【コヘレトの言葉】すべてに耳を傾けて得た結論【12章解説】#13

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ロシアの作家アンドレイ・ビトフは自分の人生の転換点となった瞬間を次のように描写しています。「27歳のとき、私はレニングラードの地下鉄の中で、ひどい絶望感に襲われた。まるで人生が終わり、将来も生きる意味も完全に失われたかのように思われた。そのとき、突然、『神のない人生は無意味だ』という言葉が浮かんだ。私は驚いて、その言葉を繰り返した。そして、エスカレーターのようにその言葉に乗り、地下鉄の外に出て、神の光の中に入り、生き続けた」(『人は神なしで生きられるか』59ページ、ラビ・ザカリアに引用、1994年)。

コヘレトの言葉は、ある意味で、「神のない人生は無意味だ」という言葉によって要約されるかもしれません。ただし、この言葉は二通りの意味に解釈できます。一つは、もし神が存在しないなら、人生は無意味だ、ということ。もう一つは、もし神なしで、つまり神も神の命令も認めないで生きるなら、人生は無意味だ、ということ。なぜなら、死はつねに私たちを待ち受けていて、忘却の中に呑み込んでしまうからです。死に対する答えなくしては、生に対する答えもありません。その答えは、死を滅ぼし、その勝利によって救いを与えてくださったイエスのうちにのみあります。イエスは言われました。「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハ15:5)。生きる意味を見いだすこともその中に含まれます。コヘレトの言葉に関する研究も今回で終わりです。この書は、とかく忘れがちな私たちに生きることの意味を再確認させてくれます。

創造主に心を留めよ

ソロモンはここで、先の章で言い残したことを再び取り上げています。彼はなおも青年に勧告を与え、「苦しみの日々」について警告しています。前回の研究はさまざまな悩みを扱っていましたが、ここでは老齢に強調がおかれているように思われます。(ソロモンがここで言っている)苦しみの日々とは老齢をさしているように思われます。

問1

ソロモンがコヘレト12:1で言っていることは、11章の最後の数節の内容をどのように反映していますか。コヘレト12:1の基本的なメッセージは何ですか。

ソロモンがここで用いている「創造主」という言葉は、創世記1:1の「創造された」と同じヘブライ語から来ています。“バーラー”というヘブライ語動詞は、ほとんどの場合、神の活動に関連して用いられています(イザ65:17、マラ2:10、アモ4:13)。“バーラー”が人間の活動を表すために用いられることは決してありません。それによって、ソロモンは神を私たちの創造主と結びつける聖書の考えを明らかにしているのです。神は私たちの創造主であるゆえに私たちの神です。もう一つ興味深いのは、「創造主」のヘブライ語が複数形だということです。

創世記1:1の神が複数形になっているのと同じです。この複数形に関しては長年、さまざまな説明がなされてきましたが、クリスチャンの中にも、それを三位一体の神の複数性についての証拠であると考える人たちがいます(創1:26、3:22、11:7)。

人生の最良の時、青春を無駄にしたソロモンは、自分と同じ道を歩むことのないように人々に忠告しています。主を受け入れるのが早ければ早いほど、いろいろな意味で祝福があります。ソロモンが言おうとしているのはこうです。あなたの青年時代に神から離れてはなりません。

粉ひく者が絶えるとき

コヘレト12:2~7は人間の老化の過程を美しく、詩的に描写しています。「太陽が闇に変わらないうちに。月や星の光がうせないうちに。雨の後にまた雲が戻って来ないうちに」(2節)という表現が、老齢になると知的能力が失われるという意味であることについては、多くの注解者が一致しています。「家を守る男(」3節)は、かつては強くて、丈夫だったが、今は弱く、震えるようになった腕を意味しているように思われます。

問2

コヘレト12:1~7を通して読み、そこに出てくる比喩について調べてください。ソロモンがここで老齢について語っているのはなぜですか。

老齢に近づいたソロモンは私たちの目を死ぬべき人間の運命に向けさせています。これは、彼がコヘレトの言葉の中で繰り返し言及しているテーマです。だれであろうとも、どのように生きていようとも、どれほど長生きしようとも、遅かれ早かれ、私たちはみな死に直面します。死は生命にとって避けることのできない現実です。

