この記事のテーマ
黙示録の預言は、1900年以上前、幻によって使徒ヨハネに啓示されました。それは、ヨハネがエーゲ海の中の岩だらけの小さな島、パトモスという名で知られる島に流刑になっていたときのことです(黙1:9)。黙示録1:3は、この書巻を朗読する人、聞く人、その教えを守る人たちへの祝福を宣言しています(ルカ6:47、48と比較)。この節が指しているのは、メッセージを聞くために教会に集まる会衆のことです。しかし彼らが祝福されるのは、朗読したり、聞いたりするからだけでなく、彼らがこの書巻に書かれていることに従うからなのです(黙22:7参照)。
黙示録の預言は、御自分の民に対する神の配慮のあらわれです。これらの預言は、この世における命の短さやはかなさ、イエスによる救いと天の大祭司、王としての彼の働き、福音を広めよという召しなどを私たちに指し示します。
聖書の預言は、暗い所に輝くともし火のようなものです(IIペト1:19)。それは、現在の私たちの人生に導きを与え、未来の私たちに希望を与えるように意図されています。キリストがおいでになり、神の永遠の国が設立されるまで、私たちはこの預言の導きを必要とします。
書巻名
問1
黙示録1:1、2を読んでください。書巻名には、どんな意味がありますか。そのタイトルは、この書巻がだれについて書かれたことを教えていますか。
黙示録1:1は、書巻名が「イエス・キリストの黙示」であると述べています。「黙示」に相当するギリシア語は「アポカリプシス」で、「覆いを取ること」「ベールを取り除くこと」を意味します。黙示は、イエス・キリストのベールを取り除くことであり、それは、イエスからのものであるとともに、イエスについてのものです。黙示録は、イエス・キリストを通して神からもたらされましたが(黙22:16参照)、イエスがその内容の焦点であるとも証言しています。黙示は、御自分の民に対するイエスの自己啓示、彼らに対するイエスの配慮のあらわれです。
黙示録の主人公はイエスです。この書巻はイエスで始まり(黙1:5〜8)、イエスで終わっています(黙22:12〜16)。「ダニエル書に語らせ、黙示録に語らせよう。そして、真理が何であるかを告げなさい。しかし、どのような問題を提示するにしても、『ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である』イエスを、すべての希望の中心として高めなさい」(『伝道』上巻264、265ページ)。
さらにまた、黙示録のイエスは、四福音書のイエスでもあります。イエスと、御自分の民のための彼の働きは、まず四福音書で描かれましたが、黙示録はその描写を続けているのです。黙示録は今や、イエスの存在と働きの異なる側面に焦点を合わせています。基本的に黙示録は、四福音書が終わったところ、つまり彼の復活と昇天から始まっています。
ヘブライ人への手紙とともに、黙示録は天におけるイエスの働きを強調しており、昇天後、イエスが天の聖所で王の働き、祭司の働きに就かれたことを示しています。黙示録やヘブライ人への手紙がなければ、キリストが天で御自分の民のために大祭司としてどのような働きをしておられるかについて、私たちの知識は非常に限られてしまうでしょう。しかし私たちは、ヘブライ人への手紙とともに黙示録によって、私たちのためのイエス・キリストの働きを独自の観点から見ることができるのです。
この書巻の目的
黙示録1:1は、この書巻の目的が未来の出来事、つまりこの書巻が書かれたときから始まる諸事件を示すことであると述べています。黙示録に詳しい人ならだれでも、この書巻の内容の大部分を占めているのが、事件の予告—(少なくとも、現代の私たちの目から見て)すでに成就したことであれ、まだ起きていない未来の事件であれ—であることに気づくでしょう。
聖書の預言の主要な目的は、未来がどうなろうとも、神が主導権を握っておられることを、私たちに保証することです。黙示録はまさにそうしています。イエス・キリストがこの世の歴史を通じて、また憂慮すべき終末の諸事件の間も、御自分の民とともにおられる、と保証しています。
結果として、黙示録の預言には実際的な目的が二つあります。現代をどう生きるか、また未来にどう備えるか、この二つを私たちに教えることです。
問2
申命記29:28(口語訳29:29)を読んでください。この聖句は、なぜ私たちに啓示されないことがあるのかを理解するうえで、いかに助けとなりますか。この聖句によれば、私たちに啓示されることの目的は何ですか。言い換えれば、なぜそれらは私たちに告げられるのですか(黙22:7も参照)。
黙示録の終末時代の預言は、未来に対する私たちの過剰な好奇心を満足させるために啓示されるのではありません。この書巻は、私たちが知るべき未来の重要な側面だけを明らかにします。そのような側面は、将来起こることの深刻さを私たちに印象づけるために開示され、それによって私たちは、自分が神に依存していることを自覚し、その依存のゆえに、神に服従するのです。
