この記事のテーマ
黙示録11:18は、ハルマゲドンの最後の戦い直前の地上の状況を、「諸国民は怒り狂いました」(口語訳)と要約しています。地上のこの状況は、終わりの時に関するイエスの描写と合致しており(ルカ21:25)、このあとに神の怒りが続きます。その怒りとは、悔い改めない者たちへの最後の七つの災いという形をとった神の裁きです(黙15:1)。
黙示録15章は、神のこのような怒りがいっぱいの七つの鉢を持つ7人の天使の描写で始まっています。が、それが注がれる前に、私たちは未来の忠実な神の民を垣間見るのです(黙15:1〜4)。彼らは「獣に勝ち、その像に勝ち、またその名の数字に勝った者たち」(黙15:2)で、ガラスの海のようなものの岸に立ち、モーセの歌と小羊の歌を歌っていた、と記されています。これらのイメージはみな、ヘブライ人たちが葦の海の岸で、エジプト人に対する神の勝利を祝った様子を連想させます(出15章)。
これらの勝利した聖なる者たちは、黙示録14:1〜5で14万4000人と呼ばれている人たちと同じです。彼らは獣の刻印を拒絶したので、最後の七つの災いから守られます。やがて再臨の際に、死ぬべき体は変えられて、不死を身に着け(Ⅰコリ15:51〜54)、イエスが力と栄光のうちにおいでになるとき、彼らは復活した聖なる者たちと合流するのです(Ⅰテサ4:17)。
最後の七つの災いの意味
人々は、神に味方するか、バビロンに味方するか、すでに選択をしています。しかしキリストが来られる前に、これまで抑えられていたサタンの怒りという破壊的な風が放たれ(黙7:1〜3)、そのあとに最後の七つの災いが続きます。
問1
黙示録15:1を出エジプト記7章から11章と一緒に読んでください。最後の七つの災いの背景とみなされるエジプトの災いは、七つの災いの目的と意味に関して、どのような関係があるでしょうか。
最後の七つの災いは、「最後の」災いと呼ばれています。なぜなら、それは地球史のまさに最後にやって来るからです。対照的に七つのラッパの災いは、キリスト教の全時代を含む期間をカバーしており、被災範囲が限定されています。それらの災いは、福音がまだ宣べ伝えられており(黙10:8〜11:14)、執り成しもなされている間に下されます(同8:2〜5)。それらには憐れみが混じっており、その目的は、神の民の敵に悔い改めをもたらすことなのです。
一方、最後の七つの災いは、再臨の直前に注がれます。災いは、ファラオのように、神の贖いの愛に対して心をかたくなにし、悔い改めない人たちに注がれます(黙16:11参照)。神の怒りは、人々が行った選択に対する正しい裁きであり(ロマ1:26〜28参照)、滅びる者たちは、自らの選択の結果を刈り取るのです。
問2
黙示録15:5〜8を出エジプト記40:34、35、列王記上8:10、11と一緒に読んでください。「だれも神殿の中に入ることができなかった」(黙15:8)という言葉は、最後の七つの災いのタイミングについて、何を示唆していますか。
「だれも神殿の中に入ることができなかった」(黙15:8)という表現は、恩恵期間の終了を指しています(同22:11)。天におけるキリストの執り成しの働きが終わるとき、悔い改める機会の扉は永久に閉じられます。それゆえ、最後の七つの災いはだれにも悔い改めをもたらさず、バビロンに味方することを選んだ者たちの心はかたくなさを増し、神を一層嫌うようにするだけです(同16:9、11)。
最後の災いが注がれる
天の聖所におけるキリストの執り成しが終わると、1人ひとりの人間の運命は永遠に決定されます。福音を拒絶した者たちが神の怒りを味わう時になります。
