【コヘレトの言葉】人生と時【3章解説】#4

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「私はすでにそれらすべてを知っている。すべてを知っている。夜も、朝も、昼も知っている。私はコーヒー・スプーンで人生を計ってきた」

(T・S・エリオット『J・アルフレッド・プルーフロックの恋歌』)

私たちはコーヒー・スプーンで自分の人生を計らないまでも、何らかの方法で自分の人生を計ります。たいていの人の場合、恵まれているなら、人生は70年ほど、特に恵まれている人なら、80年ほどでしょう。いつかは死ぬ運命にある人間にとって、時間は貴重な財産です。

コヘレト3章がすべての人にとって重要な主題である時間について述べているのはそのためかもしれません。かつて書かれた詩の中で最も美しいものの一つに数えられる詩をもって、ソロモンはすべて時間に関係したさまざまな主題に言及しています。人間のさまざまな営みにおいて、物事の時機はどれほど重要な意味を持つか。本質的に永遠とは無縁の人間にとって、永遠という概念はどんな意味を持つか。神はいつ、この世の悪と不義を裁かれるのか。すべての動物が同じ運命をたどるとすれば、結局のところ人間と動物の違いは何なのか。

これらはわずか1章で扱うには重すぎるテーマです。これらの問題は聖書全体の文脈の中でながめることによってのみ理解することができます。

時間の神

あなたの時計はどれほど正確ですか。たぶん、セシウム時計にはかなわないでしょう。セシウム時計はセシウム原子の振動を用いたもので、1秒の91億9263万1770分の1まで計測できます。言い換えるなら、神は自然界の中にこのような時間的要素を組み込まれたということです。

アメリカのNASAゴダード宇宙飛行センターには、紀元前2000年から紀元3000年までの[太陽と月の]すべての食が書かれたチャートがあります。言い換えるなら、神が自然界に組み込まれた時間がきわめて正確なゆえに、過去ばかりか、将来における食までも正確に知ることができるのです。

自然界が示しているように、主は時間を支配しておられます。預言に特別な関心を寄せる私たちアドベンチストにとって、これは不思議なことではありません。結局のところ、一つの運動としての私たちの独自性と使命を理解する助けになった預言の多くは時間に関係しているのです。

問1

アドベンチストにとって重要な意味を持つ時に関する次の預言について復習してください(ダニ7:25、8:14、9:24~27、黙12:14)。これらは、人間世界の諸事件に対する神の支配に関して何を教えていますか。

聖書は多くの個所で、神の計画における時間の役割について述べています。イエスはガリラヤにお現れになったとき、「時は満ち、神の国は近づいた」と宣言されました(マコ1:15)。パウロはイエスの初臨に関して、「時が満ちると、神は、その御子を……お遣わしになりました」と述べています(ガラ4:4)。彼はまたイエスの再臨に関して次のように述べています。「わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、……この掟を守りなさい。神は、定められた時にキリストを現してくださいます」(Iテモ6:14、15)。また、天使がヨハネに現れ、次のように言っています。「この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである」(黙22:10)。このことからも、神が時間を通して御自分の御心を遂行されることがわかります。

何事にも時がある?

コヘレト3:1~8を読んでください。生まれる・死ぬ、建てる・破壊する、愛する・憎むというように、反対の概念が対比されています。これらの聖句の正確な意味については、学者の間でも議論のあるところですが、ソロモンは人間生活のさまざまな側面にふれ、物事にはそれを行うにふさわしい時とそうでない時があると語っているように思われます。

これらの聖句の意味を解く鍵はたぶん、11節の初めの言葉にあります。ソロモンは神について述べた後で、「神はすべてを時宜にかなうように造り」と言っています。つまり、これらさまざまな物事は、ふさわしい時に行うなら、正しいということです。これらの聖句は神の圧倒的な摂理よりも、むしろ人間の自由と物事を行う時機について述べています。

問題は、3節の「殺す時」です。さまざまな説明がなされていますが、重要なのはソロモンが王であって、死刑制度を持つ国家の支配者であったという事実です(出22:18~20、レビ20:2、9~16、24:14~16、民15:35参照)。それと、コヘレト3:3の「殺す」というヘブライ語動詞は、一般的に「殺人」を意味する出エジプト記20:13のヘブライ語と同じでないことにも注意すべきです。

問2

以下の各聖句は物事を行う時機の重要性についてどんなことを教えていますか。詩編37:9、マタ5:21~24、マタ8:21、22、ロマ8:25、ロマ12:19、Iコリ4:5、ヤコ1:19

永遠を想う心

時間への言及はコヘレト3:11~15でも続きます。これらの難解な聖句を通して読み、時間について何と言われているか調べてください(11節は、「神は……永遠を人の心に置かれる」と訳すこともできます[新欽定訳])。

問3

ソロモンがこれらの聖句[コへ3:11~15]において何を言おうとしているか、聖書全体にもとづいて考えてください。

ソロモンはここで、人間の弱さと愚かさとは対照的に、神の権力と力を認めています。彼は思慮のない肉体的快楽に満ちた生活を奨励しているのではありません。人間の労苦は今、ふさわしい時に、「太陽の下」、この世において、喜びの実を刈り取ります。人間は神の御業と摂理を完全に理解することができません

(「神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」[11節])。その必要もありません。彼はイエスと同じことを言っているのかもしれません。「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタ6:34)。

問4

神は「永遠を思う心を人に与えられる」という言葉を、あなたはどのように理解しますか。ソロモンの王としての生涯が決して幸福と満足に満ちたものではなかったことに照らして考えてください。ヘブ11:13~16、Iヨハ2:15~17参照

