祝福に満ちた希望【ダニエル書と黙示録—重要な黙示預言】#12

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古代ギリシアの劇作家はしばしば「デウス・エクス・マキナ」(機械から来た神)と呼ばれる手法を用いました。劇の中の主役が解決不可能に見える難題に直面したとき、“機械から抜け出てきた神”が空から舞台に降りてきて事態を収拾するというものです。この考えは最高、究極の希望であるイエスの再臨を思い起こさせます。

これまで学んできた黙示預言は神の支配がこの地上に最終的に実現する時を指し示しています。主の再臨は平和、正義、愛が確立され、苦痛、恐怖、疑惑をもたらした悪が最終的かつ完全に滅ぼされることを確証するものです。各時代の信仰者に旅を続ける力を与え、また「祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れ」(テト2:13)を待ち続けさせたのはこの輝かしい希望でした。この希望は、今日も約束された再臨を待ち望む私たちに同じ強い力を与えてくれます。

黙示録の研究は最終的に神が全宇宙を支配し、すべては神のご栄光のために、という大事な主題を私どもに現すものです。罪に落ちた者に救いがあり、神のご性質である愛と義が明らかにされ、もはや矛盾も戦いもない、神の平和が再現されます。

再臨されるお方

「イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た2人の人がそばに立って、言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる』」(使徒1:10、11)。

イエスご自身が再臨されます。ほかのだれでもありません。弟子たちは昇天されるイエスの姿を見て、悲しみと喜びに満たされました。彼らを慰めるために2人の天使が遣わされ、昇天される主と再臨される王が同一人物であることを強調しています。「あなたがたから離れて天に上げられた〔ほかならぬ〕イエスは〔昇天されたイエスご自身〕、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる〔イエスご自身が再臨される〕」(使徒1:11)。

問1

パウロの確信を読んでください。主ご自身が戻ってこられることにはどのような重要性があるでしょうか。Ⅰテサ4:16

主が天から来られるということはこの出来事が私たちの支配の及ばないところにあることを意味します。主が天から来られるという事実はまた、キリストが現在、人間の目から隠されていることを意味します。私たちは今、目に見えるものによってではなく、信仰によって歩んでいます(Ⅱコリ5:7)。私たちは今、「わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます」(Ⅰコリ1:7)。

問2

黙示録1:7、マタイ24:30には、再臨が霊的、抽象的、秘密で、選民のみが知るという思想がありますか。

“パルーシア”というギリシア語は、主が栄光のうちに来臨または臨在されることを意味する新約聖書の用語です。それは“実在する”あるいは“到着した”ことを示す語句です(Ⅰコリ16:17、Ⅱコリ7:6)。救い主イエスが到着されるのです(Ⅰテサ2:19、4:15~17)。

栄光に満ちた宇宙規模の再臨

「また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています」(テト2:13)。

問3

キリスト再臨に必ず用いられている単語を挙げてください。マル8:38、テト2:13

「栄光」という言葉は神の輝かしい、目に見える臨在を表します(ルカ2:9、使徒7:55、Ⅰテモ6:16)。それは神の品性、神秘に満ちた神の人格も表します(ヨハ1:14)。キリストは父なる神の栄光、すなわち彼が初めから持っておられた栄光のうちに再臨されます(ヨハ17:5)。キリストは受肉によってその栄光を隠し、「人間」となることによってご自分を無にされました(フィリ2:5~9)。キリストが再臨されるとき、その神性の栄光はその人性を通して大いなる力をもって輝き出ます。私たちは神の顕現(けんげん)、すなわち「わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れ〔顕現〕」(テト2:13)を見ます。

問4

出エジプト19:10、11には神が現れた状況が書かれていますが、再臨の時とどう違うでしょうか。

世界は果てから果てまでキリストの臨在の輝きと栄光で満たされるので、すべての人の目がキリストを見ます。イエスとのこの出会いから逃れることのできる人はだれもいません。イエスの再臨は地球規模のものです。なぜなら、罪もまた全世界に広がっているからです。罪に陥ったのは地球の一部の地域だけではなく、地球全体です。イエスの輝かしい臨在から逃れることのできる場所はこの世界にはありません。イエスは力強い天使の群れと美しい天の音楽に包まれて来られます。彼は密かに、あるいは一人きりで来られるのではなく、天使たちを伴って来られます。それは荘厳な光と音の競演です(Ⅰテサ4:16、マタ24:31)。

