【コヘレトの言葉】神は人間をまっすぐに造られたか【7章解説】#8

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オーストリアの詩人ライナー・リルケは、「少し噛んで、柔らかくした」パンの切れ端を小鳥にやっているパリの女たちにふれ、次のように言っています。「自分たちの唾が世の中に出ていくこと、小鳥たちがその唾を口に含んで飛び立っていくことを考えれば、それも彼女たちにとってはいいかもしれない。でも、小鳥たちはすぐに唾の味を忘れるだろう」。

間違ったところに意味と目的を求める人間の悲しい実例です。人間はときとして奇妙な方法で、意味と目的と方向を求めます。この世には数多くの選択肢、道があります。どうすれば、それらの中から正しいものを選ぶことができるのでしょうか。今回は、コヘレト7章を学びます。最初の14節は箴言に似て、道徳、人生、不公平、不正、知恵などについての簡潔な格言になっています。必ずしもわかりやすいとは言えませんが、それらはイエスも言及しておられる賢者ソロモンの知恵で満ちています。15節以下は、どちらかというと、コヘレトの言葉、苦悩に満ちた後年のソロモンにふさわしいものですが、それでもなお豊かな知恵で満ちています。この7章も人生についての多くの疑問に答えています。聖書全体について言えることですが、この章も、正しい答えは私たちを創造し、贖い、それによって意味と目的を与えてくださった神にのみあることを教えています。多くの人は意味と目的を無益なところに求めています。

名声

「名声は香油にまさる。死ぬ日は生まれる日にまさる」(コへ7:1)。

ヘブライ語の原語は、翻訳ではわかりませんが、一種のことば遊びになっています。つまり、「名声」(シェーム)という語が「香油」(シェメン)という語と非常に似ています。こうした言語的・詩的な手法は、たぶん深い意味はないのでしょうが、もとの言葉に力強さと美しさを与えています。残念ながら、翻訳ではこうした力強さと美しさは失われています。

この聖句の、特に後半部分は一見、ソロモンのさらなる悲観論のようにも見えます。生きて、太陽の下で行われるあらゆる悪を見るよりは、生まれて来なかったほうがよい。生きるよりも、出産時に死んでいたほうがよい、というように。しかしながら、コヘレト7:1はほかのことを述べているように思われます。その鍵はたぶん、この聖句の前半部分にあります。

問1

ソロモンがコヘレト7:1の前半部分で語っていることの基本的な意味は何ですか。箴22:1、ダニ6:5、Iテモ3:2、10参照

この部分は名声の価値について述べています。次に来る内容がそれに一致します。フランスの哲学者ジャン=ポル・サルトルは、人の一生は基本的にその人の死によって決まると言っています。人の一生は死によって終わるという意味です。それ以上の変化、それ以上の可能性、それ以上の成長はありません。人は死ぬときの存在以上のものではありません。

ある意味で、その通りです。名声を得る機会、優れた品性を身につける機会、この世において、また神の国のために積極的な影響力を働かせる機会は、死とともに終了します。品性が形成されるのはこの世においてであって、墓の中においてではありません。救われる機会は今であって、死後ではありません。

ある意味で、この聖句は優先順位について述べています。名声は残ります。優先順位にしたがって行動することが重要になってきます。いつかは消し去られるようなことではなく、善のために永続的で、永遠の影響力を持つことのために、私たちはどんなことをしているでしょうか。

酒宴の家、弔いの家

自分が信心深いことを示すために、わざと暗い表情をしている人がいます。だれでもそのような人を見たことがあるでしょう。イエスもマタイ6:16で、自分が聖なる者であることを見せびらかすために、「沈んだ顔つき」をして歩き回っている人たちがいる、と言っておられます。

しかし、コヘレト7:2~6を読むと、これが宗教のあるべき姿であるという印象を与えます。宴会より弔いのほうがよい、笑うことより悲しむことのほうがよい、という具合です。このようなことは、主にある喜び、キリストにあって喜ぶという思想とどのように調和するのでしょうか(レビ23:40、詩編5:12──口語訳5:11、149:2、フィリ4:4、Iテサ5:16)。