何世紀もの間、終末時代の諸事件に関する多くの教えには、推測(さらにはあっと言わせること)が付随しました。差し迫った終末を予言する人たちが、終わりは近いのだから彼らの働きに献金しなさい、と人々を脅してきました。しかし、そのたびに終わりは来ず、人々は幻滅し、落胆するままにされたのです。神が私たちに与えてくださったすべての良いものと同様、預言もまた誤用されたり、誤解されたりする可能性があるのです。
黙示録の象徴的な言葉
問3
黙示録13:1、ダニエル7:1〜3、エゼキエル1:1〜14を読んでください。これら三つの幻に共通していることは何ですか。
黙示録1:1はこう述べています。「そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである」。私たちはここに、黙示録の中でとても重要な言葉を見いだします。「お伝えになった」という言葉は、「象徴的なしるしによって示す」という意味のギリシア語「セマイノー」の訳です。この言葉は、旧約聖書のギリシア語訳(七十人訳)の中でも用いられており、その箇所で、ダニエルはネブカドネツァル王に、神が金、銀、青銅、鉄でできた像を用いて「この後に起るべきこと」(ダニ2:45、口語訳)を王にお伝えになったのです、と説明しました。その同じ言葉を用いることによって、ヨハネは私たちに、黙示録のさまざまな場面や出来事が幻によって象徴的表現で彼に示されたと告げているのです。ヨハネは聖霊に導かれて、見たとおりに(黙1:2)、これらの象徴的表現を忠実に記録しました。
それゆえ、黙示録の預言の言葉は、大部分において、文字どおりに解釈してはいけません。原則として、通常、(聖句が意図的に象徴するものを指し示さない限り)聖書を読む場合は、文字どおりに理解することを前提としますが、私たちが黙示録を読むときは、(その聖句が文字どおりの意味を指し示さない限り)象徴的に解釈する必要があります。予見されている場面や出来事それ自体は現実のものですが、それらは、大抵の場合、象徴的な言葉で表現されました。
多分に象徴的な黙示録の性格を心に留めることによって、私たちは預言的メッセージを曲解することから守られるでしょう。この書巻で用いられている象徴の意味を決定しようとする際に、私たちは、人間の想像力から出た意味や、それらの象徴の(私たちの文化における)現代的意味を聖句に押しつけないよう、注意しなければなりません。そうではなく、私たちは黙示録の象徴を理解するために、聖書と、そのページの中に見いだされるさまざまな象徴に頼るべきです。
実際、黙示録の中の象徴の意味を解こうとする際には、それらのほとんどが旧約聖書から引用されたものであることを、私たちは覚えていなければなりません。過去の言葉で未来を描くことによって、神は私たちの心に、未来における神の救済行為が、過去における神の救済行為と非常に似ていることを印象づけたいと願われたのです。過去において神が御自分の民のためになさったことを、神は将来、再び彼らのためになさるでしょう。黙示録の象徴や比喩を解読しようとする際に、私たちは旧約聖書に注意を払うことから始めなければなりません。
父・子・聖霊の神
黙示録は、パウロの手紙の中に見られる挨拶と似た挨拶で始まっています。この書巻は、うわべはヨハネの時代の小アジアにあった七つの教会に手紙として送られました(黙1:11参照)。しかし、黙示録は彼らのためだけに書かれたのではなく、歴史上のあらゆる時代のクリスチャンのために書かれたのです。
黙示録1:4、5とローマ1:7を読んでください。いずれの聖句にも書簡形式の挨拶が記されています—「恵みと平和が、あなたがたにあるように」。この言葉は、ギリシア語の挨拶である「カリス(恵み)」とヘブライ語の挨拶である「シャローム(平和、繁栄)」から成っています。これらの聖句からわかるように、恵みと平和の与え主は父・子・聖霊の神です。
父なる神は、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」(黙1:8、さらに4:8参照)だとわかります。これは、神の聖なる名前であるヤハウェ、「わたしはある」(出3:14)を指しており、それは神の永久的存在を意味しているのです。
聖霊は、「七つの霊」(黙4:5、5:6と比較)と呼ばれています。「七」は完全数です。「七つの霊」は、聖霊が七つの教会すべてにおいて活動しておられることを意味します。この比喩は、聖霊の遍在と、神の民が使命を果たせるように歴史を通じて聖霊が彼らの間で働いておられることを指しているのです。