神の民のための力強い臨在

問5

マタイ24:30、Ⅰテサロニケ4:15~17の共通点は何でしょう。どのような光景が想像できますか。

初臨においてイエスは赤子、無力な幼子として来られました。彼は地上の王に命をねらわれて両親の手でほかの場所に移されなければなりませんでした。しかし今、彼は栄光と力に満ち、王の王として来られます。再臨は積極的です。イエスは、「御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために」来られます(ヘブ9:28)。

問6

キリスト初臨を再臨と比べてみましょう。

キリストの再臨は世がこれまでに経験したことのない出来事です。たとえば次のようなことが起こります。キリストはその犠牲によって、死をつかさどる力を持つサタンを滅ぼされました(ヘブ2:14)。彼は死に対するご自分の勝利を確実なものとするために来られます。キリストの声は非常に強力で、人間の声ができないことを成し遂げます。キリストにあって死んだ人たちの耳にも聞こえ、彼らを死の眠りから覚まします。死そのものが「勝利にのみ込まれ」ます(Ⅰコリ15:54――Ⅰテサ4:16参照)。

キリストは再臨において人を滅ぼすことなく、人の罪深い性質を滅ぼされます。これはキリストの十字架以外ではできないことです。私たちはキリストの犠牲の力のゆえに堕落的な罪の力から解放されて、栄光に満ちた者に造り変えられます。これは瞬間的に、「たちまち、一瞬のうちに」起こるのです(Ⅰコリ15:52)。

キリストが再臨されるとき、悪の勢力は一致して神の民を滅ぼそうとしますが、キリストは力を持って来られます。「この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ。小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝利を収める」(黙示17:14)。イエスとともにくる天使たちは「天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」(マタ24:31)。あがなわれた人たちにとってキリストの臨在は永遠です。人は敵から解放され、永遠にわたってキリストと共に住みます(ヨハ14:3、Iテサ4:17)。

神の敵に対する力強い臨在

問7

悪人の運命はどうなりますか。Ⅱテサ2:8

悪は一時的ではかない現象で、始まりがあり終わりがあります。自滅することはありません。悪を終わらせるためには神の介入が必要です。神のおられるところでは悪の勢力は力を失い、消滅します。黙示録19:11~21は再臨の光景を描いていますが、キリストはそこでご自分に逆らう勢力と戦う戦士として描かれています。神の民が天使によって集められる一方で、獣、偽預言者、地上の王たち、そして彼らに加担したすべての民は白馬の騎手の臨在によって滅ぼされます(黙示19:11~21)。「王の肉、千人隊長の肉、権力者の肉……また、馬とそれに乗る者の肉、あらゆる……者たちの肉」が野にさらされます(18節――21節参照)。

竜の最後は黙示録20:1~3、7~10に書かれています。次の出来事が再臨、千年期の間とその後に起こります。

(1)義人は生き返り、栄化され、キリストと共に住みます。これが第1の復活です(黙示20:4、5)。

(2)サタンは生きたまま、混沌としたこの地球につながれます。惑わす対象はどこにもおらず、だれひとりいません(黙示20:3)。

(3)千年期の間、義人はキリストの王国の裁判官として働きます(Ⅰコリ6:2~6)。

(4)1000年の後、生き返らされた悪人はサタンと共に、天から下ってきた聖なる都を攻撃します(黙示20:7、8)。

(5)この戦いは実際には行われません。なぜならそのときサタンとその仲間たちは神と対面し、裁かれ、永遠の滅びを宣告されるからです(黙示20:9~15)。この執行審判は悪人が記録の書にしたがって裁かれた後で行われます。

エデンの回復

「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった」(黙示21:1)。

問8

黙示録21:1~7にある千年期後のいのちを考えてみましょう。「神が涙をぬぐってくださる」とのみ言葉をどのように理解されますか。

矛盾、無秩序、混乱しか知らない私たちに完全な調和に満ちた世界というものが想像できるでしょうか。新天地における経験は明らかに私たちの想像を超えたもので満ちていることでしょう。

聖書に描写されている新しい世界は、私たちがこの罪に満ちた世界で経験したことのないものです。新しい世界には死も悲しみも、嘆きも労苦もありません(黙示21:4)。離別も疎外も、あるいはデンマークの哲学者セーレン・キェルケゴールの言う「不安」もありません。これらはみな古い罪の世界に属するものです。罪はもはや存在しません。