しかし、コヘレト7章全体を注意深く読むと、それらを正しく理解する手がかりが与えられます。

問2

コヘレト7:2の後半部分に注目してください。ソロモンはここで、2~6節の基本的なメッセージを理解する助けになるどんな点を明らかにしていますか。

ある意味で、ソロモンは昨日の研究で学んだ思想を繰り返しています。どれほどにぎやかな宴会を催そうとも、最後には嘆きが来ます。人はみな死ぬからです。賢者はこのことを知っています。賢者は人生の厳粛さを知っています。宴会や笑いもそれなりの役割を持ちますが、それらは人生という大きな背景の中で理解する必要があります。人の人生は宴会の中ではなく、嘆きの中で終わるのです。人の人生は笑いの中ではなく、悲しみの中で終わるのです。愚者は彼らを待ち受けている最後を知らないまま進んでいきます。彼らはそのうちに、「泣きわめいて歯ぎしりする」のです。

問3

ルカ12:41~48を読んでください。これらの聖句はどんな意味で、上記の思想と同じことを述べていますか。

忍耐と高慢

コヘレト7章の最初の6節についてはすでに学びました。今日の研究では、短いことわざ風の警句からなる前半部分について学びます。

問4

コヘレト7:7~14を読んでください。ソロモンはここで何と言っていますか。あなたはどの聖句に最も心を引かれますか。

これらの聖句には、豊かな知恵が詰まっています。たとえば、7節は心を堕落させる賄賂に関するものですが、それは重要な霊的要点を突いています。つまり、一つの妥協は新たな妥協をもたらします。堕落した心が賄賂を取るのではなく、賄賂が心を堕落させるのです。罪が魂を堕落させることについての力強い警告です。

問5

9節に注目してください。それは何と教えていますか。ほかの聖句は何と教えていますか。マタ5:22、18:21、22、ロマ12:19~21

問6

12節に注目してください。知恵はどのようにして人を守りますか。知恵はどのようにして命を守りますか。箴1:7、9:10、コロ1:28、ヤコ3:13~18参照

問7

あなたは14節の意味をどのように理解しますか。フィリ4:11~13参照

人間の堕落した性質(その1)

問8

コヘレト7:15~21を読んでください。これらの聖句に述べられている基本的なメッセージを最もよく表している聖句は次のどれですか。(1)Iコリ13:13(2)ガラ6:2(3)ロマ3:10

ここで、人間性の否定的な側面について述べています。それはソロモンの厭世主義のせいにされがちですが、事はそれほど簡単ではありません。

17世紀ヨーロッパにおいて啓蒙主義が始まった頃、人々は新しい知識を大いに歓迎しました。この世界についての新しい理解の中には、人間性の完成に対する大いなる希望がありました。つまり、これまでの世界は悪く、人間も悪かったが、今や人間は世界についての新しい知識と大いなる理解を獲得しつつあるので、無知は征服され、人類は向上し、道徳的完全の道に向かって着実に進むであろう、と人々は考えました。

このようなわけで、20世紀の初めには、人類は科学による数々の発見によって、また新しい技術によって、やがて多くの問題を引き起こしてきたあらゆる問題を克服するすべを学ぶであろうと、人々は信じていました。人間の作り出した機械や工夫、発明によって、病気をいやし、自然災害を克服し、憎しみや戦争に勝利すると信じていました。

問9

20世紀の出来事を振り返ってください。科学は人類が抱いてきた壮大な夢をどれほど実現しましたか。マタ24章参照

事態は期待していた通りになったでしょうか。人間は新しい知識を獲得しましたが、罪深い人間性はなおも私たちを支配し、その知識と力がかえって悪と苦しみの源となっています。力と知識そのものは善でも悪でもありません。問題は、人間がそれによって何を行うか、です。強大な国家の支配者は多くの力を持っています。彼はその力を用いて家を建てることもできるし、家を爆破することもできます。私たちに本当に必要なのは新しい知識や力ではなく、むしろ神の姿と品性にかたどって造られた心です。