最後の七つの災いは、エジプトに注がれた災い(出7〜11章)を反映しています。エジプトの災いは、エジプト人には影響しましたが、イスラエルの人々には害を与えませんでした。そのように神の民は、この悩みの時の間、守られるでしょう(詩編91:3〜10、『希望への光』1905、1906ページ、『各時代の大争闘』第39章「神の保護の約束」の項参照)。エジプトへの災いは、ファラオの心のかたくなさを明らかにし、エジプト人に、彼らの神々が守れないことを示しました。同様に、最後の災いは、海の獣を礼拝する者たちの心をますますかたくなにし、彼らを神の裁きから守るはずのバビロンの無力さを明らかにするのです。
問3
黙示録16:1〜11を読んでください。ここではどのようなことが起きていますか。それはどのように描かれていますか。
最初の四つの災いは、「全世界的なものではない。さもないと、地上の住民はまったく滅ぼされてしまうであろう」(『希望への光』1905ページ、『各時代の大争闘』下巻404ページ)。第一の災いは、獣を礼拝する者たちだけに悪性の腫れ物を生じさせます。第二、第三の災いは、海、川、水の源に影響して、それらを血に変えます。飲み水がなくなれば、反抗的な人類は生き残れません。第四の災いは太陽に影響し、太陽は人々を火で焼き、耐え難い痛みを引き起こします。
災いによって与えられた耐え難い痛みは、正しくない人間の心を和らげることも、その反抗的な態度を変えることもありません。それどころか、この災いを下された神をのろい、冒します。悔い改めることをしません。
私たちは黙示録16:10、11において(出10:21〜23も参照)、第五の災いが獣の王座を撃つのを見ます。その王座を獣に与えたのはサタンでした(黙13:2)。今やサタンの権力の座さえもが、これらの災いの力に耐えることができません。人々は痛みに苦しみながら、バビロンが彼らを守れないことに気づきます。しかし、彼らは神に敵対する決心をすでにしてしまったので、災いの恐怖もその心を変えることがありません。
ユーフラテス川の水がかれる
問4
黙示録16:12を17:1、15と一緒に読んでください。ユーフラテス川という象徴は、何をあらわしていますか。最後の七つの災いとの関連で、ユーフラテス川の水がかれることには、どのような意味がありますか。
旧約聖書において、ユーフラテス川は、イスラエルの敵アッシリアやバビロンを支える極めて大切な生活手段でした。この川はバビロンを貫いて流れ、穀物に栄養を与え、民に水を供給していたので、バビロンの町にとって重要だったのです。ユーフラテス川がなければ、バビロンは存続できませんでした。
黙示録17:1は、終末時代のバビロンが多くの水の上に座っていると説明しており、たぶんそれはユーフラテス川を指しています(エレ51:13参照)。黙示録17:15は、終末時代のバビロンが座っている水とは、バビロンを支持する人々、その制度の背後にある世界中の社会的、世俗的、政治的勢力をあらわすと説明しています。しかしこれらの勢力は、最終的にその支持を撤回するでしょう。
第六の災いの場面は、ペルシアのキュロスによる古代バビロンの占領を反映しています(ダニ5章参照)。古代史家ヘロドトスによれば、ベルシャツァル王と役人たちが宴会をしていた夜に、ペルシア軍はユーフラテス川を迂回させ、川床に沿ってバビロンへ入り、町を急襲しました。
黙示録16:12においてユーフラテス川の水が象徴的にかれたことが、結果的に終末時代のバビロンに滅亡をもたらします。黙示録の中のユーフラテス川は、バビロンを支持するこの世の社会的、世俗的、政治的勢力をあらわしているので、ユーフラテス川の水がかれることは、彼らの支持の撤回と、(バビロンの滅亡を引き起こした)それに続くバビロンへの攻撃を象徴しています。
この世の人々は、自然界の激変を目にして(黙16:3〜9参照)バビロンに保護を求めて頼ります。しかし、第五の災いがバビロンの権威の座を打つので、バビロンに助けを求めることが無益だとわかるのです(同16:10、11)。欺かれたと感じた彼らはバビロンに背を向け、それによってバビロンは滅亡します(黙17:16)。しかし、すでに述べたとおり、彼らの心は神と神の民に対してかたくななままであり続けます。従って、彼らは最後の惑わしの温床となり、その惑わしによってサタンは、一致して神の民に対抗するようこの世を引き寄せるでしょう。神の民を地上から一掃するためです。