問9

未来の栄光に加えてローマ8:18~22はどのような希望が待っていると書かれていますか。

イザヤ書35章も読んでください。神の臨在が死と病の世界にもたらす結果を描写しています。神の臨在は自然界を造り変え、その本来の豊かさに戻し、人間の性質を罪の醜悪さから解放します。生命と喜びが満ちあふれます。しかしこの喜びでさえ私たちがこの世で経験する喜びとは性質が異なります。私たちがこの世で経験する喜びは、長い悲しみの中の一瞬の喜びにすぎません。預言者イザヤが描いているのは永遠に続く無限の喜びです。死、嘆き、悲しみ、苦しみは私たちの想像を絶する豊かな経験によってもたらされる喜びに取って代わります。新しい世界とは、時間、質、内容のすべてが古いものの改良、改善を超えた新次元の神の世界でありましょう。

まとめ

昇天されたキリストは再臨のキリストです。その民を救うために彼は神性の衣である栄光をまとってこられます。民は復活し、栄化されます。千年期後に悪は神の裁きに直面します。このとき宇宙的な闘争は最後を迎えます。

今回の研究を終えるにあたって、次の点を心にとめてください。

(1)将来の世界について考える

「この地上の美しさに心が魅せられるとき、罪にも死にもむしばまれないきたるべき世界のことを考えてみましょう。すると、そこには、もはやのろいのかげはみられません。なお、救われた者の家庭を考えてみましょう。それは、どんなにすばらしい想像もとうてい描き出すことができないほどのりっぱなものであることをおぼえましょう」(『キリストへの道』117ページ)。

(2)永遠にわたって学ぶ

「そこでは、不死の者たちが、創造力の驚異、贖い(あがな)の愛の奥義を、永遠に尽きない喜びをもって研究する。人を誘惑して神を忘れさせるような、残酷で欺瞞(ぎまん)的な敵はもういない。すべての才能が発達し、すべての能力が増大する。知識を獲得するのに、頭脳を疲れさせたり、精力を使いきってしまったりするようなことはない。そこではどんな大きな企画も実行され、どんな遠大な抱負も達成され、どんな大望も実現される。そしてそれでもなお、越えるべき新しい高いところ、感嘆すべき新しい驚異、理解すべき新しい真理、頭と心と体の能力を呼び起こす新たな対象が現われてくる。……永遠の年月が経過するにつれて、神とキリストについてますます豊かでますます輝かしい啓示がもたらされる。知識が進歩していくように、愛と尊敬と幸福も増していく。人々は神について学べば学ぶほど、ますます神のご品性に感嘆するようになる」(『各時代の大争闘』下巻466、467ページ)。

ミニガイド

再臨はキリスト教会の大事な教え 

SDA教会はあまり使徒信条(日本基督教団出版局『讃美歌』566 番)を唱えませんが、他のキリスト教会では礼拝においてしばしば使徒信条を公同の教会の信仰告白として読みます。これは歴史的キリスト教会が自分たちの信じることを述べた信仰の表明であり、大事な教理の基本です。天地創造の神から始まって、最後の部分は「主は……かしこ(天)より来りて生ける者と死ねる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。アーメン」とあります。再臨はすべての教会が共有する、共通の聖書基本教理であり、究極の希望の実現です。

カトリック教会も再臨信仰を大切にしていますが、次のように大きく違う部分があります。「要理」によると、人は死ぬと私裁判を受けて、罪のない者は天国の幸いに入り、キリストや聖徒たちとの交わりを楽しみます。心の汚れたままの者は煉獄において償いを果たす必要があります。大罪を犯した者はキリストのいない地獄で特別の苦しみを受けます。この世はキリスト再臨によって終わり、教会の使命はそのとき完成し、神の国が出現します。その日、キリストのもとにあった霊魂は復活した肉体に合わされます。復活した義人はキリストの復活体に似た光栄をもって天国の永遠の幸福に入り、悪人は地獄の永遠の苦しみに入ります。これが公裁判であり、終わりなき死といいます。

再臨は初代教会信仰者たちの「エルピス」

政府の迫害を逃れて多くのクリスチャンたちはローマ市郊外にある地下墓所に逃れ、そこでひそかに礼拝を続けました。ローマ人は墓場を汚れた場所と考えて近づこうとしないことから安全な場所と考えられていたのです。そこにはクリスチャンたちも葬られていましたが、壁のあちこちにギリシャ語で「エルピス」という字が刻まれていました。「希望」という意味です。初代教会の信仰者たちはキリストの再臨に望みをおいて迫害に耐えたのでした。「マラナタ」という字も多く書かれていました。クリスチャンたちを逆境の中で支えてきた思いはよみがえりの希望であり、愛する主と家族、友人との再会でありました。

*本記事は、神学者アンヘル・M・ロドリゲス(英: Angel Manuel Rodriguez)著、安息日学校ガイド2002年2期『重要な黙示預言』からの抜粋です。

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