この記事のテーマ
権力闘争はさまざまなかたちをとって現れます。国家や会社の支配権、あるいは宗教的な地位や権威をめぐる闘争は醜いもので、ときには暴力的でさえあります。実際のところ、天における大争闘は権力闘争をもって始まりました。つまり、サタンが被造物にではなく、創造主なるイエスにのみ属する地位と権威を求めたことが発端でした。残念なことに、教会においてさえ、これと同じ精神が現されることがあります。
『ヨハネの手紙III』は初期の一教会における権力闘争を扱っています。一方の側には、使徒ヨハネ、ガイオ、デメトリオがいます。他方の側には、支配権を握ろうとするディオトレフェスがいます。私たちの教会に権力闘争はないでしょうか。今日、私たちはクリスチャンとして、同じような状況に直面してはいないでしょうか。
長老ヨハネとガイオ(IIIヨハ1~4、13~15)
ヨハネの手紙IIIは(フィレモンへの手紙、テモテへの手紙I、II、テトスへの手紙と共に)会衆ではなく個人に宛てられた新約聖書中の数少ない手紙のうちの一つです。
興味深いことに、ヨハネは教会長老ではなく、使徒であったのに、ここで自分自身を長老と呼んでいます(IIIヨハ1)。なぜそう呼んだのか、いくつか理由をあげることができますが、どれも一理あるように思われます。(1)「長老」という称号は地位と年齢、またその両方をさすと考えられます。彼の場合はたぶん年齢であったと思われます。(2)ヨハネは「長老」という称号を用いることによって、その手紙が単に友人に宛てた手紙でなく、公式の文書であることを示しています。
この称号はそれを保持する者にふさわしい尊敬と権威を示しています。(4)ペトロは、ペトロの手紙Iの5:1で長老たちに呼びかけ、自分が使徒であるにもかかわらず、自分自身を「長老の一人」と呼んでいます。ヨハネはこの前例に従ったのかもしれません。(5)ヨハネが自分を「長老」と呼んでいるのは謙遜と仲間意識の表れであって、ディオトレフィスの態度と大きく異なっています。
問1
ヨハネの手紙IIIの1~4から、ガイオについてどんなことがわかりますか。
ヨハネはガイオと良好な関係を保っていたと思われます。ヨハネは彼を「愛するガイオ」と呼び、真に愛していると言っています。1節と2節には、「愛する」から派生した言葉が3度用いられていて、ヨハネとガイオの関係をよく表しています。
問2
クリスチャンとして互いに愛し合うとはどのような意味ですか。どのようにしてその愛を現したらよいですか。Iコリ13章参照
ガイオが真理に歩んでいることを知って、ヨハネは喜んでいます。ヨハネは3節と4節で2回そのことにふれ、ガイオと会った兄弟たちでさえ、ガイオの素晴らしいクリスチャンの態度と生き方を賞賛していると言っています。ヨハネ自身は、早くガイオと会い、親しく彼と話し合いたいと望んでいます。ガイオとのやり取りを見ると、彼と知り合いの信者がたくさんいて、みな彼を支持していたことがわかります。
教会のためのガイオの奉仕(IIIヨハ5~8)
問3
ヨハネの手紙IIIの5~8を読み、その内容をわかりやすく説明してください。ここに、どんな重要な教訓が与えられていますか。
ヨハネの手紙IIの中で、ヨハネはもてなしの問題に触れ、その中で、異端を教えながら巡回する者たちをもてなすことに対して警告していました。真のクリスチャンは反キリストを支持することができません。ヨハネの手紙IIIで、使徒ヨハネは再びもてなしの問題に触れています。彼はここで、巡回伝道者たちが援助を必要としていることを強調しています。彼らは無報酬で福音を伝える人たちで、宿と食物を必要としていました。ヨハネが先に触れた異端を教える者たちとは異なり、これらの伝道者たちはあらゆる点で神に献身した人たちでした。ガイオは彼らを援助し、親切にもてなしてきました。伝道者たちはそのことに深く心を動かされ、教会で彼のことを好意的に証ししたのでした。