人間の堕落した性質(その2)

コヘレト7:15~27で、ソロモンは人間的な嘆きを繰り返しています。

問10

コヘレト7:15を読んでください。ソロモンはここで、何について嘆いていますか。それはどれほど妥当なものですか。

問11

彼が同じ問題について嘆いているのはこれが初めてではありません。コヘレト3:16、17は彼の嘆きを理解する上でどんな助けになりますか。

最も驚かされることは、コヘレト7:20にあるソロモンの言葉がローマ3:10にあるパウロの言葉(「正しい者はいない。一人もいない」)やヨハネIの1:10にあるヨハネの言葉(「罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません」)と非常によく似ている点です。クリスチャンはしばしば、その「悲観的」で「否定的」な人間観のゆえに嘲笑されます。しかし、人間の罪深さについては、世界の歴史と現状を見さえすれば十分にその教えの真実さがわかります。キリスト教の教えを信じるためには信仰が必要かもしれませんが、人間の堕落した性質を信じるためには信仰は必要ありません。

問12

コヘレト7:26を読んでください。彼がこのように言っているのはどんな事情からだと思われますか。列王上11:1~4

ソロモンは明らかに特定の女について述べていますが(箴18:22比較)、その教えは性を超越したものです。悪魔の手先となってあなたを誘惑し、主から引き離そうとする人に対して注意しなさい。

コヘレト7章で最も心を引きつける聖句はたぶん、最後の29節でしょう。それは人間の状態をよく表しています。神は人間を聖なる者として創造されましたが、人間は堕落しました。ある意味で、ソロモンの生涯はこの原則の見本のようなものです。彼には決して罪がなかったわけではありませんが、初めは正しい道を歩んでいました。「まっすぐに」と訳されているヘブライ語は「正常な」とか「正しい」を意味する一般的な言葉で、しばしば人間の行為を表すために用いられます(申6:18、列王上22:43、列王下18:3、ヨブ1:1、8)。ソロモンは初めは「まっすぐ」でしたが、最後には道をそれてしまいました。

まとめ

「真の教育は、科学的な知識や学問的な素養の価値を軽んじない。しかしそれは、知識よりも能力を、能力よりも善を、知的な素養よりも品性を重んじる。世は、広い知識をもった人間よりも高貴な品性を備えた人物を必要としている。才能が堅固な原則によって支配された人物を世は求めている。

『知恵の初めはこれである、知恵を得よ』。『知恵ある者の舌は知識をわかち与え』(箴言4:7、15:2)とある。真の教育は、この知恵を授ける。それは、われわれの能力と素養の一つだけでなく、その全部を最もよく用いることを教える。このように真の教育は自分自身と、社会と、神に対する義務の全範囲にわたっているものである。

品性を築くことは、人類に任された最もたいせつな働きであって、今日ほどこれについて熱心に研究しなければならない時はかつてなかった。これほど重大な問題に当面した時代はこれまでになく、また青年男女が今日ほど大きな危機に直面したこともかつてないことであった」(『教育』266ページ)。

霊的戦いにおいていちばん手ごわいのは、自分自身です。曲がった自分の心をまっすぐに矯正するために最も有効な手段は「イエスを仰ぐ」ことです。問題は、すぐにイエスから目を離してしまい、イエスを忘れることです。日々刻々、十字架のキリストを凝視するように自分の心を教育したいものです。その時、主に喜ばれる御霊の実が与えられます。このようにして「信者の中にキリストの品性が再現され、それがまた他の人びとの中に再現されるようになる」(『キリストの実物教訓』46ページ)ことを神は期待しておられます。大きなチャレンジですが、最高の伝道法です。

*本記事は、安息日学校ガイド2007年1期『コヘレトの言葉』からの抜粋です。

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