16:19、17:5、18:2、10、21)。それは最終的にどんな運命をたどりますか。

無罪にして有罪(ダニエル1:2―7)

「ユダの王ヨヤキムが即位して3年目のことであった。バビロンの王ネブカドネツァルが攻めて来て、エルサレムを包囲した。主は、ユダの王ヨヤキム……を彼の手中に落とされた」(ダニ1:1、2)。

上記の聖句の言葉は、新聞記事にするなら、第一面に大々的に報じられるところです。主の住まいのあったエルサレムが異教徒の手に落ち、王が捕らえられるとは!

問3

神がユダとエルサレムをバビロニア人の手に渡された理由は何ですか。列王下21:10~16、24:18~20、歴代下36:15~17、エレ3:13

「神の約束と警告が等しく条件つきであることを覚えるべきである」(エレン・G・ホワイト『伝道』695ページ)。ユダの民はバビロン捕囚を回避することができました。エレミヤを通して、神はユダの民に御自身のもとに立ち帰るように訴えておられました。もし彼らが悔い改めていたなら、罰せられることはありませんでした(エレ4:1~4)。しかし、彼らが聞き従うことを拒んだために、最終的に裁きが下りました。

これは新たな問題を提起します。確かに、指導者は背き、従いませんでした。しかし、無実の人々も同じく罰せられるのはなぜでしょうか。信仰深いダニエルと3人の友人たちが他人の罪のために苦しむのは、公正とはとても思われません。だれもが知っているように、この罪深い世界にあっては、人生は公正ではありません。私たちが新しい世界に対する希望を必要としているのはそのためです。

無実の人々が、罪ある人々と共に苦しむのはなぜかという疑問はなお残りますが(十字架はその最たるもの)、神が私たちを愛し、すべてを支配し、いつの日かすべてのものを回復してくださるという確信が、私たちにはあります。

同時に、このような災難の中にあってさえ、神がダニエルと3人の友人たちの捕囚の境遇を、祝福に変えてくださったことを忘れてはなりません。それはユダの民のためだけでなく、バビロンの異教の民のためでもありました。

ダニエルの決心(ダニ1:8)

問4

ダニエルと彼の友人たちはバビロン王国の最上の食物を拒絶します。彼らが王の食物を食べようとしなかったのはなぜですか。箴23:1~3、29~32

ダニエルと彼の友人たちはこの世に迎合することを拒みました。彼らの人生の第一の目的は神の御心に従うことでした。彼らが王の食物を拒んだのは次のような理由からでした。

  1. 食物の中には汚れた肉が含まれていた(レビ11章)。
  2. たとえ清い肉であっても、モーセがイスラエル人に命じた方法に従って調理されていなかった(レビ7:22~27)。
  3. それらは偶像に捧げられていたので、飲食は偶像礼拝に加担することであった。

ダニエルが別の食物を要求したときに用いた「野菜」(ゼロイム)という言葉は、神がアダムに語られたときの言葉と同じです。「種を持つ草(ゾレア、ゼラ)……を……あなたたちに与えよう」(創1:29)。ダニエルのこの要求は、彼が食べるに良いもの、健康的なものを創造された神に信頼していたことを示しています。

問5

このダニエルの行為から、どんな教訓を学ぶことができますか。マタ10:22、Ⅰコリ10:13、Ⅱテモ2:12

ダニエルが王の食物に関して下した決断は、彼が健康と清めの関係を理解していたことを示しています。食物に関する試験は、ダニエルの品性を強め、彼を将来の働きにふさわしい者とするための方法の一つでした。人は困難な状況の中で正しい決断を下すたびに強くなります。しかし、決心を破るたびに、人は弱くなります。

ダニエルの物語は、勇気に満ちた正しい決断がしばしば人生の転換点、また人の運命を決定する要因となることを例示しています。「神は機会をお与えになる。成功は、人間が機会をいかに活用するかにかかっている」

(『国と指導者』下巻98ページ)。

試験(ダニエル1:9―16)

ダニエルと3人の友人たちがバビロンに到着すると、新しい名前を与えられ、バビロニア人の芸術と科学を学ばされ、王の食卓から食べるように求められました。初めの二つは彼らにとってそれほど大きな問題ではありませんでした。しかし、最後のものは彼らの信仰を試す挑戦となりました。

難しいのはどこに線を引くかです。当時の世界にあっては、名前は霊的な意味を持っていました(ダニエルは、「神は裁き主」の意)。ダニエルはただ原則にもとづいて名前の変更を拒むことができたでしょうか。自分が信じていないという理由で、占いや異教の教えに満ちたバビロニア人の芸術や科学を拒否することができたでしょうか。この時点では、食物を除いて、彼らは何ひとつ拒否していません。つまり、彼らはここに線を引いたということです。