ここに記されているのは、単にだれかをもてなすことやだれかに宿を貸すことではなく、宣教の働きを支援することについての全般的な原則です。ヨハネはガイオの親切なもてなしを感謝しています。それは福音宣教の働きに対する彼の自発的な献身を表しています。この意味で、ガイオは私たちすべての者の模範となるのでした。主が私たちを選ばれたのは、この真理を全世界に伝えるためでした。
問4
黙示録14:6を読んでください。この天使はだれで、その使命はどれほど広範囲におよびますか。
私たちはクリスチャンとして、またアドベンチストとして、福音を全世界に伝える働きを支援するように召されていることを認識すべきです。私たちはみな、置かれた立場にかかわりなく、何らかの果たすべき役割を与えられています。
ディオトレフェス(IIIヨハ9、10)
「イエスが座り、12人を呼び寄せて言われた。『いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい』」(マコ9:35)。
問5
この聖句はキリスト教のどんな重要な原則について教えていますか。私たち自身、どうしたらこの原則に従うことができますか。
ガイオとその働きに触れた後で、ヨハネはガイオの所属する教会の指導者であるディオトレフェスの問題を取り上げています。この人物は明らかに多くの問題の元凶だったので、ヨハネは折りを見て彼の問題を解決しようと考えていました。
問6
ヨハネの手紙IIIの9、10を読んでください。ディオトレフェスのどんな点が問題になっていましたか。与えられたわずかな情報から判断すると、彼はどんな意味でクリスチャンにふさわしくない人物でしたか。イザ14:13、14、マタ12:37、18:3~6、フィリ2:3参照
とにかく、ディオトレフェスは問題のある人物でした。彼は教会員を邪魔者扱いし、クリスチャンの基本的な礼儀に従った人たちを教会から追い出していました。それだけではありません。彼は教会のただひとりの指導者、あるいは支配者になろうとしていたようです。彼は権力に対する欲望を、福音に対する熱意と混同していたようです。尊大にも、彼は使徒ヨハネらの権威を拒否したばかりでなく、ヨハネを中傷さえしていました。
これは危険なことでした。なぜなら、ディオトレフェスの行為は教会指導者からの独立をめざすような行為に見えるからです。このような態度は教会の性質と教会員の役割を大きく変える可能性を持っていました。
デメトリオについて証しする
問7
ヨハネの手紙IIIの11節を読んでください。ヨハネがこのように書いたのはなぜですか。キリストの原則に逆らう教会指導者についての警告という背景を考慮すると、ヨハネの言葉はどんな重要な意味を持ちますか。
11節は接続的な役目を持ち、ディオトレフェスについてのヨハネの言葉とデメトリオについてのヨハネの言葉をつないでいます。ディオトレフェスは、いわば悪の代表です。尊大で、野心に満ちた指導者は明らかに悪に属する者です。反対に、デメトリオはガイオにとって従うべきよい模範です。
問8
デメトリオについて、どんなことがわかっていますか。IIIヨハ12
使徒言行録19:23~29に、もう一人のデメトリオが出てきます。彼は銀細工師で、パウロがエフェソで伝道したとき暴動を扇動した人物です。二人が同一人物かどうかは明記されていません。
[ヨハネの手紙III]のデメトリオは異邦人のクリスチャンでした。彼は使徒ヨハネの支援者で、ヨハネの仲間、また巡回伝道者の一人だったと思われます。ヨハネはディオトレフェスと対決するときにデメトリオにも同席してほしいと望んだかもしれません。
デメトリオについてのこの聖句が教えている最も重要な原則は、影響力の持つ力ということでしょう。聖句をもういちど読んでください。デメトリオの「信仰」について証ししたのはだれでしょうか。それは多くの人から聞かれました。もし私たちがクリスチャンとして、忠実に信仰生活を送っているなら、それはほかの人々にもわかります。ほかの人々がそのことについて証言します。何よりも重要なのは、それがほかの人々に影響を及ぼすということです。結局のところ、私たちの生き方・存在は、肯定的であれ否定的であれ、何らかのメッセージを送っているのです。これは、私たちが完全であるとか、過ちを犯さないとか、向上の余地がないとかいった意味ではありません。むしろ、ほかの人々が私たちを見ていること、私たちに耳を傾けていること、私たちによって影響を受けることを意味しています。重要なのは、私たちがどのような証しをするかということです。