次のように書かれたTシャツを着ているクリスチャンの若者たちがいます。「人生が短すぎるのではない。死が長すぎるのだ。ヨハネ3:16」。老齢になり、死が近づいたソロモンは、すべての人、特に若い人たちに、その日が必ず来ることを思い起こさせようとしています。運がよければ、あなたは長生きし、「苦しみの日々」を迎え、そして死にます。そうでない人たちは、若くして死にます。

要するに、コヘレトの言葉は、人間の死ぬべき運命を、人生の短いことを、つまり人生が“ヘベル”、蒸気や息のようなものであることを再び思い起こさせているのです。したがって、私たちは永遠という広い観点、つまり神がイエス・キリストを通して与えてくださった永遠の命という観点に立って物事を理解する必要があります。

多くの書物の編集

コヘレト12:9~12で、ソロモンは知恵と知識を深め、人々に教えようと努力したと語っています。自分のすべての文書のことなのか、この書巻だけについて言っているのか明らかではありません。はっきりしているのは、彼が真理を学び、それを人々にも教えようとしていることです。

10節に注目してください。彼は「望ましい語句」を探しています。これは、人々が喜ぶようなことを語ろうとしたという意味でしょうか。いいえ、彼が求めたのは「望ましい語句」であると同時に「忠実に記録」された「真理の言葉」でした。結局のところ、真理の言葉は望ましいのです。真理そのもの、つまり罪のために死なれたイエスが(ヨハ14:6)、イエスを知り、イエスを受け入れる人々にとって望ましいお方であるのと同じです。

問3

コヘレト12:11を読んでください。ここで何と言っていますか。

ここにある「突き棒」とは、家畜を突くために用いる先のとがった棒のことです。

「釘」と並べて用いることによって、賢者の言葉が人を行動に駆り立てると同時に、記憶に留める効果を持つことを教えているように思われます。多くの注解者によれば、「ただひとりの牧者」は神御自身をさしています(詩編23:1、エレ31:10、ヨハ10:11~14)。つまり、賢者の言葉は神から来るということです。要するに、ソロモンはここで神の霊感について述べているのです。彼はほかの賢者や預言者と同様に、「聖霊に導かれて神からの言葉を語った」のでした(IIペト1:21)。

問4

12節にはどんな訓戒が与えられていますか。

興味深いことに、ソロモンは神の霊感について述べた後で、書物について戒めています。それは実際には、誤った学びについての訓戒です。永遠の滅びに入るために学んでいる人が何と多いことでしょう。情報が氾濫している今日の世界にあって、正しい情報を入手することはきわめて重要です。

信仰、律法、裁き

問5

ここまで人生、死、神について長々と論じた後で、ソロモンはコヘレト12:13、14の2節をもってこの書を結んでいます。ソロモンの結論を、あなた自身の言葉で要約してください。

ソロモンがここまで書いてきたことの総括とも言える最後のメッセージは、黙示録14章の三天使のメッセージの中心にあるものとどこか共通しているように思われます。

問6

黙示録14:6~12を読んでください。ここに、コヘレトの言葉の結論と共通したどんな要素を見ることができますか。

ソロモンは、神の戒めを守れという言葉で結んでいます。これは第三天使のメッセージの一部です(黙14:12)。ソロモンは裁きについて述べています。第一天使のメッセージも裁きについて述べています(7節)。最後に、ソロモンは「神を畏れ」と言っています。これは、神を信じ、神を礼拝し、神に従うことについての聖書的な表現であって、すべて三天使のメッセージの一部です(7~12節)。神を畏れることと神を礼拝することは関連しています。「聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。全地よ、御前におののけ」(詩編96:9)。「しかしわたしは、深い慈しみをいただいてあなたの家に入り、聖なる宮に向かってひれ伏しあなたを畏れ敬います」(詩編5:8)。神を礼拝するように言っている第一天使が、(ソロモンと同様に)神を「畏れる」ように言っているとしても不思議ではありません。このように、ソロモンの結論に見られる三つの基本的な要素は、いわゆる現代の真理に含まれる重要な要素です。ソロモンは特に現代を意識してそのように書いたのでしょうか。もちろん、そうではありません。ただ、次のことだけははっきりしています。つまり、私たちのための神の贖い、神の戒めに従った生活、来るべき裁きについての神のメッセージは、少しも目新しいものではないということです。それはアドベンチストによって考え出されたものではありません。私たちはただそれを世界に宣べ伝えるように召されているだけです。

