人の子と最後の審判【ダニエル書と黙示録—重要な黙示預言】#3

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今週のテーマ

前回はダニエル書2章と7章を学び、これらの章において、神の教会に関連した歴史が示されました(バビロン、メディア・ペルシア、ギリシア、ローマ〔多神教帝国および教皇制〕)。しかし、ここに描かれた出来事のすべてが地上の出来事ではありません。事実、ダニエル書7章は天における大いなる裁きの光景と、それに続く最終的な神の王国の確立をもって終わっています(26、27節)。「1時期、2時期、半時期」(ひと時と、ふた時と、半時の間:口語訳)の後、大いなる天の裁きが行われることがダニエル7章に3度にわたって述べられています(9~11、21、22、25、26節)。その目的は小さな角の支配について描写することにあります。そこには次のような事柄が明らかにされています。

(1)小さな角(25節)

(2)天における裁き(26節)

(3)再臨(27節)

ダニエル書は再臨前審判について明確に教えています。裁きがあることはどの教派のクリスチャンも信じていますが、違うのはその時期、目的、性格です。今回はこの重要なテーマについての聖書の教えに目を向けましょう。

裁かれる神

「父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。……また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである」(ヨハ5:22、27)。聖書は繰り返し裁きがあることを明らかにしています。上記の聖句を読むと、イエスご自身が裁きを行われるとあります。

問1

なぜイエスが裁き主なのでしょうか。理由は27節にあります。

「自ら人性を取り、この世において完全な生涯を送られた方が私たちを裁かれます。彼だけが私たちの裁き主となることができます。……キリストが人性を取られたのは私たちの裁き主となるためでした」(『教会へのあかし』第9巻185ページ)。「キリストは、人間のあらゆる苦悩と試みとを経験し、人の弱さと罪とを理解されるので、また主はわれわれのためにサタンの試みに抵抗して勝利し、救うためにご自身の血を流された魂を正しく、やさしくとり扱われるので、このゆえに、人の子イエスは、さばきを行うように任命されているのである」(『各時代の希望』上巻258ページ)。イエスが人間であられたゆえに、またイエスが私たちの悲しみと痛みと苦しみを味わわれたゆえに、イエスが私たちの裁き主でなければならないとこれらの言葉は述べています。北米インディアンのことわざに「その人の靴を履いて歩いてみるまでは人を裁くな」というのがあります。「わたしたちと同様に試練に遭(あ)われた」イエス(ヘブ4:15)、「罪深い肉と同じ姿でこの世に」来られたイエス(ロマ8:3)、「肉となって、わたしたちの間に宿られた」イエス(ヨハ1:14)、「女から……生まれた」イエス(ガラ4:4)――彼だけが、私たちを裁かれます。なぜなら、彼は「私たちの靴を履いて歩かれた」からです。

法的手続き

「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」(Ⅱコリ5:10)。「神は、善をも悪をも/一切の業を、隠れたこともすべて/裁きの座に引き出されるであろう」(コヘ12:14)。審理や調査を全くしない公平な裁判というものはありません。当人の行為を取調べることなしに刑を宣告するのは独裁的で、今も現実にはありますが、これは最も基本的な人権を踏みにじるものです。古代の昔でも裁判に先立って取調べがなされました。

問2

使徒言行録25:4~12を読み、裁きにおける調査審問の例を調べてみましょう。

イスラエルの訴訟手続きにおいて、証拠調べはきわめて重要な意味を持っていました。「調査活動……の目的は、特定の事件(犯罪)を明るみに出し、その犯罪の種類と犯人を知ることによって、真実と正義にしたがって訴訟を進め、犯罪者に判決を下すことを可能にする」(ピエトロ・ボヴァティ『正義の回復』241ページ、1994年)。

問3

人類堕落において神はまずどのような法的手順をとりましたか。創世3:8~19

創世記3:8~19において、神は検事、判事として求刑、宣告なさる前に“聞き取り調査”をしました。神はアダムとエバに、「どこにいるのか」、「お前が裸であることを誰が告げたのか」、「木から食べたのか」と尋ねて判決を下すために必要な情報を集めておられます。神はすべてを知っておられるので、「自分たちのしたことをアダムとエバに明確に」されたのです(クラウス・ウェスタマン『創世記1~11章注解』254ページ、1984年)。

