光の中を歩む─罪を離れる【ヨハネの手紙—愛されること、愛すること】#3

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1982年に、一風変わったモダンアート(現代芸術)が展示されたことがあります。それは椅子に固定された散弾銃でした。それを鑑賞するためには、椅子に座って、銃身を直接のぞき込むことになっていました。問題は、銃には弾丸が込められていて、時限装置によって次の100年の、ある不特定の瞬間に発射されるということでした。驚いたことに、銃がいつ火を吹いてもおかしくないのに、人々は列をなして、椅子に座って、銃口をのぞく順番を待ちました。

誘惑に満ちた運命について考えてください。不幸にも、人間は罪についても同じことをしています。罪を真正面からのぞいても、無事に戻れると考えているからです。しかしながら、銃と違って、罪は手を打たなければ必ず命取りになります。今回、ヨハネは罪の問題とイエス・キリストによる罪の解決法に目を向けます。

光(Iヨハ1:5)

問1

ヨハネIの1:5を読んでください。「神は光である」というヨハネの言葉は何を意味しますか。結局のところ、光は単なる物理学的現象で、光子からなるエネルギーの一形態にすぎません。ヨハネは何を強調していますか。詩編27:1、36:10(口語訳36:9)、マタ4:16、ヨハ3:19、8:12、12:46、Iテモ6:16参照

光は父なる神とイエスに関連して用いられています。光は神の栄光であって、救いをもたらすお方としての神を示しています。この象徴はまた、真理と啓示の概念を強調しています。直接的な文脈においては、正義と神聖、完全といった神の道徳的特質を強調しています(Iヨハ2:9参照)。

問2

ヨハネは、神が「光」であると言うだけでは満足せず、「神には闇が全くない」とまで言っていますが、それはなぜですか。

この一節を加えることによって、使徒は最も強い口調で神の完全性と罪からの隔絶性を強調しています。神は美徳と悪徳が同居しているギリシア・ローマの神々と比べられるお方ではありません。神は純粋に聖で、純粋に善で、純粋に義です。神が罪と対極にあるのは、光が闇と対極にあるのと似ています。

一方、ヨハネは闇に言及することによって、その後の記述のお膳立てとなる新たな要素を導き出しています。堕落して、罪の染み込んだ存在である人間は、本質的に光の世界よりも闇の領域に属しています。神が光であられて、私たちは闇の中にいるとすれば、私たちと神との対照は、聖と義という点について言うならば、比較にならないものです。

罪の問題(1ヨハ1:6、8、10)

ヨハネの手紙Iの1:6~10は一つの単位です。神の品性について重要なことを述べた後で、ヨハネは明らかに信者の間に広まっていたと思われる信仰に言及しています。彼が批判しているのはこうした信仰です。

これらの5節は事実上、同じ表現、つまり「もし私たちが~」をもって始まっています。しかしながら、それらの間にも明らかな違いが見られます。

問3

ヨハネが6、8、10節で扱っている主張はどのようなものですか。どんな偽りの陳述がなされていますか。またどんな共通点がありますか。

最初の陳述は神との交わりについて論じています。人々は神との交わりを持っていると言いながら、実際には闇の中を歩んでいます。つまり、彼らは真の意味において神と共に歩んでいないのです。

対照的に、光の中を歩むことは真の交わりをもたらします。そのような人たちは罪から清められています。したがって、闇の中を歩むことは罪の中に生きることと関係があります。罪の中に生きながら、神との交わりを持つと主張することは、ヨハネによれば、偽りです。

8節と10節にある二つの主張もまた、罪と関係があります。ヨハネは罪の行いに異議を唱えていますが、私たちの内の罪の存在については非常にはっきりしています。彼は8節で、人間が罪深くないという信仰に対処しているように思われます。このような信仰は最も基本的なキリスト教の教理に背くものです。

問4

10節にあるヨハネの言明がきわめて重要なのはなぜですか。「罪を犯したことがない」という思想は何を暗示していますか。

これらの聖句に見られる段階的な変化に注目してください。6節では、人々はうそをついています。8節では、自らを欺いています。10節では、神を偽り者としています。明らかに、ヨハネは人間の罪の問題が現実的で、深刻なものであることを理解しています。