人間も動物も「太陽の下」、同じ運命をたどります。しかし、違う点があります。それは、神が永遠を思う心を人に与えられたということです。人間は自分を超えた存在を意識することができます。自分が死んでも、時は私たちの死後も、永遠に続くことを知っています。しかし、私たちは自分の運命に満足したり、無関心であったりすべきではありません。なぜなら、私たちは決して死ぬものとして造られていないからです。死は侵入者であり、サタンの業です(ヘブ2:14、Iヨハ3:8)。どのような肉体的楽しみも、結局はむなしく、無意味で、まさに“ヘベル”(蒸気)であるのはそのためです。

もちろん、福音があります。イエスが死を滅ぼすために来られたこと、私たちを死の恐怖から解放してくださったことがそれです(ヘブ2:15)。

イエスと裁き

ソロモンはなおも時間の問題について探究します。しかし、その話題は全く別のものに変わります。彼はコヘレト3:16、17で、この書の中で繰り返される主題、つまり人間の不正と神の裁きについて語り始めます。

問5

コヘレト3:16を読んでください。裁きの座に悪が、正義の座に悪があるとはどういう意味ですか。今日でも、このような状況は見られますか。あなたはこのような状況を見て、どう感じますか。ソロモンはどう感じましたか。箴17:23、21:27、ヨハ2:14参照

裁きと正義のあるべきところに不正と悪があるのを見て、憤りを感じない人がいるでしょうか。ソロモンも私たちと同様、裁きが行われることを望みました。多くの事柄に幻滅を感じていましたが、それでもなお、神が定められた時に最終的な裁きを行ってくださると信じていました(コへ3:17)。彼も言っているように、

「すべての出来事、すべての行為」には、定められた時があるからです。神の裁きに関しては特にそうです。

問6

イエスはヨハネ12:31で、「今こそ、この世が裁かれる時」と言われました。十字架はどんな意味で善人と悪人を裁くものとなりましたか。

裁きの座である十字架において、信じがたい不正が行われるのを、私たちは見ます。罪のない神の御子が、恩知らずで、邪悪な世界の罪のために死なれたからです(ロマ5:6、Iヨハ2:2)。同時に、十字架は正義の座です。なぜなら、「神……の義」(IIペト1:1)をお持ちになるイエス御自身がそこにおられるからです。それなのに、この正義の座において不義、つまり全世界の不義が「わたしたちのために」(IIコリ5:21)罪となられたイエスによって罰せられるのを見ます。また、義人の裁きは十字架においてなされました。なぜなら、十字架上で、イエスの死を通して、裁きにおける勝利が確実なものとなったからです(ロマ8:1)。同時に、失われた者たちの有罪が確定しました。なぜなら、十字架の光に照らして、彼らには弁解の余地がないからです(ヨハ3:19)。

人間と動物

問7

コヘレト3:18~22を読んでください。コヘレトの言葉は言うまでもなく、聖書全体の教えに照らして、ソロモンはここでどんな重要な点を指摘していますか。私たちはどんなことに留意する必要がありますか。

確かに、死んだ人間と死んだ犬との間には大きな違いはありません。死後、時間がたつにつれて、両者を区別することは難しくなります。最終的には、どちらも骨だけになるからです。

ソロモンはここでも、神を離れた人生、この世の快楽を追い求める人生のむなしさについて述べています。結局のところ、人間も動物も、「すべてはひとつのところに行く。すべては塵から成った。すべては塵に返る」からです(コへ3:20)。ほとんどの人はこのような結論に動揺します。それは生前のあらゆる業を“ヘベル”(蒸気)、いやそれ以下のものとしてしまうからです。ある無神論者の作家が人生の「不条理」について言っています。──人間は希望だの、約束だのと言うが、死ねば獣と同じ無意味なところに行くではないか。

たとえ最高のときでも、人生はつらいものです。私たちはみな何らかの問題を抱えています。しかし、感謝すべきことに、福音は私たちに希望を与えてくれます。

まとめ

「真の洗練された自立心は経験と知恵のある人の勧告を求めることを軽んじない。それは人の勧告を尊重する」(『教会へのあかし』第4巻240ページ)。

「物事の時機を逸しないことが真理を有利に進める上で重要である。勝利はしばしば遅延によって失われる。神の御業は危機に陥る。ふさわしい時に迅速に、断固として行動することは輝かしい勝利をもたらすが、遅延と怠慢は大きな失敗を招き、大いに神の御名を汚す」(『教会へのあかし』第3巻498ページ)。

「当然キリストが受けられるべきとり扱いをわれわれが受けられるように、キリストはわれわれが当然受けるべきとり扱いを受けられた。われわれのものではなかったキリストの義によってわれわれが義とされるように、キリストはご自分のものではなかったわれわれの罪の宣告を受けられた。キリストのものであるいのちをわれわれが受けられるように、キリストはわれわれのものである死を受けられた。『その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ』」(『各時代の希望』上巻11ページ)。

コヘレトの言葉3章11節を、口語訳と新改訳は、「神のなさることは、すべて(その)時にかなって美しい」と訳出しています。聖書の中の名訳の一つです。クリスチャンの特権の一つは、過去を振り返って、そこに主の導きを認めることができるということです。たとえ将来は見えなくても、すでになされた神の祝福のみわざの中に、将来をも益としてくださる御手を信仰によって捉えることができることは、なんという幸いでしょう。個人としてだけでなく、教会や教団をも主が導いておられることを覚えたいものです。「われわれの過去の歴史を振り返り、現在の立場に至るまでの働きの進展の歩みをたどる時、私は『主をほめよ』と言うことができる。主がなされたことを見る時に、私の心は、驚きと、指導者としてのキリストへの信頼に満たされる。主が導かれた道と、過去の歴史において与えられた教えを忘れない限り、将来を恐れることは何もない」(『ライフ・スケッチズ』196ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2007年1期『コヘレトの言葉』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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