わたしは万物を新しくする【ヨハネの黙示録-イエスキリストの働きを知る】#13

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終末時代のバビロンの滅亡は、この背教の宗教制度と協力した人々にとっては悪い知らせです。しかし、神の民にとっては良い知らせです(黙19:1〜7)。バビロンは、彼らを迫害し、危害を加えるために、社会的、政治的勢力をそそのかしたことへの責任がありました(同18:24)。この大敵の滅亡は、神の忠実な民にとって解放と救いを意味します。

バビロンの滅亡によって、第五の封印の場面における神の民の祈りが、最終的に応えられます。「主よ、いつまで」(黙6:10)という彼らの叫び声は、アベルから、神が最終的に御自分の民の雪辱をなさる時までの、虐げられ、苦しんできた神の民の叫び声を代表しています(詩編79:5、ハバ1:2、ダニ12:6、7)。黙示録は、悪、抑圧、苦しみが終わると、神の民に断言しています。

今や、キリストが御自分の永遠の王国の到来をお告げになる時です。黙示録の残りの章は、終末時代のバビロンの滅亡だけでなく、サタンとすべての悪の滅亡も描いています。私たちはまた、神の永遠の王国の設立も垣間見ます。

小羊の婚宴

黙示録19:6〜9をヨハネ14:1〜3と一緒に読んでください。2000年前、キリストは御自分に従う者たちを婚宴に招くために天の家を出られました(マタ22章)。婚宴は、花嫁と結婚したあとに開かれるのです。「婚宴は、キリストがみ国をお受けになることを意味している。聖なる都、新エルサレムは、『小羊の妻なる花嫁』と呼ばれている。……。黙示録によれば、神の民は、婚宴に招かれた客であると言われている(黙示録19:9参照)。もし彼らが客であれば、花嫁をも代表することはできない。……

マタイ22章のたとえにおいて、同じ婚宴の象徴が用いられ、婚宴に先だって調査審判が行われることが明示されている。婚宴に先だって、王は、すべての客が、礼服、すなわち、小羊の血で洗って白くしたしみのない品性の衣を着ているかを見るために入ってくる(マタイ22:11、黙示録7:14参照)」(『希望への光』1802ページ、『各時代の大争闘』下巻142、143、145ページ)。

カルバリーにおいて、キリストは御自分の命で持参金を支払ったあと、御自分の民、つまり婚宴に招かれている者たちのために「場所を用意」(ヨハ14:1〜3参照)するため、父なる神の家に帰られました。彼らは、キリストが戻られるのを待ちつつ地上に残ります。この世の終わりに、キリストは戻って来て、彼らを御自分の父の家に連れて行ってくださいます。

黙示録19:8は、花嫁がキリストによって清い麻の衣を着せられた、と述べています。これは、婚宴に招かれて都に入る者たちが自分の行いに対していかなる功績も主張しないことを示しています。このように、「輝く清い麻の衣」は「聖なる者たちの正しい行い」、つまり彼らに内住されるキリストとの和合の結果として生じる行いをあらわしています。従ってこれらの衣は、キリストの義と、彼の民が「神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続け」(黙14:12)ていることを象徴しています。地上におられたとき、イエスは婚宴に関するたとえ話をされました。しかし1人の客は、王から与えられた礼服の代わりに自分の服を着ることを選び、婚宴から追い出されました(マタ22:1〜14)。

黙示録3:18は、終わりの時代に生きる神の民にとって、キリストの義の衣、信仰、聖霊の目薬が最も必要なものであることを示しています。イエスはラオディキアの人たちに、私からこれらの賜物を「買う」がよい、と申し出ておられますが、それは、彼が提供するものと引き換えに何かを求めているということです。私たちは、キリストに忠実に従って生き、唯一の救いの希望として彼に信頼することと引き換えに、自己充足や自己信頼を放棄するのです。

ハルマゲドンの終わり

問1

黙示録19:11〜16を読んでください。白い馬の騎手は、何と呼ばれていますか。彼の口から鋭い剣が出ているのは、どういう意味ですか。そのことから、どうしたら最後に勝者の側にいられるのかということについて、何を学びますか。

私たちがここに見るのは、キリストの再臨の様子、あらゆる時代の信者が待ち望んできた約束の成就です。イエスと同様、彼の民は自らの信仰の根拠を神の言葉に置いてきました。黙示録19:11〜16は、イエスの多くの勝利の絶頂です。イエスは、天でサタンに勝ち、荒れ野で勝ち、十字架で勝利されましたが、再臨においてもサタンに勝利されます。