サタンの最後の大いなる惑わし
黙示録16:12は、ユーフラテス川の水をからす目的が、「日の出る方角から来る王たち」の道を備えることである、と述べています。旧約聖書において、「日の出る方角から来る王たち」とは、北から来て、やがて東からバビロンに近づくキュロスとその軍勢でした(イザ41:25)。彼らがバビロンを征服したことで、神の民は故郷へ帰ることができました(同44:27、28)。同様に、ユーフラテス川の水が象徴的にかれることは、終末時代の神の民を解放するために「日の出る方角から来る王たち」の道を備えるのです。
黙示録16:12における「日の出る方角から来る王たち」とは、キリストと天使の軍勢のことです。再臨においてイエスは、「白く清い麻の布をまとっ(た)」(黙19:14)天使の軍勢とともに出現されますが、その麻の布とは、罪なき天使たちの衣なのです(同15:6)。天の軍勢を伴われたキリストは、黙示録17:14が示すとおり、御自分の民を虐げる悪魔の勢力を打ち負かします(マタ24:30、31と比較)。キリストと再臨につながる争い、神の民に対する最後の争いは、ハルマゲドンの戦いとして知られています。
問5
黙示録16:13、14を読んでください。ハルマゲドンの戦いへの準備において、汚れた三つの霊の役割は何ですか。それらは、いかに黙示録14章の三天使の使命のサタンによる偽物ですか(Ⅰテモ4:1参照)。
恩恵期間の終了に至る終末の諸事件を通して、すべての人は、ハルマゲドンの戦いにおいて二つの陣営のどちらにつくかを選択するように導かれます。この霊的戦争の前触れとして、ヨハネは、蛙のような三つの悪霊を見ます。サタンの惑わしの最後の試みには、うそをつく悪霊が関わっています。
竜(異教徒心霊主義)、海の獣(ローマ・カトリック教会)、偽預言者(背教のプロテスタント教会)が、サタンの指揮のもとに連合します(黙13:11、12参照)。サタンは、小羊に似た獣が奇跡的なしるしを行えるようにしますが(黙13:13〜17参照)、そこには悪霊の働きが含まれます。奇跡的なしるしは、サタンによる終末時代の惑わし戦略の一部であり、この世を説得して真の神にではなく、彼に従わせようとします。
神と神の真理に対する憎悪で分別を失ったこの世の指導者たちは、サタンのうそをたやすく信じます。そのうそは、好ましい宗教的装いの中に隠されているのです(IIテサ2:9〜12)。最終的に彼らは、この世の終わりにつながる最後の戦いにおいて結束します。
ハルマゲドンの戦いのために集結する
黙示録16:16を読んでください。悪霊の惑わしの奇跡は、世界的な成功を収めます。真の福音を拒絶したので、人々は惑わしの奇跡を伴ううそを信じ込みます(IIテサ2:9〜12参照)。彼らは目的を持って集結します。その目的は、ある「場所」に集まることによって象徴されていて、その場所はヘブライ語でハルマゲドン(「メギドの山」という意味)と呼ばれています。メギドというのは山ではなく、カルメル山の尾根のふもとにあるイズレエルの谷(または、エズレルの平野)に位置する要塞の町で、戦略上の重要な場所でした。
エズレルの平野は、イスラエル史上、多くの決戦で知られていました(士師5:19、6:33、王下9:27、23:29、30参照)。黙示録は、キリストと悪の勢力との、ハルマゲドンと呼ばれる最後の大きな戦いを描写するために、このような歴史的背景を用いています。この世の人々は、サタンの同盟の指揮のもとで一丸となった軍勢として描かれています。