すべてに耳を傾けて得た結論

コヘレトの言葉についての研究もいよいよ終わりに近づきました。聖書の中でもひときわ異彩を放っているこの不思議な書巻の意義はどこにあるのでしょうか。神はここで何を教えようとしておられるのでしょうか。私たちはそれをどのように理解すべきでしょうか。

問7

コヘレトの言葉をざっと読み返してください。この書の中心思想について考えてください。神はあなたに何を教えようとしておられますか。それはあなたの信仰生活をどれほど豊かにしてくれますか。クラスで話し合ってください。

いろいろな見方ができるでしょう。ただ、次の点ははっきりしています。つまり、神はこの書を通して、この世の生き方に執着しすぎることの危険性について警告しておられます。確かに、私たちは肉体を与えられ、肉体的快楽を与えられています。これらは神からの賜物であって、それなりの役割を持ちます。しかし、それらは目的ではありません。それは本質的に“ヘベル”(蒸気のように無意味なもの)です。年を取るにつれて、あなたの能力は衰え、死と共に失われます。

言い換えるなら、コヘレトの言葉は次のように言っているのです。自分が何者であるか、なぜここにいるのか、どこから来たのか、そしてこれが最も重要なことですが、このはかない、泡のような一生を終えたとき、自分がどこに行くのかを考えよ、と。神は私たちに賜物を与えてくださいました。しかし、それは永続的なものではありません。この世に、永続的なものは何ひとつありません。

コヘレトの言葉1~12章に言われていることは、イエスの次の1節に要約することができます。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(マタ16:26)。悲しいことに、人間はいつでも“ヘベル”によって自分の魂を買い戻そうとします。私たちの魂がすでにイエスの尊い血によって贖われていることを考えると、これは悲劇です。イエスの死は私たちを「太陽の下」のあらゆる「狂気と愚行」から救い出してくれます。

まとめ

「人間の力は弱さであり、人間の知恵は愚かさである。私たちの成功は自分の才能や学識にではなく、神との生きたつながりにある。真理は、自らの学識や能力を誇示する人たちによって説かれるとき、その力を失う。そのような人たちは、自分が経験にもとづいた宗教をほとんど知らないこと、またその心と生活が清められていないで、むなしい自負心に満ちていることを表すのである。彼らはイエスに学ぼうとしない。彼らは自分の知らない救い主を人に教えることができない。彼らの心は、キリストが滅びゆく人間を救うために払われた大いなる犠牲についての生々しい意識によって和らげられ、屈服させられていない」(『教会へのあかし』第5巻158、159ページ)。

「わたしたちは、知恵を求めて、何も地の果てまで行く必要はない。神は、そば近くにおられる。成功するか否かは、あなたが今持っている能力とか、または、将来の能力によるものではない。それは、主があなたのために何をなし得るかということによる。わたしたちは、人間のできることには信頼をおかないで、信じるすべての魂のために、神がおできになることにもっともっと信頼をおかなければならない。神は、あなたが信仰によって、神にたよることを望んでおられる。神は、あなたが、神に大きなことを期待することを望んでおられるのである。神は、霊的なものと同様に、この世のものに対する理解をも与えようと望んでおられる。神は、知性を鋭敏にすることがおできになる。また、手腕と技巧とを与えることがおできになる。あなたの才能を大いに働かせて、神に知恵を祈り求めなさい。そうすれば、知恵は与えられるであろう」(『キリストの実物教訓』125ページ)。

コヘレトの言葉の結論部で、著者ソロモンの意図が明らかになります。それは、彼がこの書を記録したのは、特に、次世代をになう青年たちのためだということです。若い人々が、ともすれば高い価値を置く数々を、彼は、いわば消去法の形で切り捨て、最後に神と神の戒めに彼らの関心を向けようとしたのです。失敗して悔い改めた者だけが書ける福音書です。

*本記事は、安息日学校ガイド2007年1期『コヘレトの言葉』からの抜粋です。

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