初代教会と指導者の危機
このように、少なくともヨハネの教会の一つが指導者の危機に直面していました。手紙によれば、ここでの問題は神学よりも、むしろ個人的な野望、また教会の運営方法を変えることと関連がありました。しかしながら、いったん何らかの問題をめぐって争いが起こると、ほかの問題へと波及することがよくあります。ここでも、それは教会の教理に対して長期にわたる影響を及ぼしたかもしれません。
ここに、ある種の権力闘争と独立を求める動きを見ることができます。今日、この動きは、各個教会が統括教会組織から完全に独立し、自力で活動することをめざす会衆(組合)教会制という思想のうちに表されています。これは新約聖書に従ったものではありません。
それどころか、すべての信者はキリストの民であり、体です。すべての信者はまた、王の系統を引く祭司の一部です(Iペト2:9)。すべての人が教会に必要な霊的賜物を受けています(Iコリ12:7~31)。信徒と牧師を区別することは新約聖書と相容れないことです。しかしながら、神は一部の人たちを教会指導者の地位に召し、彼らに賜物を与えておられます。これらの人たちは尊ばれるべきです。指導者は過ちを犯さない人間ではありませんし、またそのように主張すべきでもありません。確かに、不平も正当な理由となる場合があるかもしれません(Iテモ5:19)。指導者と対決しなければならないときには、注意深く、愛をもって行うべきです。
指導者は確かに指導しなければなりませんが、同時に、彼らは牧者、とりわけ教会員の模範となる必要があります。指導者の資質は旧約および新約聖書に列挙されています。「監督」と「長老」は、教会歴史の中で厳格な位階制度によって大きく変質してしまいましたが、新約聖書においては、なおも互換的に用いられています(使徒20:17、28)。
問9
次の聖句は教会の運営方法についてどんなことを教えていますか。マコ10:42~44、使徒6:1~7、15:6、22~25、Iテモ4:14、ヤコ5:14
新約聖書は教会における混乱や無秩序に反対しています。指導者は、世界教会はもちろんのこと、各個教会にも必要とされています。しかしながら、イエスは、教会の指導者は仕える者でなければならないと言われました。各個教会は一人の人物でなく、複数の長老によって運営されました。決定は教会全体、あるいは教会の代表者によってなされました。
まとめ
教会の運営と指導者に関連して、次の聖句を読んでください。ヨハ13:1~12、エフェ4:11~16、Iテサ5:12、13、Iテモ1:3、4、4:13、5:22、テト1~3章、Iペト5:1~4
「自分の個人的判断を最高のものと見なす傾向のある者たちは重大な危険の中にある。このような者たちを、光を伝える人たち、つまり神が地上に御業を建設し、拡張するために用いられる人たちから切り離すことがサタンの策略である。神が真理の進展に関連して指導者の責任を負うように定められた人たちを軽視し、軽蔑することは、神が御自分の民を助け、励まし、力づけるために定められた手段を拒絶することである(『福音宣伝者』444ページ)。
「神は全体を支配したり、事業の一部門を支配したりするような絶対的な権力をセブンスデー・アドベンチスト教会の中に置かれない。神は、指導者の重荷が少数の人たちに負わせられるようには定めておられない。責任は資格のある多くの人たちの間で分散されるべきである」(『教会へのあかし』第8巻236ページ)。
*本記事は、安息日学校ガイド2009年3期『愛されること、愛することーヨハネの手紙』からの抜粋です。