「まもなく、東の方に、人の手の半分くらいの大きさの小さい黒雲が現れる。それは、救い主を囲んでいる雲で、遠くからは、暗黒に包まれているように見える。神の民は、これが人の子のしるしであることを知っている。彼らは、厳粛な沈黙のうちに、その雲が地上に近づくのを見つめる。それは次第に明るさと輝かしさを増し、ついには大きな白い雲となって、下のほうには焼き尽くす火のような栄光が輝き、上のほうには契約のにじがかかっている。イエスは、偉大な勝利者としておいでになる。今度は、恥辱と苦悩の苦い杯を飲む『悲しみの人』ではなくて、天地の勝利者として、生きている者と死んだ者とをさばくためにこられる。『忠実で真実な者』『義によってさばき、また戦うかたである。』そして『天の軍勢が』彼に従う(黙示録19:11、14)。数えることができないほどの聖天使の群れが、天の聖歌を歌いながら付き従う。大空は、『万の幾万倍、千の幾千倍』もの、輝く天使たちで満たされたように見える。この光景は、人間のどんな筆によっても描くことができない。その輝かしさは、どんな人間の頭でも十分に想像することはできない」(『希望への光』1911、1912ページ、『各時代の大争闘』下巻419ページ)。

パウロはIIテサロニケ1:8〜10で、再臨におけるキリストの最終的勝利を別の形で描写しています。その時、キリストに対して陰謀を企てたすべての社会的、政治的勢力は滅ぼされ、キリストの民は永遠に解放されます。

千年期

問2

黙示録20:1〜3をエレミヤ4:23〜26と一緒に読んでください。千年期の間、地球はどのような状態ですか。サタンはどのように鎖で縛られますか。

この1000年(つまり千年期)は、キリストの再臨とともに始まり、その時、サタンと堕落した天使たちは鎖でつながれます。霊的な存在は物理的に縛ることができないので、サタンの鎖は象徴的なものです。サタンは環境によって縛られます。数々の災いによって、地球はすでに荒廃し、地上の悪しき住人たちも葬り去られ、天地創造前の地球に似た混沌とした状況になります(創1:2)。そのような状況において、千年期の間、地球はサタンの牢獄の役割を果たします。誘惑したり、危害を加えたりすべき人間がいないので、サタンと凶暴な仲間たちにできるのは、神への反逆の結果をじっくり考えることだけです。

問3

黙示録20:4〜6を読んでください。千年期の間、救われた者たちはどこにいますか。

黙示録の示すところによれば、神の民は千年期を、キリストによって用意された天の場所で過ごします(ヨハ14:1〜3参照)。ヨハネは、彼らが王や祭司として玉座に座り、この世を裁いている様子を見ます。イエスは弟子たちに、「十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」(マタ19:28)と約束されました。パウロも、聖なる者たちが世を裁くだろう、と言いました(Ⅰコリ6:2、3)。

この裁きは、神の行動の公平さに関係しています。歴史を通じて、サタンは神の御品性と被造物に対する神の扱いに関して疑問を投げかけてきました。神は千年期の間、失われた者たちに対する神の決定の公平さと、彼らの人生における神の導きについて、あらゆる疑問が解消されるよう、贖われた者たちが歴史の記録を見ることができるようにされます。千年期の最後には、神の正義に関する疑問がすべて永遠に解消されます。神の民は、サタンの非難が根拠のないものであったことを疑いの余地なく理解できます。彼らは今や、失われた者たちへの最後の裁きにおいて、神の正義の行使を目撃する用意ができています。

「新しい天と新しい地」

罪が根絶されたあと、地球は贖われた者たちの家に変えられます。地球はどのようになるのでしょうか。

黙示録21:1において、ヨハネは「新しい天と新しい地」を見ました。聖書は三つの天に言及しています。空、星が輝く宇宙、そして神が住まわれる場所(IIコリ12:2参照)。黙示録21:1の中に、地球の環境が見えます。汚染された土地や空は、神の御臨在に耐えられません(黙20:11)。「新しい」というギリシア語「カイノス」は、起源や時間において新しいという意味ではなく、質において新しいという意味です。この惑星は火によって清められ、最初の状態に回復されます(IIペト3:10〜13)。

特に興味深いのは、ヨハネが新しい地で最初に気づいたのが、海がないということだという点です。ヨハネが、〔「その」を意味する〕定冠詞を付けて「海」に言及している事実は、パトモス島にいた彼を取り囲む海を思い浮かべていたのであろうことを示しています。その海は、分離と苦しみの象徴になっていました。彼にとって、そのような海が新しい地にないということは、愛する者たちとの離別によって生じる苦痛がないことを意味していたのです。

黙示録21:2〜8と7:15〜17を読んでください。新しい地と創世記2章のエデンの園との間には、類似点があります。回復された地における苦しみも死もない人生は、神が御自分の民の中に御臨在されることによって保証されます。この御臨在は、新エルサレムと「神の幕屋」(黙21:3)で明らかにされます。その場所で、神が御自分の民の中に住まわれるのです。神の御臨在は、回復された地での人生を真の楽園にします。