「メギドの山」はカルメル山を指していて、この山は、昔メギドの町があった谷の上にそびえています。カルメル山は、イスラエル史上、最大の決戦の一つ、神の真の預言者(エリヤ)とバアルの偽預言者たちとの決戦の場所でした(王上18章)。この場は、「だれが真の神であるか」という問いに答えを与えました。天から降った火は、主が真の神、礼拝されるべき唯一の方であることをはっきり示しました。ハルマゲドンの戦いにおける霊的問題(私たちは神に従うのか、人に従うのかという問題)は、災いが降る前に決定されますが、竜、獣、偽預言者(黙16:13)側につく人たちは、(キリストの十字架刑に至るまでのユダのように〔ルカ22:3〕)やがて悪魔によって完全に操られます。彼らは敗者の側を選んだために、山に向かって「かくまってくれ」(黙6:16、さらにIIテサ1:7、8参照)と助けを叫び求める人々の中にいることになります。
しかし黙示録13:13、14は、災いが襲う前に、陸の獣が天から火を降らせてこの世をだまし、(もう一つの霊による偽りのリバイバルを含む)サタンのまがい物を神の業であるかのように思わせる様子を描いています。
ハルマゲドンは、中東のどこかで行われる国家間の軍事的戦いではなく、キリストが闇の勢力と断固として対決される地球規模の霊的争いです(IIコリ10:4参照)。その結果は、カルメル山での結果のように、つまり神が闇の勢力に勝利することになります。それは世界的規模での勝利です。
さらなる研究
「聖書の真理によって心を堅固にした人たち以外には、だれも最後の大争闘に耐え抜くことはできない。……使徒パウロは終末の時代を予見して、『人々が健全な教に耐えられなくな』ると言明した(II テモテ4:3)。その時がちょうど到来している。多くの人々は聖書の真理を好まない。なぜなら真理は、罪深い、世を愛する心の欲望を、妨げるからである。そしてサタンは、彼らの好む偽りを提供するのである。
しかし神はこの地上に、聖書、そしてただ聖書だけをすべての教理の基準、すべての改革の基礎として保持する1つの民をお持ちになるであろう。学識者の意見、科学の推論、教会会議の定めた信条や決議(これらは、教会の数が多くてその主張も違うように、おびただしい数にのぼって内容も千差万別である)、大衆の声、—これらのうちの1つであれ全部であれ、それをもって信仰上の事柄に関する賛否の根拠と見なしてはならない。どんな教理や戒めでも、それを受け入れる前に、『主はこう言われる』という明日な事実をその裏づけとして要求すべきである」(『希望への光』1888ページ、『各時代の大争闘』下巻359〜361ページ)。
「欺瞞の一大ドラマの最後を飾る一幕として、サタンはキリストを装うであろう。教会は、救い主の来臨を教会の望みの完成として期待していると長い間公言してきた。今や大欺瞞者は、キリストがおいでになったように見せかける。地上のあちらこちらで、サタンは、黙示録の中でヨハネが述べている神のみ子についての描写に似た、まばゆく輝く威厳ある者として人々の中に現われる(黙示録1:13〜15参照)。
彼をとりまいている栄光は、これまで人間の目が見たどんなものも及ばない『キリストがこられた、キリストがこられた』という勝利の叫びが、空中に鳴り響く。人々が彼をあがめてその前にひれ伏す……。やさしい同情のこもった調子で、彼は、救い主が語られたのと同じ祝福に満ちた天の真理を幾つか述べる。彼は人々の中の病人をいやし、それから、キリストらしくみせかけながら、安息日を日曜日に変えたことを主張し、すべての人に対して、自分が祝福した日を聖とするようにと命じる。彼は、あくまでも第7日をきよく守り続ける者は、光と真理とをもって彼らに遣わされたわたしの天使たちの言うことを聞かないで、わたしの名を冒している者だと宣言する。これは強力な、ほとんど圧倒的な惑わしである」(同上1903ページ、同上下巻398、399ページ)。
*本記事は、アンドリュース大学神学科新約学教授ランコ・ステファノビック(英: Ranko Stefanovic)著、安息日学校ガイド2019年1期『ヨハネの黙示録 イエス・キリストの働きを知る』からの抜粋です。