光の中を歩む─反キリストを拒絶する【ヨハネの手紙—愛されること、愛すること】#6

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教会は設立当初から偽りの教えや異端と闘わねばなりませんでした。パウロはエフェソ教会の指導者たちに対して、「群れ」を攻撃する「残忍な狼ども」に、また教会員を引き抜こうとする偽教師たちに警戒するように警告しています(使徒20:29、30)。イエスもまた、偽キリストと偽預言者について警告しておられます(マタ24:5、11、24)。今日、教会は同じ問題に直面しています。

黙示録13章に出てくる海獣はイエスの模倣として描かれています。したがって、聖書注解者はこの獣を“アンチ・クライスト”(“アンチ”はギリシア語で「~の代わり」、反キリスト)と呼んでいます。興味深いことに、ヨハネもヨハネの手紙Iの中で反キリスト(たち)について語っています。これはだれを指しているのでしょうか。彼らはどんなことを教えるのでしょうか。

今回は、ヨハネが扱っている問題に目を向け、そこから教訓を学びます。

「終わりの時」(1ヨハネ2:18)

「子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります」(Iヨハ2:18)。

ヨハネIの2章の後半において、ヨハネは教会員を悩ませていた集団についていくぶん詳しく記しています。ヨハネは彼らの活動のうちに、「終わりの時」が来たことを認めています。

問1

ヨハネは1世紀の終わり頃に「終わりの時」について語っています。ほぼ2000年後の私たちは彼の言葉をどのように理解したらよいですか。使徒2:15~17、ヘブ1:1、2、Iペト1:20(終わりの時代)、Iヨハ2:18

「終わりの時」(ザ・ラスト・アワー)という表現はここしか出てできません。一方、新約聖書のほかの記者たちは「終わりの時代」(ザ・ラスト・デイズ)という言葉を用いてイエスの初臨以降の時を表しています。

イエスと共に、新しい時代が到来しました。キリストの初臨と再臨の間の全期間が「終わりの時代」と考えられています。文脈にもとづいて考えると、ヨハネの言う「終わりの時」は同じくイエスの初臨と再臨の間の期間を意味する彼独自の表現法であると思われます。

イエス御自身、ヨハネ4:23や16:2で「時」(アワー)という言葉を用いていて(ある訳では「タイム」となっている)、それは再臨に先立つ将来のある期間を意味しています。ヨハネもこれと同じ意味で「終わりの時」という言葉を用いていると思われます。

しかしながら、重要なことは、ヨハネが日時を定めているのでもなければ、主の再臨に先立って起こる諸事件を順序立って述べているのでもないということです。それは彼の目的ではありません。彼の目的は、イエス御自身も言われたように、偽教師が現れているので、身を慎んで、注意していなければならないということです。

反キリストの到来(Iヨハ2:18、19、22、23)

問2

「反キリスト」とはだれのことですか。Iヨハ2:18、19、22

「反キリスト」という言葉はヨハネの手紙IとIIだけに用いられています。反キリストはキリストの代理となって、キリストに反対します。いろいろな教派の学者たちは黙示録13章の海獣とテサロニケIIの2章の「不法の者」を反キリストと呼んでいます。これは正しい指摘です。なぜなら、黙示録13:2~4に用いられている言葉がこの海獣をキリストの模倣・替えものであることを示しているからです。また、テサロニケIIの2:4で、不法の者、すなわち反キリストが主の代理を務めようとしているからです。全く同じ言葉を用いていないにせよ、聖書はさまざまな個所でこの概念について語っています。明らかに、ヨハネもそのことを知っていました。ヨハネ自身、表現は異なっていても、黙示録の中で同じ概念を用いています。

ヨハネIの2:18で、ヨハネは「反キリスト」を単数形と複数形で用いています。反キリスト(単数形)が現れることになっており、すでに多くの反キリスト(複数形)は現れていると言っています。彼は一人の特定の反キリストという考えを捨てて、他の人々を反キリストと呼んでいるのでしょうか。そうではありません。ヨハネIの4:3を見れば明らかです。この聖句は反キリストの霊について述べています。これらの人々は反キリストの精神を表しますが、真の反キリストが来るのはなお先のことです。

問3

ヨハネがキリストの性質を正しく理解していない人たちを反キリストと呼んでいるのはなぜですか。Iヨハ4:3、IIヨハ7

ヨハネは、単にイエスについて正しい理解をしようと苦闘し、あるいは偽りの教えに翻弄され、一時的に動揺している教会員を「反キリスト」と呼んでいるわけではありません。彼らは、メシアとしてのイエス、またキリストの性質に関して、キリスト教の教えと反キリストの教えの違いを見極めようとしていただけです。

しかしながら、教会を離れ、大々的に偽りの教理を宣伝している人たちがいました(Iヨハ4:5)。このような人たちこそ反キリストでした。

霊を確かめる(1ヨハネ4:1―6)

ヨハネはヨハネIの4:1~6で、同2:18~27ですでに扱った主題、つまり彼らのうちに広まっていた誤った教えを再び取り上げています。早くも、敵が偽りの教えを広めることによって信者を分裂させようと教会の中に働いていたことは注目に値します。今日も、アドベンチストは同様の問題、つまり私たちを分裂させる偽りの教えと闘っています。

問4

ヨハネIの2:19を読んでください。この聖句は今日のクリスチャンに何を教えていますか。

詳しいことはわかりませんが、ヨハネはこれらの元信者たちが宣伝していたイエスについてのさまざまな異端的な教えと闘っていたようです。ある者は、キリストが外観は人間であったが、実際にはそうでなかった、と教えていたかもしれません。別の者は、キリストがバプテスマにおいてイエスのうちに入り、十字架の前に彼を離れた、と強調していたかもしれません。さらに別の者たちは、イエスがメシアであることを否定していたかもしれません。