裁きが来た

「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブ9:27)。

問4

ローマ2:5~8にはどんな教訓がありますか。

新約聖書は最後の裁きの時期に関して重要な事実を明らかにしています。(1)裁きは一般的に私たちの生きているうちは行われません。最後の世代を除いて品性が決定するのは死んでからです。(2)裁きは「怒りの日」――再臨の日と関係があります(ロマ2:5、Ⅱテモ4:1)。その日、各人はその行いにしたがって報いを受けます。(3)再臨において、神の「正しい裁き」が現されます(ロマ2:5)。この場合の「裁き」は天の法廷においてなされた正式の決定をさします。キリスト再臨において、天で下された評決が現され、ある人は死に、ある人は永遠の命に定められます(6~8節)。

問5

救済計画においてダニエルは最後の裁きをどこにおきましたか。ダニ7:9、10、25、26

ダニエルによれば、最後の裁きは次のように進められます。

(1)それは天の法廷で、神と天使と人の子の前で開始されます(ダニ7:9、10、13)。

(2)決定が下される前に、種々の書物が調べられます(10、22節)。

(3)評決の結果、聖者は勝利し、敵には有罪が宣告されます(22、26節)。

(4)それは小さな角によって引き起こされた1260年間の迫害後の、ある時点において始まります(25、26節)。

悪人の裁き

「わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座(ぎょくざ)の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府(よみ)も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた」(黙示20:12~15)。

好むと好まざるにかかわらず、聖書は悪人たちの最終的な裁きについて記しています。失われた人たちとは、神が何らかの方法で与えておられた光を自分自身の選択によって拒んでしまった人たちです。裁きという主題が重要な意味を持つのは、それが大争闘全体における根本的な争点、つまり神の品性に関係しているからです。

最終的な宣告が執行される前に、悪人の裁きに関して調査がなされます。この調査は千年期の間になされ、救われた人たちもこれに参加します(黙示20:4)。サタンと彼の天使たちは裁かれ(Ⅰコリ6:2、3、Ⅱペト2:4)、千年期の終わりにその宣告が執行され、悪人は滅ぼされます(黙示20:12~15)。

裁きの目的

「そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう」(ロマ2:16)。(使徒24:25参照)

問5

裁きと福音は両立しますか。律法の行いによらず信仰によって救われるとすれば、裁きをどう理解したらよいでしょう。ロマ3:28福音と最後の審判は不可分で、福音は裁きにおいて完成を見ます。裁きの目的には次のような点があります。

(1)神の民についての真理を明らかにする裁きには証拠調べがあり、神が最終判決をくだして“忠実な民”を擁護されます(ダニ7:22)。

(2)神の正義と愛を啓示する裁きはだれが有罪、無罪かを神に知らせるためのものではありません。むしろ、それは注目している全宇宙の前に神の正義と愛を啓示するものです(ロマ3:4、詩51:6)。

(3)宇宙に調和を回復する善と悪の争闘の結果、宇宙は不和によって分断されました。赦された人々に報いを与え、宇宙の悪を根絶し、罪から清めることによって、最後の裁きは調和を回復します。そのとき、キリストによる神の救いのみ業は完成します(黙示11:15~18)。

(4)すべての人と悪の勢力に自分の行為の責任を負わせる裁判によって集められた証拠を目の当たりにするとき、誰もが自分に対する神の判決の正しいことを認めます。キリストを自分の救い主として受け入れた人たちは、永遠の死を受けるべき自分たちが永遠の命を受けるのは、ただキリストの恵みによってであることを認めます。悪人たちも自分が永遠に死すべき者であることを認め、裁きにおいて、神の判決が正しいことを悟ります(フィリ2:9~11)。

(5)個人的な霊的成長を促す最後の裁きの教えは私たちにクリスチャン生活において神への信頼を堅持するように迫ります。裁きは私たちにキリストへのまったき依存を教えます。裁きは私たちの救いを不確実へと導くものではなく、むしろキリストにある確信をいっそう確かなものとしてくれます(ロマ8:1)。