罪の問題に対する応答(Iヨハ1:7、9、2:2)

ヨハネがこれらの聖句において罪の深刻さを問題にしているのは明らかです。彼は罪をどのように理解しているでしょうか。彼はヨハネIの3:4で、罪を不法と見なしています。ヨハネIの5:17によれば、罪は不義、つまり悪事を働くことです。それは聖書に啓示された神の御心から離れることです。罪はまた真理に反対することです。罪は当事者を神から離反させ、その結果として霊的死をもたらします。単数形の罪は神からの離反を表し、複数形の罪は罪深い行為を表します。いずれにせよ、罪は現実のものであって、解決しなければ人を滅ぼすことだけは確かです。

問5

ヨハネIの1:7と9には、罪の問題を解決する神の約束が含まれています。それらはどんな約束ですか。それらはどのようにして私たちのうちに実現しますか。どうしたら神の約束を自分で体験することができますか。

罪の赦しが可能となったのは、キリストが十字架の上で死に、犠牲として御自分の血を流してくださったからです。私たちが律法に背き、それによって死すべきものとなったために、キリストは私たちの代わりに死に、罪の結果としての永遠の滅びから私たちを解放してくださいました。さらに、キリストの血は私たちをあらゆる罪から清めます。

しかしながら、私たちの側からすれば、罪の告白は必要です。ヨハネIの1:9にある「自分の罪を公に言い表す」(告白する)という表現は「白状する」「、認める」という意味です。この聖句には、罪をだれに告白するかは書かれていません。しかし、神に告白すべきことは明らかです。というのは、聖句の後半に、もし罪を告白するなら、神は真実で正しい方なので、私たちの罪を赦してくださると書かれているからです。この罪の告白は私たちの罪によって傷ついた人の前で公に告白することを含みます。その場合も、罪の赦しはただ神から与えられます。

ヨハネの手紙Iの1:9は一種の命令になっています。私たちは神の前に自分の罪を置くべきです。そうすれば、神は私たちを赦し、清めてくださいます。罪を犯すことは私たちを有罪とします。罪は私たちを不浄にします。私たちは赦しを必要とします。私たちは清めを必要とします。神はイエスによって、私たちがこれら両方にあずかる道を備えてくださいました。

クリスチャンの目標(1ヨハネ2:1)

問6

ヨハネの手紙Iの2:1で、ヨハネは私たちに罪を犯さないように勧告しています。この勧告をどのように理解すべきですか。

罪を犯さないようにというこの勧告は光の中を歩むという文脈の中で出てきます。もし私たちが神および神の子らとの交わりの中で生きようと思うなら、光の中を歩まねばなりません。光の中を歩むとは、罪を捨てることです(Iヨハ2:1)。ヨハネは思いやりと親しみを込めて、「わたしの子たちよ」と信者に呼びかけ、彼が手紙を書き送った理由について述べています。それは、彼らが完全に罪を捨てることでした。彼はこの手紙によって、完全に罪のない生き方が可能であると言っているのではなく、むしろクリスチャンに対して明らかな罪の行為から遠ざかるように訴えているのです。

問7

ヨハネが、罪を犯さないようにという勧告を、「たとえ罪を犯しても」という言葉によって調整しているのはなぜですか。王上8:46、ロマ3:10~20、Iテモ1:15参照

ここでの罪についての議論は、「罪がないなどと主張してはなりません。どうせあなたは罪人なのです。だから、思いのままにあなたの人生を生き、罪のことなど心配しないことです」というような、罪など問題ではないと考える人がいるかもしれないという意味において誤解される恐れがありました。

そこで、ヨハネは罪についての自分の言説をヨハネIの2:1の言葉によって調整しなければなりませんでした。キリストの弟子の目標は罪を犯さないことです。クリスチャンは自分が罪人であることを認めますが、同時に罪のない生き方を心がけます。