たぶん、これらの偽教師たちは霊感を受けたと主張していたのでしょう。ヨハネがヨハネIの4:1で偽預言者について警告しているのはそのためです。しかしながら、彼らの誤った見解は自分たちが反キリストの霊の影響下にあることを立証していました。

問5

ヨハネIの2:18~27を4:1~6と比較してください。反キリストと彼らの偽りの教えについて警告する一方で、ヨハネは読者にどんな積極的な確信と希望を与えていますか。これらの聖句は私たちにどんな希望を与えてくれますか。

ヨハネIの2:21と4:6の共通点に注目してください。どちらの場合も、虚偽に対する重要な防壁は神を知ることと真理を知ることにあります。ヨハネは教え、特にイエスについての教えを正しく理解することの重要性を強調しています。これは、聖書が正しい教理の重要性を支持していることの明らかな証拠です。

油を注がれること(Iヨハ2:20、21、27)

問6

ヨハネIの2:20に「油を注がれる」という表現がありますが、多くの人はこれを聖霊のことであると理解しています。次の聖句はこのことをどのように裏づけていますか。サム上16:13、ヨハ14:17、15:26、16:7、Iヨハ2:20、21、27

真の信者は油を注がれています。この油は彼らのうちに留まり、彼らを教え、偽ることはありません。読者は、油とその働きについて聞くとき、イエスが告別説教の中で語られた聖霊についての言葉を思い起こすかもしれません(ヨハ13~16章)。イザヤ書61:1には、すでに油を注ぐことと聖霊とが関連づけられています。したがって、油を注ぐことが聖霊を意味することは明らかです。

しかしながら、もう一つの側面があります。ヨハネIの2:24はある程度、同27節と並行しています。

「初めから聞いていたことを、心にとどめなさい」(24節)。

「いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油があります」(27節)。

真の信者が初めから聞いていたのはイエスの福音です。さらに、神の御言葉(Iヨハ2:14)と真理(IIヨハ2)はクリスチャンのうちに宿っています。コリントIIの1:21、22では、神から油を注がれることが聖霊の証印を押されることと関連づけられています。一方、エフェソ1:13では、真理の言葉を聞き、信じることが聖霊によって証印を押されることと結びつけられています。したがって、油を注がれることは、また聖書を指し示しているのかもしれません。

聖霊によって伝えられた神の言葉は反キリストの教えに対する解毒剤です。それは教理を判断するための客観的な基準です。真の信者は聖書において御自身を現される聖霊に信頼します。聖書はすべての教えの最終的な権威です。信者が聖書の権威、その信頼性、その霊感を疑い始めるとき、あらゆる偽りと過ちに対して心を開くことになります。かつては忠実なクリスチャンでありながら、信仰を捨ててしまった人は、自分に理解できないことや好きでないことに直面したとき、聖書の正当性と霊感を疑い始めたのです。聖書の中にも、理解できないことや疑問に思われることがあることは確かですが、そのために聖書の権威を疑うことは別の問題です。

御子の内にとどまる

問7

これらの聖句に見られる共通のテーマは何ですか。それが私たちにとって重要なのはなぜですか。ヨハ5:38、6:56、8:31、15:4~10、Iヨハ2:14、28、IIヨハ9

「とどまる」と訳されている語は「つながる」、「住む」、「宿る」と訳すこともできます。これはヨハネの福音書と手紙の中の重要な概念であって、ヨハネの手紙Iに25回、ヨハネの手紙IIに2回出てきます。

この概念は御子、父なる神、聖霊の内にとどまることの重要性を強調しています。三位一体の神との正しい関係はきわめて重要です。正しい教理、御言葉の内にとどまることも重要です。なぜなら、それが私たちの神との関係に影響を及ぼすからです。事実、これはヨハネの手紙の重要な側面の一つのように思われます。というのは、これらの偽教師とその偽りの教えが信者の信仰に影響を及ぼすことを、ヨハネが恐れていたからです。

問8

御子の内にとどまる者たちに与えられている約束の一つは永遠の命の約束です。私たちにとって、永遠の命の約束が重要なのはなぜですか。もしこの約束がなければ、私たちの信仰はどんな意味を持ちますか。そもそもクリスチャンであることにどんな意味がありますか。Iコリ15:1~19参照

ヨハネにとって、キリスト教信仰の最も重要な側面の一つは主の内にとどまることでした。別の言い方をすれば、これは「光の中を歩む」ことであり、イエスと親密な関係の中で生きることでした。すなわち、御言葉を通して、また聖霊の働きを通して啓示された神の御心に日ごとに私たちの意志を従わせることでした。主に背き始めるとき、神によらないで自分で問題を解決できると考え始めるとき、自分の好きでない聖書の記述を疑い始めるとき、私たちはイエスとの救いの関係から逸れるような方向に進んでいるのです。

まとめ

偽教師についてのこの議論の中で、なぜヨハネIの2:29が重要なのか疑問に感じる人がいるかもしれません。偽りの教えには必ずと言っていいほど偽りの生き方がともなうからです。このようなことは今日もしばしば見られます。偽りの教えについての議論は、主と主の教え、主の模範的な生き方に立ち返るときにのみ、正しく判断することができます。

「聖霊は、聖書にとって代わるために与えられたのではないし、また、そのようなものとして与えられるはずもないのである。なぜなら、神のみことばは、すべての教えとすべての経験を吟味する標準であると、はっきり聖書に述べられているからである。使徒ヨハネは言っている。『すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである』(ヨハネ第I・4:1)」(『各時代の大争闘』上巻序4ページ、『希望への光』1592ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2009年3期『愛されること、愛することーヨハネの手紙』からの抜粋です。

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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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