まとめ

最後の裁きはキリストのみ業の完成を告げるものです。それはキリストに従うことを告白した人々の再臨前審判をもって始まり、千年期後の悪人への執行審判をもって終わります。

『各時代の大争闘』下巻210~226ページ(天における調査審判)を読んでください。今回の研究のまとめとして、次の点に留意してください。

(1)「人の子」のような者が「日の老いたる者」の前に来る(ダニ7:13)「われわれの大祭司は、天使たちを従えて、至聖所に入り、神のみ前で、人類のための彼の最後の務めをなさる。それは、調査審判の働きであり……」(『各時代の大争闘』下巻211ページ)。「つまり、ダニエル書7:9~14は終末論的贖罪日について述べている。……それは、まことの大祭司が香の煙に囲まれた『日の老いたる者』のもとに来られるときである」(クリスピン・H・T・フレッチャールイス「ヘブライ語聖書における仲保者としての大祭司――ダニエル書7:13を事例として」『1997年聖書文学学会研究論文』186ページ)。

(2)数々の天の記録「いのちの書には、神の働きをしたすべての人の名が記されている。……神の前に、『覚えの書』が記されているが、それには、『主を恐れる者、およびその名を心に留めている者』の善行が記録されている(マラキ書3:16)。……また、人々の罪の記録もある」(『各時代の大争闘』下巻212、213ページ)。種々の天の記録がどのようなものであるかは、私たちにはわかりません。しかし、人々に関してなされた決定が事実、あるいは客観的な証拠に基づいたものであることだけははっきりしています。裁きが客観的なもの、神の正義がすべての人に認められるものでなければならないからです(黙示15:4)。

ミニガイド

裁判はたしかに悪を裁いて刑を定めるものですが、その反面、不当な告訴に対して無罪を宣言してくれます。犯罪者は裁判所が自分に下す罰を恐ろしく思うでしょうが、無実の者にとってその判決の日は晴れて堂々と自由に生きることが許される人生最良の日でありましょう。パウロは「恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下される」と書きました(ロマ5:16)。信仰者は裁きを消極的にとらえるのでなく、自由と解放、救いの喜びを受ける日として賛美と感謝をもって迎えることができます。

神は義、聖なるお方であり、その聖性に罪の審判という教えの根拠があります。神は善と悪とを分かち、不義を裁き、排除する律法の授与者、執行者、正義を行うお方としてユダヤ民族は理解し、あがないの日は一方で「裁きの日」、その一方で「救いの日」として年間を通じて日ごとに準備し、かつ待望していました。

カトリック教会には「四終」という教理があり、死、審判、天国、地獄を言います。「しばしばこれについて考えることは、救いのために大切」と“教会要理”に書いてあります。ところが「最近になって(カトリックの)進歩的な学者は悪魔にだまされ、傲慢(ごうまん)にもキリストご自身の教えをゆがめ、悪魔も地獄もないと教え始めた。……すなわち、地獄についてのキリストのことばを文字通りに解釈するのは幼稚なことである。キリストが地獄の話をしたのは、当時の文化程度の低い人を脅か(おびや)すためであって、地獄が永遠であることを教えるつもりはなかった、とその人は書いていた。同じような異端説を平気で教える司祭が日本の教会にも幾人もいる。彼らがこうするのは、現代人の感受性を傷つけないためといっている」と嘆いている神父がいます(『地獄について』デルコル神父著)。

「イエズスは人間の耳に聞きづらいことを弱めたり、隠したりすることがなかった。ファティマに出現した聖母も、歴史の聖徒たちも地獄を明らかに話した。『あなたは四終を思い出せ、そうすれば永遠に罪を犯さないだろう』(シラの書7:36)」とも書きました。セブンスデー・アドベンチスト教会にはこうした問題はありませんが、学ぶべき教訓があるように思います。

*本記事は、神学者アンヘル・M・ロドリゲス(英: Angel Manuel Rodriguez)著、安息日学校ガイド2002年2期『重要な黙示預言』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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