神の御臨在は、苦しみからの解放を保証します。罪の結果である涙も、死も、悲しみも、嘆きも、労苦もすべてありません。罪が根絶されたことで、「最初のものは過ぎ去った」(黙21:4)からです。

このような考えは、兄弟のラザロを亡くした際のマリアとマルタによって、表現されています。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(ヨハ11:21)。この姉妹は、キリストがおられるところには死が存在しないことを知っていました。同様に、新しい地に神が住んでおられるということは、この世において私たちが今体験している労苦や苦しみが存在しないことを保証します。これは、キリストによって私たちに約束されている大いなる希望、彼の血によって確定された希望なのです。

新しいエルサレム

次にヨハネは、新しい地の都である新しいエルサレムを描写します。現実の人間が住む現実の場所ですが、新しいエルサレムとそこでの生活は、この世の描写を超えています(Iコリ2:9参照)。

問4

黙示録21:9〜21を読んでください。新しいエルサレムには、どのような外観上の特徴がありますか。

新しいエルサレムは、花嫁、小羊の妻と呼ばれています。新しいエルサレムは、キリストが御自分の民のために準備をしておられる場所です(ヨハ14:1〜3)。

この町は、〔東西南北の〕四面に三つずつ、合計12の門を持つ高い城壁によって囲まれており、どの方角からでも入れます。この特徴は、この町の普遍的な視野を指し示しています。新しいエルサレムでは、だれもが神の御前に近づけます。

この町はさらに、完全立方体であると説明されています。長さも幅も高さも、1万2000スタディオン*です。この立方体は12の辺からできています。それゆえ、この町の12辺の合計は14万4000スタディオンで、それは、イエスの再臨の際に死を見ることなく昇天させられる14万4000人を反映しています。旧約聖書時代の神殿では、至聖所が完全立方体でした(王上6:20)。そのように新しいエルサレムは、神を礼拝する中心としての役割を果たします。

問5

黙示録21:21〜22:5を読んでください。町の内部のどのような特徴が、エデンの園を思い出させますか。この町には呪われるものが何一つないという約束には(黙22:3)、どのような意味がありますか。

新しいエルサレムの最も際立った特徴は、神の玉座から流れ出ている命の水の川です(創2:10参照)。神の民がエルサレムをあこがれつつ捕囚として座っていたバビロンの川岸(詩編137編)とは対照的に、あらゆる時代のさまよえる人々が新しいエルサレムの命の川の両岸に自分の家を見いだします。

その川の両岸には、「諸国の民の病を治す」(黙22:2)葉を持つ命の木があります。この「治す」とは、病気を治すことを指しているのではありません。新しい地に病はないからです。それは、歴史を通じて人々を裂いてきた障壁によって生じたあらゆる傷を治すという意味です。あらゆる時代、あらゆる国民の中から贖われた人々が、今や神の一つの家族の一員になるのです。

*1スタディオン=約185m。口語訳ではスタディオンを「丁」と表記している。

さらなる研究

参考資料として、『キリストの実物教訓』第24章「王の婚宴」と『各時代の大争闘』第42章「大争闘の終結」を読んでください。

黙示録は、冒頭部分で紹介されたこと、つまりキリストの再臨と神の永遠の国の樹立とで終わっています。キリストが最終的に御自分の花嫁と結ばれる再臨は、この書巻における最高の山場です。

しかしこの書巻は、こういった諸事件を非現実的な文脈の中に置きたいと望んでいません。イエスが間もなく来られることは、第一の現実であり、第二の現実は、私たちがイエスの帰還をいまだにここで待っていることです。待っている間に、私たちは黙示録のメッセージをはっきり理解する必要がありますが、それは、万物の終わりが来るまで、何度も何度もこの書巻を読むことによって可能になります。黙示録のメッセージは、私たちが待っている間、この世の物事に目を向けるのではなく、私たちの唯一の希望であるお方と天国を見つめるように、絶えず思い出させます。黙示録のキリストは、人生の謎と不確かさの中にあるすべての人の希望と願いに対する答えなのです。この世の未来と私たちの未来を、その手の中に握っておられます。

この書巻はまた、終わりが来る前に、キリストの速やかな帰還というメッセージを世界中に宣布する務めが私たちに託されていることも思い起こさせます。私たちはキリストの帰還を消極的に待つのではなく、積極的に待つのです。“霊”と花嫁とは、「来てください」(黙22:17)と叫びます。私たちはその声に加わる必要があります。それは良い知らせであるがゆえに、この世の人々に宣べ伝えられなければならないのです。

*本記事は、アンドリュース大学神学科新約学教授ランコ・ステファノビック(英: Ranko Stefanovic)著、安息日学校ガイド2019年1期『ヨハネの黙示録 イエス・キリストの働きを知る』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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