ヨハネは同時に、私たちが完全に罪のない者となることができるとは言いません。したがって、彼は罪を犯さないようにと勧告する一方で「、たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者……がおられます」と言っているのです。これは、クリスチャンの生活における罪の現実をはっきりと認めることです。献身した誠実なクリスチャンでも罪を犯します。残念ながら、これは教会員にとって現実の可能性を持った問題です。それゆえに、彼らは助けを必要とします。彼らは誘惑に抵抗するのを助け、同時に罪を犯した後で自分のために仲裁してくださる人を必要とします。

クリスチャンの慰め(Iヨハ2:1、2)

ヨハネの手紙Iの2:1、2は悔い改めた罪人を慰める素晴らしい言葉を含んでいて、希望と励ましで彼らを満たしてくれます。私たちの罪は罪悪感と恐ろしい結果をもたらしますが、そこには解決法があります。ヨハネはすでに罪の赦しと清めに言及しました。彼は再び、同じ主題に戻り、この赦しがイエスによって可能になったと述べています。どのようにしてでしょうか。

第一に、イエスは私たちの弁護者であって、私たちのために執り成してくださいます。この弁護者はメシア(キリスト)であって、義なるお方です。義はヨハネIの1:9で父なる神に帰されています。2:1で、御子に帰されています。イエスが私たちのために執り成すことがおできになるのはその義なる品性のゆえです。第二に、私たちの赦しは保証されています。なぜなら、イエスが犠牲の死によって贖罪、つまり贖いを達成されたからです。これは、イエスが私たちの罪のための代価を支払われたことを意味します。私たちは決して支払うことのできない負債を負っていましたが、イエスは私たちに代わってそれを支払ってくださいました。したがって、ヨハネはイエスを犠牲、また仲保者として描いています。新約聖書の文脈において言うなら、これは、イエスが地上で罪のない生涯を送り、十字架上で死に、復活し、昇天し、私たちのために執り成しておられることを意味します。

ヨハネIの2章で「弁護者」と訳されている“パラクレートス”という言葉は「慰め主」、「助け主」、「弁護者」、「仲保者」、「仲裁者」(ヨハ14:16、26、15:26、16:7、Iヨハ2:1[英語聖書]参照)などさまざまに訳されています。それはだれかほかの人のそばに呼ばれて、その人を擁護する人です。また友人を助ける人です。ヨハネの福音書では、聖霊が助け主です。ヨハネの手紙Iでは、イエスが助け主、また仲保者です(Iヨハ2:1)。

イエスが私たちの弁護者で、私たちに罪の赦しを与える器となられたことに、私たちは大いなる慰めを見いだします。しかし、父なる神は横暴で厳格なお方で、仲保者がいなければ私たちをお赦しにならなかったと考えるべきではありません。神をそのように見ることは正しくありません。神はイエスを私たちのために遣わされたお方です(ヨハ3:16)。少し前には、神は真実で正しい方なので、私たちを赦し、清めてくださると書かれています(Iヨハ1:9)。父なる神御自身、私たちの救いを望んでおられることを、イエスを通して啓示されたお方です。

まとめ

「『もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる』。神からあわれみをいただく条件は単純で理にかなっている。主はゆるしをお与えになるために、何か苛酷なことをするようにとはお求めにならない。われわれは天の神にわれわれの魂をゆだね、あるいは罪を償うために長い退屈な巡礼をしたり、苦行をする必要はない。罪を『言い表してこれを離れる者は、あわれみをうける』(箴言28:13)。

天の法廷で、キリストは教会のために弁護しておられる。すなわち、キリストが血のあがないの値を支払われた人々のために弁護しておられるのである。どんなに世紀や時代を重ねても、キリストのあがないの犠牲は効力を減じない。生も死も、高いものも深いものも、キリスト・イエスにおける神の愛からわれわれを引き離すことはできない。それはわれわれがしっかりとキリストをつかんでいるからではなく、キリストがわれわれをしっかりつかんでいるからである。もし救いがわれわれ自身の努力にかかっているとすれば、われわれは救われることができない。しかし救いは、すべての約束を支持しておられる方にかかっているのである」(『患難から栄光へ』下巻255、256ページ、『希望への光』1567ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2009年3期『愛されること、愛することーヨハネの手紙』からの抜粋です。

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