イエス・キリストは、三つの称号によってわかります。「忠実な証人、死人の中から最初に生れた者、地上の諸王の支配者」(黙1:5、口語訳)。それらは、十字架における彼の死、復活、天における統治を指しているのです。次にヨハネは、イエスがなさったことを述べています。「わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さった」(同1:5、6、口語訳)。
原語のギリシア語において、「わたしたちを愛し」という言葉は、キリストの継続的な愛を指しており、それは、過去、現在、未来を含みます。私たちを愛されるお方は、御自分の血によって私たちを罪から解放してくださいました。ギリシア語において、この「解放して」という動詞は、過去に完了した行為を意味します。十字架で亡くなられたとき、イエスは私たちの罪に対する完全で十分な贖いを提供してくださったのです。
黙示録の要旨
黙示録の序章の結論部分は、この書巻全体の真の焦点を指摘しています。イエスが力と栄光のうちに来臨されることです。戻って来るというキリストの約束は、黙示録の結論部分で三度繰り返されています(黙22:7、12、20)。
黙示録1:7、8を読んでください。これらの聖句の言い回しは、いくつかの預言に関する聖句(ダニ7:13、14、ゼカ12:10、マタ24:30)に由来しています。黙示録において、キリストの再臨は、歴史が向かう終点です。再臨はこの世の歴史に終わりを告げ、神の永遠の国の始まりになるとともに、あらゆる悪、苦悩、苦痛、死からの解放をもたらします。
新約聖書のほかの箇所と同様、黙示録1:7は、キリストが威光と栄光のうちに、文字どおり、人の姿で来られると指摘しています。「彼を突き刺した者ども」を含むすべての人が、その来臨を目撃するでしょう。この言葉は、キリストの帰還の直前に特定の人たちが特別に復活することを示唆しており、その中には、彼を十字架につけた者たちも含まれるのです。イエスは再臨の際に、彼を待っている人たちに解放をもたらす一方で、彼の憐れみと愛を拒絶した地上に生きている人たちには裁きが下されることになります。
キリストが来られることの確かさは、「然り、アーメン」(黙1:7)という言葉によって確約されています。「然り」と訳されている言葉はギリシア語の「ナイ」で、「アーメン」はヘブライ語の肯定句です。これら二つの言葉が、一緒になって確かさをあらわしています。黙示録の最後も、同じ二つの肯定句で結ばれています(黙22:20参照)。
「救い主が再臨を約束されてから、1800年以上が過ぎ去った。何世紀にもわたり、彼の言葉は忠実な者の心を勇気で満たしてきた。約束はまだ成就していない。命の与え主の声は、眠れる義人たちを墓から呼び出していないが、語られたその言葉は確かである。神は適切な時にその言葉を成就される。だれが今、疲れ果ててしまうのか。永遠の世界に近づいているときに、私たちは信仰を手放すのか。その都はまだ遠くにあるのだと、だれか言うだろうか。決してそうではない。まもなく、私たちは麗しく装った王にお会いするのだ。まもなく、私たちの目から涙を拭い去ってくださる。まもなく、私たちを『喜びにあふれて非のうちどころのない者として、栄光に輝く御前に立たせ』てくださるのである」(『アドベント・レビュー・アンド・サバス・ヘラルド』1913年11月13日号、英文)。
さらなる研究
「この黙示は、紀元後の全時代にわたって教会を導き慰めるために与えられたのである。……黙示とは、何か表されたもののことである。主ご自身がこの書に含まれている奥義を、そのしもべに表された。そして主は、その奥義がすべての人々に公開されて研究されるようにと意図されている。その真理は、ヨハネの時代に生きていた人々と同様に、この地上歴史の最後の時代に住む人々にもあてられている。この預言に描かれている場面のあるものは過去に起こったものであり、あるものは今起こりつつある。またあるものはやみの権力と天の君との大争闘の終結を見させ、またあるものは新しくされた地に住むあがなわれた者たちの勝利と喜びを表している。
黙示録に書かれているすべての象徴の意味を説明できないからといって、そこに含まれている真理の意味を知るために、この書を探る努力をしても無益だと思ってはならない。ヨハネにこれらの奥義を表された方は、真理の熱心な探求者に天の事柄を前もって知らせて下さるのである。真理を受けるために心を開いている人たちは、その教えを理解できるようになり、『この預言の言葉を……聞いて、その中に書かれていることを守る者たち』に約束されている祝福を与えられるのである」(『希望への光』1578、1579ページ、『患難から栄光へ』下巻288、290ページ)。
*本記事は、アンドリュース大学神学科新約学教授ランコ・ステファノビック(英: Ranko Stefanovic)著、安息日学校ガイド2019年1期『ヨハネの黙示録 イエス・キリストの働きを知る』からの抜粋です。