問6

ヘブライの青年たちは、どんな状況のもとにあっても、王の食物を食べることを正当化しようとしませんでした。その時、彼らおよびその周囲の人たちはどのような状況にありましたか。ダニ1:10

一見、飲食をめぐるこの試験には、大した意味がないように思われます。園の中央に生えている木の果実を食べてはならないという、アダムとエバに与えられた試験(創3章)も、ささいなことに思われました。これもまた食欲に関するものでした。しかし、愛がしばしばささいなことのうちに現されることも事実です。大きな扉も小さな蝶番で動きます。創世記3章とダニエル書1章は、サタンがいつでも感覚、つまり聴覚、視覚、嗅覚、触覚、味覚を通して私たちを誘惑するという事実を例示しています。したがって、勝利に満ちた信仰生活を送るためには、私たちの感覚を守る必要があります。もし聖霊が脳の神経細胞を通して私たちに語りかけられるとすれば、そしてこれらの神経細胞が私たちの食べるもの、飲むものによって影響されるとすれば、私たちの体を最良の状態に保つことはこの上なく重要な義務であると言わねばなりません。

報い(ダニ1:17~20)

問7

3年後、侍従長アシュペナズはヘブライの青年たちを王の前に連れてきます。神に忠実に従った結果、4人のへブライの青年たちはどんな祝福にあずかりましたか。ダニ1:20

ヘブライの青年たちの顔色と健康はほかのどの青年たちよりも優れていました。それだけでなく、彼らは知識と才能にも恵まれていました。このことから、宗教的原則を捨てる誘惑に直面したときにも、偏狭で厳格すぎると言われることを恐れない者たちを、神が祝福してくださることがわかります。彼らの主に対する忠誠心は、すべての人が彼らの信仰の結果を認めるまでに、はっきりとした形で報いられました。しかしながら、時々あることですが、同じ行為がいつでも同じ結果をもたらすとは限りません。

問8

ヘブライの青年たちの運命をステファノの運命(使徒7:57~8:2)と比較してください。これらの記録は、聖書の原則に忠実に従おうとする人たちに起こるべき運命に関してどんなことを教えていますか。

目先の結果だけを見れば、ダニエルと3人の友人たちに起こったことは、明らかにステファノに起こったことよりも好都合でした。

しかしながら、クリスチャンとして考えれば、善であれ悪であれ、この世で起こること、たとえそれが石で打ち殺されることであれ、高い位に昇進することであれ、それですべてが終わったわけではありません。それどころか、永遠のもの、すなわち罪や死、苦しみや離別のない新天新地における新しい生活が私たちを待ち受けているのです。それに比べれば、この世における「結末」などは全く問題になりません。重要なのは、目先の結果にかかわりなく、神と神の要求に忠実に従うことです。

まとめ

1.意志を正しく用いた。

「意志を正しく働かせるならば生活は全く変わってしまいます。意志をキリストに全く服従させることによって、どんな主義よりも力よりも、はるかにまさった力に自分を結びつけることになるのであります。そして天よりの力を得てしっかりと立つことができ、絶えず神に服従することによって新しい生涯、すなわち信仰の生涯を送ることができるようになるのであります」(『キリストへの道』61ページ)。

2.肉体が精神に及ぼす影響力を知っていた。

「ダニエルの両親は幼少のダニエルに厳しく節制する習慣を教えた。彼らはダニエルに、あらゆる習慣において自然の法則に従うべきこと、飲食が肉体的、精神的、道徳的性格に直接的な影響を及ぼすこと、ダニエルが自分の能力に関して神に責任を負うこと、すべての能力が神からの賜物であるから、いかなる行為においても、それらを不完全で弱めるようなことをしてはならないことを教えた。この教えの結果、神の律法はダニエルの頭の中で高められ、心の中で敬われた」(『食事と食物に関する勧告』154ページ)。

3.一貫した祈りの生活によって神に信頼した。

ダニエルは、「原則と傾向の間で揺れる人たちを堕落させるように計画された様々な影響に取り囲まれていた。しかし、神の御言葉は彼を欠点のない人物として紹介している。ダニエルは自分自身の道徳的能力に頼らなかった。祈りは彼にとって欠かすことのできないものであった」(『清められた生活』20ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2004年1期『ダニエル書 ダニエルに学ぶゆるぎない祈り、忍耐、愛』からの抜粋です。

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そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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